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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

今も変わらぬ噴水です 和田倉噴水公園・皇居前:千代田区

2008-02-18 09:39:30 | 思いでの写真館

 昭和36年(1961)今上天皇のご成婚を記念して、皇居前の和田倉に噴水が作られ、周辺も公園として整備されたとの報道で、早速出かけました。10月でした。高さ8.5mに吹き上げる大噴水、皇居の和田倉門をバックに見事でした。話題になっていましたから、見物客も極めて大勢居ました。

 

 現皇太子の成婚を記念して1995年に整備されたと聞きましたが、車で時々前を通りますが、しげしげと眺めた訳ではないので違いは分かりません。町並みの変化を見たくて探した写真ですが、絵柄としてビルをバックでは映えなかったのでしょう、皇居を背景にした写真ばかりでした。



 バックのパレスホテルは全く変わっていないので、町の変遷の参考にはなりません。昼休みだったのでしょうか、ワイシャツ姿のビジネスマンや、制服姿のBG(当時はOLの呼び名の前でした)が大勢居ました。大手町や丸の内のこの姿は、今も昔も変わりません。



 お堀の白鳥、当時も今も健在です。



 余談ですが、バックのパレスホテルでのエピソード(宣伝?)を一つ。娘の結婚式で、娘夫婦が絶対にとしたのが、メインディッシュに“ロースト・ビーフ”でした。確かに「オイシ~モット~」と感じました。今まで数多くの結婚式に出席してきて、西洋料理で珍重される“ロースト・ビーフ”、どうしてこれが?と言うレベルしか経験していなかったのです。本当に美味しいと感じたのは、初めてでした。矢張り高価なメニューですから、日常的にとはいかないのですが・・・。
 長年旅を続けてきて最近では、品数を競っている旅館の食事に辟易しています。もちろん、料理を自慢にする高級旅館は別格でしょうが、度々泊まれる身分でもありませんし、その一泊で何回も旅が出来るなら、そちらを選びます。旅館でも、ホテルのように食事が選べる所も出てきています。そのあたりに、低迷を続けている観光旅館の出口があると思われますが・・・。


昔の志賀高原丸池です :長野県山ノ内町

2008-02-15 18:00:20 | 思いでの写真館

 ALWAYS効果なのでしょうか、昭和30年代の町、風物、音楽などが注目されています。koba3にとっては、中・高・大と青春真っ盛りの時代でした。マンボズボンにリーゼントを気取ったり、名曲喫茶に始まり、ジャズ喫茶でスイングやモダンジャズに浸った時代でした。ベニーグッドマンにアートブレーキー、後にレコードを買い集めて今でも棚に眠っていますが、当時は高価なものでそんなには買えませんし、プレヤー等持っていませんでした。聞きたくなったら、レコード喫茶で何時間も粘ってリクエストしていました。
 当時の町並みの写真、意外に残っていません。平凡な風俗などは、貴重なフィルムの対象にはしなかったようです。偶然、ふる里の半田の町並みがありましたが・・・。スポーツ、旅などに残っているだけです。
 昭和40年の八方尾根に続いて、昭和36年(1961)3月の志賀高原のスキー模様が出てきました。リーゼント髪にスレンダーのズボン、モノクロですがトーンから見ると黒か紺の衣装です。



 色ものと言ってもカーキ色がせいぜいで、40年代に入って化繊の赤や緑のカラフルなキルディングが現れますが、当時はサージのズボンが主流でした。それでも高価なエラスティックの素材も現れています。下の方にロッジが見えていますが、木造の山小屋です。今では、この造りは見る事もないでしょう。



 ここは、丸池のようです。2枚の写真の片隅に道路が写っています。この時代、冬の除雪は此処までで、すぐ上の蓮池で折り返しでしたから。



 滑っている人より、立ち止まっている人の方が目立ちます。何しろまだ1日券でなく回数券ですから、時々止まって少し登って、お互い滑りを確認して等、リフト券の節約に努めていました。今は高速運転で空いていて、短時間で充分楽しめます。それでもあの時代、行き帰り夜行列車で満員でも、仲間と青春を謳歌した思い出は、何物にも代え難い事でした。


白銀の世界でした 八方尾根:長野県白馬村

2008-02-02 15:29:09 | 思いでの写真館

 50年以上欠かさず行っている事・・正確には 大学受験の年を除いて・・それは、スキーです。近年、年数日の滑走になってしまいましたが、30日以上滑った年もありました。昨年の冬も、今年正月にも写真を纏めましたが、スケートに続いて古い写真を探しましたが、意外に風景がありません。若い頃は、仲間との記念写真か、滑走中の技術研究を狙った部分写真が主でした。家庭を持ってからは、もっぱら子供を追いかけています。その中にも、情景描写があったはずですが、アルバムに貼った写真だけが残されていました。
 僅かに1本の夏の海水浴のネガの終わりに2枚の写真がありました。昭和40年(1965)年3月、卒業の年、仲間最後のスキー行きだったのでしょう。八方尾根兎平の中間点八方山荘あたりです。



 夏の八方尾根はこちらです。
 白銀の世界はモノトーンの世界、白黒写真で充分表現出来ています。おまけに映画“黒い稲妻”の余波はまだまだ残っていて、黒の衣装が多い時代でしたから・・・。メンバーはいつも通りでしたから、20~30人連れだって行っているはずで、これが誰かは分かりません。



 家族が5人になるまでは志賀高原が中心で、万座、野沢等あちこちに行きました。折しもスキーブームで、宿の予約も取りにくくなり、子供3人分の荷物を抱えての満員の列車移動に限界を感じるようになりました。移動を車に切り替えて、高速道路もまだ未整備の時でしたから、比較的近く又暖かく、町の近くにスキー場のある上越、湯沢中心に拠点を決めました。
 越後中里の奥に、会員制のスキー場がオープンするのを友人が聞きつけて、メンバーになりました。ほんとに小さくて、アットホームな雰囲気でした。子供達のスキーは此処で育ちましたが、バブルの崩壊で行き詰まり倒産して会員制でなくなり、今は別の会社が運営しています。今でも、シーズンはじめの慣らし運転には、訪れています。三栄ルーデンス湯沢スキー場の名で営業していますが、子供連れにはお勧めです、何しろ、下からでも上からでも、何処に連れが滑っているか分かるくらいの見通しです。


氷の世界もありました 榛名湖&富士山:群馬県高崎市・山梨県河口湖町

2008-01-31 12:48:45 | 思いでの写真館

 今朝のニュースで、諏訪湖の御神渡りが報道されていました。氷が張りつめたのです。近年、温暖化の影響でしょうか、湖や滝が全面的に凍る事が少なくなっていましたから、今年は寒さが昔に戻ったのでしょう。
 湖の結氷で思い出されたのは、氷上でのスケートです。天然の氷で滑るのは初めてでした。昭和35年(1961)頃の榛名湖です。



 花の季節の榛名湖はこちら
 冬の間は、旅行やトレッキングはお休みでスキーが主でしたが、学生時代はスケートも盛んでした。何しろ校舎は水道橋にあります。「後楽園スケート場」がホームで、ロッカーには、スケート靴が常時入っていました。休講があれば、間を縫って滑りに行きました。スキーは冬しかできませんが、スケートは年中可能ですから。
 学生は全国から来ていましたから、北海道や雪国からも多数来ていて、スキーやスケートは、それらの学生が中心になり、連れだって出かけていました。インドアだけでは飽きたらず、夜行バスを使って、集団であちこち天然リンクへ出かけました。昭和36年(1961)、富士五湖国際スケートセンターが出来たので、早速出かけています。現在の富士急ハイランドですが、最初はスケート場と僅かな遊戯施設だけでした。



 インドアリンクと同様パイピングがされ、人工の氷で気温が高くても滑る事が出来ます。それでも高度のある所ですから、充分な寒さがあり、滑りは快調でした。



 飲み会やコンパなどは、年に1・2度程度で、集団で野外に出る事が多かったように記憶しています。今のように多種多様な娯楽はなく、スポーツ系の遊びが主体だったようです。しかも、しつこく追い求めました。
 先日息子が、スノーボードを新調しようと神田に行ったところ、店の数が激減していて、探すのに苦労したと嘆いていました。スキーに続いて、ボードよおまえもか!!人の気持ちは移ろい易いとはいえ、余りの変化にはあきれ気味です。今まで全くのマイナーなハンドボールに行列が出来るなど、“ミーハー”“アサハカ”とも言えるのですが、これを機会に、関心が持たれたのは、それはそれでヨシとすべしと、思い直しました。


壮大でした 宮島・厳島神社:広島県廿日市市

2008-01-26 09:37:36 | 思いでの写真館

 荘厳な回廊で無心に遊ぶ子供、立ち並ぶ灯籠の傍らに佇む子供、写真の題材に子供を配すると、風景と一体となり“絵”になります。

 

 空間を切り取る事が、写真の一つの表現方法です。“トモさん”のブログでは、アートとして“絵”になる見事な作品が掲載されています。切り取っていても、全体を物語っている作品の数々があります。
 かって、真を写すには、色よりも写真の表情だ等と粋がって、モノクロ写真を中心としていました。モノクロ写真では、色のない分、構図とコントラストが重要になります。旅行の折りに、記録とは違う鑑賞となる構図を狙っての写真も撮っていました。同じ五重塔でも、扱いにより違った印象を受けます。しかし、切り取りすぎると“絵”にはなっても、物語る事は出来ません。これだけの写真では、旅を語るのには不十分です。

 

 写真の評価は好みの問題ですから、自己満足出来れば良しとしています。旅と山のブログを始めて、ガイド本にはしたくはないのですが、ある程度の状況説明が必要になり、全体像を捕らえた写真が中心になりました。“絵”は時々カットに使う程度です。
 写真は、厳島神社です。「海」のシリーズで安芸の宮島を掲載しましたが、海に関連する部分だけでした。宮島は予想より大きな島で、山もあり、生活のある町もありました。昭和35年(1960)の撮影です。その前年にはケーブルが架かっていたはずですが、乗った記憶はありません。それでも時間がない中で高みに登って全体を俯瞰していました。厳島神社の壮大さが分かります。



 紀行を中心とした場合、全体像を表す事が必要ですが、それだけでは観光案内書で用が足りてしまいます。その場所にいた時の感情表現が出来れば一番ですが、文章での表現の上に、写真上に“その場の感性”を表せたらとは思いつつも、未完のまま過ぎています。


国鉄には“スト”がありました 奥志賀スキー場:長野県山ノ内町

2007-12-28 14:00:58 | 思いでの写真館

 今日で仕事仕舞いとなりました。例年ですと30日まで仕事をして、新年も4日には始めていたのですが、曜日を見ると中途半端になるので、思い切って7日スタートとしました。よく、「自営業は、勝手に休めて良いですね~」と言われます。返事します「1年中休んでも、文句ないでしょう~、その代わりあごが干上がります!」と。
 年賀状を書き上げて、過去の年賀状の題材にした写真を繰っていたら、出てきました。昭和48年(1973)3月、オープンしたばかりの奥志賀高原スキー場のホテル前のゲレンデです。翌年の仕事用の賀状の背景に使っています。



 友人と2家族で行っています。志村さん、うたのすけさん、やまちゃんと姿を現したのですが、まだ自信がありませんので、35年前の倒れている我が身でお茶を濁します。この写真の話題は、スキー旅行の帰りにありました。
 帰り支度をして、ホテルをチェックアウトしていると、フロントが信越線が止まっていると教えてくれました。幼児2人と年寄り1人、そして2組の夫婦、もう1泊は出来ません。取り敢えずタクシーで長野駅に向かいました。矢張り列車は動いていませんでした。「上尾騒動」の結果でした。
 その頃昭和40年代は、3月になると、賃上げを巡って労使交渉があり、ストも頻繁に打たれていました。特に、私鉄国鉄を問わず、交通機関は利用者への直接影響が強いため効果的なのか、毎年あったように記憶しています。「上尾騒動」はスト中の遅延や運休に腹を立てた一部の乗客が暴徒化して、上尾駅で列車の窓を割るなどの破壊をしたと聞いています。
 その頃の国鉄は、全くのお役所仕事で、駅員に聞いても、現状や回復の見込みなど、全く答えられません。赤線入りの帽子(多分助役さん)をやっと捕まえたら、「○番線の特急列車だけ、何とか運行させるつもり」との事、もちろん放送などありませんでした。列車に乗り込むと、すでに僅かですが乗客が乗っていました。
 それからかなりの時間が経ってから出発し、走り出せば他に列車はいないので高崎まで順調でしたが、そこでストップです。乗務員が降りていくのが見えました。機関区が違うのでと車掌さんが教えてくれました。1~2時間経った頃、上越線のホームに各駅停車の列車が入ってきました。数名の駅員が運転手を取り囲み、こちらの列車へ誘導してきました。運転手を拉致し、優等列車の特急を優先させたのでした。
 日にちが変わって、やっと上野駅にたどり着きました。それだけの話ですが、その頃の労働組合の覇気、団結心は、不景気の一言で消滅してしまったようですが、それで良かったのでしょうか・・・。
 


白黒で撮った海 伊豆:静岡県下田市

2007-12-20 17:20:30 | 思いでの写真館

海 その15
 かってはカラー写真は高価で手の届く所になく、モノクロが普通でした。昭和40年代になって、画質も上がり価格もたまに使える範囲に入ってきました。それでも最近までモノクロ写真にこだわっていました。「色に惑わされることなく、被写体の真実を捕らえる」がその理由付けでした。友人のプロの写真家は、今でもモノクロにこだわり「シーガル倶楽部」を主宰していますが、白黒写真の魅力は捨て難いものがあります。
 昭和42年10月、転職したばかりの職場の慰安旅行で伊豆へ行った時の風景です。自家用車(当時は、車持ちがまだ少なく、羨望を込めて呼んでいた?)数台に分乗して連れて行かれたので、場所が特定出来ませんが、下田の爪木崎、宇佐見、吉佐美辺りの国道から細い道で逸れてたどり着いた海岸としか思いつきません。
 
白黒写真への拘りは、先ず躍動感

   

 そして質感



 カラーに負けないためには、光線の扱いにつきると信じています。



 それでも旅行写真では、被写体の説明が必要ですが、色がないので特徴を図柄だけで出さなければなりません。当時、まだ富裕階級の特権だった別荘ですが、職場のボスは海際に手に入れようと、下見のためにこの場所に来たようでした。しかし、この写真では、質感は出せても、被写体の高級感までは表せなかったようです。



 現在は、モノクロから遠ざかりつつあります。モノクロの現像所も少なくなり、細かい注文を付けても焼き上げてくれていた個人ラボも、老齢により廃業してしまいました。しばらくは、機材を買い求め自身で引き伸ばしをしていましたが、年に勝てなく、狭く暗い暗室内の長時間の作業が苦痛になり、カラー写真の軍門に下る事にしました。
 この先、デジタルカメラの世界に入れば、暗室作業なく引き延ばせるので、白黒の世界に舞い戻れる???いえ、全紙版のプリンターなど、とても手が出ません。


海 いえ湖です 池田湖:鹿児島県指宿市

2007-12-13 15:50:43 | 思いでの写真館

海 その12:九州の海Ⅳ
 九州の最南端は佐多岬ですが、大隅半島にあります。対岸の薩摩半島の最南端は、長崎鼻になります。佐多岬からは遙か海の向こうでしたが、そこ長崎鼻からは開聞岳が間近に迫っていました。



 昭和39年(1964)8月、南九州を旅していた時の風景ですが、約10年後、昭和50年(1975)年9月、同窓会ご一行様で再度訪れた時には、山田湖を訪れていました。海ではありませんが、湖からの開聞岳の優美な姿は、一見に値します。



 写真で見ると、モーターボートでクルーズしていますが、これも記憶がよみがえりません!!



 池田湖と言えば、大ウナギで知られていましたが、後にイッシー騒動がありました。ご存じネッシーの池田湖版です。大ウナギを生け簀で見せたり、食事に供したりしていましたが、レストハウスのホームページに掲載されている建物は、30年前と同じでした。



 上の写真が現在、下が30年前です。この間、大きな開発もなく静かな湖畔を保っていられたのは、大都会から遙かに離れていたことが幸いしていたのでしょうか。無理な開発をして、無惨な姿をさらしている観光地、施設が各地にありますが・・・。


夢の中でした 九十九島:長崎県佐世保市

2007-12-12 17:18:51 | 思いでの写真館

海 その11:九州の海Ⅲ
 眼下に広がっているのは、佐世保港です。



 貿易港であると同時に、米軍の基地であり、自衛隊の施設もあります。まだ幼かったのでその頃の事は解りませんが、戦中にこの場所で写真など撮っていたら怪しまれて憲兵に拘束されていたでしょう。海軍が拠点に使う程の港、上から見ると素人でも良港なのが解りました。



 九州の旅、佐多岬へ行った時ですから、昭和39年(1964)8月になります。九十九島を見たくて、夜行列車でやって来ました。そこまでは確かです。その先が、ぷっつりと途絶えています。おそらく当時は在来線の時代ですから、夜行急行「雲仙」の一部に佐世保行きが連結されており、直行したのだと思うのですが、確かではありません。
 志村さんや、うたのすけさんの様に、日記やメモを取る習いは、全くありませんでした。なぜ?カナ釘流、人様には見せられない程で、字を書く事が苦痛だったのでした。今でもですが・・・。これだけ山行きや旅をしていても、行程表はおろか、メモすら残っていません。唯一、フィルムファイルに記されている日付と撮影場所と、かすかに残る記憶だけが頼りです。俯瞰の写真の撮影場所も、調べてみると弓張岳の展望台らしいのですが、登った事すら憶えていません。
 九十九島から先は鮮明です。人吉に泊まり、球磨川を半日眺め、宮崎、佐多岬へと繋がっていきます。なのに、九十九島の遊覧船に乗りたくてやって来たのに、撮った写真を見ても、何も印象が残っていないのです。乗っているのは、確かなのですが・・・!!



 小さな島が次から次へ現れます。この景色が見たかったのですが、写真で確認しても、風景がよみがえってきません。



 最近物の置き忘れが多くなってきました。これから先、記憶力の減退は目に見えています。最近の事は忘れても、昔の事が思い出せる内は救われます。何も思い出せない時が来たら・・・考えない事にしましょう!!?


幸い霧はありませんでした 襟裳岬:北海道えりも町

2007-12-06 16:42:36 | 思いでの写真館

海 その9
 【海】、その1九州から始め、北海道、途中寄り道して九州と巡り、再び北海道へと戻りました。矢張り東京から遠い土地は、最近行く事が少なくなりました。同じ海ですが、どこかが違うのですが、言葉では現せません。色と雰囲気で区別をと言っても、昭和35年(1960)8月、この頃貧乏学生にはカラーフィルムは高嶺の花ですから、モノクロ写真しか有りません。前回の北海道の続きのワンカットです。不明のネガやっと見付けました。霧で名だたる襟裳岬です。



 この日は幸い晴れてよく見えました。北海道旅行では定番の場所でしたが、1974年森進一が歌った「襟裳岬」がヒットして、さらに知名度が上がりました。若かった同行4名、撮影の関係で一人は後ろ向きで追加、当時の面影はないので、素顔で登場頂きました。

 

 この時は、上野から朝、急行「奥入瀬」で青森へ向かいましたが、夜中に青函連絡船に乗り込み、翌朝早く函館に着きました。翌日1日有効に使え、旅行としては、効率の良い運びなのでした。急行「奥入瀬」は、常磐線回りで準急に近い季節列車で、他の急行より2時間余り所要時間がかかりました。そのため、混雑が緩かったので、選択しました。それでも、1時間前にホームに並び、やっと座席を確保しています。それほど、夏の東北、北海道に向かう旅行者は多かったのです。
 夜行の青函連絡船は、「奥入瀬」始め、東北線回り、日本海回りのお客を詰め込み満員状態、畳広間に座るのが精一杯、横になどなれませんでした。この頃から北海道を蟹族が闊歩する時代になりました。

 【蟹族】:大きなキスリング(登山用のズックで作ったリュックサック)に荷物を詰め込み、黄色くて横幅があるので、狭い3等車の通路を横向きに移動したので、この名が付きました。なぜか、北海道旅行が多かったのです。

 宿泊はユースホステルを利用しましたが、公営は各地に立てられ始めた頃で、半分以上が民営契約でしたが、大広間に雑魚寝の単なる安宿の集客でした。あのままの繁盛状態が続いていたら、今頃国鉄のローカル線も、北海道経済も破綻することなく、隆盛を誇っていたのでしょう。時代の変化は、誰も予測出来なかったのでしょうか?
 時代は変わっても、今もこの景色は変わっていないでしょう?・この時以来行ってないから分かりませんが・・・。