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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

青春の思い出の筈だが 徳川園:名古屋市

2008-10-03 12:05:36 | 旅の途中で思うこと

2008西へ その22

 整然と区切られた街路に沿って、しっとりとした和風の塀がある。塀に沿っていくと、黒板塀が現れた。



 その先は広場と見事な門が聳えていた。徳川園入り口の黒門である。明治33年(1900年)に完成した尾張徳川家の邸宅の遺構で、総けやき造りの三間薬医門とガイドにあった。



 門を入って正面が徳川美術館、右手が蓬左文庫で、最近内部を繋ぎ両施設を一体化して相互を閲覧できるようになったという。

 

 8月23日、西への旅の終わりに立ち寄ったのが、名古屋市東区にある徳川美術館なのだが、美術館や蓬左文庫・レストランなどをすっぽり包み込むように徳川園がある。黒門を入って左手が入場口になっている。エントランスを入ると樹木の茂った別世界に誘われる。

 

 この地は青春の思い出の場所なのだ。表通りに出て、反対側の細い商店街の道を入ればほんの少し先に、3年間を過ごした母校の高校がある。その頃の徳川園は、うっそうとした森のある丘と、森の中石組みの階段を下りるとそこに庭と池があった?ような、無かったような?うつろな思い出だけなのだが、確かなのは丘の下にテニスコートがあり、そのコートを借りるために通ったことなのだ。もちろん勝手に入っていたから、園への入場料など無かったのであろう。

 最近再整備され、見事な庭園に生まれ変わったと聞いたが、もちろんテニスコートの陰もなく、池の一部になってしまったのであろうか。



 回遊式の庭園のそこかしこに、灯籠を添えた坪庭や、茶室があった。



 舟屋は何を模したのであろうか。池の向こう側入場口の続き池の端には、フレンチのレストランもあった。



 池から離れて丘の裾を巻くと、そこには又別の世界があった。・・・つづく・・・


ランドマークが五重塔 吉備S.A:岡山県

2008-09-02 11:00:36 | 旅の途中で思うこと

2008西へ その8

 20日、思いの外行程がはかどったが、丹波から宿泊地の防府まではまだ400km以上あった。高速道路無くしては到達出来ない。丹波の入母屋屋根のように、一般道を走ると町並みウオッチングしながら旅が楽しめるが、高速道路では、トンネル、切り通しが多く、市街地では防音遮蔽壁で景色鑑賞もままならない上、一時停止も出来ないから運転中では写真撮影も出来ず、どこか味気ない。

 それでも道路公団民営化の後、高速道路上にも変化が現れ、サービスエリア(S.A)の施設が充実してきた。お決まりのレストランとありきたりのおみやげ売り場が、変化している。スナックコーナーを広げ、ホットドック、うどんなど従来の単調な品揃えだけでなく、S.Aによっては中華やどんぶり物など多種多様なファーストフードの集合体とし、早くて種類が多い、そしてセルフとしてサービスのカットによる安値を実現した。おみやげ関係でも施設を拡充したり整備して、物産館として土地土地の特徴を出した地産の物品の販売に力を入れている所もある。一般道からも出入り出来るハイウエー・オアシスなども増えている。

 吉備のS.Aを休憩池点としたが、道路上からも視認できたが国分寺を模した五重塔がランドマークとして聳えていた。



 まだ往路の第一歩であるからおみやげ売り場は避けて、トイレ休憩と足腰の屈伸運動の為とS.A内を散歩した。片隅にレトロな雰囲気の自販機コーナーがあった。昭和30年代風のダイドードリンコ株式会社『復刻堂自販機ブース』ということで、今後各地に展開するようだ。さすが岡山、桃太郎のお供の三匹も片隅にいた。



 高速道路の延伸により車での移動は益々多くなると思われる。各S.A間の集客合戦は、高速道路内で全てを完結したい旅人には、好ましい傾向といえよう。又、“エコ・温暖化”の問題にしても、燃料をまき散らす飛行機と比べ、現在ハイブリッドカー開発などエコ化が進められている自動車は、まんざらでもないと思われる。ちなみに今回の行程、平均してガソリン消費は16km/lであった。次回乗り換えは数年先だが、更に“エコ度”は上がっているだろう。


庭のきれいな旅館でした 皆生温泉:鳥取県

2008-08-08 14:52:36 | 旅の途中で思うこと

 igaigaさんのブログで、今まで行った旅先のリストを掲載していました。6年程の間にかなりの箇所を廻っていましたので、感心してしまいました、それもかなりの遠距離を!

 このブログ「北へ南へ東へ西へ」は文字通り旅の記録ですから、かなりの範囲を網羅しているつもりです。もっともkoba3はigaigaさんの倍くらいの年ですし、生まれてから現在までの記録ですから、多くなって当然です。

 思いを巡らせると、全く足を地面に着けていないのは佐賀県・徳島県(通過)、沖縄県(未達)なのですが、今まで掲載できていないところも東北で一県、関西以西で十県もありました。行った記憶もあり、写真の構図・絵柄も目に浮かぶので、どこかに保存されているはずですが、トント思い付かないのです。「考えることは良いことだ!」と、今後も少しずつ探しだし完成させねば!の心意気!!

 その中の一つ“鳥取県”、砂丘には三度も行っているのですが、ハテ??子供がまだ一人の頃の山陰旅行、京都から日本海沿いを萩まで、そして秋芳洞を巡った昭和47年(1972)夏、出雲大社の前の皆生温泉泊まりがかろうじて判別出来ました。庭がきれいと言うことで選んだ「東光園」、庭の写真ばかりでした。

 

 皆生温泉は島根県との県境かろうじて鳥取県ですが、宿へはいる前に境港から美保関の五本松見物に行っています。ところがここは島根県松江市?いえ美保関町でした。オヤオヤです。水面は中海かと思ったのですが多分、美保神社あたりから美保湾越しに皆生温泉方面を見ているようです。背後の雲に霞む山は大山か蒜山でしょうか。



 写真の順序からいくと翌日、大山寺に行ったようです。建物がないので何処の社寺??



 急な階段だけが写っていて、肝心の本殿?本堂?は見当たりません。初めての子供、三歳児をつれての初めての長旅、被写体は全て愛娘、景色は添え物の時代でした。古き良き時は思い出と写真の中だけに生きています。
 が!我が子供達もかっての思い出からなのか、子連れで全国、否!現代です、2歳と5歳の子連れで外国まで出かけました。曰く、3歳になれば無料でなくなり、6歳になれば一人前の料金がかかると!!我が子ながら、あっぱれ!!!


壮大な境内 でも庭に出られません 永平寺:福井県

2008-07-10 14:16:41 | 旅の途中で思うこと

オリンパスカメラの後日談です。

 急な斜面に渡り廊下があります。庭を挟んで両側にある渡り廊下と、その間を繋ぐ廊下を使って参拝者は庭を眺めたり七堂伽藍を巡り、この廊下を上ったり下りたりしていました。越前の国、曹洞宗大本山永平寺です。



 平成6年(1994)10月、飛騨の古川へ行っていますが、この時は山代温泉でクラス会があったので出かけています。上越新幹線長岡経由で乗り換え信越・北陸本線の特急雷鳥に乗っています。現在は、ほくほく線が開通し越後湯沢乗り換えで、かなり時間の短縮が出来ているようです。

 夕方の会の前にせっかく遠くまで出かけて来たので、予定をしては行きそびれていた永平寺に寄りました。壮大な寺域はさすがでしたが、残念ながら回廊のみで庭に下りることは出来ません。修行僧でしょうか庭の手入れをしていました。そこへ行きたい・・・!!



 この時はオリンパスL-3を持って行っています。渡り廊下から出られないので撮影場所が限られてしまい、このカメラの広角域望遠域が共に足りなかったのです。引けない寄れない、中途半端なフレーミングでした。

 

 沢山の観光客?(参詣者?)をかき分け階段の廊下を行ったり来たり、かなり疲れた記憶が残っています。靴を履いて境内に出て、五代杉と鐘楼も全体が入る訳がありませんでした・・・!



 ズームがあるとはいえ範囲が狭く思うような撮影が出来なかったので、帰京してから広角から望遠、ズームなど手持ちのレンズを有効に使うつもりでカメラ店に行って品定めをした所、オートフォーカスカメラでは手持ちのレンズは使えないことが分かりました。ヤレヤレ・・・!!


合掌造りの公園でした 飛騨の里:高山市

2008-05-17 14:05:41 | 旅の途中で思うこと

 初めての本膳料理を求めて飛騨高山まで行ったのは平成6年(1994)6月でしたが、レポートには“洲さき”の玄関しか掲載出来ませんでした。中の様子も料理も、撮影など思い付かなかったのです。行った先、目的とした風景は抜け目なく撮っていますが、それ以外の花や料理、食事に入ったお店などを写し留めることなどはしていません。ブログの掲載を始めてから構成上欲しいと思っても、ない物はないのです。他人様のブログには、食べた料理やケーキ、店の雰囲気など丹念に集められた写真が掲載されていて、懇切丁寧な解説が付けられています。これからは見習わなければとの思いです。

 州さきの玄関、やや引いたアングルの物をやっと1カットだけ見付けました。



 高山は3度目になりますから、かって訪れた古い町並みや屋台会館の混雑は避けて、翌日は「飛騨の里」を目指しました。この時はまだ白川郷や五箇山には行っていなかったので、移築された合掌造りを見に行ったのです。池を中心に、合掌造りや農村の伝統的建築物が配置されていました。



 さすがに木立の中の合掌造りの建物は、威風堂々場所を得たとの趣でした。



 建物の中のいろりには粗がくべられ、煙が立ち上っていました。むき出しの梁には竹が並べられていましたから、おそらく煤竹作りに利用しているのでしょう。妻のいるお茶の世界では煤竹は色々珍重されていますから、物欲しげでした。さらにこの煙が茅葺き屋根の虫除けにもなることは後に知りましたが、伝統的な建物を維持するのにも、種々な知識や手間が必要な事を痛感しました。
 かって、渋谷や新宿に移設された合掌造りを利用した炉端焼きや田舎料理(どんな料理?)で会食したことがありましたが、いずれもすでに効率の良い高層の無機質なビルに建て替えられています。合掌造りを田舎へ返そうとする運動もありましたが、やはりこうした田園風景の中にあってこそ、維持管理も出来、風景にとけ込むことが出来るのでしょうか。


牧水の滝 羊山公園:埼玉県秩父市

2008-05-14 11:56:09 | 旅の途中で思うこと

GW2008 オマケ

 少し盛りを過ぎ青味が多かったのですが、それでも堪能して芝桜の丘を去りました。5日9時を少し廻った頃でした。せっかく来たのですから、羊山公園の中を駅の方へ回り道です。野原と森と、緑の多い公園です。県立武甲自然公園の中に位置しています。

 

 中央には広大な菖蒲園がありまだ新芽程度ですが、間もなく花が咲き始めれば人波が押し寄せることでしょう。



 菖蒲園の先に、テニスコートが2面ずつ計4面並んでいました。今朝は青空です。グリンサンドのコートですから、夕べの雨でも差し支えなく使えます。ネットが張られたままひっそりとしていました。いつものクラブでは、休日はゲーム1回待ちは当たり前、時には2回待ちまで有ります。全く使われていないのは“モッタイナイ”のです。

 各地のリゾート地に行った時、荒れた使われていないテニスコートをよく見かけるのですが、ブームが去って飽きられて管理されなくなっています。数百万円かけて作っても、補修にも百万単位の費用がかかりますから、ブームが去れば見捨てられてしまいます。ここは秩父市営、住民が住む都市のコートです。しっかり整備されていましたが、早朝から来る市民はいないのでしょうか。公営コートは安いこともあり、東京では抽選のところも多いのですが・・・。

 公園を出て坂を下り始めた所に「牧水の滝」はありました。若山牧水が秩父を旅し、詩や随筆を多く残したことに由来して、歌碑と共に設けられていました。お決まりの池と水車も傍らにあります。もっとも、由来を知らなければただの作られた石組みに流れ落ちる水と、客寄せ水車なのですが、あちこちの田舎町のお決まりになってしまって、何故に定番?等とひねくれないで、客をもてなすほっと一息の休憩場所と考えることにしました。

 

 秩父市街を見下ろす高台ですから、眺望も申し分ありません。



 秩父は火祭りを筆頭に、秩父三十四ヶ所観音霊場巡りやハイキング、長瀞船下りなど観光に事欠きません。魅力のある土地です。西武秩父線が開通してから、電車でのアプローチも便利になりました。それでも多くは来ていませんが、最近では車使用です。ハイキング以外は、数カ所を移動する必要があります。好みにも依りますが、1箇所で1日を過ごすタイプの観光地ではなく、数カ所を巡って楽しみたいのです。そんな時、頻繁に循環するバスなどの手段があれば、電車利用も可能なのですが・・・。

 費用からも、2人以上だと高速道使っても鉄道バスより安く済みます。地球温暖化に逆らう発言で、又いつかの「自分の時代さえ良ければいいのでは悲しいよね」のコメントを頂きそうですが・・・。環境保護と利便性相反する事が多く、旅に出ると考えが揺れ動きます。


佛様に睨まれました 松本明慶佛像彫刻美術館:京都府京都市

2008-04-21 09:49:28 | 旅の途中で思うこと

京都2008・その7

 さて、今回の旅の一番の目的地、此処のまとめが遅くなり、睨まれてしまいました。



 そうです、13日、佛像彫刻に会いに来ました。大佛師松本明慶佛像彫刻美術館です。

 

 松本明慶師(まつもと・みょうけい)の個人美術館で、何時でも開いている訳ではありません。特定の土・日に開館され、会員のみが観覧出来るのです。今回の旅のリーダーが懇意で、早朝に開いて頂きました。大きな展示室が3室あり、それぞれ佛像が展示されていました。もちろん原則撮影禁止ですが、黙認の形で、差し障りのなさそうな所を撮しています。



 経歴を見ると、運慶・快慶の流れをくむ「慶派」の継承者で、京都仏像彫刻家協会会長職にあり、前日の彫刻展でもお会いしています。各地のお寺に佛像を収めていますが、2007年 和歌山・紀三井寺の総金箔十一面千手観音立像大佛(像高十二メートル)を納める作業写真が展示されていました。NHKの番組や、グラフ雑誌などでも取り上げられており、現代の代表的大佛師の一人と、その時初めて知りました。
 女性陣を集め、彫刻することは希な内裏雛を弟子が作ったと解説をするなど、40人以上の弟子を抱える工房の主とは思えないような気さくな方でした。ちらっと横顔をご紹介。



 「みほとけを謹刻することによってのみ、生かされている」と趣意をもたれているので、「魂を込めて彫られるのですか」と質問したところ、「魂を込めるのは僧の仕事、仕事が違います」と明快な答えが返ってきました。
 慈母観音や慈母菩薩など童を大勢彫刻した作品が多くあり和みましたが、今まで佛像の世界とは全く縁がなかったので、どれがどれやら、フラッシュを焚かず自然光の中で撮しましたから、見られるレベルの写真を並べるしかありません。

 

 
 
 いつも妻と二人旅ですから、自ずと行く先の嗜好が限られてしまいます。新たな出会いで、新たな世界を垣間見ました。仏像彫刻に大勢の人が修行に励み切磋琢磨する世界を築いている等、考えたこともありませんでした。知らない世界はまだまだ多くあります。もっとも、この世界にのめり込むことはなさそうですが・・・合掌。


明治の時代の創建でした 平安神宮:京都府京都市

2008-04-19 10:58:11 | 旅の途中で思うこと

京都2008・その6

 朱塗りの橋を渡り、大鳥居をくぐります。



 山門を抜けると、広い境内の彼方に大極殿(外拝殿)が聳えています。



 4月12日佛像彫刻展の後、隣接する平安神宮にやってきました。狭いみやこめっせの展示場から、やや薄雲がかかっているとはいえ大空の下、気分は清々しいのです。あちこち写真を撮り廻り、ガイド本やネットで名前の分からない建物を確認していたら、意外なことを見付けました。恥ずかしながら、全く知らなかったのです。
 「平安神宮」というからは、平安時代からの歴史を持つ神社と思いこんでいたのです。ところが由来を見ると、『平安神宮は、1895年に平安遷都1100年を記念して建てられたもので、博覧会が終わった後に、桓武天皇と孝明天皇をまつる神社として残された』とあり、明治時代の創建なのでした。『平安京の正庁、朝堂院を模している』ともあり、平安時代の庭園の特色を取り入れて作庭された神苑も合わせ、平安を思い起こさせてくれるものと、改めて認識しました。“平安”の文字に、勝手な先入観を持ってしまっていました。
 もっとも歴史に関係なく平安時代が感じられればよく、蒼龍楼の彼方から覗く桜、



 大極殿を彩り、神苑の入場門を覆う程に咲き誇っていて、来る者を誘っていました。そして吸い込まれるように神苑に入り、作日まで掲載の神苑の三つのレポートに繋がります。

 


荘厳な広い境内でした 橿原神宮:奈良県橿原市

2008-04-10 16:08:49 | 旅の途中で思うこと

GWの旅の記録 パート2
 
 写真を整理していると矢張り旅行先には社寺が多いようです。いつもの旅行では、高速利用でも1日走行距離は、せいぜい700キロ程が限度です。通常は500キロに留めています。そのため、関西圏へは希にしか行っていません。それでも平成16年(2004)のGW、大阪に住む長女家族が、千里から堺に転居したので訪ねました。600キロを超す距離です。
 翌日、来たついでと高野山まで走り、その後橿原神宮で娘夫婦・孫と落ち合いました。

 

 境内は広々として、鳥居をくぐり最初に目にしたのが南神門でした。素木建の八脚門で屋根は切妻造の桧皮葺と、解説にありました。



 南神門の先には玉砂利を敷き詰めた広々とした空間がありました。参内しない場合はこの外拝殿でのお参りです。 昭和の建築と聞きましたが、幽玄な趣があります。



 周囲を廻廊に囲まれた広い外院斎庭を隔てて、彼方に内拝殿が有ります。写真は見つかりませんが、廻廊の脇に庭の一部が覗いていました。



 今まで沢山の寺社を巡ってきましたが、拝殿前の空間が、これほど広い記憶も多くはありません。観光の対象となる古刹や神宮は見事に維持され、伝統と文化の継承に貢献しています。一方、町の小さなお宮やお寺は、せっかくの境内が駐車場として使用されたり、結婚式場などの無粋な建物に占拠されて、訪れても居場所のない状態が多くあります。住職不在のお寺も数多く見ました。地方の過疎化に加え、都心でも地付きの住民の減少で、檀家氏子だけで維持するのも、苦労の多い時代になったのでしょうか。


雪解け水の流れでした 清津川:新潟県中里村(十日町市)

2008-04-05 13:09:07 | 旅の途中で思うこと

GWの旅の記録 パート2

 川は上流から下流に流れていく時、所によって表情を変えます。三国峠を新潟側へ越すと、谷川連峰を源に持つ魚野川が、国道17号に沿って流れています。土樽で多くの沢を集めて魚野川となり、越後川口で信濃川に流れ込むまで、もっとも美味しい米が育つと言われる南魚沼を蕩々と流れます。山塊と山塊に挟まれたゆったりとした流れと穏やかな日だまりが、広い沃地を生み、うまい米の所以と言われています。この川は、殆ど表情を変ません。

 対照的に、魚沼スカイラインのある山塊を挟んで、中里村(現十日町市)を流れる苗場山を源とする清津川があります。上流には二居ダムや、支流のカッサ川のカッサ堰堤田代湖等のダムを持つ程の高度差があり、速い流れを持っています。中流には深い渓谷、柱状節理で名勝となっている清津峡があります。そして山を出た所で瀬戸を作り、さらに山間をやや流れを弱め信濃川へ流れ込みます。信濃川に合流した辺り上流の津南にかけては、日本有数の河岸段丘があります。
 この色々な表情を持つ清津川が好きで、上流下流と何度も訪れています。山間にあるので、GWと言えども雪が残っていることがあります。平成9年(1997)の前後と思えるのですが、記録が定かでありません。柱状節理の清津峡より下流、石打から十二峠を越え津南への国道沿いに、瀬戸渓谷が有り、入り口にある朱色鮮やかな橋が目印です。



 川沿いに遊歩道も設けられているはずですが、現在は土砂崩れで、4年程通行不能になっていると聞いています。確かに川に崖が迫り、あちこちから雪解け水があふれ出ていました。土止めのコンクリートの肌や、重なる堰が、険しさを実感させます。



 雪解け水を集めた春の川は、1年で一番の水量があり、時として川辺の崖を崩落させます。



 追い打ちをかけるように、中越地震や中越沖地震が重なれば、数年に及ぶ道路の不通が起こっても不思議はありません。道路特定財源の暫定税率の是非が、連日マスコミを賑やかしています。都会の便利な生活を享受していると、地方の切実さは分かりません。矢張り、道路は命なのです。“特定”の名のもと中央で地方を支配する、“暫定”というご都合主義、地元のことは地元に任せる、当然のことが何故???庶民には、何がなんだかナ~~~~!