其の二拾壱の続き
■玄奘さんは北に足を延ばして、釈尊の故郷カピラヴァストゥを訪ねます。晩年の釈尊が、若かりし頃の思い出話をしておられる御経が残っておりまして、宮殿や後宮の美女達の話が出て来ます。そこから王子様伝説が生まれるのですが、一説には当時のカピラヴァストゥは小国で、絶対的な権力を持つ支配者は持たずに、クシャトリア(武人)階級の集団合議制を採っていたとも言われています。釈尊の父上のシュッドダ . . . 本文を読む
■しかし、自分の血に悩み続けて成長したヴィルーダカ王の怒りは深く、釈尊の言葉で消えるようなものではなかったのでした。王は再びカピラヴァストゥを灰燼に帰すための大軍を動かします。この二度目の出陣の時に釈尊はどうしたのか、釈尊が遠方に出向いている時を狙っての攻撃だったのか、あるいは王の心の闇の深さを知った釈尊が黙って見送ってしまったのか、釈尊は二度までは出陣を思い止まらせたと伝える経典も有るようですが . . . 本文を読む
■ナーランダ僧院に近づいた玄奘さんを放り出して、文法談義に深入りしてしまったようです。玄奘ファンの皆様には御迷惑さまでございました。玄奘さんが、就学前に巡礼して歩いた道筋を辿って祇園精舎まで御話が進んでいたので、再び、そこから始めましょう。玄奘さんは、文法学の重要性にまで気が付く大変な学者でしたが、信仰の深さにも目を向けなければ行けません。玄奘さんが生涯に読んだり翻訳したりした膨大な数の仏典は、哲 . . . 本文を読む
■サンスクリット文法学は、世界最古の文法学だと書きましたが、仏教文化との関係では、別の見方が出来るようです。紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』は、自然現象を神々の姿と活動だと解釈して、神々を讃えて祝う祭儀の言葉を並べたものです。時代が下るにつれて、だんだんと哲学的な要素が加えられて、一番新しい文章には独自の哲学的思弁が始まっている事を示しています。祈りは言葉ですから、古代のインド人達は . . . 本文を読む
■第16回で御紹介しましたように、『大唐西域記』でパーニニ伝説を紹介している玄奘さんですが、ちゃんと文法学の奥義を究めていた証拠が残っています。玄奘さんが帰国してからの二年間を復習してみますと、
645年 1月7日、玄奘帰国。2月1日、洛陽で太宗に謁見し西域報告書を求められる。更に還俗と高句麗遠征に同道を請われるが、玄奘は固辞。太宗は母の菩提寺として建立した長安の弘福寺を翻訳所に提供。3月、弘 . . . 本文を読む
■但し、空海さんだけは、インドの言葉を習得するという明確な目的を持って、当時、長安に来ていた北インド出身の般若三蔵さんと牟尼室利(むにしり)三蔵さんに直接サンスクリットを学んでいるので、パーニニ文法を学んだはずです。いかに空海さんが天才とは言っても、たった五ヶ月でパーニニ文法の全貌を知るのは無理だったと思いますなあ。密教の奥義として言語哲学が伝えられていたので、サンスクリット語に関する知識は空海さ . . . 本文を読む
■突然、パーニニなどという聞いたことも無い仙人の話に当惑されている方も多いと思いますが、それこそ日本と日本語の致命的な問題に直結する大問題なのですなあ。日本だけではありません。文字と記録の国・チャイナの地でもパーニニはまったくの無名です。玄奘さんは、帰国後に随分と啓蒙活動を熱心に行なったようなのですが、それでも誰も受け継がなかったようですし、日本から渡ったお坊様達も、玄奘さんの翻訳経典は熱心に学ん . . . 本文を読む
■いよいよナーランダー僧院に近づいた玄奘さんですが、とても大切な事を書き忘れたまま道を少しばかり急ぎ過ぎてしまったようです。玄奘さんの御仕事に欠かす事が出来ない重大な一節が『大唐西域記』にさり気なく書いてあるのです。これを見落としてはこのブログの意味が無くなってしまいます。少しばかりややこしい御話になりますが、極力分かり易く書きますので、聊(いささ)か長くなるかも知れません。しかし、他では余りお目 . . . 本文を読む
■次はいよいよ「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」の祇園精舎(ジュータヴィナ・ヴィハーラ)があった舎衛城(シュラーヴァスティー)です。観光に熱心なインド政府が整備してくれて、日本からも多くの観光客?が訪れるようになりましたが、玄奘さんが訪れた時には荒れ果てていたようです。仏教寺院などぜんぜん見当たらずに、ヒンズー教の祠ばかりが沢山有ったと記録にあります。釈尊がここに滞在して弟子達と暮らして . . . 本文を読む
■猛獣がうろつく大密林を通過してカウシャーンビー国に入るのですが、10数箇所の仏教寺院は荒れ果てていたようです。釈尊と同じ日に生まれたウダヤナ王が釈尊の姿を刻ませた仏像は残っていたようですから、例のヴィシュヌ神の化身として釈尊がヒンズーに取り込まれた後だったのかも知れませんなあ。インドの地では特に仏教が弾圧されることもなく、ヒンズー教の中に吸収されて行って、後のイスラム教徒の侵入によってヒンズーと . . . 本文を読む