この身体も心も超えていくことは忘れ去っていくことです。
何も無いことは、只それに没頭していて想念が無いことです。
そのときは身体が在るとも無いともわからず、
無意識になるのです。
無意識になると何も気にならなくなりお気楽となるのです。
このように自分という意識、存在を超えていくのです。
それは自分を忘れ去って行く、同じく自我が
無くなっていく、頭の中で勝手に妄想する
「思考癖」が消えていくのです。
“只なる実践”の継続は、このことを体得することです。
普段聞いたものに心を奪われ、見たものに心を奪われ、
いろいろな物に心を奪われて苦悩するのは、
心を野放しするからです。
心はみだりに使わないで、普段は“一心”“無心”
“真心”に置くことが大切ですね。
只の道…淡々と歩く
心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
『極端に言えば、神仏に近い人と、猛獣に近い人との違いと言う事です。
自律性が高く、人様を先ず信頼し、感謝と尊敬を忘れず、
道義と礼節を重んじて努力を惜しまぬ人は立派です。
自己研鑽を宗として人生している人は好生涯であり幸せです。
一方ではまだまだ人間として出てくるのが早かったのです。
要するに自分が気に入らなかったら直ぐに獰猛性が現れてしまい、
目的の為、欲望の侭に振る舞って大事件を起こすなどは、
人間にして真の人間ではないのです。このように人間が動物としての
過去世の業を引きずっている以上は雲泥の差があるのです。』
いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
実社会を観てみると、とても考えられない事が
人間の手で行われています。
それは自己中心の目的の為、欲望の侭に振る舞って
いると仰っています。
大事件を起こすなどは、人間にして真の人間では
ないのですとも仰っています。
真の人間は自律性が高く、人様を先ず信頼し、
感謝と尊敬を忘れず、道義と礼節を重んじて努力を
惜しまぬ人であり好生涯であり幸せです。とも
仰っています。
つまり、頭の中で勝手に妄想する「思考癖」が
“無い”人のことを言ってらっしゃいます。
いかに“只なる実践”の継続が、この社会にも
必要であるかということですね。
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