比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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雪の福島・・・雪の会津・・・雪の鶴ヶ城

2016-03-19 | 古城・城址・陣屋・館跡
彩風人・・・2016年1月31日、雪の福島・・・会津への旅。会津若松のシンボル「鶴ヶ城」です。。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です。)

会津若松城・鶴ヶ城」です。1965年外観復興・・・鉄筋コンクリート製のハリポテ擬城。国指定史跡。
白虎隊」という歌の中の詩吟の一節「南、鶴ヶ城を望めば、砲煙あがる」で有名。
中世南北朝のころの1384年蘆名氏によって館が構築されたのが始まり、1589年伊達氏、1590年から蒲生氏、1593年に築城、1598年上杉氏、1601年ふたたび蒲生氏、この間の1611年に会津地震により損壊した城を改装、1627年加藤氏、1643年保科正之が入城して明治の戊辰戦争まで。
若松城は戊辰戦争で開城、1873年全国的な廃城令では残城が決まったが1874年解体。城郭は明治政府の所有から会津松平氏(旧保科氏)に払い下げ。1917年本田静六博士らにより公園化の設計が開始。1927年松平氏から会津若松市に。
1965年天主閣が鉄筋コンクリート製により再建、建物の中は郷土博物館。





会津23万石、美しい外観です。
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※撮影日は1月31日。カメラはFUJIFIRM X-T10。

《余話》
★会津藩松平家の藩祖保科正之(1611~1673年)のこと・・・二代将軍川秀忠の庶子、秀忠は側室を持たなかったため正式の子として認められず武田信玄の次女見性院の庇護を受けて育てられ、後に武田家ゆかりの高遠藩保科家の養子となる。生母は板橋在の大工の娘であったと伝えられる。長じて兄の三代将軍徳川家光と対面、家光に有能で謹厳な性格を認められ信頼されて高遠藩三万石の藩主から出羽国山形藩20万石、会津藩23万石と移封していった。正之は移封の際に大きく石高が増えた新領地の治世のためには小藩の高遠藩の家来衆だけでは人数が足らず領内の有能な商人、職人、農民の若い衆をも士分に取り上げて連れて行った・・・会津ではこれを「高遠以来」と呼ぶ。家光は遺言で四代将軍家綱のことをくれぐれも頼むと正之に伝え、正之は四代将軍の補佐役として文治政治を行った。保科家が松平家を名乗るようになったのは三代目から。
★民謡《会津磐梯山》で歌われる
     「会津磐梯山は 宝の山よ 笹に黄金が また成り下がる」について。
 民謡「伊那節」では木曽へ木曽へとつけだす米は 伊那や高遠の余り米
 民謡「南部牛追い歌」では田舎生れども南部の国は 西も東も金の山
景気がいい歌ばかりです。ホントでしょうか? 「伊那の高遠の余り米」は[伊那の百姓の涙米」なんていわれます。「笹に黄金」はクマササの実のことかな。飢饉の年にはクマササを食べたという話しが各地にあります。
★民謡《会津磐梯山》のお囃子に唄われる小原庄助さんとはどんな人物か。実在してるか定かでないようです。保科正之の旧領地伊那の高遠に小原という集落があるそうです。
★会津戦争後の会津藩領民の「ヤーヤー一揆」とは・・・幕末会津藩は藩主松平容保が京都守護職を命じられたため財政は火の車。百姓たちはキビシイ増税の取り立てに苦しんでいた。戊辰戦争後、百姓たちは村役人、豪商、地主たちを打ち壊し、帳簿の焼き捨てなどの暴動が続け要求を突き付けた。ヤーヤー一揆(世直し一揆)と呼ばれる。城を開城して江戸の護送される松平容保親子に対して百姓たちは背を向けて野良仕事をしていたと伝えられる。



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