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北へ南へ、東へ西へ

旅と山歩き・街歩きの記録です 今を語りながら過去も振り返って

移転ご挨拶

plalaからgooへ移転してほぼ修正が終わりジャンル・カテゴリーが設定出来ました。タグ付け法が見つからないので、県名・市町村名、東京都は区市町村名で、その他寺社・名所などは固有名詞でサイト内検索して下さい。 サイト内リンク先、アドレスがplalaのpubのままgooに変更していないのでリンク切れしていました。リンク箇所を探して変更するのはかなり時間がかかりそうです。

九州の南の端です 佐多岬:鹿児島県南大隅町

2007-12-03 15:53:41 | 思いでの写真館

海 その8:九州の海Ⅱ
 宮崎から国鉄で串間へ、都井岬を見物してバスで志布志まで、その先、国鉄で鹿屋まで行き、バスで大隅半島の先端佐多岬まで行きました。途中、伊座敷あたりで乗り換えたか、直行したかは記憶にありません。何しろ40年以上前の昭和39年(1964)8月でしたから。佐多岬の海岸線です。



 岬から、対岸の薩摩半島を望むと、遙かに開聞岳が聳えているのが見えます。



経路を確認するため地図を見ましたが、鹿屋にはすでに鉄道がありません。日南線は志布志で途切れて、大隅線はすでに廃線になっています。国分まで鹿屋を経由して、100キロ近い距離があったはずです。

 全国の国鉄で、採算が合わず廃線になった路線は数多くあります。多くは、北海道や九州のはずれの僻地ですが、都会の近くにも各地にありました。民営化後はさらに加速されています。しかし、廃線の一方で、その時期でも新設されていた路線もあったのですが、無理して開業しても数年で廃止されている線路もあります。
 これらのことを見ても、長期的な視野の元、住民の利便性を第一としての計画性はなかったと断言できます。“おらが国さに鉄道を”の政治的思惑の無秩序な敷設が、結局破綻を招いたのでしょう。しかし、民営化前の国鉄には、国民の足を確保する任務があったはずです。赤字路線と黒字路線を相殺し、さらに税金を投入してその任務を遂行する、それが国有鉄道のはずが、長期計画のないまま政治に利用され、末路を迎えました。民営化によって本体は財政を再建しても、切り捨てられ第3セクターの名の元運営されている路線は、大部分が赤字に苦しみ、いずれ消滅の道を辿るでしょう。
 民営化後も、膨大な新幹線の計画があります。本当に必要かの検討はどんな機関が行っているかは知識の範疇の外ですが、「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」生活優先の社会でありたいものです。鉄道の旅は大好きでしたが、廃止されたり、本数が極端に減らされたり、旅の足とはならなくなって久しいのです。

 自然は、何時までもそのままの姿で残したいものです。日本最古の一つである佐多岬灯台ですが、温暖化が進めば、海の藻屑ともなりかねません。こちらも心配な話です。



新婚旅行憧れの地でした 青島:宮崎県宮崎市

2007-11-30 17:50:57 | 思いでの写真館

海 その7:九州の海
 やまちゃんのブログで、宮崎県の東国原英夫知事の徴兵発言が取り上げられていました。丁度、海の写真を選択していましたので、宮崎を探してみました。11月20日に昭和50年の都井岬の写真をUPしました。宮崎県の南端になります。
 宮崎に行ったのはその前にもありました。昭和39年(1964)8月、卒業前で実習が詰まっていて、3交代での短い夏休みでした。幸い宮崎の友人が同じグループで、帰省しているというのでやっかいになる事にしました。連れて行ってくれたのが“子供の国”でした。



 夏の盛りなのに、海水浴場すら人気が少なかったのは、平日の所為だったのでしょうか。蘇鉄が茂り、南国情緒一杯でした。背後に見える鬼の洗濯岩を伝って、青島まで行きました。???順序が、逆だったのか、定かでは・・・???



 この頃、東京からの新婚旅行の定番は、伊豆箱根と言われていたはずです。旅行社の宣伝が効いて、一気に「宮崎」がブレイクしていました。旅行雑誌もこぞって取り上げていました。飛行機には興味がなく、と言うより、夜行列車の貧乏旅行には縁がないと言えるkoba3は対象外でしたが、国内線の普及とも関係し、遠い異国情緒の南国が、夢の新婚旅行に合致したのでしょう。高嶺の花で、行かれるカップルは、羨望の的でした。
 今の東国原宮崎ブームと似ています。先日、石油高騰、燃料代高騰のあおりで、飛行機運賃の値上げが宣言されました。今のブームが実際に観光客の動員に繋がっているのかは知りません。シーガイアの二の前になり、しぼんでしまわない事を祈ります。
 灯台の写真のネガが、洗濯岩に続いてありました。青島の灯台に思えますが、少し高い位置にあります。でも丘の上とは見えません。次に行った、佐多岬でしょうか、分かりません。


龍頭船は日本三景の定番? 安芸の宮島:広島県廿日市市

2007-11-28 13:49:25 | 思いでの写真館

海 その5
 矢張り東京から500キロを超す土地は、なかなか行くのに決心が要ります。この10年くらいの間に、萩や岡山などには行っていますが、目的地への往復のみで、周遊する時間がありませんでした。トモさんのブログで宮島が紹介されていて、かっての中国地方の旅行で、広島岩国の間が不明で探していたフィルムが見つかり眺めてみると、色がない(モノクロ)ので、トモさんの写真と重ねてみました。
 国鉄を宮島口で下車して、船で向かいました。島が近づくと、先ず象徴の鳥居が目に飛び込んできます。



 広島からは、ダイヤを見るとバスが便利でしたが、国鉄利用でした。当時は、長い旅行をする時は、だいたい均一周遊券を使っています。この時は(昭和35年(1960)3月)、山陰均一周遊券はありましたが、中国均一はあったかどうか記憶もありませんし、調べても分かりません。記憶が薄れていますので、山陰均一周遊券を使って、山陽回りで萩に入ったのか、出発地が名古屋でしたから、山陽山陰線の一筆書き乗車(国鉄の、遠距離逓減の運賃体系を利用して、出発から到着までを交差しない一本の経路で通した切符とする)にしたのか記憶はなくなっています。それにしても、今の若い方には信じがたいでしょうが、「学割」は国鉄(100キロ以上乗車)5割引でしたので、最大限に利用しました。
 海から厳島神社が近づいてきました。



 この位置にありますから、この時以後、何回も台風や高波で破壊されています。再建されても同じ形ですから、何時の時代の写真かごまかせます。もっとも、多少の改良はあるでしょうから、専門家なら見分けられるかも知れません。
 陸から眺めると、鳥居は正面になります。

  

 やっぱり此処にも居ました龍頭船、外人さん(表現が侮蔑的?言い直して外国の方)もご満悦の様子でした。


国鉄岩内線に乗りました 雷電温泉:北海道岩内町・蘭越町

2007-11-21 11:03:52 | 思いでの写真館

海 その2
 遠い土地、南が九州なら北は北海道でしょう。国内線など少ない時代、飛行機は高嶺の花以上のものでした。夜行列車を乗り継いでやっと辿り着く、国鉄なくしては旅は成り立たない時代でした。もっとも、暮れとお盆の混雑期には、帰省用夜行長距離バスが臨時に運行され、新宿や浜松町の道路がバスターミナルと化したのを懐かしく思い出すのは、団塊の世代以上でしょうか。
 昭和42年(1967)9月の終わりに、2度目の北海道旅行に出かけました。予定は一切なく、開通したばかりの日勝峠と、前回廻らなかった海岸線を鉄道とバスを乗り継いで、道内一周する事だけ目標にしました。8ミリ映画の撮影をメインにしたので、スチール写真は、モノクロが僅かしか残っていません。
 旅の最後に立ち寄った、雷電温泉の海岸です。



 武蔵坊弁慶の刀掛岬と言うそうですが、当時は何も知らずに面白いと思って撮影しています。函館本線から岩内線に乗り換え(倶知安駅、はたまた小樽駅で?記憶無し)終点岩内からバス利用でした。その岩内線も、すでに廃線になっています。静かな温泉宿で、飛び込みでしたが、快く迎え入れてくれました。今では、追分ソーランラインと名付けられ、観光道路となっているようです。



 この旅行で乗ったローカル線、
暇なおじさんヒロさんの住まう辺りの留萌線から先、羽幌線と呼んだと記憶しているのですが、1両ぽっきりのレールバスが日本海沿いを北上して、天売島や焼尻島を眺めながら、幌延まで?(のはず?)ですが、すでに廃線になってしまいました。この旅行で乗ったオホーツク沿岸を走っていた興浜北線南線、尾岱沼へ行った標津線もすでにありません。地方のローカル線、第3セクターで生き残っても、赤字を抱えて四苦八苦しています。まして廃線となれば、過疎化に拍車をかける事になります。
 当時の鉄道地図を処分してしまっているので、確認作業が出来ませんでした。鉄道での旅は好きですが、景色の良いローカル線は姿を消し、新幹線では、トンネルと遮蔽板で、窓外の景色は味気ないのです。
 列車を待っていた駅のホームからの、羊蹄山の夕暮れです。

 元ベース弾きさんからコメントを頂きました。国鉄ウーマンだったお母さんの思いを綴られていますが、plala閉鎖に伴いリンクが切れてしまいました。


色褪せた日光の思い出Ⅲ 小田代ヶ原:栃木県日光市

2007-11-08 11:00:32 | 思いでの写真館

 戦場ヶ原のほぼ中央から、やや逸れた所に小田代ヶ原はある。始めて行ったのは昭和41年(1966)10月、湯元から、戦場ヶ原をくまなく彷徨っていた時だった。



 ミズナラの林に囲まれて人っ子一人いない草原、そして湖、神秘的な雰囲気だった。



 静かに水面に空を映す小田代湖、流れ込む川がないので、この湖は大雨の降った後にだけ現れるという事を最近知った。行く時はいつも満々と水をたたえていたので、信じ難いのだが・・・。最近では、「小田代ヶ原の貴婦人」 と呼ばれる白樺に人気があり、撮影に訪れる人が引きも切らないと聞く。
 奥日光湯の湖から流れ落ちる湯滝につづく湯川沿いは、戦場ガ原自然研究路として、ハイキングコースとなっている。平成8年(1996)5月、家族でこの道を歩いた。湯川沿いの道は踏み固められ、かなりの幅で土がむき出しとなっていた。竜頭の滝から、エコカーで林道を往復して小田代ヶ原へ人を運んでいると聞いていたので、人の群れの蠢く湖側を避け、入り口で引き返した。



 上の写真は平成8年の撮影だが、残雪が残り、芽吹く前の枯れた草が“シック”な味で、この季節の日光も捨てがたい。中央の白樺が「小田代ガ原の貴婦人」かどうかは分からない。
 湿原が草原となり、そして灌木の林と変化していくのは、自然の摂理と聞いている。戦場ヶ原も小田代ヶ原も、かっては(何万年も前)全て湿原であったと、以前聞いた事がある。現在は、湿原は一部に過ぎない。あの尾瀬も、将来は草原に化していくのであろうか?現に、富士見峠近くにあった田代は、最近ではすでに草原と化していたし、巻機山の山頂湿原も、クマザサに覆われていた。人が大勢踏み込む事により拍車がかかるのであろうが、地球温暖化の影響も、避けられないであろう。


石ころ道でした 大菩薩嶺:山梨県甲州市・丹波山村

2007-11-07 09:20:43 | 思いでの写真館

 やまちゃんのブログに、大菩薩嶺登山がありました。懐かしくなって、写真のストックを探したら、モノクロ写真が出てきました。はっきりした撮影日は分かりませんが、写っている車(ジムニー)から、20年前昭和62年頃の夏でしょう。裂石の駐車場に車を置いています。

  

 裂石でバスを降り、、歩き出すのが普通でしたから、現在は随分変わってしまったようです。歩き出して20分くらいで千石茶屋の駐車場があり、車は此処まででした。もっとも、峠の小屋のジムニーが、チェーンを巻いて登って行きましたし、クロスカントリーのバイクも果敢に登って行きました。もちろん、石がごろごろの沢道状態の石ころ道でしたが、無理すれば車も通行出来るほどの幅はあったのでしょう。
 やまちゃんの記載では、立派な林道が上日川峠まで通じているようです。それでも、1年前の若い頃の登山記録では、裂石から歩きだし、帰りは塩山まで歩いたとありますから、今のような道路事情は、最近の事なのでしょう。

 


 賽の河原が、旧峠とありましたが、調べても、意味が分かりませんでした。ガレが多く、眺めは良かったと記憶しています。



 小学生だった息子と3人で登っていますが、大菩薩嶺からの展望は、記憶にありません。俯瞰の写真がないので、木立の中だったのかとも思われます。それでも、やまちゃんの写真とは微妙に違いがあり、悠久の自然とはいえ、変化があるのでしょう。



 記憶が曖昧になってしまっていたので、ネットで資料を集めていると、「登山は、登山口から登るのが本来!百名山ブームで、登頂のみが目的になって、登山の本来の姿が失われている」の主張が、いくつか見られました。思わず同調しましたが、頂上近くまで車道やケーブルがあると、ツイ利用してしまいます。せめて下りは徒歩で、と、がんばりますが、歩行用の登山道が荒れていて、まともに歩けない事がしばしばです。


色褪せた日光の思い出Ⅱ 戦場ヶ原・竜頭の滝:栃木県日光市

2007-11-02 11:14:33 | 思いでの写真館

 昭和35~43年、この頃は春秋の連休、奥鬼怒、奥日光を歩いている事が多かった。昭和41年10月は、日光湯元から戦場ヶ原を歩き、小田代ヶ原に寄り道をして光徳に泊まった。翌日、再度三本松まで戻り、戦場ヶ原の雑木林の中を、枯葉を踏みしめながら、竜頭の滝の滝口へ向かった。



 褪色したスライド写真ながら、空の青さだけは、なぜか見事に残っている。

       
 
 ススキと男体山、モノクロに似た光だけの表現になってしまった。



 竜頭の滝は、上から見ても、滝に沿って下りながら眺めても、下から見ても激しいというより、勇ましいと表現したい流れであった。



 竜頭の滝以降のスライドは、全く褪色して、セピア色になっていた。中禅寺湖と男体山で見てみた。

 

 左がスライドをスキャンした状態である。右は、スキャナーの褪色補正機能と“アドビ”を使って、復元を試みた。竜頭の滝の写真も、同じ手法で復元したものである。簡単なソフトでも、この程度の復元は可能であった。町のミニラボで、「褪色写真復元します」の看板を見かけるが、どの程度可能か、興味が湧いてきた。中禅寺湖千手が浜の桟橋、紅葉の赤黄は復元出来なかったが、モノクロではなくカラーではあるが、色を加えた墨絵の世界、変な表現だが、言い得て妙?・・・自画自賛。



 2本の写真を撮っているが、光徳から戦場ヶ原までは、かろうじて色が残っていた。2本目は、全く色が抜けて、セピア色単色になっていた。フィルムは同じSAKURA filmであった。違うのは、現像所である。東洋現像所(現イマジカ)が前者で、無惨な褪色は、町の小さなラボであった。もちろん、後者は現像料が安い。当時、コダックフィルムは発色が良いとの評価であったが、高価で、しかも現像は東洋現像所に限られ、当然現像料金も高かった。技術力とは、こうした所にも現れている事を再認識した。
 時代の流れとはいえ、コニカは、銀塩フィルムの製造から撤退し、コダック、アグファなど外国メーカーも、量販店では富士フイルムより安価になっている。その富士フイルムですら、メーカーは供給を続けると断言しているが、この後銀塩フィルムを作り続けられるか疑問だ。もっとも、忘れ去られたと思った110フィルムや、ベスト版が現在も供給されているのを知って、「お主、なかなかやるな~」の心境である。


色褪せた日光の思い出??? 光徳沼・牧場:栃木県日光市

2007-11-01 10:10:51 | 思いでの写真館

 色褪せたと言っても、思い出が褪せた訳ではない。写真の色が抜けてしまったのだ。セピア色になった部分もある。
 今、日光では紅葉が最高潮であろう。日光には少なくとも5年に1度程度は行っているが、最近紅葉は見に行っていない。昨年、古峯神社に妻を送って行った時、迎えの時間までの間に、峠を越えて神橋からいろは坂まで行ってみたが、紅葉はまだで、あげく大渋滞で坂上まで90分も要してしまった。日光の紅葉は確かに見事であるが、あの渋滞を考えると、今ひとつ出かけるのをためらう。
 日光の紅葉と光とのコラボレーションを求めて、スライド写真を撮りに行った事があった。昭和41年(1966)10月のことだから、40年近く前になる。久しぶりに取り出してみたら、見事に色が抜けていた。紅葉の季節とは見えないが、光徳沼の木の間からの光の輝きだけは、感じる事が出来た。

   

 牧場の草を食む牛の背景は、紅葉真っ盛りのはずが、枯れ草の草原に過ぎない。 唯一色の出ている絵も、枯れた日本画の世界になっていた。

     

 余談になるが、「白樺荘」と名乗っていたと記憶している国民宿舎、現在アストリアホテルとなっている。此処の食事は、美味くないとの評判だったが、はっきりまずかった。当時、天神平のヒュッテでも感じたが、東武系の食事はまずい事で定評?があった。子供達の夏の林間学校が「白樺荘」で、末っ子は「アストリアホテル」になってからだが、同じ評価だったので間違いはない。現在は、改善されていると思うので、失礼はお許し願う。(ここに書きたくなるほどだったので!)



 紙焼き、スライドを問わず、写真の最大の弱点は、褪色である。その点、現在主流のデジタルはその恐れはない。過去の撮り貯めた写真は、このブログを利用してデジタル化を進めているが、フィルムスキャナーの性能上からも限界があり、高密度で保存しようとすれば、多大な時間を要してしまう。業者に依頼すれば高精度で手間なく得られるが、費用が莫大になる。一方、油断や障害によって、デジタルは一瞬にして消えてしまう恐れもある。地道にバックアップを録っているが、何処まで実行したのか、時々分からなくなり、二重三重に円盤が増えてしまった。


半世紀前に山の上から眺めていた 函館湾:北海道函館市

2007-07-28 14:56:03 | 思いでの写真館

 やまちゃんはじめブログ内に夏祭り、ねぶた、七夕、花笠の話題が飛び交っている。さらに北海道の話題も多い。夏は暑い、従って涼しげなところに話題が集まる。東北、北海道は特に魅力的だ。振り返ってみたが、北海道には1990年(昭和35年)と1997年(昭和42年)に行ったきりご無沙汰している。車で行くには遠すぎるし、飛行機には乗りたくない。昨年は、礼文島だけ行って、稚内では、かにラーメンを食べただけでとんぼ返りしたから、北海道観光にはなっていなかった。
 1997年9月(昭和42年)、単独行で、写真はほとんどモノクロ、おまけに海岸と山の中ばかりだから、何時の写真か判別出来ない。乗客のほとんど居ないローカル線のレールバスで男一人旅、今考えると随分侘びしい姿をさらしていたようだ。従って、賑やかな町も、伝統的な建物もほとんど記憶にない。8ミリ撮影(もちろんフィルム)に凝り始めた頃だから、スチール写真が少なく、ネガを探しあぐねている。
 北海道を離れる日、夜景を見に函館山に登った。夜景は、コントラストが弱く自前のスキャナーではスキャニング出来なかったが、夕暮れの青函連絡船の浮かぶ港と、函館市街は、かろうじて映し出せた。



 現在の風景と対比して表示したかったが、panorama-yakei.com は一切の転載を認めていないので、函館山ロープウェイ株式会社のサイトの、パノラマ・マップでご覧頂く事にした。半世紀ともなるとやはり違っていたが、連絡船の船影がないのは、やはり寂しい。

 白囲み内のビルと鉄塔は、現在もあるようだ。

西暦表記だけでは、自身が混乱してきたので、今回から、元号も併記してみた。


記憶が途切れました 戦後15年目の原爆ドーム:広島県広島市

2007-07-19 10:32:52 | 思いでの写真館

 先日、長崎原爆投下を“しょうがない”発言で大臣が辞任しました。毎年8月15日が近づくにつれ、終戦記念日に関連する話題が増えてきます。終戦時、まだ幼稚園程度でしたから、又、田舎暮らしで、実際の戦争状況も分からない環境でした。唯一町に中島飛行機の工場と滑走路があり、1度だけ空襲を受けて、夜中に兄たちに手を引かれて、山の(市街地を離れた)親戚の家に向かって走った記憶があるだけです。その軍需工場での学徒動員の女学生の犠牲や、出征や戦死の話を理解出来たのは、随分後になってからです。
 最近疑問に思うのは、ポツダム宣言の受諾をし、降伏したのですから、終戦記念日ではなく敗戦記念日のはずです。政府主催の全国戦没者追悼式がおこなわれるのだから終戦記念日というのは、こじつけでしょう。あくまで敗戦の日と唱えるべきで、言い換える事によって、時の為政者の責任を薄めてしまう事になります。この国では、言葉遊び的な感覚で言い換えによって、真実をねじ曲げてしまう“慣習”が有るのでしょうか、国会答弁などで頻繁に遭遇します。現在進行中の参院選の演説の中に、どれ程類例が出てくるか、興味がそそられます。
 koba3は反戦運動家でもなく、初老の単なる旅好きですが、1960年3月、秋吉台へ行く途中立ち寄った広島の写真を眺めている内に、太平洋戦争について、何も知らない、考えていない事に気付きました。その時も、夜行列車で夜明け前に広島駅に降り立ち、当時はやりの深夜喫茶(今でもあるのかな?)で夜明けを待って、柄にもなく、原爆ドームへ向かいました。

 

 公園も、記念碑と、広い空間があっただけです。

 

 慰霊に訪れる人は引きも切らず、まだ戦後15年しか経っていなかった事に気づきました。



 その時以来、再び訪れる事はありませんでした。「ひろしま」を考える事を避けたかったのだと、自覚しています。50年、100年は草木も生えないであろうと言われていましたから、高い所から町を見てみました。草木も町並みも、見事に復興していました。今だったらどんなになっているでしょうか、大都会ですから、見てみたい気もします。



 今の記念碑を、パンフレットから拾ってみました。

 

 と、記載してきて、その日観光バスに乗ったのか?高台の公園にどうやって行ったのか?原爆ドームの公園を俯瞰で撮しているのは、どんな手段で?全く思い出せないのです。この後行った宮島や、錦帯橋、秋吉台の光景や行動は鮮明に記憶しているのに・・・やはり、「ひろしま」は、心の底で避けたいと思っているのでしょうか。