五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事 その壱拾参

2005-05-18 00:25:00 | 玄奘さんのお仕事
■猛獣がうろつく大密林を通過してカウシャーンビー国に入るのですが、10数箇所の仏教寺院は荒れ果てていたようです。釈尊と同じ日に生まれたウダヤナ王が釈尊の姿を刻ませた仏像は残っていたようですから、例のヴィシュヌ神の化身として釈尊がヒンズーに取り込まれた後だったのかも知れませんなあ。インドの地では特に仏教が弾圧されることもなく、ヒンズー教の中に吸収されて行って、後のイスラム教徒の侵入によってヒンズーと仏教は同時に焼き滅ぼされてしまいます。ヒンズーはその土着性によって復活しますが、仏教はその存在意義を再発見できないまま、20世紀になるまでインドの地では再興されませんでした。

■この荒れ果てた仏教遺跡で、ゴシタ長者の屋敷跡を玄奘さんは訪れています。この人は釈尊を崇拝して精舎を寄進していますので、その跡が残っていたようです。釈尊の髪や爪を納めた仏塔が有ったと記録されていますが、「諸行無常」「諸法無我」の仏教とも釈尊の遺品や肉体の一部を残そうとあれこれ努力しておりまして、現在にそれは連続しています。玄奘さんも仏舎利などの釈尊の体の一部を持ち帰っていますから、同じ伝統の中にいたのでしょう。こうした遺品は布教には絶大な威力を持つので、案外、そんな効用を予想していたのかも知れません。現在の観光寺となった西安の大慈恩寺に行きますと、汚いガラス・ケースに放り込まれた展示品の中に有り難い仏舎利や釈尊の歯等が面倒臭そうに並べられています。今はもっと立派な展示方法に変更したのでしょうか?

■玄奘さんが最初に訪れた釈尊所縁の遺跡となったこのゴシタ長者の邸宅跡ですが、ここは末法思想の原点のような場所でした。最初が最後に通じているのですから、玄奘さんも複雑な思いでしたでしょうなあ。釈尊入滅後1500年にして仏法は滅ぶというのが末法思想ですが、「仏法の尽きる時、この国が最後の地となるであろう」という予言が伝えられていたと玄奘さんは記録しているのです。自分は正しい仏法を祖国に持ち帰って仏教を盛んにしようと決意しているのですから、仏教滅亡の予言は玄奘さんを緊張させたでしょうなあ。正確な没年が分からないので、末法が何時から始まるかは諸説有るのですが、日本では1052年(永承7年)と計算されていたようです。その時に権力を握っていたのが藤原頼道さんで、宇治の平等院を建立して世は阿弥陀様信仰の大ブームとなりましたなあ。

■玄奘さんにとりましても、末法まで約400年しか残されていない!という危機感があったはずですから、この遺跡を巡っている間にも、ナーランダー僧院での修行と勉強に対する使命感を強めたに違いありません。次に入ったのがヴィショカ国で、釈尊が6年間説法されたと伝えられる所です。ここに謎の大樹が聳(そび)えていたそうで、釈尊が歯をごしごしと磨いた楊枝を捨てたら、根が生えてすくすく育ったのだそうです。異教徒が切り倒しても、再び芽をふいて大木になったという霊験アラタカな有り難い木です。だんだん釈尊が実際に生活していた痕跡が濃くなって来ますなあ。

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