五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  弐拾壱

2005-06-16 01:58:47 | 玄奘さんのお仕事
■しかし、自分の血に悩み続けて成長したヴィルーダカ王の怒りは深く、釈尊の言葉で消えるようなものではなかったのでした。王は再びカピラヴァストゥを灰燼に帰すための大軍を動かします。この二度目の出陣の時に釈尊はどうしたのか、釈尊が遠方に出向いている時を狙っての攻撃だったのか、あるいは王の心の闇の深さを知った釈尊が黙って見送ってしまったのか、釈尊は二度までは出陣を思い止まらせたと伝える経典も有るようですが、どちらにしても、一人の出家者には政治力は無いことに変わりは無いのです。「生者必滅」の道理と、人の業を悲しんむしかない。これが現実です。

■カピラヴァストゥは蹂躙されて虐殺と略奪の限りを尽くされ、シャーキャ族は滅亡します。ヴィルーダカ王は美女500人を戦利品として持ち帰り宮殿に入れたのですが、一族を滅ぼされた女達は王に対して悪口雑言を投げ付け、いつまでも罵(ののし)り続けたのでした。その声を聞いた王は、女達を丸裸にして引き出して手足を胴体から切り離してしまえ!と命じます。阿鼻叫喚の中から釈尊を呼び求める声が上がります。釈尊はその地獄絵の現場に駆けつけたそうです。切り離された手足を元に戻すとか、死者を蘇生させるような奇跡を起こすような話は伝えられていません。釈尊は悲しそうな目で、女達の苦痛を和らげる説法を語り掛けるだけだったのです。心だけは安らかに死んで行ったと経典は伝えます。ばらばらに切り刻まれたシャーキャ族の女達は大きな穴の中に投げ込まれたと言われています。

■余りの残虐な行為に、釈尊は「七日後に王は火に焼かれて身を滅ぼすであろう」と不吉な予言をしたそうです。玄奘さんが現場を訪ねた時に、涸れた池が有ったそうで、そこが昔の宮殿内に掘られた池の跡でした。王はその池に舟を浮かべて、後宮の女達と遊んでいた時に、突然水面が波立って舟が転覆して炎上、王は水の中で火に焼かれて苦痛の中で落命します。それは、釈尊が予言した虐殺事件から七日目のことだったそうです。

■こういう説話を玄奘さんは我が事のように感じていたはずです。玄奘さんが可愛い小僧さんになったのは隋の都、洛陽の地でした。小さい頃からガキンチョとは遊びに行かず、書物を読んでいるという変わった子供だった玄奘さんは、兄の後を追って出家しようと決意します。煬帝が27人の僧を度すとの勅が出た時に、数百人の志願者の中から13歳の玄奘さんも選ばれています。ところが、煬帝が暗殺されるという大事件が発生して、洛陽は殺戮の巷(ちまた)となり、通りには白骨が散乱しているような大混乱が続いきます。煬帝と同じ鮮卑族出身の李淵が戦乱を治めて新皇帝となった時、玄奘さんは17歳でした。とても洛陽では修行が出来ないというので、兄の勧めで長安に移ったのですが、唐王朝は草創期で、都とされた長安も治安が悪い状態でした。

■お世話になっている先輩の気遣いもあって一年ほど滞在した後、蜀(四川)の成都まで行けば戦乱から逃れられると知った玄奘さんは、兄や知人に別れを告げて単身で旅立ったのでした。玄奘さんが隋末唐初の大混乱期に目にした地獄図はどれほどのものだったのか、日本では「応仁の乱」に心を痛めた鴨長明が『方丈記』を残しましたが、チャイナの地で王朝が滅ぶ時の混乱はとても日本の歴史の中から比べるものなど無いような残虐なものです。国が滅ぶ一部始終を二十歳前で体験した玄奘さんにとって、カピラヴァストゥの滅亡を目撃した釈尊の心を想像するのは、簡単なことだったはずです。人や国が宿している「業」の深さを悲しむ心も、時を越えて分かち合っていたに違い有りません。合掌

其の弐拾弐につづく

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