それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

1992年12月20日ねっとわあく死刑廃止第17号…1992年秋から、1993年へ

2017-02-04 21:58:23 | 会報『ねっとわあく死刑廃止』

 

1992年12月20日ねっとわあく死刑廃止第17号より

申し訳ないですが、私の時間の関係で、興味が出た部分のみ抜粋します。私がここに載せたからと、内容を私が全部理解してるとか、全部私の頭の中に入ったわけではないので、ご容赦ください。それと、誤字脱字もご容赦ください。 


 

1992年秋から、1993年へ

T記

事件で娘を亡くされた母親が、死刑判決をうけたその事件の加害者と面会を重ねているシスターを訪ねた時、ちょうどシスターは、【被害者のことを考えろ!】という世間の非難を受けて悲しんでいた。母親はそれを見て、「私はいい所に来ました。どうぞ気になさらず、あの方(加害者)にかかわってあげて下さい」とシスタ-を力づけた。

12月5日のテレビ朝日「ザ・スクープ」の、死刑を考えた特集は、被害者遺族の姿を正面から取り上げました。

この方はその後で、言葉を選びながらはっきりと、「(加害者の)死刑を、望みません。」と言われましたが、そのこと以上に、シスターを、そして加害者を思いやる母親の生き方に、私は感動しました。 

以前、私かお会いした、被害者の母親の言葉が、長く「謎」として心に残っていました。「息子には、すまないことをしたと思っています。」とその方は、言われたのです。マスコミなどで一般に言われている「被害者感情」とは、確かに違う。でもどう違うのか。子を持つ親として、自分にはどうすることもできなかったその状況にも、痛恨の思いを持つのは分かる。でもそれだけではないのでは・‥。 

四国フォーラムのあと、東京でも講演されたドロシア・モアフィールドさんが、失ったものに耐え、生きていくには、まず故人への深い哀悼の念を持たねばならない、そして息子への愛と犯人への憎しみは、共存できないのだと語っておられました。

ドロシアさんは〈生きる〉ために、息子への愛を選んだのでした。

私のお会いした母親も、おそらく、懸命に〈生きよう〉とされていたのではないかと思います。そしてその心の姿勢が、ご自分ではどうすることもできなかったはずのその事件、息子を奪ったその現実をも自ら「引き受ける」にひとしいその「すまなかった」という言葉となったのではないか…。

「すまない」とは、被害者のことばではないのです。私達はあまりにも、被害者の家族の方々をただ「被害者」としてしか見てこなかったのではないか。被害の状況もそれぞれに違い、その思いも違う。

そしてそこから懸命に〈生きよう〉とされている、私達の隣人だったのです。 

今の運動の流れが始まって十余年、ようやく死刑囚に対する被害者(遺族)の存在が、私達の目にはっきりと、見えるようになってきました。死刑囚(加害者)と被害者(遺族)、この両者が共に生きてはじめて、〈死刑廃止〉が真に実を結ぶのだと私は思います。制度上の「廃止」の前にもう一つ、越えねばならない山場を迎えた現在ですが、私達の到達する地点を見失わない限り、何があろうと、今の運動はそこに到達できると確信します。 実り多かった’92年秋から193年へ。更に新たな地平が待っている予感のうちに、時は経ってゆきます。

抜粋以上

 



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