克服
1964年12月19日、三鷹新川病院精神科五病棟。
私は2日後の誕生日をひかえていたその日、病棟のボス村井に、キセルを口にくわえている態度が生意気だと殴られた。殴り返してとっくみあいの喧嘩となったところ看護婦に止められ、看護婦詰所であやまって喧嘩しちゃダメよ、と言われた。すると村井は抵抗をやめた私を足で蹴りまくった。
その日から2日たった夜、私は村井、西脇ともう一人のボスグループの病室に呼ばれた。 同室の他の患者はトイレに入って呼ばれるまで来ないようになっていて、私は突然腹に蹴りを入れられ、ころがったところをおさえこまれ、下半身をむきだしにした村井の股間に顔をつっこまされた。 抵抗すると殴られ、蹴られた。声をあげて助けを呼ぶと、チクリと言われてあとで仕返しをさせるので、助けは呼べなかった。
一人は見張り、二人が私をリンチにかけ、私は抵抗をやめた。 三人のペニスをしゃぶらされ、囗の中に射精された後に、三人目のを口に入れている間にもう一人が私の肛門にペニスを突き入れてきた。
私は顔や腹の痛みと共に、屈辱感と憎しみや、ペニスへの嫌悪が渦巻いているような気分だったけれども、肛門にペニスを突き入れられ、そいつが腰を動かしつつ、私のペニスを手でしごきだした時、快感におそわれてカーッと体が熱くなり、もがいた。が、しっかり抱きしめられている内に射精してしまった。 こうして三人に「強姦」された私は、そのことを看護婦にも告げないまま、言いようのない憎悪を抱いていた。
三人への憎悪と、自分の体の裏切りへの、屈辱の思いが湧きあがり吐いたりしていた。
奴らのチンボコを切っとばしてやりたいッ!!
私の憎悪は、ボスになりかわる方向に向き、死にもの狂いの喧嘩をするようになってボスになった。
後年、私は、ヤクザになった。人のために尽すのが仁、生命を捨てて尽すのが侠、仁侠に生きるのがヤクザだと説かれてそれを信じ、昼はトラックの運転手をやり、夜は玉の井のバーやキャバレーを廻って喧嘩をとめていた。
ある日の夜、つきあいで吉原の旅館につれてゆかれ、そこで右翼に看板を変えたヤクザが、王仕込みをしているところにぶつかった。「スケ番」を輪姦して売春婦にしたてる為、何日も一室にとじこめておいて、
あらゆる屈辱を味わわせ、反抗する気持や自尊心をメチャメチャにすることを玉仕込みと称していた。
他の組織のしのぎには口を出してはいけない、というクソ仁義よりも、私の勇気のなさで、私はやめろとも言えず、八ミリ映写機用のカメラで犯
されているシーンを見ていた。情けなく無念なまま。 何日かたってから、結婚を約束していた純子が、女友達と一緒に浅草のゴールデングートというGOGOホールに出ていたZNBというバンドの男らに睡眠薬を飲まされ、輪姦された。
私はそれを純子の女友達から聞いた時、玉仕込みのシーンを思いZNBへの殺意を抱いたように思うけれども、その純子がZNBを追って神戸へ行ったと聞いてから私は、私の感情をなにも感じなくなってしまった(純子が訴えないかぎりZNBは犯罪を犯したとされないのでZNBと仮名で書きます)。私はその後、焼け跡(自宅が焼けた)の整理中、はく製の赤い鳥が話しかけてくるという幻聴状態となった。
さて本題へ。
私はこれらのことをいかに克服できたか。
それは結局「とらえなおし」を繰り返し、どんなに醜くてもありのままの事実から目をそらさず、羞恥の思いに耐えつつ、共に生きられる関係の回復を基準に、共に生きる関係を歪ませてきたものがなにかを突きとめていったことでの自覚と、共に生きようと実践する中での共感性の回復による。 私は最初、これらの強姦そのものを思い出すまいとし、私の人生にそんな事柄はおきなかったようにふるまっていた。思い出さないのだからその当時の思いも感じない。当然、克服すべき問題とも思わないままだった。
ふつうの人は、自分自身を、あたかも他者であるかのように意識的にとらえて評価することができる。自意識とか言われるこのような自分自身の感じ方を、私は、とらえなおしをするまで出来ない人間だった。そのかわり、頭の中に三人程の人物が居て、それらの人物が私についてあざけったり、誉めたりした。
自分の思考という主体感が疎外され、あたかも他者の思考のように人格化される私のがっての状態は、自我分裂とも、思考の乖離とも言われ、あるいは離人症状とも言われるようだ。 その私か最初にやったことは、生いたちから現在までを書きだすことだった。生い立ちを書く中で色々と思い出し、そうして書いたものの内容には、他人に知られたくないことも多くあった。 その生い立ちの記録をもとに、私かやったのは、「反省」だった。世の中の尺度で自分の生き様を、良かったのか悪かったのかで評価しなおす作業をした。
当然なことながら、人を殺すのは悪いことだ、済まないと思う、位の「反省」しか生じない。その上肝心な心からの思いが無い、善悪の判断はあっても、世の中のその尺度に共感がないから、済まないことをした、という判断に情がともなわないのだ。その反面、他者への怨みつらみにはたっぷり憎しみがこもっていた。
そんな私だったから、とても他者を「許す」ことができず、自分のした殺人についても、仕方がなかった、と自分の被害者性を盾にとって居直っていた。 そんな私に、獄外の友人はこう問いかけてきた。 殺したことをどうとらえるのか 恥かしいことには、私はこの意味がわからなかった。やりとりの中で、「とらえなおすこと」を求められているとはわかっても、それの具体的やり方がわからなかった。私はじれた。手紙には私の見当もつかない言葉が大切な言葉として語られていた。
「共通の基盤」
「関係の試金石」
「主体性」
「共に生きる」「女性への偏見」
「理想の押しつけ」「家庭は悪の巣」
「(病状も)自分が選択した事」etc。
自分か見たり聞いたりしたことを隠さず言っているのだから、それをなおすことなどできないじゃないか!!
‥‥こういう私の、体験を体験としてしか考えられない状態は、体験の中の意味を固定化させ、自分にひどいことをした人間への憎悪を保たたせていた。
とらえなおしは、別なものごとのうけとりようをしてみることだ、と気がついたのが第一歩だった。それは、自分中心のものの見方からは出てこ ない姿勢だった。 そしてこれからの脱却には、違う受けとり方をする他者を、そうであっ ても友人や仲間と感じている共感が育っていない間は出来ない、という問 題があった。違う見解に出会うと、不当な見解、誤った見方と思えたり、 敵対と感じてしまうのだった。 子供の時、私は栃木の母の実家や寺にあずけられて育った。その母恋しさに怨んでもいた。 その私か怨みを捨て、逆に感謝の思いに変ったのは、戦後の東京での暮し難さに気付き、餓えないようにという思いから私に良かれとした事でもあったとわかってからだった。
母の行為にだけ注目していた態度から、母をそうさせたものへの注目に変化した時、戦後の食糧難の中で私を育てることがいかに大変かが実感的にわかった。
人間は社会の中で生活している。その人間の行動を社会から切り離して非難していた私か、個人の状況だけを見るところから、社会も含めた、より大きな状況全体の中で見るようになって、多くの怨みが個人から離れた。
が、これは私にとって苦痛だった。怨みによって自分の正当化を支え、
他者にひどいことをしても仕方なかった、と思えていた私にとって、
怨みの心の解体は、正当化ができなくなり。自分かどんなに残虐な恥為をしてきてしまったかという重味に苦しむことになってしまったから。
怨み心の解体は、怨みによって閉ざされていた(疎外されていた)共感性の回復と同じことであり、共感性の回復は、私の行為で苦悶の内に殺された人々の、その思いを、絶望的な苦しみとして感じる共感を生じ、それは私にとってそのままとりかえしのつかない罪の思いとなってきた。
それまでにも罪の思いはあったけれども、それは自分かどうやらとんでもない錯覚をしていて殺人をしてしまったようだ、という点からであって、その時には仕方がなかった、という思いがびくともしないでいたから、体の不調の形であらわれていた。血を吐いたり、閃輝性暗点症といって脳の血管がけいれんする病になったりした。
控訴審に入って「自分について」というとらえなおしをしだした時は、とらえなおしというのが、別のものごとのうけとりようをするというだけではなく、問題を見つけ(とらえかえす)、見つけた問題をどうしたら「なおせるか」実践していく全体をいうのだと思うようになっていた。 実践のしようのない解決手段は無意味だ。
私は、村井、西脇ら三人のした強姦に対し、私の憎しみを、チンボコ切断をするシーンをイラストにすることによって解決しようとした。自分の憎悪を形に具体化してみると、確かにどこかで気の済むところがあった。そして同時にこれ程までしなくとも許せるな、という思いも湧いた。
ここまできてようやく私は、ボス化を容認して患者支配に利用する病院のありようが、多くの他患いじめの黙認、見て見ぬフリ、知らぬフリとあいまって、暴力や強姦が実行されてしまう基盤を作っていることや、私自身の、真の不当さとは対決せず、抑圧し支配する側に都合のよいチックリ禁止のルールに従ったおかしさなどに気がっけた。そうしてわかっていけばいく程、三人の示した私への対人態度は、社会で身につけた態度だということにも気づき、私は、私への強姦を憎悪の形にとどめておかずに、強姦する人を作りだす原因解体に叩きつけることが、共に行きあう関係作りや殺人の償いや殺人の償いとも矛盾することなく、むしろその実践ともなり、他の人々に共有してもらえることを知った。
玉仕込みも同じことだった。その場でやめろと言う勇気をふるいおこしてこその仁侠であったはずで、それができなかったのは言ったあとの事態を恐れたからだ。そしてそういう私とは違う立場で、売春が多ければ強姦はへっていくからと黙認する警察と、こういった全体を見ぬフリ、知らぬフリをするマスコミをはじめとする多くの市民達。そして売春婦を「買う」男ら。
そして、自らは労働することなく、女性を食いものにしていながら「仁侠」を看板にするヤクザと、そのような人間をうみだす社会の歪み。
いずれも共に生きる関係から遠くはずれてしまっている。
当面の行為に怒りつつも、その強姦などをしてしまえる原因をなくそうという方向へいきどおりをむけかえねばならないと思う。
それには原因の連鎖をたどってゆく姿勢と、ありのままの事実にたじろいでも、
それに眼を閉じないで見つめ、耳をかたむけ、
思ったことを言う姿勢が欠かせない。
簡単なようで難しい。
私は三人もの人を殺し、死姦すらおこない、あるいは強姦された者であり、これらを言っていくのはつらい。しかし、言わねばならない。言わねばなにが犯罪を作りだすかが伝わらないからだ。
先に私は『殺人』と題する文で強姦殺人のイラストを掲げ、そこから生じる感情をどう方向づけるかを問い、死刑を求める感情などが、実は社会教育による残虐さに他ならず、殺人事件の解決にむかわないことを中心に述べた。
次に『残虐』というテーマで、支配・抑圧に抗する側か、それまでに社会教育を受けてしまったことにより、残虐性を自らの内面と取り組んで自覚しないと、自らも残虐のあとつぎになってしまうことを述べた。そしてチンボコ切りをしたいという私の憎悪の方向を述べた。
今回はその克服篇で次には各例をあげるつもりだったけれども、上告棄却が十月二五日に通知され時間がなくなってしまいました。
そこでこれまでの私の私信でとらえなおしの具体例を伝えられた方にお願いですが、適当に要約して投稿して下さい。性に関することや暴力に関すること等、一切公開に制限はつけません。
さて、下獄にあたって思いは多いのですが、読者の皆さん、どうか死刑廃止運動に今後共よろしくお力をお願いします。
そして、有実の死刑囚の大や冤罪の死刑囚の人のとらえなおしに協力して下さい。本を送って参考に、とやって下さるのは、とらえなおしの初期には、主体的に考える姿勢を弱め、本による権威的理論武装を作りだし、大切な、自主的な罪の自覚に到る苦しみを味わわずに済む為に、犯罪を二度とするまいという思いの絶対性が欠けがちになる例が二、三ありました。
冤罪の人はしばしば自分のデッチ上げに屈していく過程をきちんととらえなおせていないことが多く、デッチ上げを崩せない主因となっているような人もいます。
そこでお願いなのですが、共に考えてあげて下さい。教えたり教えられたり対等な関係の中で、殺人と殺人に関わる事にポイントをあてて、あなたの疑問を伝え、納得ゆくまで話してみて下さい。公開質問形式でもいいと思います。ただし、あなたの心が常に反映するので、あなたも同時にとらえなおしをしてゆかないと、実りのある交流にはならず、自己満足か、下に見下しか同情になるでしょう。逆に死刑囚も支援にきれい事だけを見せたいところをこえた、ありのままの姿をさらけるところからしか、本当の交流は生じないでしょう。
人間の自己変革が、どのように可能かが、とらえなおしの交流で明らかになります。
私はとらえなおしを共にすることで、私自身のとらえなおしが深まったことも多くありました。
東京定例会の皆さんありがとう。
かたつむりの会の皆さんありがとう。たんぽぽの会の皆さんありがとう。死刑廃止の会、女の会、支援迎、ニジの会、統一獄中者組合、救援連絡セッター、夢から朝へ、大きな手の中で、キタコブシ、ごましお通信、非暴力直接行動、の皆さんありがとう!
桜庭救援会の皆さん、山谷争議団の皆さん、ありがとう。個人的に手紙を出せないまま、しばしのお別れです。党派の皆さん機関紙差入れありがとう。私は全紙面の面積に対する障害者解放関係の記事の面積を%で出したり、生活全体を取組んでいるか、食住衣、労働、教育、娯楽、スポーツ、保健医療、芸術、創造活動、宗教思想、性、等々見ていました。闘いはそのような日常的で地道な取組みからうまれてこそ、根も幹も葉も茂った花が咲き、解放の実がみのると思いました。どうか生活全体と取組んで下さい。
読者の皆さん、互いの異質さを前提とした共感性にもとずき、共に生きられる社会をめざして下さい。同質さに共感をおくと、それを他者に強いればファシズムやエスノセントリズムの排外主義になりかねませんから。一人一人の個性を尊重しあい、差別や抑圧のない共に生きあえる社会へ共に。
以上
最後。管理人より。
私はけっこう、感動したけどなあ…飯田さんの文…ただ…性暴力被害者とか…見るのも読むのも耐えられない、とか、肛門強姦と膣強姦はまた違うのでは?と思われる方もおられるかと思います…
飯田さんの文を読むまで、正直、私は、死刑廃止派の世界も、しょせん男性中心世界であり、死刑と直接結びつく『殺人罪』のことばかりしか考えてない集団だと思っていた。ようするに、ジェンダーや性犯罪・性暴力については無頓着な人たちなのではないかと思っていた、ということ。
性犯罪だけでは死刑にはならない。『強姦致死』となって、はじめて、死刑の可能性が出てくる。そういう場合でしか、死刑廃止派なんて性犯罪について騒がない連中だと思っていた。
で、騒ぐことはいつも同じ。「検死で被害者女性に処女膜があったか!?なかったか!?」みたいな。確かに、死刑は命がかかってるから大切なことなんだけれども…
死刑囚は9割以上が男性。ということは、当然、殺人だけではなく性暴力もしている死刑囚もまあまあ含まれているということ。そのわりには死刑制度問題において、あまりジェンダーが語られない。それどころか脇に置かれてるような感じすらしていた。適当に、「差別はいけない!」とか、その言葉で丸くまとめられてしまって、ジェンダー問題は具体的には出てこない。
私がネットで見かける死刑とジェンダーが関わる意見は、セクシスト(性差別者)たちからの、女叩きばかり。「女の死刑囚は全然、死刑が執行されていない!」「被告が男だったから死刑になったが、女だったら減刑されていたはずだ!」という、心無い女性差別書き込みが主。ちなみに1年前だったか、女性死刑囚が処刑されたので、前者の書き込みは新たにされなくなったが…どのみち、女性死刑囚が圧倒的に少ないので比較できっこない。というか、正常な考えであれば、「どうして暴力をふるうのは男性のほうが多いのか?」それがジェンダー問題として優先されないのだろうか?
Facebookに記載されているのを見たが、一死刑廃止派弁護士から、「母性があるはずの女性が!女性裁判官が、死刑判決を出した!」などと、これもまた信じられない女性差別言辞が飛び出す。しかし、これでも、その人物は死刑廃止派なのだ。こういう「女性教」リベラルは差別者の自覚がないゆえに保守系差別主義者よりも別の意味で説得に労力を要する。「少数派を排除しない!」「差別をなくそう!」「共生しよう!」…口だけで実行できてない死刑廃止派がいるというのは残念。
さて、心の狭い私の愚痴はもういいとして…
飯田さんが最後に、
「東京定例会の皆さんありがとう。
かたつむりの会の皆さんありがとう。たんぽぽの会の皆さんありがとう。死刑廃止の会、女の会、支援連、ニジの会、統一獄中者組合、救援連絡センター、夢から朝へ、大きな手の中で、キタコブシ、ごましお通信、非暴力直接行動、の皆さんありがとう!
桜庭救援会の皆さん、山谷争議団の皆さん、ありがとう。個人的に手紙を出せないまま、しばしのお別れです。党派の皆さん機関紙差入れありがとう。」
と言っているのを見たとき、花束をいっぱいかかえて持って嬉しそうに手を振りながら、船出していく(下獄していく)飯田さんの姿が浮かんで、泣けてきた。
…なぜこんな悲惨な人生を味わった人が、人々から差別され、なのに、ありがとう!ありがとう!と言えるのか…
私の周囲にいる人や、私の別ブログの訪問者は相変わらず「犯罪者は射殺しろ!」と言っている…
飯田さんは、今、生きておられたら、71歳。