私(思考)に「思うな・考えるな」と言うけど、そんなこと
など出来るわけがないと反発します。(笑
勿論、必要なことは思考を使いますが、頭の中で自分勝手に
騒ぎまくるものに留めを刺すことを、
「思うな・考えるな」と言っているのですね。
とにかく、頭の中が“空っぽ”になって“行”けば
お気楽になっていくのです。
お気楽になっていけば、そこが“心の平安”ということ
です。
ですから、心を乱すものは「思考自我」ということです。
強大なエネルギーの「思考自我」は、おいそれと弱まっては
いきませんので、“只なる実践”の持続で支配されている
ところから脱出するのです。
例えば、逃げることも出来ない牢屋に、長年にわたり
閉じ込められているのが、「こころ」ということです。
つまりこの「こころ」は、私(自我)から操られて苦悩に
持っていかれるのです。
「そんな嘘つくな!」と、すぐに吠え出すのが私(自我)で
あって、「こころ」は迷いから抜け出すことがなかなか
出来ないのです。
でも姿かたちの“何も無い“のが幻想であって、
そもそもそれから操られることがおかしいのですね。
そこに気付き、逃げることも出来ない牢屋は、
そんなものは“何も無い”想念であるとわかるのです。
ですから「こころ」は本来の“無の境地”に還ることができるのです。
そこは、頭脳の働きが “無い”ところですね。
など出来るわけがないと反発します。(笑
勿論、必要なことは思考を使いますが、頭の中で自分勝手に
騒ぎまくるものに留めを刺すことを、
「思うな・考えるな」と言っているのですね。
とにかく、頭の中が“空っぽ”になって“行”けば
お気楽になっていくのです。
お気楽になっていけば、そこが“心の平安”ということ
です。
ですから、心を乱すものは「思考自我」ということです。
強大なエネルギーの「思考自我」は、おいそれと弱まっては
いきませんので、“只なる実践”の持続で支配されている
ところから脱出するのです。
例えば、逃げることも出来ない牢屋に、長年にわたり
閉じ込められているのが、「こころ」ということです。
つまりこの「こころ」は、私(自我)から操られて苦悩に
持っていかれるのです。
「そんな嘘つくな!」と、すぐに吠え出すのが私(自我)で
あって、「こころ」は迷いから抜け出すことがなかなか
出来ないのです。
でも姿かたちの“何も無い“のが幻想であって、
そもそもそれから操られることがおかしいのですね。
そこに気付き、逃げることも出来ない牢屋は、
そんなものは“何も無い”想念であるとわかるのです。
ですから「こころ」は本来の“無の境地”に還ることができるのです。
そこは、頭脳の働きが “無い”ところですね。
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