私はここまで、永山の支援から離れた武田さんが、1983~1992年まで、
どんなかんじで死刑廃止活動を頑張られていたのか…いただいた会報資料をさ~っと拝読させてもらいました。
(あ、武田さんの活動が1992年で終わりだって意味じゃないよ。そのあとも継続されてるよ。
でも、2001年で終了されたのではないかな。)
永山側も、自分の元支援者でああった武田さんを叩いている本やビラを出していました。
比較対象として、ブログにきちんと載せるべきなのかもしれませんが、事情があり載せられませんので、表紙の紹介のみ。
【新左翼『救援』の崩壊】~武田和夫と「麦の会」の問題~
私家版で当時販売されていたのだろうと思います。率直に言いますと、永山則夫の方が感情的になって騒いでいる。永山が負けてます。
「反‐武田和夫論」というタイトルをつけなかっただけえらいぞ永山
上の本には、1987年11月24日~1990年1月15日までの文章が載っています。
永山が下獄したのは、1990年5月14日です。
ここで補足入れますが…今と当時、外部交通制限のレベルが違ったんです。
当時は確定死刑囚となり下獄すると、月に2回くらいしか手紙が出せなくなり、
限られた人とたまにしか面会できなかったそうなのです。
現在は、法律が改正され、確定死刑囚でも毎日手紙が出せ、毎日、決められた人と面会できるようになったそうです。
が!
…確定死刑囚全員がそういう境遇ではないそうです。中には、全然、面会させてもらえない死刑囚もいるそうです。
(死刑囚でなくとも、懲役囚でも接見や外部交通を制限されるケースがある。)
法律で定められているはずなのに、人によって外部交通制限がバラバラって言うのも、おかしい…
と、言いたいところですが、
…たぶん、シャバへの影響力が強いとみなされると、法務省から制限がかかるのかもしれない。
私はよくわかりませんが。
話を永山則夫の上の本に戻します。
“武田和夫氏について永山が感情的になって怒っている手紙”を受け取った他死囚人が、
永山に対して諭している様子も、この本から見て取れます。例えば、とある死刑囚は永山氏に対してこう言っています。
「人間仲良くやるのは大変です、だからこそ仲良くやるのです、長いうちにはいろいろあります」
聞いてて、耳が痛くなります… いやほんとに…
その死刑囚の方が、ご健在かどうかはわからないのですが…(いずれ調べようと思いますが)
とにかく、死刑囚の言葉なんですが、すごく印象に残った言葉です。
どこまで自分の意志や考えを相手に訴えてよく、どこを我慢して言わないでおくべきなのか…
…私は、いい年になった今でもわからないんです…
"訴えておかないと自分の人権や生存権が脅かされてしまうから"と、相手に訴えたことによって
相手が不快になってしまうこともあるし…
こっちがわかってほしいと正直に伝えたことが、あっちにとっては、えらい迷惑だったり、
理解してもらえないで相手を怒らせたり、ストレスを与えて終わる場合も多々ある…
なんか、ごちゃごちゃ言いましたが…
とりあえず、本の内容の紹介は、上の1行のみにしておきます。
なぜなら、この本…人様からお借りしているものであり、私の所有物ではないからです。
ではでは。