むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

赤穂義士四十七義士石像(群馬県)

2020年04月19日 | その他
赤穂義士四十七義士石像あこうしじゅうしちぎしせきぞう
構造物石造
建立者元助・浅野長矩夫妻
指定史跡市指定史跡
場所安中市東上秋間岩戸3197  地図

上州下秋間に百姓三右衛門の長男として生まれた元助は、
幼くして母を失った後、三右衛門が後妻を迎えたのですが、家庭が円満に行かず家出をしました。
伊勢神宮へ行く途中、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮へ来た片岡源五右衛門の下僕となり
赤穂に行くと、奉公に励みました。
元禄14年3月江戸城松の廊下の刃傷事件で浅野家は断絶となり、赤穂城引渡しとなったことで
片岡は浪人となり、元助を伴って江戸へ下り吉良への復讐の期を狙っていました。
元禄15年12月13日討入りの際、元助は伴にすることは許されず、
義士が切腹して相果てたので、生まれ故郷の秋間村に帰り、浅野長矩夫妻と
四十七義士の石像を建立しました。


入口

この道を通るたびに、この入口の看板がずっと気になっていました。
なぜこんなとろに忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士?


駐車場

入口から迷うことなく登って来ると、駐車場がこの道の終点となります。
道は続いていますがこの先は通行止めになっているので車ではここまで。



案内看板もあるのですぐわかると思うのですが、ここから山に向って
登って行きます。
実は誰もいないだろうと思って来たのですが、先客もあり、後には
登って来られる人もまばらにいて、意外に訪れるひとがあるんだなあと思いました。



道は整備されているので、杖をついた年配の方もお参りに来ていました。



とはいえ、歩きやすい服装での訪問が望ましいです。



登りも少しありますが、距離もそう長くないので
この時期、散歩程度に丁度良いです。



なにやら大きな岩場が見えて来ました。


案内看板

この場所は岩戸観音堂があった場所です。


岩戸観音堂跡

大きな岩壁の窪みに、観音様や石祠、石碑が並んでいます。
なんとも幻想的な雰囲気に吸い寄せられます。



頭の上は、大きな岩の屋根になっています。



石の階段があり、石祠にお賽銭を置いて、流行病の早期終息をここでも祈ります。
神とあらば、なににでも縋りたい思いです。


屋根の跡

5歩下がって上の方を見てみると、御堂の屋根の柱痕が見えます。
苗木城の岩で見たのと同じような柱痕に見えたので看板を見たら、
やはり建造物の痕だったことがわかりました。



虎口には石垣があります。
しかし、ここが私の目指していた場所ではないので、再び先に進みます。



竹林を抜けると、またもや大きな岩の壁が見えて来ました。
いよいよ目的の場所か!



到着です。
道もここで終点となります。



四十七の石像がずらりと並んでいます。



これは見事です。(ここは神聖な場所です)
なんだか来てみて良かったと思った瞬間です。
こんなところがあったとは、今までスル―して来たのが悔やまれました。


魂明水

湧水が出ているようです。
それにしても、新幹線の通る音がかなり響きます^^;
この岩壁の向こうには、私もたまに利用する上越新幹線の「安中榛名駅」があるのです。


竹林

では、これにて引き返すことにします。
この道はちょっと進むと景色が変化するので退屈しない道のりです。



長矩夫妻と四十七義士の石像を建立すると、元助は諸国を巡る旅に出て
二度とこの地へは帰って来なかったという…。

その後、明治になると秋間村では帰らぬ元助の行方を尋ねること数十年、
千葉県南房総市和田浦にある長香寺にて手掛かりをみつけました。
村民を護る為、自ら岩窟に入り神仏となったことがわかりましたが、
青年団建立の碑に「元助は石州浜田の人なり」とあるを見て、島根県浜田市へ照会したところ
元助に関する発見はなにもなく、「元助は上州秋間の人なり」と訂正されたとのことです。
そして安中市指定史跡となり、今も3月14日を元助の供養日として供養を行っているそうです。



令和2年3月15日訪問


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