産経新聞11月2日 牧野節子評「朝比奈隆の生涯を描く」

2008年11月07日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「一日でも長く生きて、一回でも多く指揮をせよ」
 若いときに師事したロシア人指揮者、エマヌエル・メッテルの言葉を胸に抱き、93歳、神に召されるその年まで、現役の指揮者として活躍した朝比奈隆。

本書は彼の生涯を描いたノンフィクションである。

4章で構成されており、「第一の試練・隠された出自」では彼の複雑な生い立ちと指揮者になるまでのいきさつが、「第二の試練・上海の栄光と満州引き揚げ」では戦争を背景に、上海やハルビンで指揮棒を振り、帰国後、関西交響楽団を結成するまでが綴られる。

「第三の試練・NHK大阪中央放送局との確執」ではさまざまな裏事情や人間関係を克明に描き、オーケストラ運営の苦悩を伝える。音楽学校の出身ではない彼を「大阪の田舎侍」と評した音楽評論家もいた。

だが、苦難のエピソード以上に心に残るのが、朝比奈が指揮者、フルトヴェングラーと出会い、ブルックナーについてアドバイスを受けるシーンだ。作曲家、ブルックナーの眠る棺があるオーストリアの聖堂で、朝比奈率いる大阪フィルがブルックナーの交響曲を演奏する場面もじつに感動的だ。

「第四の試練・指揮とは何か」からは彼の音楽への真摯な思いが伝わってくる。それは晩年になっても衰えることはなかったのだ。

生前の朝比奈本人と彼のまわりの人たちへの丹念な取材により綴られたこの評伝からは、偉大であり、かつ人間くさいマエストロ・朝比奈隆の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

本書を読んだあと、家にある朝比奈のDVDを再生してみた。彼が90歳のときに指揮したブルックナーの交響曲第5番である。

彼がひきだす音の力強さ、そして指揮する姿の神々しさにあらためて感じ入った。試練は人を強く、美しくするのだと。それは試練に耐え、乗り越えたものだけに与えられる褒美だろう。クラシックファンだけでなく、多くの人に読んでほしい本だ。特にいま、試練にさらされている人に。


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