むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

岩櫃城(群馬県)

2023年01月31日 | 続百名城
岩櫃城いわびつじょう
別名吾妻城
構造山城
築城者斎藤憲行
築城年代1405年(応永12年)
指定史跡
場所吾妻郡東吾妻町原町 地図
スタンプ設置場所平沢登山口観光案内所(4月~11月)・東吾妻町観光案内所(12月~3月)
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  
御城印平沢登山口観光案内所・東吾妻町観光協会

1521年~1528年(大永年間)には斎藤氏が城主となり吾妻一帯を支配していました。
甲斐の武田信玄は真田幸隆に岩櫃城攻撃を命じるも、二度失敗。
その後1565年(永禄8年)真田幸隆は得意とする調略と奇襲で落し、
以後上田城、沼田城の支城として真田氏の拠点となります。


岩櫃山

大河ドラマ「真田丸」オープニングでCG編集されて出てくる岩櫃山です。
てっぺんにお城や手前に滝などはありませんが密岩神社からの岩櫃山は迫力あります。


駐車場

近くにある駐車場は思っていたより広く50台ほどの駐車スペースがあります。


平沢登山口観光案内所

今回は続百名城のスタンプと、この観光案内所を見に来ました。


攻城団団員の皆さん必見!

入口のガチャです。
実はここに攻城団の御当地限定バッチが売られているのです!
お城EXPO2017の上州真田三名城のブースでプレゼントされていたものと同じです。
「続日本100名城 岩櫃城 選定記念バッチ」とされていますが、これは攻城団の御当地限定バッチなんです。
※現在品切れのため入荷待ち状態です。
攻城団でも販売していない、ここに来ないと入手出来ないものです。
そして私も着けている山城登城にはお供の「真田紐の熊鈴」もお勧めです。






模型

この模型がなかなか良い出来で、平沢登山口観光案内所の方もこの模型を使って説明して
くださいました。






この模型もお城EXPO2017の上州真田三名城のブースで展示されていたものです。


スタンプ設置場所

続日本100名城のスタンプがあります。



ちなみに冬季はこちらの観光案内所は閉鎖されています。




いざ、岩櫃城へ。
こちらは平沢登山口入口からの登城です。




入口には休憩所があり、パンフレットと自動販売機があります。
ここでガイドマップと飲み物を揃えていざ、出陣!



休憩所

休憩所には歴代城主が掲げられています。ちなみに縄張り図は探してみましたが見当たりませんでした(^^;



中城

登り始めてまず開けた所に見えて来るのは中城。


案内看板

中城を過ぎると、本丸と殿邸との分かれ道です。
ここは案内に従って登りの道を選びます。



本丸目指して坂道を登ります。
道は細いが人通りはあるので避け合います。



看板に従いひたすら登り続けると本丸の下まで来ました。
ここまで来ると結構疲れます。



丁度良いところにベンチがあるのでここで一休み。
本丸を下から見上げたところです。



ここを登ると右手に二ノ丸が見えて来ます。


二ノ丸跡  

三角形の二の丸はそれほど広くありません。



二の丸から見た折れのある竪堀。


大堀切

二の丸から本丸へ。


竪堀

本丸から竪堀を見下ろせるのですが、なかなかいい竪堀です。
誰が見てもしっかり分かる堀具合です。



いよいよ、本丸跡に到着。
真田丸の影響か、結構人が居ました。


東屋

休憩用の東屋もあるのでおにぎりくらい持って来るんだったなあと後悔。
ここには登城記念に一言書き込めるノートが置いてあるので早速一筆。


櫓台跡

主郭で一番高くなっていて、眺めも良く周囲を観察するための場所だったようです。


本丸土塁

登って歩ける武者走り状の土塁。


北枡形虎口

搦手道から本丸へ入る枡形の虎口です。
本丸を挟んで南側に大手道からの南枡形虎口が配されています。


四合目

城址は岩櫃山の四合目の高さに位置しています。


五合目

今回は、五合目まで足を延してみました。
この辺りも城としての手が入っているように見受けられます。



自然を利用した堀切のようです。
ここより北側の一段下には意図的に切ったと思われる堀切も見られます。



ガイドさんによると、発掘調査によりこの付近から石垣が見つかったとのことです。
その後武田氏によって改修されたものと見られています。


腰曲輪

南枡形虎口と二ノ丸から本丸に上る通路で本丸南面を守る郭とされています。


南枡形虎口

腰曲輪を通り南枡形虎口を抜けて本丸に入るのが本来のルートだったようです。


殿屋敷跡

南に少し下ったところに殿屋敷跡があります。



屋敷跡は現在畑となっています。


東吾妻町観光協会



岩櫃城バッチ

ガチャのカプセルから外した状態です。


空撮



今回一部内容の更新をしました。
NHKの大河ドラマ「真田丸」効果もあって知名度が上がり、続百名城に選定され
更にこの地を訪れる人が増えました。
途中の道にも案内看板が整備されたりと観光に力を入れている様子がよく表れています。



平成28年2月28日登城
平成30年5月19日再登城
平成30年11月18日再登城
令和5年1月29日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

黒井城(兵庫県)

2023年01月30日 | 続百名城
黒井城くろいじょう
別名保月城
構造山城
築城者赤松貞範
築城年代1334年~1338年(建武年間)
指定史跡国指定史跡
場所丹波市春日町黒井 地図
スタンプ設置場所春日住民センター
空撮 USHISUN Aerichan  提供 ushisun
城郭検定出題あり
黒井城は、赤井氏の居城で織田信長の丹波攻略の際に、二度にわたり明智光秀の攻撃を支えた城です。
また、光秀の重臣斎藤内蔵助利三は下館を陣屋とし、この陣屋で利三の末娘として生まれています。
その末娘の名はお福と言い、後の春日局と伝承されています。







続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



一宮城(千葉県)

2023年01月26日 | 百名城以外の城
一宮城いちのみやじょう
別名山城
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所千葉県長生郡一宮町一宮 地図

一宮城は、詳細は不明ですが1562年(永禄5年)9月に館山城主の里見氏、
万木城主土岐氏、大多喜城主正木氏らに攻められ落城しています。(諸説あり)
そして1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際にも再び落城しています。
その後は本多忠勝の領土となり、脇坂安元、加納久儔により陣屋が造られ明治維新を迎えます。



大手門

加納藩当時に、ここには大手門が造られていました。
現在城山公園入口のシンボルとして大手門が再現されています。


案内看板

大手門の脇には一宮城址の看板と城山公園の案内図の看板があります。


駐車場

公園になっているので無料の駐車場が完備されています。
こちらに駐車して城さんぽ開始です(^^)/


振武館

加納藩の武道所としてあった「振武館」を再建したものです。
この日も元気いっぱいの声が聞こえていたのでチラ見したら、
剣道の稽古をしているところでした。


加納公紀徳の碑

加納久宜は明1869年(明治2年)に一宮藩知事となり、
鹿児島県知事などを務めた後、1911年(大正元年)に再びこの地に戻り、一宮町長に就任しました。
水田の耕地整理や海水浴場を開設し、名士の別荘を誘致したり、
婦人会・青年会・私立一宮女学校を作るなど、この業績を讃えて
この碑が生前建立されました。
建立当時は旧一宮役場にあったものを昭和63年に現地に移動しています。



振武館の裏側へやって来ました。
この先に加納公の墓があるというので行ってみようと思います。



城跡の雰囲気を醸し出す塀があります。



道はまだ先へと続いています。


加納公墓地

墓地になぜか鳥居があります。



加納久宜公(1848~1919)は、嘉永元年に陸奥国(現福島県)下手土藩主立花種善の弟の子として生まれました。
慶応3年に一宮藩の加納家に養子となり、藩主となりますが、
直後に明治維新を迎えてしまいます。
以後新潟学校校長や大審院検事などを歴任、明治27年(1894)に鹿児島県知事に就任すると、
積極的な政策を進め、今の鹿児島県の基礎を築いた「勧業知事」として活躍しました。
明治45年(1912)に一宮町民の熱望で一宮町長に就任。
耕地整理や名士の別荘招致、農業振興や教育政策等多数の事業を推進し、
一宮町を全国の「模範村」と称されるまで発展されました。
久宜公は大正8年(1919)に療養先の大分県別府で亡くなります。
この墓は大正11年(1922)に、久宜公の功績を称え、威徳を慕う町民多数の懸請により、
分骨を納め建立されました。
墓前の薩摩風石灯籠一対は、鹿児島県加納知事顕彰会から昭和18年(1943)に
献灯されました。  一宮町教育委員会

と看板に説明書きがされています。


眺望

山を登った感は無いのに、この眺め!
山も無ければ、高いビルも無い。
私が住んでるところでは、普段見ることない景色です。



では、ここらで引き返すことにします。





城跡と加納久宜公とはあまり関係無いようですが、
加納公の残した功績と町の人に愛されていた人物であることを
一宮城跡を訪れることによって知ることとなります。
肝心な一宮城については不明なことが多く、遺構も残っていないですが
眺望が良いのでお墓から城下を見下ろしてみるのがいいのかな。


令和5年1月4日登城





杉山城(埼玉県)

2023年01月25日 | 続百名城
杉山城すぎやまじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡国指定史跡
場所】比企郡嵐山町杉山 地図
スタンプ設置場所嵐山町役場(午前8時30分~ 午後5時15分)
空撮USHISUN Aerichan  提供 ushisun

杉山城は土造りの城の見本とも言われている城で、この城ひとつで多くの基本的防御の策が
見ることのできる城です。
杉山城・菅谷城・松山城・小倉城をはじめ中世城館の遺跡群が形成され
「比企城館跡群」として国史跡に指定されています。



嵐山町役場

続日本100名城に選定されたことで、スタンプ設置場所になりました。
まずはこちらでスタンプとパンフレットを収集します。


駐車場

久しぶりに来ました。
別の趣味で何度も訪れている場所ですが、城郭訪問で来ることになるとは思ってませんでした。
少し歩きますが、こちらの駐車場を利用して徒歩で登城も出来ます。


入口

スタンプが設置されたことで、土日も開いています。
疲れたら自販機もあるのでロビーでくつろいだり、トイレをお借りすることが出来ます。


スタンプ設置場所

ロビーにあるスタンプ設置場所です。
パンフレットなどの案内が充実しています。


案内図

以前訪れた時は大手側の積善寺の駐車場をお借りして登城したのですが、こちらはお寺さんの駐車場で、
城跡見学者用ではないので遠慮することにして、この案内図に従って玉ノ岡中学校の体育館前駐車場へ
行ってみることにしました。


臨時駐車場

玉ノ岡中学校の体育館前駐車場に来てみました。
見学者用の駐車場が用意されています。
ここからなら歩いてもすぐに大手口に出ます。
積善寺の駐車場に停めたり、さらに進んで出郭内に乗り入れてしまうのはやめましょう!



この先が大手口で、出郭に出ることが出来るのでこの部分は歩くとしても、
お寺の駐車場と大差なく、かなり近いところまで車で行くことが出来ます。


出郭

看板等も直されていて整備がされていました。
この日も居たのですが、くれぐれもこの付近まで車を乗り入れるのはやめましょう!



いつもながら手入れがされている城跡です。


パンフレット

ここにもパンフレットが設置されています。
以前訪れた時には落ちていた看板も、このとおり奇麗になって修復されています。


大手口

大手口の守りを固める出郭に立つと複雑な造りの大手口が見渡せます。
正面には土塁が立ちはだかり、深い堀がL字になって巡っています。


外郭

大手から入ると、まず外郭があります。
とにかく郭が多く防御の策も沢山施されています。


南二の郭



喰い違い虎口

南二の郭から南三の郭には喰い違い虎口が見られます。


南三の郭

比較的広い郭で、南側を見渡すことが出来ます。



切岸と連続する折れが見られます。


井戸郭

ここは井戸郭ですが、井戸は井戸郭の西側の一段下にあります。
井戸郭から井戸跡を見下す。


井戸跡

大きな石が蓋になっているこの井戸は今でも水がしみ出ています。
春には山椒魚が産卵をするそうです。
また、井戸の石蓋は廃城の際敵方に使われないために置かれたものと思われています。


北虎口と土橋

井戸郭から帯郭を抜けて回り込まないと本郭にはたどり着けない仕組みになっており
横矢掛りで敵を攻撃するという防御がされています。


本郭

本郭北側を向くと城跡碑と案内看板があります。



本郭南側を向くと広い郭の様子が見えます。
三方向に虎口を構えています。


東虎口

現在は埋め戻されていますが、ここから石積みが検出されています。
この他にも虎口では石が使われていることがわかっています。
東二の郭方面へ。


外郭の切岸

堀と土塁のメリハリが奇麗です。


帯郭



東二の郭

東二の郭は東三の郭に向かって自然の地形のまま、ゆるやかに傾斜しています。


東三の郭

緩い傾斜のままその地形を利用しています。


大手入口

お寺の駐車場約3台分程ありますが、城跡見学者用駐車場が別に用意されているので
そちらに停めるようにしましょう。


駐車場予定地

こちらが正式な駐車場の予定地です。
現在整備中なのでこちらが出来れば多くの車が置けるようになります。
この日もすでに3台ほど利用者がありました。


いつもながら手入れがされていて、以前訪れた時には看板が落ちていたり読めなかったりしていたものが
奇麗に懸けかえられていて更に整備がされていました。
また注目するのは駐車場の確保という部分ではだいぶ努力をされていて、今後を期待されます。
とてもありがたことです。
それと同時に、どうか積善寺方面からの車の乗り入れは避けるようお願いしたいです。
この日もお寺より更に上に進んだ出郭まで乗り入れてしまっている人がいました。
駐車スペースは無いので引き返すにしてもせっかく地元の方々や中学生が整備したり花を植えている場所を
破壊してしまいます。
せめてお寺の前の駐車場までで引き返すようにしてやって下さい。(杉山城も私有地です)




平成29年1月7日登城
平成30年6月17日再登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

松露饅頭(佐賀県)

2023年01月24日 | グルメ
🍡唐津の松露饅頭


1850年(嘉永3年)に佐賀県の唐津で創業。
豊臣秀吉が、朝鮮出兵で高麗から陶器と一緒に渡ってきた文化のひとつに「焼饅頭」がありました。
江戸時代に大原家の阿わび屋惣兵衛が焼饅頭に創意工夫をこらし、唐津藩主小笠原侯に献上したところ、
日本三大松原のひとつでもある「虹の松原」の松の根元の砂から年春、秋に自生する、
球状の高級キノコ「松露」に似ていることから「松露饅頭」と名付けられました。

ふるさと納税の返礼品にもなっている唐津の老舗 大原松露饅頭ということで
唐津の老舗和菓子を買ってみました。
中はこしあんで程よい甘さ。
疲れた時に、お茶と一緒にいただくととても癒されます。
昨年訪れた唐津城を思い浮かべながら、美味しく頂きました。


令和5年1月23日






勝浦城(千葉県)

2023年01月17日 | 百名城以外の城
勝浦城かつうらじょう
別名
構造海城
築城者真里谷信興
築城年代1521年(大永元年)
指定史跡
場所 千葉県勝浦市浜勝浦 地図

勝浦城は、真里谷氏の時代の砦に勝浦正木氏が入城しています。
しかし天正18年、豊臣秀吉によって里見氏は領地を一部没収され、
里見氏と親交が深かった三代目勝浦城主頼忠も城を明け渡し、安房へと逃れました。
頼忠の娘は徳川家康の側室で、水戸光圀の祖母にあたるお万の方です。
主郭にはお万の方の銅像が、城址を見守っています。




トンネルを抜けた先が駐車場です。


駐車場

日の出前に到着し、一休みしていました。
釣り人が居たり、けっこう人気のある場所です。


見晴台

郭?と思いきや、見晴台なんだそうです。


城址碑

八幡神社の入口に勝浦城の城址碑があります。


案内看板

八幡神社の入口にに立てられた勝浦城の案内板です。


二の郭

八幡岬公園の遊具のある広場が二の郭になります。



遊歩道を更に上に登って主郭を目指します。


主郭

主郭に到着しました。
この辺りが虎口になるでしょうか。



眺めも良く、主郭というよりは物見のようにも見えます。
断崖になっているので海側からの攻撃は難いと思われ、陸側からの攻めを守れば良さそうです。
戦国時代はこんな悠長なことは言ってられないのでしょうが、
四阿や、展望台もあってとても素敵な場所です。


お万の方像

1577年(天正5年)4月4日に勝浦城主正木頼忠の娘として生まれました。
豊臣秀吉の小田原城攻略の際に勝浦城は落城、母と弟と舟で伊豆の韮山へ逃れています。
その後母は韮山氏と再婚し、お萬は沼津本陣で出会った徳川家康に見染められ
江戸城へ上がると、家康の側室となりました。
そして紀伊徳川家の祖となる頼宣と水戸徳川家の祖となる頼房を生んでいます。
水戸徳川家の頼房の子は、水戸黄門でおなじみの水戸光圀です。
お万の方は、水戸光圀の祖母ということになります。


眺望

新年初の登城ということで、まずは日の出からの出陣です!
勝浦城が落城し、幼い弟と母を連れてこの断崖(実際はここから約40mほど東)に
白い布を垂らして海に下り、用意された小船で館山方面へ逃れたということから、
「お万の布さらし」と呼ばれるようになりました。
この海を渡って逃れたのかと思うと、どんな気持ちだったんだろうと考えてしまいます。


勝浦灯台

勝浦灯台は1917年(大正6年)3月1日に点灯を開始し、
100年以上の歴史がある白亜八角形の中型灯台です。



再び二の郭へ戻って来ました。
このあと、先ほど通り過ぎて来た八幡神社へ行ってみたいと思います。
ちなみに正面に見える建物がトイレです。
良く管理された公園なので(遊具も朽ちてません)安心して時間が過ごせます。



城址碑のある石段を登ると、鳥居があります。
八幡神社へと続く参道をどんどん進んで行きます。



道はさほどきつくなく、程よい運動量で間もなく
神社の建物が見えて来ました。


八幡神社

城域内にある神社で、天文年間に勝浦城主正木左近大夫頼忠が
城内の守護神として勝浦城郭内に建立しました。
江戸時代になり植村土佐守泰忠公がこの地に移ると、
社殿の改修するなど、今でも信仰を集めています。



八幡神社参道から見た主郭方面。
現在は遊歩道が整備されているので誰でも楽に主郭に登れますが
ここから見てもゴツゴツとした岩場で出来た要害が物々しく見えます。
そしてここからのこの眺めからしても、かつては物見だったかなあと想像してしまいます。



参道を下り、城址碑のところまで降りて来ました。
城址碑の裏には、勝浦城というよりはお万の方の一生が記されています。


鳥居

旧遠見岬神社の海鳥居が見えます。
「勝浦」の地名の発祥は、この鳴海神社にまつわるものがたりからはじまります。
また、勝浦城の城域は八幡岬から鳴海神社を含み、その下の恵比寿地区までに至ります。


令和5年の初登城は勝浦城から。
日の出を拝もうと暗いうちに駐車場に到着。
日の出に合わせて主郭へ。
綺麗な日の出を拝むことが出来ました。
今年は大河ドラマ「どうする家康」にちなんで
徳川家康ゆかりの場所へ行くこととなると思いますが、
まずは家康側室のお万の方の実家からのスタートとなりました。

令和5年1月4日登城


今回の参考本



謙信一夜城(千葉県)

2023年01月12日 | 百名城以外の城
謙信一夜城けんしんいちやじょう
別名 一夜城・王子台砦
構造平城
築城者上杉謙信
築城年代1566年(永禄9年)
指定史跡
場所千葉県佐倉市王子台3丁目12 地図

この地は、上杉謙信が兵馬を進めた城跡です。
関東管領上杉憲政に頼まれ関東進出を決意し、関東の各地に参陣しました。
謙信が臼井城を攻撃するも、臼井城主原胤定は佐倉城主千葉胤富の援護を得て
両軍満を持して動くことなくひと月余、そこへ上杉軍の陣営に
足利将軍の上洛を促す書状が着し、翌四月越後へ引揚げることになりました。



一夜城公園

現在、こちらは公園になっています。
ここから北へ約1.5Kmほどの場所に臼井城があります。



臼井駅南土地区画整理組合は工事の一環として
この城址の発掘調査を行い、中世城郭の遺構も確認されています。


城址碑

城址碑はとても立派なものがあります。



城址碑の裏には謙信一夜城の由来が刻まれています。


公園になっていて遺構はありません。
一夜城と言えば石垣山城が有名で、墨俣城や益富城など多くの人に知られているものから
あまり名の知られていない一夜城まで全国には一夜城と呼ばれる城跡がいくつかあります。
どこかの城を攻める際に急遽本陣を置いた場所がそれにあたります。
こちらも臼井城を攻める際に置かれた謙信の陣ということですが
どれも実際には一夜で城は築けていないが、かなり迅速に築いた陣城であることがわかります。


令和5年1月4日登城





小竹城(千葉県)

2023年01月09日 | 百名城以外の城
小竹城おたけじょう
別名
構造丘城
築城者小竹高胤
築城年代明徳年間(1390年~1394年)
指定史跡
場所千葉県佐倉市小竹913 地図

小竹城は、小竹氏の築いた居館で臼井城の支城であったと伝わります。
高さ約3mの土塁を周囲に巡らせた居館には、土塁の外側に堀を設け、
東南に入口が設けられています。
築城時期は1390年頃と推定されているものの、遺構は16世紀初期と推定され、
詳しいことはまだ解明されていません。




山崎産業株式会社付近の道路沿いに案内看板が見えて来たので確認すると、
ここが小竹城の入口でした。


案内看板

民有地ですので、許可なく立ち入ることはおやめください」と書いてあります。
道路から脇道を入ったところに小竹城はあるようですが、
どうやら私有地のようです。


小竹五郎之墓

案内看板の裏手の小竹に囲まれた場所に小竹五郎之墓があります。
小竹氏は後に帰農し、高橋氏を名乗るようになっています。
子孫が明治時代に建てられたというこの墓の台座に、
高橋と刻まれているのはどうやらそう言う経緯があるようです。



一文字土居、土塁、虎口が見えて来ました。
外からは郭内がまったく見えない構造になっています。


空堀

土塁の手前には空堀が残っています。
土塁や標柱もあり、外からこれだけでも見せて頂ければとてもありがたいことです。


土塁

「これより中には入らないで下さい」と掲げられていますが
これだけ見られれば私としては満足です。


一文字土居

虎口部分を目隠しする一文字土居もしっかり残っているので
これらの構造を今後もぜひ、維持して頂けたらと思います。


虎口

ここからは中に入れませんが、郭の中を見せまいとする
守りの土塁が立派で、当時もしっかり仕事をしていたものと想像出来ます。

一文字土居、土塁、空堀、虎口と、この構成が見られれば
郭の中に入って行かずとも十分楽しめます。
特に一文字土居を設けているところは、正面からと内側からと見てみたのですが
しっかり虎口を隠す構造になっていて、この入口ひとつで城の全てを見た気になってしまいました。

令和5年1月4日登城

今回の参考本