それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

斗争記―個人総括(10)(1988年6月25日)

2017-01-24 01:44:07 | 斗争記―個人総括

永山則夫元支援者の武田和夫さんが、永山から追放された後、発行された『沈黙の声』という会報を冊子にまとめたものです。どうして追放されたかは、武田和夫著【死者はまた闘う】(明石書店)を読まれてください。この『斗争記―個人総括』と合わせて読むと感慨深いと思います。

この冊子中には、『N(永山則夫)裁判闘争記』という記事が収録されて…いたのですが…途中から『斗争記―個人総括』に名前が変わりました。その内容を以下に載せます。


 

斗争記―個人総括(10)

 九、再浮上 

84年3月30日に弁論、4月27日判決というスピード審理で出口秀夫、坂口徹両氏への死刑を確定させた最高裁は。ついで7月12日、川中鉄夫氏への弁論を強行した。風人社は最高裁周辺と霞ヶ関地裁周辺にビラ入れし、弁論を傍聴した。ビラは受けとりも良く、よく読まれた様であった。その主要部分を引用しよう― 

『…中世において、「死刑」は刑罰の中心であり、その裁判権は封建領主がにぎっていました。死刑と身体刑を主体とする当時の「刑罰」とは、領主による農民搾取の手段そのものでした。近代にはいり、刑罰は、犯罪の軽重にみあった囚人労働を課する「懲治監獄体制」へと変化しました。しかし国家の刑法体系の究極目的が、生産労働から剰余労働をしぼり取る資本主義的経済制度の維持である以上、死刑はあまたの人道主義的廃止論にもかかわらず、その政治的必要性から、最高の刑罰として長く存続させられてきたのです。

近代産業社会の発達にともなう累犯者の増加が「犯罪の防止」(一般予防)と「犯罪者の更生」(特殊予防)という刑罰の機能の破綻を意味し、死刑とは累系加重の究極に犯罪行為者を抹殺し去る以上の何をも意味しないにもかかわらず、「刑罰」は、「犯罪」者を隔離抹殺することによって「犯罪」を生み出す社会の諸矛盾から人々の目をそらせ、その反面で、「犯罪」者を処罰する支配権力の「正当性」を誇示するものとして、機能してきたのです。

法廷において、裁判官が被害者(遺族)の被害感情を云々する時、かかる権力のまやかしは最高潮にたっします。ブルジョア法において「刑罰」によってつぐなわれるのは被害者の利益そのものではなく、それを保証している法的秩序(法益)、つまるところ国家の支配秩序に他ならず、それを守るため裁判官は、回復不可能な被害を云々することによって、量刑を最高度に加重しうる心理効果を得るのです。…』

被害者遺族の怒り、悲しみが、この様な形で権力にからめとられ、「犯罪」行為者のみに向いている限り、弱者が殺し・殺される、殺人―死刑の悪循環がくり返されるのみであろう。死刑廃止はその様な殺人社会の原理を、根からたち切るものなのだ。

11月15日、さらにもう一人の死刑上告者に弁論が指定された。然しその殺人攻撃は、どたん場で回避された。その晴山広元氏の、事件自体に疑問ありとする獄中、獄外の仲間か動き、弁論直前に私選弁護人がつけられたのである。当然、11月15日の期日は延期となった。然七最高裁側は新たな弁護人に充分な準備期間もみとめぬ、翌年2月弁論-3月(年度内)判決のスケジュールをおしつけようとした。弁護人の超人的な努力は、それを7月まで延期させた。翌年7月、弁論だけは何とか行なわれた。然し既に、その時までの裁判所の判断を疑わしめるに足る事実が補充書として提出され、この事件は判決期日が入れられぬまま現在に及んでいるのである。 

そのまえ、翌85年3月8日に、最高裁は更に、小山(現安島)幸雄氏への弁論を行なってきた。この頃には、最高裁の死刑事件への傍聴も増えはじめ、この日傍聴者ははじめて20名に達した。そして最高裁との緊張関係も厳しさを増してきた。最高裁側は、地裁からの応援を含む警備・職員約20名を配置して南門をかため、付近にははじめて警察の機動隊車一台が待機したのである。 

小山氏への判決は4月26日に強行された。われわれの側も、昼間の法廷への結集はそうたやすい事ではない。この時の傍聴者は4名。ところがこれに対し、裁判所警備約20名、制服・私服刑事約20名、計40名が対応した。カメラをもった私服が目立ち、最高裁の死刑裁判に結集しはじめた運動者のメンバーを特定するなどの情報収集を主体とするものであった。 

風人社は、この事態をあらかじめ予想し、この この小山氏への判決以降、約2年、最高裁は死刑判決を出せず、また同年7月の晴山氏への弁論以降約一年半、死刑事件弁論は開かれなかった。83年7月の永山裁判差し戻し判決以降、年三件のペースで死刑事件審理を再開してきた〝まき返し〟策動が人民側からの抵抗により破綻したことを意味した。 

更に体制をたて直した、新たな〝まき返し〟が行なわれてくるであろう。それ迄に我々の側か、いかなる闘いを準備していけるだろうか。 政治的、社会的「重大」事件に対する強権判決を突破口として、死刑事件審理を再開してくることが予想された。最高裁系属中の死刑上告審の中では、東アジア反日武装戦線への裁判が、その「突破口」とされる可能性が最も高かった。 風人社は更に別の意味でこの裁判への攻撃を警戒していた。

「沈黙の声」における「死刑廃止論」を通じて、我々は日本における死刑存置は端的に、天皇殺害者に報復する必要があるためだと指摘していた。最高裁の死刑事件審理をめぐる動向は、日本における死刑制度そのものの成否を左右するものとなっている。最高裁側かはっきりとそのことを意識し、政治的に対応してくるならば、天皇列車爆破未遂=「虹作戦」への報復の性格をもつ、東アジア反日武装戦線への死刑判決をもって、その状況を突破せんとしてくることが、充分に考えられたのである。 

折も折、「東アジア」支援部分を中心に、「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃粉砕!! 対最高裁行動実行委」結成のよびかけがなされたので、「◎日本の死刑制度に生き続ける「大逆罪」の顕在化としての反日戦士への死刑・重刑攻撃粉砕!! ◎「大逆罪」をいつでも顕在化できる死刑制度粉砕!!」を理由に明記し、賛同団体に加わった。 このままであるなら、「対最高裁実」には直接参加せず、「賛同」に止まっているところであった。処がこれに永山則夫からの挑発があった事で、関係はより密接なものとなった。 

対最高裁実結成集会(85・10・26)よびかけビラ中、〝賛同団体の「トップ」に風人社の名が記されていた″云々と問題にする永山が、「集会アピール」と称して武田への中傷文を送りつけ、実行委の一個人の判断でこれが「追加アピール」中に掲載され公表されたのである。 

「対最高裁実」自身の問題としてこの様な無原則な対応は許されるべきではなかった。そして話し合いの結果、妥当な解決が得られた上「真の解決は今後の実践を通して」などという事になった為、結局、武田は実行委メンバーに加わり、87年に実行委が「東アジア反日武装戦線への死刑執行・獄死攻撃阻止!!対法務省行動実行委」に発展解消するまで、最高裁の死刑攻撃に対しともに闘いたのである。 最高裁実はこの件に関する見解を、「追加アピール」を郵送した賛同・参加者に郵送した。

当時この「見解」をこちらで公表することはせぬ様頼まれていたが、すでに最高裁実自身は解散しており、風人社からの「抗議文」のほうは「沈黙の声」第15号(85・12・15)に掲載しているので、その結果を報告する必要もあることから、その主要部分を以下に掲載しておこう。

『…実行委への呼びかけ文にも明らかなように、私達の結集の軸は、「東アジア反日武装戦線への死刑重刑攻撃を許さない」という立場から、今日明日にも振りおろされようとしている彼らへの判決に対決して最高裁への大包囲を実現していくことにあります。したがって、これに向け、様々な立場・主張の人をも大きく包み込むものとして私達の実行委はあります。ですから、かかる死刑重刑阻止の大包囲実現運動の、その運動の前進をこそめざすことが私達の前提です。 

その私達の主旨に照らして考えてみたとき、今、永山氏らの側から投げかけられている「抗議」すなわち10/26集会に寄せられた「アピール」は、私達の結集軸について何一つ触れられていないことに加え、10/26集会をあらかじめゼロ行為と断定していることともあわせて考えたとき。私達としては、とてもうけいれられるものではありません。運動の相互間、内部の問題を処理する態度においても、これは誤っています。そして、私達のこの判断は、永山氏らの主張を機関紙において検討してもなお変えられるものではありません。 

したがって、永山氏および「反省=共立運動」の諸氏からの要求に関しては、そのどの一点についても、私達実行委が回答すべき内容をもたないと、私達は考えます。 12/1付の「風人社」よりの抗議文にあるとおり、「風人社」は本実行委への賛同を表明するにあたって2点の理由を明記しています。これは、私達の運動の主旨において充分に正当な主張であり、実行委が風入社の賛同・参加を拒む理由はいっさいありません。 

***

しかるに、このような判断を踏まえずに、私達があの「アピール」を事務的に公表してしまったことによって、私達実行委への賛同を表明してくれた「風人社」-武田氏の私達への信頼を踏みにじり、また、彼らの運動への妨害を結果たらしめてしまいました。

このことにより、私達もまた武田氏に関する、永山氏の「スパイ」主張を、正当として受けとめているがごとき印象を広く流布してしまいました。かくして私達は、風人社の賛同を受けいれながら、仲間としての配慮を欠いて、かの「アピール」を公表してしまいました。 このことは、武田氏に「背信行為」といわれても、何ら弁解の余地はありません。この点に関して私達は武田氏及び「風入社」に謝罪したいと思います。……』 

この様な永山の無分別な挑発が予測されたので、それ迄私は他の運動とはあまり接触せずに独自の闘いをすすめてきた。然しその態度は誤っているとこの時知らされた。闘いをすすめていけば必然的に、様々な運動に重なりあう。その時こちらがきちんと関わっていなければ、この様な挑発で運動はかえって混乱するだけなのである。 独自の動きだけでは限界がある事も明らかだった。

85年、死刑審理を遅々としてすすめない最高裁へのテコ入れの為か、法務省はそれ迄毎年一名にまで押えてきた死刑執行を、5~7月の二ヵ月間に一挙三名に強行してきた。これに「風人社」が対応できないでいる間に、日本死刑囚会議=麦の会の仲間が12月8~15日、ハンストをもって抗議闘争を行なったのである。この抗議の意義は重要であった。 死刑と闘う様々な人達の輪に、積極的に参加していく必要性が生じていた。

(抜粋以上)  



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