只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

懐かしい、力道山の写真です

2016-05-12 10:48:29 | 日記
白黒テレビ時代にプロレスで大活躍した
「力道山」です。娯楽がなかった時ですから
画面に登場すするレスラーに一喜一憂していました。笑





内面に意識を向けるのが“実践”です。
外面は幻想ですからほとんど意識は向けないことですね。
これも意識を向けない“実践”となります。

ですから一瞬、一瞬が“実践”です。
難しく考えないで無思考のまま居ることです。

意識を内面に置いて、どこともなく浮かんで来る念を
“只、観る”ことです。
そうすれば自然に消えていきます。これが内面の“実践”です。
しかし取り付くと問題となっていきます。

外面はすべて幻想ですから頭の中に入れないことです。
意識しないことです。
“これはこれ”で“あれはあれ”で言葉無く終わりです。

しかし「これを欲しい」や「あれは嫌だ」と、なると
ゆくゆくは問題となっていきます。

この超微妙な違いが「天と地」を分けたり、
“ひとつ”という無思考になったりするのです。

本来は“ひとつ”という無思考ですから
“絶対安心”の境地です。

“ひとつ”を分けたり、“ひとつ”の無思考に
なったりして人生を送っているのですね。

できるだけ“今この瞬間、無思考”に居るほうが
穏やかにお気楽に過ごせます。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・即今底そのものは初めからそのような不純物などはないので、
その事を実地に体得し明らかにすることです。…前回まで

  『理屈屋は単純なことは続けにくいのですが、面白いことや争うこと、
   損得や好きなことなどは続くんです。相手に負けちゃならんという心因が
    生き物として在るからです。生き物として自己存在感があり
      自分と言う塊者を認めています。
     この認める癖が煩悩となり「隔たり」となるのです
。』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
心が騒がしいのは屁理屈や意味を創ったり、
好き嫌い、損したり得したり、競争を好んだり、
面白い悲しいことを想像しているのです。

それは自分と認識しているから他人等の相対がでてくるのですね。
それが煩悩であり思考癖です。

私(思考)が無かったら煩悩から目覚めてきます。
そして、身体がふんわり軽い感じになり
今、今、今だけを只、流れている感じですね。

※明日から大阪で『ロボット芝刈機』の研修です。

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