■玄奘さんは、準備が整ったのでナーランダー僧院に向いました。多なる地理的な位置関係が原因なのですが、ナーランダーへの道順は釈尊の一生を辿る旅になります。巡礼者としての玄奘さんの姿がここに見られます。釈尊の生涯に関する経典を読破していた玄奘さんは、地元の伝承を聞きながら仏跡を次々と訪ねます。名所旧跡を『地球の歩き方』片手に観光して歩くような旅ではなく、求道者が命を懸けた魂の巡礼とでも言うべき旅程でし . . . 本文を読む
■『大唐西域記』には、突厥の葉護可汗が付けてくれた通訳係の青年と何処で玄奘さんが別れたのか、一言も述べられていないようです。想像をますます逞しくしますと、仮にこの青年が恐るべき能力を持ち、ソグド商人の情報ネット・ワークも駆使して玄奘さんの旅を大いに助けたとしたら、その報告を読んだ皇帝の太宗が、その情報ネット・ワークを一挙に手に入れれば、不倶戴天の敵である突厥帝国を撃滅することが可能だと判断するはず . . . 本文を読む
■玄奘さんは、この丁字路の東から西へと進んで、分岐点に居た葉護可汗に挨拶をしてから南下して行ったわけです。モンゴル系の「柔然」もトルコ系の「突厥」も支配地域を広げる軍事行動には長(た)けていましたが、商業行為を一手に引き受けていたのはソグド人達でした。彼らは主に丁字路の東西方向、つまりシルクロードを存分に利用してペルシアやビザンツ帝国と、チャイナの地を行き来して抜け目無く利益を上げていたのです。彼 . . . 本文を読む
■カシミールに入る前に、もう一つ重要な国を玄奘さんは通過しています。それはガンダーラです。ここは仏教美術の発祥の地であり宝庫でもありますが、玄奘さんにとっては、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)兄弟の出身地ですから、特に『瑜伽師地論』の著者が無著ですから、玄奘さんの眼には足元の石ころでも光輝いていたに違い有りません。
■今でも硝煙の匂いが消えないカシミール問題ですが、これは英国が植民地のイ . . . 本文を読む
■玄奘さんが御挨拶に訪れた時の葉護可汗の権勢は天を衝くような旺盛さを示していたようです。大王の壮麗なテントを囲んで200人の達官(タルカン)、彼らがそれぞれ率いる騎馬軍団が大地を埋め尽くしていたそうです。彼らが身を飾っていたのはチャイナの特産品であった絹と錦でしたから、商取引と略奪の両方で富が集まっていたのでしょう。唐王朝は、こんな恐ろしい敵と仲良く共存しようなどとは夢にも思いませんでしたから、王 . . . 本文を読む
三蔵法師・玄奘さんの偉大な御仕事について連載しています。
仏教・シルクロードの歴史・中華思想など、内容盛り沢山。ぜひ御一読下さい。
・玄奘さんの御仕事 其の弐拾
・玄奘さんの御仕事 其の壱十九
・玄奘さんの御仕事 其の壱十八
・玄奘さんの御仕事 其の壱十七
・玄奘さんの御仕事 其の壱十六(5/27)
・玄奘さんの御仕事 其の壱十五(5/24)
・玄奘さんの御仕事 其の壱十四(5/20)
・玄奘さん . . . 本文を読む
■もう少し「中華思想」についてお話いたしましょう。周の時代には細則も整い、孔子はそれを理想として生涯を捧げましたが、春秋戦国の大動乱を治めて天下を統一した秦王朝の始皇帝が、最初の「天下統一」を実現して、孔子が求めた「王道」ではなく「覇道」によって皇帝(天子)となりました。始皇帝は、五回の天下巡幸を行なってあちこちで盛大な祭りを催しています。これは、天を祭る儀式を統一したことを誇示したものです。天は . . . 本文を読む
■長安で、西の秦州(甘粛省天水県)に帰る孝達という僧に同行して長安を出ます。時に、629年の秋8月の事だそうです。それから蘭州を経由して涼州に入って、最終的な情報収集をしました。ここには東トルキスタンやチベット地域の商人がやって来ていましたので、西域の最新情報を得られるセンターとなっていたのです。ここで手に入れた情報の詳細は、『大唐西域記』には掲載されていないようです。始めから書かなかったのか、既 . . . 本文を読む
■645年と言いますと、どんなに日本史に疎(うと)い人でも知っている「大化の改新」が起こった年として記憶しているでしょう。この事件が起きたのは、この年の7月10日と記録されています。万世一系の歴史を書いた『日本書紀』が唯一の公式記録なので、天皇家を蔑(ないがし)ろにしていた蘇我一族を、天皇家の中大兄皇子が武力で滅ぼした事になっていますが、蘇我一族が持っていたとされる貴重な歴史記録がこの事件の中で焼 . . . 本文を読む
■翻訳プロジェクト・チームの解説をもう少ししておきます。
「②証梵語梵文/証文 =訳主の左に座して訳主の唱える梵文を確認する役」に最適の大徳が長安の大興善寺におりましたし、「③綴文(てつもん)=訳出された漢文の統一を保つ役」には総勢9人の大徳が参集したのです。列記しますと、
普光寺の沙門・栖玄、弘福寺の沙門・明濬、
会昌寺の沙門・辨機、終南山豊徳寺の沙門・道宣、以上の四名が長安組。
簡州(四川省 . . . 本文を読む