只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

画像の人形に見覚えがありますか  笑

2016-04-21 08:08:25 | 日記
懐かしい方もいらっしゃるのでは…



言葉に付いた想念が自分を迷わせているのですね。
しかし、言葉は言葉で迷うものではありません。

例えば火事ですがこれは怖いものですね。
家具一切燃えてしまう、時には人命まで奪うことがあります。
残りは残りカスしか残らないという無残な姿になります。

火事を口で説明するとだいたいこのようなことですが、
実際の火事ではありません。

でも火事という言葉を聞いただけで火事と一体になるのが想念です。
言葉に付いた想念がいかに怖くなるかということがわかるのではないでしょうか。

繰り返し言いますが「言葉は言葉」
例として「火事は火事」でまったく今には何も無いのです。

「りんご」『100万円あなたにあげる』すべての
言葉の内容が今という事実には何も無いのです。

しかし、残念ながら言葉に取り付く癖(想念)になったから厄介なのです。
「りんご」は美味しい、食べたい、やや丸い、赤い

『100万円あなたにあげる』はヒャ~嬉しい!!
何を買おうかな~、いや…貯金しようかな~
というふうに想念(幻想)になるのです。

100万円あなたにあげる、冗談だよ・・となれば
喧嘩になる、落胆する、恨む、憎む、悲しむことになるのです。

このように想念(幻想)によって心身を疲労させるのですね。
ですから、お金を自分の手にしたときから使用計画を
立てればいいのです。

事実は無いものを在ると幻想すると苦悩になるのです。
無いものは無い!と“自覚する”ことがお気楽ですね。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

    ・・これが大切な自覚症状であり救いである。
           この自覚を一大事因縁と言う。…前回まで

   『一度、「隔たり」の癖を陶冶する努力である。一切の観念や概念や
      感情から離れきることである。要するに赤心に還って、
       再び蘇生してくることである。
   坐禅に成り切って、坐禅もなく坐禅している自分も忘れ切ることをいうのだ。
     徹底坐禅ばかりになることだ。一心不乱に「只」坐禅する時、
      時節が自己を取ってくれるのである。真正に坐禅するしかない。
           余念無く本真剣に、死に物狂いで坐禅することである
。』


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
思考する癖を一旦落とし切るということです。

そして落とし切ったところの“無心”から
新たな“真の自分”として甦ってくるのですね。

思考する癖が無かったら今、今、今です。
過去、現在、未来がありませんので私というものもありません。

“只の実践”が私という思考・自我を
取り除いてくれるのです。

努力しない真剣な努力が“只の実践”です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿