3月15日(火)佐伯沖組仏教壮年会は、島根県邑南町(おおなんちょう)市木(いちき)の浄泉寺さんにお参りしました。
立派な本堂です!
妙覚寺からは住職と坊守が参加しました。
浄泉寺の現在の本堂は、平成14年3月30日に落慶法要が行われました。昭和46年に火災にあって全焼してしまった本堂の図面を利用して再建築されたものです。前住職の朝枝善照先生は龍谷大学で仏教史学の教授を務められ、平成19年に亡くなられました。
浄土真宗の篤信者を「妙好人」と呼びます。
これは、市木(いちき)・浄泉寺の第11代住職・仰誓(1721~1794)和上が再編集された『妙好人伝』(上下2巻)に数多くの篤信者が紹介されたことによって一躍注目を集め、ひろく布教伝道の場で利用されるようになりました。そして、『妙好人伝』は僧純、象王等の続編を相次いで生み出し、『妙好人伝』(永田文昌堂刊・1958年)には、全国に157人を数えています。
仰誓(ごうせい)和上は23歳の時、伊賀上野・明覚寺(三重県上野市中町)の住職となり、大和の清九郎をはじめ、多くの篤信者に会うことができたことが縁となり、それら篤信の人々の逸話を集めて『親聞妙好人伝』という小さな本を編集しました。
その後、石見地方に流行した「円空の邪偽」という異安心の教諭と、住職不在であった市木・浄泉寺からの要請とが相俟って、法嗣履善(りぜん)を伴って入寺したのが41歳の時であったという。浄泉寺に入寺して、仰誓・履善父子は教化伝道に努めた。浄泉寺は門下に33の寺院を有する大寺院であったが、入寺の年に学寮を開設し、明和年間(1760年代後半)が44人、安永年間(1770年代)には61名の入寮者があったことが知られている。履善と共に「三業惑乱」において活躍した西田・瑞泉寺(大田市温泉津町西田)の学匠・自謙はその高弟の一人であり、他に誓鎧、唯浄らを傑出している。
『妙好人伝』は、仰誓和上の没後二十五回忌に際し、履善、克譲、法梁らが梓行を計画し、天保4(1833)年誓鎧の序と僧順の跋(ばつ)を加えて開板されたという。
お参りさせていただき、坊守さんからお話しをお聞きしました。
また、浄泉寺は、コンクリートでできた杉の木が描かれている橋脚が寺の中に立ってる事で知られてるお寺です。『なにこれ百景』で取り上げられました。
浜田自動車道建設の際、立地上どうしてもお寺の敷地内に橋脚を立てなければならなくなり、「市木」の名前の由来となった「いちぎの一本杉」をモチーフにして担当の技師の方が、杉のデザインを考えられました。縦8メートル、横4.5メートル、高さ50メートルの橋脚に、コンクリートでできた杉の木が描かれています。
浄泉寺の山門は、石見三大山門の一つとして有名です。龍の彫刻がほどこされた立派な楼門です
午後からは、江津 浄光寺さんにお参りしました。妙好人有福の善太郎さんゆかりのお寺です。
能美住職より、善太郎さんのお話しをお聞きしました。
天明2年(1782)に生まれた善太郎は、若いころは乱暴者で村人から「毛虫の悪太郎」とあだなされ、嫌われていました。しかし、3人の子どもが次々に死んでいくという不幸に遭遇してから、命がけの念仏行者になりました。野良仕事の最中でも、近くの光現寺の鐘がなると、裸足のまま法座にかけつけたといわれます。盗人と疑われ、ののしられた相手に、帰り道おなかがすくだろうと草餅を与えたり、どろぼうが逃げ場を失って木に登ると、その木にはしごをかけて逃がしたなどの逸話が伝えられています。
浄光寺境内には野良着姿で手を合わせた善太郎の像があります。
石州人の心のよりどころである善太郎。彼の名は、「妙好人伝」にもあげられています。
「にんげんなら、にんげんらしゅう、してくらせ、おやなら、おやらしゅうに」善太郎さんの言葉です。
宿泊先の玉造に向かいました。
玉造温泉 ホテル玉泉に宿泊しました。
安来節民謡ショーがありました。
ドジョウすくいを楽しみました。