比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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東山道・・保福寺峠・・・塩田平から

2006-09-03 | 道祖神・石仏・石神
昨年の夏、保福寺峠へふと思いついて行きました。むかしむかし義父に案内されて峠の茶屋のすずめ焼きを食べに行ったことを思い出したからです。上田市塩田平の金井という集落、近くに舌喰池というブッソウな名前の池があります。そこから山の中に入り女神岳という山の西麓、野倉という集落を抜けて保福寺峠へ。標高1345㍍、茶屋はもうありません。万葉歌碑と馬頭観音、ホタルブクロが咲いてました。

   保福寺峠の万葉歌碑
保福寺峠は大和王朝からの古東山道、政の道、戦の道、徴税の道です。その道は美濃の国中津川の落合から神坂峠(1640㍍)を越えて伊那の谷に出て、松本、岡田伊深、刈谷原峠を越えて保福寺村からここに至り上田、碓氷峠(960㍍)を越え毛の国(群馬、栃木)に向かいます。伊那の谷経由の道は神坂峠が厳しすぎてか713年吉蘇路(現19号線)に変わったといいます。東山道が中山道になり保福寺から和田峠(1531㍍)越えになったのは江戸時代になってからでしょうか。
上の写真はとりあえず撮ったものです。後で調べて、ようやく読めました。大和王朝時代の「防人(崎守)の歌」です。防人は中国、朝鮮の来襲に備え九州フロントを固めた徴用の自衛隊のようなものです。7世紀中期の朝鮮出兵の白村江の敗戦を機に始まったようですがこの制度はズルズルと中世の大宰府の廃止まで続いたようです。主に関東地区からの徴用が多いようですがどうしてでしょうか。徴用に取られるほうは諸経費は自己負担(持出し)で、留守宅の労働力を失う、その間の免税措置は無い、たまったものではありません。いまのイラク派遣とは少し違います。話はそれました。

   信濃路はいまのはりみち(懇道) かりばね(刈り株)に
    足踏ましむな くつ()はけわがせ()

      (信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓
         安思布麻之牟奈 久都波気 和我世


恋人かご主人のことを想ういい歌ですね。
万葉仮名は大和言葉の発音を漢字の音で表してある(当て字)だけですから読めなくて当たり前。この写真ではほとんど分かりません。一度現地で見てください。

  保福寺峠の馬頭観音          野倉の道祖神    
   

馬頭観音がありました。この道は松本―上田を結ぶ経済幹線道。むかしの運輸業者の馬方、牛方が通った道です。馬は現在の運輸トラックです。そうとう高額なものであり人馬一体で生活を支えていたわけです。馬が亡くなれば出費を惜しまず供養したと思います。それにしても牛の供養塔がなぜ無いのでしょう。

野倉の道祖神はマニアには有名な道祖神だそうです。チョッと年をとった穏やかな顔をしております。村の塞の神(悪魔よけ)であり道標でもあったのでしょう。切り絵はデフォルメして妻が制作しました。こちらは若い顔にしました。

   野倉の道祖神(切り絵)

この峠、ウォルター・ウエストンが1891年はじめて飛騨山脈を訪れたとき上田から松本への道を人力車で通り穂高連峰の美しさに感嘆の声をあげたと言います。記念碑がありました。この話は後で。

アクセスは前述の道の他、鹿教湯温泉、別所温泉、沓掛温泉、松本市(前四賀村)方面から。


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