それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第29号(88年6月25日発行)「死刑廃止運動の現状にむけて」(その2)

2017-01-23 19:36:17 | このブログについて

(その1)から続く

 さて、われわれは「死刑囚仲間との共闘」というときの、その共闘の中味を再検討すべき処にきている。われわれはあくまで、「死刑囚」を人民の仲間とみる。然しそれだけで全ゆる死刑囚と「共に闘える」とはいえない。事件と自己をとらえ返し、真剣に生きようとする死刑囚の仲間の闘いと、自己の存在の問い直しの上にたったわれわれ自身の闘いとが重なりあったところで「共闘」は成立するのだ。

「無実」の死刑囚の仲間も、権力にデッチ上げられた自己自身をとらえ返し、のりこえていくことなしには、えん罪と闘うことはできないはずである。 その様な、死刑囚の自己再生の闘いからほど遠い次元で、「運動」一般を語り、即自的な狭い「徒党意識」によって対立抗争を持ち込もうとする傾向が、死刑と闘う死刑囚自身の団結と、死刑囚と共に闘う死刑廃止運動の阻害要因となりがちである。

死刑囚内部の極端な個人主義者がこの傾向と結びつくと、それは容易に運動破壊活動となってあらわれる。 批判のないところに、共闘もない。闘いとはつねに、現実のあるがままの関係性をのりこえていく作業であり、闘争内部に反映された現実の矛盾ともたえず闘うことを要求されるはずだ。死刑囚との共闘のみが、例外という訳にはいかない。 

回避されるべきは、「死刑囚」であるが故に批判をさしひかえたり、逆に「だから死刑囚は…」と偏見をつのらせる傾向だ。相手と自己を真剣にみつめ、共に生きようとする情熱があるかぎり、適切で妥当な批判の在り様が保証されるだろう。問われているのは、われわれ自身である。

6月2日、最高裁は、78年の上告後10年間すえ置きにしていた渡辺清氏に対して、今年六人目の死刑判決を強行した。渡辺氏に対する高裁原判決は、〝最も犯情が重い″として死刑を選択した一件が明らかなデッチ上げであり(他の三件の殺人事件は併合罪、うち一件も無実、一件は少年時の犯行)、このため最高裁は10年間、結論を留保してきたのである。然しそれは、″死刑判決が下せないでいた″期間にすぎなかった。これだけ結論を出せず、本来なら当然破棄さし戻しにすべきはずのこの事件に対し、最高裁はわずか17行の判決文で上告を棄却したのである。

この日、最高裁の警備員はことのほか凶暴であった。傍聴者の衣服を引き裂き、その背後から「逮捕だ」(警備員に逮捕権はなく、警察と連動していることを示す)との声も発せられている。「殺人儀式」としての本姿をさらけ出さなければ死刑裁判を強行できなくなっている最高裁の、追いつめられた凶暴性を、警備員がはっきりと反映しているのだ。 この7月にスイスで開かれる国連人権委員会への報告で、日本政府は日本の死刑状況について、81~85年までの確定数のみを表にし、「死刑は極めて厳格かつ慎重に行なわれている」とコメントしている(表参照)。87年以降の死刑確定状況は、日本政府でさえ諸外国に「慎重だ」ともコメントできないものなのだ。 闘いがすすめば、権力の弾圧も強化される。闘い内部の反動も組織される。それらによって鍛えられてこそ、社会をかえうる本物の運動に成長するのだ。 3月8日には最高裁法廷に姿をあらわした、処刑されていった沈黙の魂たち。更にがんばろうぜ!!

(抜粋以上)


 

管理人のつぶやき

あ、「がんばろうぜ!!」とかいう表現、ここで初めて見た。

私が完全に理解できているか否かは置いといて、私が印象に残った部分↓

>「無実」の死刑囚の仲間も、権力にデッチ上げられた自己自身をとらえ返し、のりこえていくことなしには、えん罪と闘うことはできないはずである。 その様な、死刑囚の自己再生の闘いからほど遠い次元で、「運動」一般を語り、即自的な狭い「徒党意識」によって対立抗争を持ち込もうとする傾向が、死刑と闘う死刑囚自身の団結と、死刑囚と共に闘う死刑廃止運動の阻害要因となりがちである。

>死刑囚内部の極端な個人主義者がこの傾向と結びつくと、それは容易に運動破壊活動となってあらわれる。 批判のないところに、共闘もない。闘いとはつねに、現実のあるがままの関係性をのりこえていく作業であり、闘争内部に反映された現実の矛盾ともたえず闘うことを要求されるはずだ。死刑囚との共闘のみが、例外という訳にはいかない。 

>回避されるべきは、「死刑囚」であるが故に批判をさしひかえたり、逆に「だから死刑囚は…」と偏見をつのらせる傾向だ。相手と自己を真剣にみつめ、共に生きようとする情熱があるかぎり、適切で妥当な批判の在り様が保証されるだろう。問われているのは、われわれ自身である。



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