比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

司馬遼太郎の「この国のかたち」を読んでいる・・・この国とはなんだろう

2018-05-31 | 本・テレビ、ドラマ・映画・スポーツ
司馬遼太郎の「この国のかたち」全6巻をアマゾンで買った。
本屋さんに縁遠い田舎暮らし、ネット購入になってしまう。翌日か翌々日には届けられる。
ちなみに本屋さんに行って書棚にない場合、取寄せ注文すると1週間から~10日かかる。書籍販売業が衰退してゆく。

この国のかたち」・・・むかし1巻と2巻を読んだ。内容はおぼろげだ。ゆっくり読んでみたくなったのです。
ちなみにわたしは司馬遼太郎カブレではない。ファンでもない。司馬史観といわれるものにコダワリも無い。


司馬遼太郎(1923~1996年)・・・大阪市に生まれる。1940年大阪外語学校(大阪外国語大学~現大阪大学外国語科)に、在学中の1943年学徒出陣、満州で陸軍戦車学校、戦車隊少尉に、1945年本土決戦に備えて戦車隊は栃木県佐野市の小学校を本部にして移動、8月15日の敗戦を迎える。復員後、地方紙の新聞記者に、地方紙が産経新聞に吸収され産経新聞記者に。1960年直木賞受賞、作家に。
※「この国のかたち」・・・月刊誌「文藝春秋」の巻頭随筆の冒頭に1986~1996年掲載された歴史考察のエッセイ。著者急逝により終了。単行本として1990年より刊行。


《1巻のあとがきより》
(前略)私はいまだに20代前半であった自分から離れずにいる。そのころの私は憲法上の義務により兵役に服していた。
それが終了するのは1945年8月15日の敗戦の日だった。私にとって、23歳の誕生日を迎えて8日目のことである。私どもの連隊はいわゆる満州国境ちかくにいて、早春、連隊ぐるみ移動し、思わぬことに関東平野に帰って来た。当時、栃木県佐野市に駐屯してた。
兵役期間中、だれでもそうであっただろうが、即座に死ねる自分でありたいと思いつづけていた。なんのための死ということではなく、さらに言えば死に選択はなく、よき死も悪しき死もないと思っていた。(中略)
当時の彼我の戦争の構造は、対戦というものではなく、敵による一方的な打撃だけで、もし敵の本土上陸作戦がはじまると、私の部隊は最初の戦闘の1時間以内に全滅することは確かだった。死は誠に無差別で、死に良否も賢愚も美醜もないというのは、戦争の状況がそれを教えていた。(中略)
終戦の放送をきいたあと、なんと愚かな国にうまれたことかとおもった。(中略
ほどなく復員し、戦後の社会の中で塵にまみれてすごすうち、思い立って30代で小説を書いた。(中略
いわば23歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた。(後略

※司馬史観といわれる語りは左右に批判が多い。わたしにとってはどうでもイイこと。
読んだ人・・・それぞれの読み方があると思う。

信濃路・・・リンゴの花と桃の花の咲く・・・小諸市和田の里

2018-05-31 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

信濃の春は桜の花も散り、桃の花とリンゴの花の季節。

小海線三岡駅から美里駅のあたり・・・リンゴ畑が広がっています。黒斑山、牙山、剣ヶ峰、浅間山が見えます。

林檎の花・・・

桃の花・・・

桃畑・・・
※撮影日は4月27日

信濃路・・・佐久・・・軽井沢町追分・・・浅間サンライン・・浅間山サンセット

2018-05-30 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月19日・・・晴天・・・4月半ばというのに寒波が訪れ浅間山は冠雪・・・小諸から軽井沢方面に桜と雪の浅間山のコラボを見に。

信州佐久・・・軽井沢町追分・・・長野県道80号線浅間サンライン・・・サンセット浅間山遠望。
山肌に顕れる浅間山独特の条線・・・安山岩の岩屑が凍結破砕して篩にかけられたように大小に分けられ山肌を流れ落ちて縞模様を・・・
※撮影日は4月19日PM5:45。

信濃路・・・佐久・・・御代田町の・・・馬瀬口のレタス畑から・・・浅間山

2018-05-29 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月19日・・・晴天・・・4月半ばというのに寒波が訪れ浅間山は冠雪・・・小諸から軽井沢方面に桜と雪の浅間山のコラボを見に。

信州佐久・・・御代田町・・・馬瀬口のレタス畑・・・浅間山遠望。
高原野菜の栽培がはじまる・・・
※撮影日は4月19日。

信濃路・・・佐久・・・御代田町の・・・龍神の杜公園から・・・浅間山

2018-05-29 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月19日・・・晴天・・・4月半ばというのに寒波が訪れ浅間山は冠雪・・・小諸から軽井沢方面に桜と雪の浅間山のコラボを見に。

信州佐久・・・御代田町・・・龍神の杜公園・・・浅間山遠望。
龍神の杜公園・・・龍神祭りで龍が舞う円形ステージ・・・
※撮影日は4月19日。
龍神の杜公園・・・1991~1994年にかけての新幹線工事に伴う残土を御代田駅近くの久保沢の谷に埋立てて、1997年から1999年にかけて公園を整備。20㌶余、龍の広場、円形広場、龍遊の広場、展望広場、芝生広場、龍神の庭、龍神の館、テニスコートなど。龍神の名前は御代田町に伝わる甲賀三郎龍神伝説にちなんで。
龍神伝説・・・むかし甲賀三郎は兄二人に騙され蓼科山の深い穴へと落とされた。三郎は暗い世界をさまよい、やがてこの世へ生還。そこが御代田町塩野の真楽寺の泉。三郎の体は龍になって佐久の山を越え諏訪湖に至り諏訪の神となった。
真樂寺・・・クリック


信濃路・・・春の小諸高原・・・飯縄山公園で・・・桜の花と浅間山

2018-05-28 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月19日・・・晴天・・・4月半ばというのに寒波が訪れ浅間山は冠雪・・・小諸から軽井沢方面に桜と雪の浅間山のコラボを見に。

小諸市飯縄山公園・・・富士見城址から。

標高850m・・・ここの桜満開は4月半ば過ぎです。

浅間嶺に噴煙が上がりました。
※撮影日は4月19日。
※飯縄山公園の過去ブログ・・・2018年3月5日クリック

信濃路・・・北信濃の須坂市・・・臥龍公園でお花見

2018-05-27 | 信濃の国は 北信濃・善光寺平
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月11日、北信濃m千曲川の河東・・・須坂市の臥龍公園のお花見です。
国道18号線を上田方面から北に・・・千曲市屋代から国道403号線(谷街道)へ。
須坂市街地に入り百々川の畔から・・・臥龍公園に。

百々川(どどかわ)・・・ドウドウと音を立てて流れる様を擬音化した名前でしょうか。
護岸して短い間隔で砂防堤を数十基築いています。上流は菅平高原の四阿山、根子岳のカルデラから流れ出す米子川

桜咲く臥龍公園、龍ヶ池です・・・池の周りにソメイヨシノ150本、公園全体で桜が500本。。
1931年開園。「日本さくら名所100選」、「日本の名松100選」、「長野の自然100選」に選定されています。

園内にある「池乃清泉亭」・・・名物は黒いおでんオダンゴ

花筏の写真を撮る・・・カメラマン。

花筏・・・
※撮影日は4月14日。
須坂・・・米子川、灰野川が合流して百々川、その川が作り上げた扇状地、その扇頭部に古くから発展した。古代の古墳、中世の古城が見られ、江戸時代は須坂藩の館町、菜種油を主とする生産地、谷街道、大笹街道の分岐点として物流の中心地、明治、大正、昭和の時代は製糸工場の煙突に立ち並ぶ糸都して栄えた。
臥龍公園・・・須坂市市街地の中にある周囲800mの池と比高80mの臥龍山の公園。臥龍山興国寺がある。1931年日本の公園設計の父、日比谷公園を設計した本夛静六の設計で開園。
臥龍伝説・・・むかしむかし長者の娘に惚れた若者が、長者にその恋を阻まれ龍となって暴れまわり、娘が悲しんだため、その身を臥したという。


信濃路・・・上田市生田の・・・信州国際音楽村・・・ロケットの糸川博士の終焉の家

2018-05-26 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月9日、諏訪湖畔の花見の帰りに上田市生田の信州国際音楽村あたりの花見をしました。

信州・・・上田市生田茂沢・・・標高650m、千曲川の流れる大屋あたりから比高200m。
桜咲く丘は信州国際音楽村・・・

信州国際音楽村を見下ろす丘の上に・・・
日本の宇宙開発・ロケット開発の父糸川英夫博士が晩年を過ごした丸子町生田(現上田市)の住居跡。
糸川博士は新潟県上越地方の古民家を移築、1995年から1999年まで過ごし丸子町の病院で永眠しました。
信州国際音楽村の設計に深く関わり、その縁でここを終焉の地にしたのでしょうか。
航空工学の学者の顏の他にバレエ、チェロ、ヴァイオリンをよくし、1996年信州国際音楽村「海の日記念コンサート」を企画して自らも出演しています。

玄関前のエントランスにペンシルロケットのモニュメントが。
2013年、住居跡を開放して見学できるようにしています。カフェ「じねんや」の看板がペンシルロケットの脇に立っています。

信州国際音楽村・・・桜咲く風景、水仙の花も・・・遠くに見える町並みは、東御市本海野から田中・・・浅間山の裾野。
※撮影日は4月9日。
糸川英夫(1912~1999年)・・・日本の航空工学のパイオニア、中島飛行機で一式戦闘機「隼」などを設計、東大教授。ペンシルロケット、ベビーロケット、カッパロケット、ミューロケットなどに関わった。2003年打ち上げの小惑星25143に「イトカワ」の名がつけられた。
信州国際音楽村の過去ブログ→クリック

信濃路・・・桜咲く・・・日本の三大湖城・・・諏訪の浮城・・・高島城

2018-05-25 | 古城・城址・陣屋・館跡
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月9日、諏訪湖畔の花見にやってきました。信濃国諏訪高島藩の高島城です。
現在見られる諏訪高島城は諏訪高島藩初代藩主日根野高吉が1592年築城、そのご日根野氏は転封になり古代以来の諏訪大社大祝職の名門であった諏訪氏が浮沈を重ねながら再興し諏訪高島藩の藩主として故地に復帰、明治の廃藩まで続く。
明治の廃藩で廃城、取り壊され、本丸のみが高島公園に、二之丸、三之丸は住宅地に。
日本100名城」「日本の三大湖城」。

諏訪高島城・・・1970年、冠木門、三層三階の天主閣(擬城)、塀、角櫓が復元。
築城当時は西に諏訪湖、東、北、南の三方を湿地に囲まれ、水面に浮かぶように見え諏訪の浮城と呼ばれました。干拓により濠の外側は城下町に。

本丸の表門・・・冠木門・・・冠木門とは左右に柱を立て一本の貫を通した簡単な門ですが、屋根つきの楼門(高麗門)です。
最初に作られた冠木門の名前がそのまま名称だけ残り冠木門と呼ばれるようになったようです。1970年復元。橋の名前も冠木橋。

高島公園・・・明治の廃藩置県、1875年廃城のあと1876年本丸は高島公園に。心形池のある日本庭園。桜の名所。

高島城天守・・・1970年復元(擬城)、杮葺(こけらぶき)の屋根は銅版葺に。
瓦葺ではなくなぜ杮葺であったか諸説あるが不明。3階は展望台、2階は高島城歴史資料館、1階は企画展示コーナー、ギャラリー。

本丸内の御川渡御門跡、諏訪湖への出入り口。門外に船着き場があった?
現在の門は三之丸裏御門の遺構、1988年所有者から寄贈をうけて移築。
※撮影日は4月9日。

信濃路・・・諏訪湖畔・・・世界のシルクエンペラーが90年前に作り上げた温泉保養施設「片倉館」

2018-05-24 | 信濃の国は 伊那・諏訪
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月9日、諏訪湖畔の花見にやってきました。

明治・大正・昭和の時代、日本の生糸産業のトップランナーとして走り続けた・・・「片倉」・・・
その片倉が創業50須周年記念事業として1928年建設した「片倉館」です。

片倉館は社員(工女とその家族)への福利厚生、地域に人たちの健康福祉のために作られた温泉施設です。
正面に尖塔、煙突、急傾斜の屋根、中世のヨーロッパ風の建築の浴場、左に大広間、会議場を設けた会館・・・国の有形重要文化財。

大浴場の受付、右の彫像は片倉を不動のものにした二代目片倉兼太郎(佐一)、片倉館の生みの親。




※撮影日は4月9日。
片倉工業・・・1873年諏訪郡川岸村(現岡谷市)で製糸業開始。1895年片倉組に。1920年片倉製糸紡績株式会社に。1843年片倉工業に改称。1994年熊谷工場の操業休止で製糸業に終止符をうったが、いまも片倉は輝いている。昭和初期、あの戦争前まで世界の製糸界に君臨した岡谷製糸業10数社、多角経営に変換した片倉工業以外はいまは名も知らない。
片倉一族・・・諏訪湖から流れ出した天竜川の畔の豪農(自作農)。庭の一隅に作った10釜の製糸工場から始めた。法被に股引、ねじり鉢巻、工女より早く起きて働いていたという。
「女工哀史」というものがたり・・・諏訪の人たちは女工に不利になるようなことをしては「損だ」という認識をしていたという。その「損」を計算できなかった経営者は消えていった。