それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第17号(86年3月30日発行)「死刑制度と天皇制」(1)

2017-01-20 18:24:17 | 会報『沈黙の声』(その2)

永山則夫支援者だった武田和夫さんが永山さんから追放された後、武田和夫さんが「風人社」という死刑廃止団体を立ち上げた。その時、発行していた会報『沈黙の声』を冊子にしたもの…の第二弾。『沈黙の声』17号の記事を、以下に載せます。

 


 

 『沈黙の声』第17号(86年3月30日発行)「死刑制度と天皇制」(1)

死刑との斗いの現段階

 

 三月段階で、最高裁ではまる一年間、死刑事件 で判決公判が行なわれていないことになる。

  84年以降、年間三件のぺースで審理をすすめようとしていた事は確かだから、このかんの最高裁をめぐる死刑との斗いのなかで、このぺースが完全につまづいている事は否定できまい。再度何らかの政治的インパクトを待って出直し、という事になるんじゃないか。

 我々の側としては、どういう段階にあるのだろうか。

 ひところの「ブーム」的な死刑廃止の動きは色あせてきたが、地道な運動、斗いが着実眼前進しているといえると思う。死刑事件被告の仲間の意識団結も全体として高まってきている。

風 斗いの内容としては、どうか。

 79年あたりから死刑廃止の様々な運動がおこってきているが、その中で支配的だった考え方は、死刑制度は前近代的、封建的な刑罰制度であって 死刑廃止は世界的すう勢であり日本でもそれは死滅にむかっている、というものだった。

 日本にいまだに死刑があるのは、日本人の死生観や民族性のためだと説明されていた。

 そうした見方にたった運動が、日本の死刑存置の現実に切り込んでこれたのかどうか。そもそも「封建的」制度だからブルジョア近代社会では必然的に廃止される、という事はいえない。たとえばブルジョア国家の支柱である官僚制と常備軍、これは元々絶対主義時代の産物だ。しかしこれがブルジョア社会で消滅すると考えている人はまずいないだろう。

風 ブルジョア国家は、前近代的制度でも支配に必要なものは決して手放さない。

 死刑制度もそうで、世界的にみても、死刑廃止が「すう勢」となるのは国家独占資本主義時代、すなわち、肥大した独占資本の危機に国家が全面的に介入して、経済を統制すると共に社会主義的政策を「改良」として先取りしていく時代になってからであって、それ迄の自由主義時代のブルジョア国家は仲々死刑を手放そうとしなかった。

 死刑廃止国でも保守勢力は死刑復活を画策しているしね。

 このかん具体的に死刑裁判や法務省の動向と斗ってきている人達は、権力側の死刑存置への執念 を肌で感じている。そうした、死刑囚の仲間達と の共同斗争のなかで、主観的な〝善意〟からだけ でなく、敵の実体をより鋭く見すえた斗いが要求 されてきている、というのが今の段階ではないか。

 そこで日本の死刑制度なのだが、それには日本の国家制度の特殊性と、その歴史性、双方から検討する必要がある。

 そのどちらも日本に於ては、天皇制を無視しては考えられないのだが。天皇制といえば平安時代に時の天皇権力が三四六年間の実質的死刑廃止を行なっている。しかし実はこれは当時の天皇権力が弱体で、死刑を実施するだけの力を持たなかったという側面がつよいもので、正木亮氏などが、「世情の安定した平和な時期」というが、全く逆で、群盗ばっこする荒れ放題の時期だった。世情不安定ゆえに、仏教思想などの影響から「恩赦」的死刑停止の宜旨を行ない、それが尾を引いたものにすぎない。

 およそ、階級的支配・被支配関係をヌキにして「世情の安定」を云々すること自体がおかしい。

 それよりも、日本の歴史、とくに近代法制史上、見のがせない死刑罪は、何といっても「大逆罪」なんだな。

 これは「企てた」だけで死刑、しかも「無期」の選択がきかない、「死刑」のみ、という刑罰だ。

 この極端な特殊死刑罪は、明治憲法第一条の、「天皇ハ神聖ニシテ侵スペカラズ」の条文に対応している。絶対主義時代の国王殺害者は。身体をバラバラにするなどの残虐刑が課せられたが、その関連でだけこれを見だのでは現在につながる天皇制の問題を見誤ることになろう。あくまでこれは、「近代国家」の成文憲法体系のもとでの、「近代ブルジョア国家」における死刑罪であること、そこに「大逆罪」の特殊性がある。

 さっき死刑制度についても話したが、天皇制に ついてもこれが前近代的、「封建」的制度だという考え方が日本ではずっと支配的だった。

 そうすると「天皇制」は死滅しつつある遺制にすぎないという事になり、現在の支配権力の主導する「天皇」現象に対決していけない。死刑制度に限らず、同じ構図は、「前近代」の上に立った極端でいびつな「近代」化、という日本的状況として、いたるところに見られるのではないか。

 そうした日本社会の収約体が天皇制でもあるんだね。

人 ほんらい近代国家というものは、封建的国王を打倒した革命や、独立という国民的行動の理念つまり「自由主義」や「民主主義」を背景とした、法的・政治的統一体として形成される。しかし徳川権力崩壊と諸外国の攻勢の中で、日本はそうした国民的エネルギーが充分開花しないうちに民衆が自力で権力者を倒したこともないまま、民衆の農村共同体意識を上から「天皇神話」でまとめ上げるという形で、「統一体」が作り上げられていった。

 「天皇」のなま身の身体としての存在、人格―それも天皇の人格そのものでなく、国民に定着させるイメージとしての作られた人格が、決定的な役割をもった。

 それが、「大逆罪」の強権性の原因といえるだろうね。

(その2)に続く

 

 



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