それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

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『ねっとわあく死刑廃止43号1997.10.20.』「持続する志」終身刑導入反対派意見

2017-10-29 12:59:39 | 会報『ねっとわあく死刑廃止』

1997年9月の死刑廃止全国合宿で、

終身刑導入推進派の安田好弘弁護士の直前にスピーチされた方(Kさん)のスピーチ内容を、以下に載せます。

 

発題①『持続する志』

K

 姫路のKです。皆さんにお会いするのは、昨年は失礼しましたので二年ぶりかと思います。6年前に姫路で合宿をしました。テーマを「プロからアマヘ」としましたら各地で非難が起きましたが、姫路では死刑の問題が身近な問題となったようです。その後ずっと執行もなかったこともあり、そのうちなくなるだろうというつもりでおりましたところ、執行が相次ぎまして、更にオウム事件をめぐって、世論の硬直化、あるいは私たちの関わった人も執行されるなどあって、何となく気が重くなってきた。その中で、東京で存置と廃止の出会いということで持たれた集会の報告を読ませていただいても、これで運動が新しい段階に開けるということはなかなか僕には感じることができない。どうしたらという具体的な方法が思い浮かぶわけではありませんが、その時に、今年合宿をこちらで引き受けるという話を瑛子さんから聞きまして、話をするよう言われました。(※本当は、瑛子の王の部分は、サンズイです。)

何もしてない人間が何かをしろといわれるのもしかたないことだろうと思って引き受けました。その時にどんなことを、この合宿で僕自身の課題としていくのかを考えました。 6年前に姫路で合宿があった時に死刑の問題は私たちの日常の問題なんだ、私たちの生きる問題なんだということをそれなりに確認できたと思うんですけれども、それが、たとえ執行があるにせよ、あるいは厳しい状況にあったにせよ、暗くなっていくというのはなんだろうと思ったんです。僕自身が暗くなっているわけではないんですけど、何となく重たい。それは僕自身の関わりかたの問題でもありますし、もしかすれば、一時的な社会の状況として死刑廃止がどんどん進んでいくような状況にあった時に広がって、厳しい状況になってきた時に力が弱まってしまうようなものでしかなかったのか、死刑廃止という私たちの願いがその程度のものだったのかなあという気がしました。オウムの事件あるいは僕たちが経験したことのないような事件が起こった時に死刑存置の声が高まるのに対して、くじけてしまうようなものだったのかなあと。僕は最初から死刑廃止論者でも何でもありませんが、死刑を廃止しなくてはならないと本当に思うようになってきたのは、死刑廃止が人の生き方の問題であると感じてからです。そう感じてるはずなのになおかつ状況によって左右されるようなものであればどうにもならん。それなら最初からこうなるのは見えていた。でもそうじゃないと自分に確認しなくちゃいけないと思っています。それを支えているものとして、今日テーマに出しました「持続する志」これは、本棚に大江健三郎さんのエッセイ集がありそのタイトルを見てて、内容は全く違うんですけれど、まさに持続するという、そういうものが僕には十分に死刑の問題の中で意識化されてなかったということを思います。

 志というほど、正しいとか正しくないとかという意味で確固とした思いであるわけではない。むしろ、死刑廃止以外に人間か人間として生きていく道があるのだろうかという問題としてたててきましたから、志という言葉が決してふさわしいとは思わないんですけども。ただ、持続するというかぎりにおいて証明される、変わらないことによって、自分自身の本当の生き方になっているものがあるだろう。
それは、僕は何年かまえから思い始めたんですけども、二年前に新潟の合宿の時にも話したんですけれども、僕は存置と廃止をですね、同じレベルで考えるのは間違っていると思うんです。
死刑存置ということに対して死刑廃止があるわけじゃない。
存置の中に廃止があるというのが僕の思いです。
死刑を求める人の中に死刑廃止を願う気持ちがあるわけですから、そういうふうに僕は死刑廃止の思いを、僕の中で確認してきました。
死刑を求めるというのは、世の中にある、いわゆる犯罪と呼ばれるような事件を憎む心だと思います。国家的な意味合いじゃなくて一人一人にある死刑存置への思いというのは、事件を起こしたくないという心が、死刑存置ということになっているのでしょう。
死刑廃止もまた、事件を憎むことに変わりはない。
事件を憎むことにおいて死刑廃止をねがう。加害者とよばれる人を救うことを通して、最終的に事件が起こらない社会を求めるというのが死刑廃止の願いですから。
そういう意味では死刑廃止というのは、死刑存置と置き換えても、事件を憎むとか、事件そのものをとらえていこうというところでは同じはずです。同じはずですけども、存置と廃止がもし違うとすればどこにあるのか。それは、廃止ということが、事件にかかわった人と一緒に生きようとしているということにほかならないと思うんです。
加害者と共に生きる、あるいは被害者の家族と共に生きる。
その時に事件を憎む心は、死刑という形では解決されない問題をかかえると思います。

存置を求める人たち、あるいは存置を求める自分の中の気持ちは、むしろ、加害者、被害者と共に生きるということから離れたところから生まれてくる心だろうと思う。ですからどちらも、ひとつの事件を通してその社会のあり方を問うというところでは同じでしょうけれども、そこに違いとして出てくるのは、どのような形で社会を見ていくのかということであろうと思います。

それは、被害者と共に、加害者と共にというところに立ち続けるということだろうと思う。
それがはっきりしていない、姫路にあって、そういう加害者、被害者とい人たちと日常的な接触のない僕たち、いや僕だからこそ、こんな状況だから重たい気持ちになったんだなあというように思います。むしろ、被害者と共に生き、加害者と共に生きている人たちにとっては、重くも何ともないのかもしれない。

その、存置と廃止の出会いという集会の報告を死刑廃止年報で読ませて頂いたのですけど、死刑存置の人が、終身刑をもって一致するじゃないかと言われて、それはそれで構わないんです。
その論点もまあ、一致すればいいんですけども、ただあの中にあって存置の人が本当に事件を憎んで、事件をなくすことを目的にしているかというとそうではない。法律家にとっては存置と廃止に出会いはあるんですきっと。

でも終身刑をもって、あるいは代替刑をもって存置と廃止が出会えるかというそんなものは僕らにとってはないような気がする。

終身刑ならいいやないかというのは、日常の人間関係の中には出てこないように思う。

日常的な人間関係の中に出てくるのは、やはり、共にこういう事件は起こさないでいこうと。そのための方法を、加害者、被害者と共に求めるにはやはり死刑をやめる以外にないんじゃないかということを僕らがどれだけはっきりと自覚できるかということだろうと思う。それをもって、今日テーマとして「願いを持って出会い続けよう」とありますが、そういう願いを持ったときに人と本当の意味で出会うことができるだろうと思います。死刑存置の人と出会うだろうと思う。妥協したら出会えないだろうと思うんです。

そのことと、方法論的なことで、存置廃止のシンポジウムで法律家の人たちがそれぞれに意見を述べられて一致点を捜されてるのとはちょっと違う。それはそれでされたらいいけども、そのことが、死刑廃止の願いではない。そういうことを確認しておけば、後はとにかく、いろんな方法を捜せばいいんですから。

法律家といわれる人たちの問題意識は、僕が自分の生き方として問題にしてきたしこれからもしていくつもりである死刑廃止とはちょっと違うなあということをずっと思ってきました。 

話の中でこれだけはすごく腹が立ったのは、終身刑は死刑より残酷だから終身刑にはできない、だから死刑のほうかいいという、これだけは納得できないですよね。そういうことを平気で言うような人に対してなにも言えないというのが一番問題がある。

今みたいな監獄の状況の中で、死ぬ迄人を閉じ込めていくことは決して死刑と比べていいとか悪いとかいうレベルではないはずですけど、でも死刑とは全然違うはずです。そういうことを言われた時に怒りが出てこないといけない。そういう事を言うこと自体が情けないですよね。人間恥ずかしいと思う。死刑廃止をしている人に対して、死刑で死ぬより終身刑で死ぬほうがかわいそうじゃないかとか、残虐だとかいうことを、堂々と言う神経を持たせている、逆に言うと話をしながら、目の前で、そういう事が言えるようなことしかこちらが思っていないとしたら、それはこちらの問題だろうと思う。

そういうことは言わせないような思いがはっきりしないとだめだと思う。そういう事を言われた時に、ためらってしまうものが、逆に言えば死刑廃止がその意味で自分の生きることになっていない、持続していない、正義感でしかないということです。

生きることに理屈がないのと同じように死刑廃止に理屈はないはずなんです。その理屈がないことを理屈を見いたそうとする気持ちか、僕は死刑廃止の運動にとって一番致命的なものだろうと思う。

存置の人に対して、そういうところで終身刑とか代替刑という話ができている、それをすることと、それをしてしまうことによって自分が失う事と。だから法律家の人の話として読んでいく分には何も抵抗はない。ああ法律家という人はいつもこんなふうにして考えているんだなあと。でも、その言葉の中にある、高みに立ってものを見ているようなそういう姿勢を、徹底してお互いに批判しあって、本当の意味で同じ土俵に立たないことには、どうにもならんだろうと思います。そういうところに立った時に運動が本当の意味で状況の中で埋もれてしまわない、確固としたものになると思います。 

僕はオウムの事件を聞いた時に、ひどいなあとは思ったが、特別の大きな事件だとは思わなかったんですよ。悪い事に特別悪い事とか特別悪くない事とか、たとえば裁判の中に量刑がありますけど、同じ殺人でも無期があったり有期があったり死刑があったり、それをどうやって決めるのか。

それはまあ、何人殺したかということで、残虐だとか残虐でないとかいいますけど、残虐さってそんな形で測れるのか。仮に測ったとしたら、その中で測られる残虐さというのは、本当の意味で人間が自分の罪に対してそれを自覚していくようなものじゃない。社会に対して与えた損害、のような感じなんですね。社会に対する損害として、犯罪の重大さが決定されている。社会の人がどんだけ損害を被ったかというところで量刑化しているように思えてしようがない。そういう意味では、田舎におったらひがみもあるけど首都圏におって大変やなあ、東京いうとこは人も多いであんな事もあるわなあというぐらいのもんです。

僕にとっては、東京というところは遠いところです。たくさんの人が動いて経済的にも、地方に比べてずいぶん豊かな生活をしてるんだから、リスクも高いわなあ、そういう中にあって人もいろんな形で押さえられているから犯罪もいろんな形で起こるだろうと。取り立ててオウムオウムと言うことはない。それに革命だと思えば、革命としてはあんなことは日常茶飯事にされていることですから。そのことに関してそれほど言ういうことは、悪とか犯罪とかいうのを階層化している、より残虐なものがある、人を殺すのに残虐な殺しと残虐でない殺しがあると思わせようとしている部分があるんじゃないか。

裁判いうんはいかんと思いますね。人を殺すのに残虐でない殺しもなければ、人を殺さないから残虐でないということもない。そういう意味では残虐と残虐でないことを量として見せてしまっていた。そういう中で、オウムの事件が起こった時に、そのことをもって死刑廃止運動に対して死刑存置派が何かを言えるかのようにもしこちらが思ったらですよ、それはやっぱり、ぼくらも同じところにいたんだなと。僕はやっぱり、加害者と共に被害者と共にというそれは、一緒に生きながら罪を償うことやろうと思います。刑罰には応報刑と教育刑があるといいますが、そうじゃなくて、共に生きるというのは罪を一緒に償おうということですから、共に償うために死刑廃止をいう形でないといけない。罪を償うということによって、事件に対して抱いた憎しみが本当の意味で事件を越えていけるような力になっていくんだろうと思います。そう考えていきますと、そういうことを成り立たしめているものこそが先程言いました持続しているという、持続しているとは僕にとっては生きていることですが、生きていることに立った死刑廃止ということです。生きているということが死刑廃止なんです。

そういう意味において生きているということは皆同じわけですから、生きているものにとって、死刑廃止は共通語のはずなんです。死刑廃止ということが根本にあって、その上に乗っかって存置とか廃止とか言っているものが成り立っているわけですから。根本にある死刑廃止を僕たちかちゃんと自覚してそれを持って生きるということをもっとはっきりと確認しておくことが必要だと思うんです。それがないと、政策的な死刑存置廃止の流れの中で、死刑廃止が政策の問題になってしまうような気がします。
政策の問題が出た時にそういうことが死刑廃止の運動であるかのように思わされてしまうと危険です。死刑廃止の運動は、そんなもんではないだろうと思います。最終的に一人一人かみんな死刑廃止と気づく運動です。死刑存置の人が死刑廃止に変わることはあっても死刑廃止の人が死刑存置に変わることはないんです。そういうものでしょ。
死刑廃止の人が死刑存置になるわけがない。もしそれならそれは、政策の問題です。死刑廃止以外に持続するものはないはずなんです。みんな徹底してみたら死刑廃止以外にないというところに気づく運動です。そういうことが、こういう出会いから明らかにされてきたと思います。死刑廃止の運動が自らの運動を明らかにして来たんだろうなあというふうに感じています。
僕がここでお話することを引き受けてから、長い時間、いろいろ考え、ここでお話して、僕の中では、ああそういう事だったんだなあとあらためて確認しています。逆に言えば姫路で僕は死刑廃止運動は全くできていない、何も進んでいないと思います。はりま死刑廃止フォーラムとかありますし、いろんな事が出来てきたのは出来てきたのですけど、それは運動が先にあった運動だったからです。とにかく早く、何かを力にして何とか形にしていかなければいけないというところから、多数派を工作しようとするような運動になって来てた。多数派になれないから多数派でなくても何とかうまく行くような方法を捜そうとした。そうじゃない、多数派じゃなくて死刑存置の人が廃止に変わる運動ですよ。存置の人が廃止に変わるというのは、僕は自分が変われば変わるような気もするんです。僕が徹底して死刑廃止になったら変わるような気がするんです。僕が本当の意味で確認出来たら回りの人が一人ずつ変わっていくはず。そういうことを一人一人か思いながら、政策的な、あるいは状況を見ながら運動を作りあげていけば、もっともっと死刑廃止が根っこのある運動になるように思うんです。皆さんの根っこがつながっとらんかったように思うんです。根っこをつなぐいう作業をしていくためには存置の人とも根っこにつながることですよね。存置の人と根っこにおいてつながったら、変わっていくはずなんですけど。だから僕は2年前に死刑廃止の合宿が新潟にあった時に、パネルで存置派の人と廃止派の人をたてて論争するような形式はやめようやないかとお話したと思います。廃止の人が存置の振りをしてしゃべることが出来ること自体か僕にとってはすごく嫌なことです。本当の意味で不可能な事なんですよ。

さっき言いました終身刑のほうが死刑より残虐だなんてことを口にするのと同じような感じを受ける。人の命をもてあそんでいるような気がしてしょうがない。人の命をもてあそぶんじやなくて自分の中にあるものだけをはっきり出すことによって、死刑存置の大とつき合うことを始めれないかなあと。僕は存置と廃止の人が代替刑で出会うとは思っていない。政策論争の場においてひとつの一致点を見いだそうというだけですから。良心的な人たちが出てきて話をされているなあと思う。良心的であることは決していいことじゃないですよ。良心的ということはある意味で人間を見下していると僕は思います。そういうこで、今の死刑廃止にとって厳しい状況があるかのように言われる時代にあって、死刑廃止運動が見失われてはいかんだろうと思っている。今日の発題として、持続する志ということをテーマとしてあげさしてもらったけれどその持続するということにおいて、自分自身の中にある死刑廃止の運動が廃止と存置の両方を越えていけるようなものに変われるだろう、変わらんといけないのじゃないかなということを問題提起として聞いて頂きたいと思います。

(ここでKさんのスピーチが終わる。)

司会 「Kさんの問題提起は決してあなたたちはという言い方ではなくて、常にぼくらはという形で問われていたということに注意したいと思います。それでは、存置と廃止の出会いということでこの間動きがありますが、私たちにもみえない出会い、思い、そのあたりをぜひ、お話していただきたいと思います。」

抜粋以上

 

 



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