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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

石段の数は? 金刀比羅宮:香川県琴平

2008-12-18 15:05:04 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その2

 昭和44年1月金比羅さん、786段あるという石段を登り切って、御本宮に辿り着いた。



 大きな神社の常として脇に多数のお社が付き添っているので、どれがどれやらとなるが、本宮脇の高台(展望台)の画像が続いていたので、間違いはなさそうだ。

       

 ここから目の前に広がる展望にうっとりしていると、登ってきた石段の苦労など吹き飛んでしまう。・・・ありきたりの表現で、どのガイドにも出てくるが・・・階段を上っているとつぶやく声があちこちから聞こえてくる〈きゅうじゅうきゅう・ひゃ~く・ひゃ~くいち・・・〉数を数えて上っている。俗人の最たるものの我が夫婦、もちろん数えながら上っていたが、いつしか違う数をつぶやいていて、そのうちそれもなくなった。ついにアキラメタ!

 ここから大半の参拝客は、頂上に居並ぶお社や絵馬殿、神楽殿など拝観して下りに掛かるのだが、 山大好きなこの夫婦行き着くところまで行かねば気が済まない。多少の人影はあったが、参詣客のまばらな奥社への583段あるという階段へ向かった。



 お社の写真、奥社(厳魂神社)であろうと確認のためweb上で照合してみたが、お社の姿形は間違いないが、周りの雰囲気がどことなく一致しない。これも40年の歳月のなせる技か!



 四国内五泊の旅だったので、ゆっくりとした行程を組んでいた。この後行った善通寺を含め、ほぼ一日を費やしていた。本宮周りを回遊して下向道(帰路)へ向かった。上りに使った本宮への道御前四段坂の脇に、下り専門の石段があった。確かに上ってくる人はいない。



 40年前の写真であっても、神社や自然の風景には何ら変わりもなく、区別も出来ない。何気なく見過ごしてしまうが、風俗、着衣に多少の時代を感じることが出来る。和装の婦人が多く、現在ではお正月の神社ですらまれにしか見ることのない風景になってしまっている。koba3も、流行のトレンチコートで決めていたようだ。


格式の宿は今? 虎屋旅館:香川県琴平

2008-12-17 14:26:41 | 思いでの写真館

1969四国の旅:その1

 どっしりとした構えの門、奥には風格のある玄関がかいま見える。讃岐の金比羅さんの門前にあった(!)旅館虎屋の前で撮っていた。



 “北へ南へ東へ西へ”と全国を巡ってきて、足を地に着けていなかった福岡と佐賀もこの夏踏破して、掲載出来ていないのは、岩手県・大分県・熊本県・沖縄県、そして四国4県のみとなった。沖縄県と徳島県は足を踏み入れていないのでいずれ訪れるとして、その他は画像がある?いやあるはずだ!時期を見て掲載!?!??・・したい!

 冬の旅は数少いのだが、一月の長旅に唯一四国の旅があった。しかし、40年前、しかも新婚旅行での旅ただ一度しかない。今の妻(もっとも、今までにkoba3を拾ってくれたただ一人のひと(女)だが)との初めての旅、当然いつも写真の中央に新妻がいる。風景のみの画像は僅かしかない。“のろけ”のようで今まで除外していたが、旅を語るのに四国は欠かせないし、当分行かれる余裕もないので取り上げてみた。若き日の二人だから今の姿と重ねるのは難しいので、画面を壊さず本人の怒りに触れない程度の修正に留めた。(自慢ではない為念)

 冒頭の虎屋、現在の姿はと思いweb上で検索したら、とんでもないことになっていた。建物は年代物のまま保存されているが、本業の旅館は幕を下ろして、副業で始めたそば屋が栄え、名をはせていた。webから借りてきた映像ではあるが・・・。

 独身時代、国民宿舎や駅前旅館の木賃宿を定宿としていたので「旅館・ホテル」には疎く、新婚旅行であるからそれなりの旅館をと、大手旅行代理店の「日本交通公社」に選定を依頼したが、「虎屋」だけは、天皇の宿・木造の磨き抜かれた風情をガイドで読んで指定した。もっともこの日、宿泊客が少なく全館の暖房は切られており、部屋に石油ストーブが運ばれてきた。これらの客対応が幕を下ろした原因とは思えないが・・・。

 虎屋を出て、金比羅さんの785段の石段を前に、さあ出陣の時!



 紙焼きはアルバムにしっかり整理してあり、スキャン出来ないのでネガを一部だが探し出したが、予想通り退色が激しく修正のしようがない。カラーだからセピア色ではないが、おもいでの写真集としてシリーズとしてみた。元新妻と若き日のkoba3も随所に現れるが、乞御免!


暖房は石油ストーブと炬燵でした 続・塩原温泉:栃木県

2008-12-06 11:13:06 | 思いでの写真館

 昭和37年(1962)年12月、塩原旅行の宿泊旅館は、現在の明賀屋本館の場所と分かりました。朝の光がまぶしい宿の窓外の風景に、隣の旅館「柏屋」が写っていました。ここは、塩の湯でした。



 フルサイズのネガの他見つかったもう一本のネガの中にありました。ハーフサイズカメラの「オリンパスペン」で撮影したのでしょう、枚数が多く撮れる上に準広角レンズが付いていますから、同行者のスナップ中心に撮していました。
 写真の中から思わぬ時代考証が出来ました。ホテル明賀屋といえば塩原でも老舗で上位に入ります。食卓の前に赤々と石油ストーブが焚かれていました。



 当時としては、むしろ先端を行っていたのではないでしょうか。形から見ると一番人気の“アラジン”と思われますが、石油ストーブは使用したことがないので、確定出来ません。
 全館冷暖房の現在とは違って、客室はもちろんどてらに炬燵です。傍らには、火鉢が置かれ、やかんにお湯がたぎっていました。川沿いに建つ旅館は、三層とも四層とも見えますが、サッシの状態からは木造と思えます。

 

 この旅行、参加者は卒業したての先輩一人を除き全員学生でしたが、記念写真を見ると男性はネクタイスーツ姿が殆どでした。今なら温泉旅行の若者、ジーパン・ブルゾン、ダウンのコートが当たり前です。野暮な記念写真は割愛しますが、うら若きマドンナのポートレートで、考証してみました。


 ご存知?真知子巻きのストールです。『君の名は』が、テレビ・映画で話題になっていた頃です。そしてオーバーコートを羽織っていました。背景の旅館の待合所の看板は、右からになっています。タクシーは車体の一部しか写っていないので車名は分かりませんが、“時代物”といえましょう。



 撮影の記録がないので、歩いたコースや見物箇所が不明でしたが、最後の方にあった一枚の写真で、すべてが分かりました。この小屋、野天風呂かな?と考えましたが、雰囲気が違います。web上でも、写真から名称を探すのは、やっかいでした。無くなってしまっている可能性もあります。そして、古い旅行ガイドでやっと見つけました。「小太郎ヶ渕茶屋」でした!!!



 シーズンオフのこの時のこの時間、一階の茶店が雨戸で閉ざされていたようで、茶店とは判断出来なかったのでした。結果、前回掲載の川の流れは“小太郎ヶ渕”ということで、森の小道は、塩の湯から小太郎ヶ渕までの遊歩道であろうと想像出来ました。

 旅の記憶は比較的確実にインプットされているつもりでしたが、今回の塩原は、写真を見てもなかなか思い出せなく、やっと概略が判別出来ました。それでも、出発から帰着までの行程は、判然としません。ネガのみの保存ですから、プリントに仕立てて、じっくりと思い出す努力をして見なければ!・・・これも又、呆け防止のため!


冬枯れにはモノクロームが似合います 塩原温泉:栃木県

2008-12-04 12:45:19 | 思いでの写真館

 12月の旅、スキー以外は殆どしないのですが、誘われて団体グループでの旅はあったようです。1962年ですから昭和37年、今から46年前の12月も終わりの頃になります。演劇部の公演が終わって、慰労会を兼ねて塩原温泉へ行っています。箒川か又はその支流でしょうか、随分歩き回っているのですが、殆ど記憶がありません。



 幹事が企画して、ついて行っただけの旅は、細かい記憶は残っていません。ホテル明賀屋のタオルが手摺りに掛かっていますが、地元の顔の部員が手配して、繁華な中心部をさけた塩の湯あたりに泊まったはずですから、現在の「明賀屋本館」なのかと想像しています。



 周辺の森の中を歩き回ったり、寒い中水遊びをしたり、合唱したり、青春真っ盛りの思い出が詰まっています。



 46年前ともなれば、仲間以外は本人の現在の姿を連想することは出来ませんから、修正なしで心おきなく掲載出来ます。

 フィルム続きにその時の舞台写真も沢山保存されていました。演目は、森本薫作「華々しき一族」於・千代田公会堂でした。



 すでに区役所に隣接して建てられていた建物はないはずですが、当時、自治体の公会堂は、財政に余裕の無かった学生のクラブ活動には、設備や内装はお粗末でしたが、格好の活動場所でした。現在では、多くは最新の設備と収容力のあるホールに立て替えられたものが多く、貧乏学生には、手が届きにくくなっているようです。千代田公会堂殺風景なアプローチでしたが、前後数回にわたって利用していました。やや多めな1000名以上の収容力でしたので、毎回がらがらな感じでその後小振りの会場を探しています。



石油高騰ですが畑の中の櫓は油田でした :秋田県

2008-07-19 17:00:19 | 思いでの写真館

 原油価格の高騰からガソリンが日に日に値上がりしていると聞いてはいましたが、1ヶ月ぶりに給油してびっくりです。毎月旅に出る訳でもなく、たまの休日荷物運びにしか車は使いませんので、給油は月1くらいです。前回より2千円も多く支払いました。これでは日常車の必要な立場では堪えることでしょう。
 石油の話題で思い出した写真がありました。昭和35年(1960)夏、北海道旅行(こちらこちら)の帰り十和田湖を巡って新潟へ向かっていた奥羽本線秋田駅近くの車窓からの眺めです。



 畑の中に立っている櫓は何か?中学校の教科書に出ていた秋田の油田に違いないと意見が一致して、早速途中下車しています。秋田駅かその前の駅ですが、記憶にありません。長旅の帰路ですから資金に余裕はありませんから、当然歩いて行っています。田畑の中に高く組まれた櫓の下ではポンプが動いていました。付近にはポンプだけがいくつも据えられ、矢張りゆっくりとしたリズムで稼働していました。



 近づいてみても人気はなく、無機質な光景が広がっていました。



 (Wikipedia)に依れば「八橋油田・黒川油田はともに現在も産油を続けている数少ない油田のひとつである。」とあり、石油不足の現在も稼働しているようですが産出量は微々たる物で、「今現在も産油量は減少傾向にある」と聞きました。“焼け石に水”の言葉通り、国産石油の開発は、中・露国境の海の底しか期待できないのでしょうか。外交下手と言われる我が国にとって・・・???がんばって欲しい物です。

 石油とは関わり有りませんが、秋田で途中下車した奥羽本線への連絡、国鉄十和田南駅に向かう発荷峠から振り返った十和田湖です。この時代、特急も新幹線も関係なくのんびりした鉄道旅行、気ままに途中下車して思わぬ“拾い物”の出来た良き時代だったかも知れません。


サミットとは関係有りませんが・・・洞爺湖:北海道

2008-07-11 10:55:00 | 思いでの写真館

 洞爺湖サミットが終わりました。“うたのすけさんのブログ”にある川柳は、サミットの実態を端的に語っており心から同感感服してしまいました。そこで洞爺湖の風景を先ず一枚!



 サミットと関係なく前回のカメラついでに、昭和35年(1960)夏の北海道旅行の一こまから検証をしてみる予定でしたが、話題の洞爺湖の写真も探してみました。

 本題です。高校生の一団がアイヌ衣装のモデルを撮影しています。当時白老アイヌと呼称していたのですが、現在の白老コタンと同一かどうかは分かりません。



 画面の中に20台程のカメラが認められます。4台程が二眼レフで、殆どが覗き窓ファインダー(軍艦)の付いたレンズシャッターのカメラのようです。レンズの長さから35mmタイプでしょう。蛇腹式のブローニーですとレンズがもっと長くなるはずです。35mmカメラが急速に普及して行ったことが伺えますが、現在では見ることの無くなった二眼レフも大人気だったことが理解できます。
 この頃ペンタプリズム装着のアサヒペンタックスを筆頭に、各メーカーから一眼レフカメラが発売されていますが、写真には見当たりません。大卒初任給が1万数千円の時代、4・5万円以上もするカメラは、高校生が持参することはなかったのでしょう。

 白老の前日は洞爺湖湖畔のユースホステルに泊まっています。ユースホステルと言っても当時多かった温泉宿の契約ホステルでした。ホステルで意気投合すると翌日は行動も共にすることが多くありました。同宿者一同昭和新山に移動しています。当時所々から蒸気も上がり、地肌は熱かったと記憶しています。

 



 この時は男四人旅ですが時々女性が登場します。1日数本しかない鉄道・バス旅ですから、北海道の観光コースは大同小異となりユースホステルに一度同宿すると、同じようなスケジュールですから旅行中あちこちで遭遇するのです。青き青春の思い出でしょうか!

 


根本中堂の全景が見つかった 比叡山延暦寺

2008-07-05 10:38:17 | 思いでの写真館

 記憶がすっかり飛んでしまって、どうにも気が収まらない。根本中堂の屋根はスライドフィルムに収まっていた。スライドはトリミングできないので、フレーミングがはっきり分かる一眼レフを使う。この頃は多分キャノンRPの筈だ。そして、旅に出る時はカメラは複数持つのが常でモノクロ写真に拘っていた頃だから、おそらくもう一台持参していたはずだ。しかしモノクロの風景写真は経費節約の為、引き伸ばしはもちろんベタ焼もしていないことが多い。パネル張りの半切に伸ばすコマはフィルムで選択していた。

 その頃のモノクロフィルムは、クッキーの缶に乾燥剤を入れて保管してあるから損傷は少ないが、ラボのレベルによってはセピア色に変色している。カラーと違って、褪色はなくかすれも少ない。幸い仕事上シャーカステンは手元にあるので、ネガの選択も何とか出来る。整理が悪く無秩序に詰め込んであったが、撮影年月と場所くらいはメモ書きしてある。

 その中に比叡山延暦寺根本中堂の全景写真があったのだ。昭和41年(1966)夏の事だ。



 しかし、残念ながらこの写真を眺めてみても思い出はよみがえっては来ない。何が思考を停止させてしまっているのだろう。まだしばらくは、この記憶を取り戻す苦闘が続くことになる。

 このモノクロ写真は、フィルムに書き込んであったメモから、レンズシャッターの35ミリカメラ「オリンパスワイド」で撮影していた事が分かった。ワイドレンズの特徴を出そうと、工夫を凝らしていたようだが、今ひとつ効果は出ていないようだ。

 


杉木立?記憶が・・・? 比叡山:滋賀・京都

2008-07-04 09:12:39 | 思いでの写真館

 よく見ると三角窓を開けて、フェンダーミラーを付けた箱形のセダンが走っている。この時代の車の特徴であるが、車を持つ前で詳しくはないから車種は分からない。昭和41年(1966)夏、比叡山のドライブウエーの一こまだ。



 今日のテーマは、“記憶が飛んでしまった”である。先ず、この時は鉄道とバス利用だったから、ドライブウエーの何処にいたのか、バスを待っていた?バスから降りた???

 1966年、三方五湖の舟屋が見たくて休暇を取って行っている。その時の三方五湖の記録はほぼ9割方記憶にある。銀座「スエヒロ」の経営陣の出身地とあって、直営の“旅館すえひろ”があったので泊まっていることは確かだ。水着を持って行っていたので、湖と海と両方に入っているので久々子湖の早瀬辺りの筈だが、すでに存在していないので確認できないでいる。

 WEB上で、水月湖湖畔に虹岳島荘があって、スエヒロの直営であったことが分かった。現在では経営は他に渡っているようだが、旅館すえひろと記憶では一致しない。同じか違うかは直接確かめれば判別できるであろうが、そこまで拘ることでもないので・・・。

 鬱蒼とした木立の中、比叡山延暦寺根本中堂であることは、フィルムに記録してあるから確かだ。

 

 三方五湖から、もう一つの目的であった“鯖街道”を走るため蘇洞門見物の後、小浜からバスに乗った。いつものようにじっと窓外を見つめていると、期待通り鬱蒼とした森の中峠を越え延々と走っていた。記憶はそこまで!その先が吹っ飛んでしまっている。“鯖街道”は一本ではない。今津に出たのか堅田への道だったのか?バスを降りてから比叡山への道のり、バス利用であったかケーブルに乗ったか??
 山の風景を丹念に撮影していたようだ。

 

 延暦寺の建物は掲載の3枚しかないのだ。三塔十六谷と言われる程だから多数の建物群があるはずだが、時間の余裕はさほど無かったから、東塔の根本中堂あたりだけしか巡っていないかも知れない。比叡山を下りた後も、直接帰京したのか実家の愛知に寄ったかも記憶にない。たった1日の違いで、鮮明に記憶している部分と、吹っ飛んでしまった部分がある。己の頭蓋をかち割り、中の記憶回路を覗いてみたいものだ。
 杉木立の参道、明らかに彷徨っているようだが???「比叡山殺人事件(そんなのあり?)」の犯人にされたらアリバイが証明できない!?!


よく見ると時代が分かります 新宿御苑:新宿区

2008-02-29 12:13:54 | 思いでの写真館

 昭和36年(1961)頃の写真が纏まって出てきました。この頃念願の一眼レフカメラを買い、万能的使用が出来るというので、小遣いを貯めて135ミリレンズも買っています。休日の度に人の集まりそうな公園に行って、主に子供を撮影していました。女性を黙って撮す訳にはいきません。



 この日は、新宿御苑に行っています。広場で寛ぐ人の賑わいは、今も昔も変わりません。



 その中の一枚、子供の手を引く男性の首から提げられているカメラに、注目しました。二眼レフカメラです。今の若い人には、想像出来ない形をしています。



 標準は、ブローニーフィルムを使った6×6ですが、リコーからはベスト版使用の4.5×4.5サイズも発売されていました。koba3も、マミヤCシリーズの二眼レフが稼働状態で棚に眠っていますが、何年もの間取り出したことはありません。このカメラ、レンズ交換が出来ます。中版カメラのハッセルブラードやゼンザブロニカが人気でしたが、高くて手が出ませんでしたので、代わりに中古を交換レンズ付きで手に入れました。
 この写真の奥に立つ男性の手にあるのは、明らかに蛇腹式のカメラですが、機種までは読み取れませんでした。新宿御苑は被写体に恵まれていますので、よく行きました・・・現在でも!(その記事は此処) 温室の佇まいは変わりません。まだ、広角レンズまで手が出ませんでしたので、遠近感を強調するのに、印画紙を斜めに置いた暗室操作をした覚えがあります。



森と湖は今でも健在です 愛知県森林公園:愛知県尾張旭市

2008-02-27 15:27:23 | 思いでの写真館

 定光寺に行った翌年の昭和36年(1961)、その隣町の尾張旭市(当時旭町?)にある愛知県森林公園へ行っています。桜祭りの雪洞がありますから、春休みの頃と思われます。レンタカーを借りていますが、懐かしいのはその車です。MITSUBISHIのロゴがありますから、おそらくコルトと思われますが記憶にありません。免許を取る前で、運転席に座っている友人も取ったばかりでした。



 おぼつかない運転でも何とかなったのは、走っている車が少なく、森林公園への細いがたがた道でも、すれ違いは少なかったのです。今でも、隣の名古屋市守山区に至る広大な公園であり、多数の池と森が保護されています。



 池畔に止まっている車を撮していました。当時自家用車はまだまだ高嶺の花でしたが、若者にとっては憧れでした。行き帰りの車内でも、車談義をしていたことが記憶にあります。構図に凝って車は半分しか写っていませんが、勇んで撮影している所を見ると、発売されたばかりの「国民車構想」に依る“パブリカ”ではないかと思うのですが、果たして???



 その年の夏休みに、念願の運転免許を取っていますが、父は翌年頃ブルーバードの前の“ダットサン”1000だったと思いますが、中古に乗っていて、帰省すると借りて名古屋まで行っていました。自身の車を持ったのは、昭和43年ですから40年の車歴になります。その間に、軽い追突が一度だけ、事故を起こさないのは当たり前ですが、運にも恵まれたのでした。