【八幡平陣城】はちまんだいらじんしろ
【別名】-
【構造】平城
【築城者】武田信玄
【築城年代】1561年(永禄4年)
【指定史跡】-
【場所】安中市簗瀬784−3 地図
八幡平陣城は、武田信玄と長野業政が戦いの場となった地域にある
武田氏の築いた陣城と伝わります。
戦国期に周囲の城が落城した際の犠牲者の首塚や、近くには前方後円墳の
二子塚が城域にあり、公園となっています。
二子塚(前方後円墳)
「しのぶ毛の国 二子塚」~上毛かるたでもおなじみの
「し」の札として登場する前方後円墳の二子塚です。
ここまでが八幡平陣城の城域(別郭)となっています。
駐車場
八幡平陣城の目標地点として、二子塚、首塚を目標にやってくると、
首塚に駐車場があるので、そこを利用して城さんぽ開始です!
首塚
簗瀬八幡平の首塚です。
ここにもともと古墳であり、その石室の外側に150体もの
頭蓋骨が埋まっていました。
案内看板
この首塚からみつかった150体もの頭蓋骨は、周囲にあるいくつもの
戦国時代の城で起きた戦で命を落とした犠牲者のものを集めて、埋葬されたものと考えられています。
そう言えば、江戸時代だけでなく昭和になってからも戦のあった城跡付近で
寺の住職を始め、村の人々が亡骸を探して集め供養したという話を
隣市でも耳にしたので、この辺りでもそのようなことがあったのかもしれませんね。
首塚駐車場に隣接する竹藪の辺りに、宅地になっていない地面の見える場所があります。
この竹藪の先に堀跡が少しだけ残っています。
堀切
周辺は住宅地になっており、地面もアスファルト化しているのですが、
一部土の見えている場所もあります。
ほんの一部ではありますが、右の凹みが堀跡になります。
この辺りは住宅を写さないようにするのが難しいほど、新しい住宅地となっています。
城域を巡ってみましたが、住宅やアパートが建っていて
遺構ほとんど見られません。
堀も埋められてどこだったかわかりません。
それでも、首塚の説明を読むとこの辺りには多くの城や砦があり
戦があったことがわかります。
令和2年3月15日登城
今回の参考本
【別名】-
【構造】平城
【築城者】武田信玄
【築城年代】1561年(永禄4年)
【指定史跡】-
【場所】安中市簗瀬784−3 地図
八幡平陣城は、武田信玄と長野業政が戦いの場となった地域にある
武田氏の築いた陣城と伝わります。
戦国期に周囲の城が落城した際の犠牲者の首塚や、近くには前方後円墳の
二子塚が城域にあり、公園となっています。
二子塚(前方後円墳)
「しのぶ毛の国 二子塚」~上毛かるたでもおなじみの
「し」の札として登場する前方後円墳の二子塚です。
ここまでが八幡平陣城の城域(別郭)となっています。
駐車場
八幡平陣城の目標地点として、二子塚、首塚を目標にやってくると、
首塚に駐車場があるので、そこを利用して城さんぽ開始です!
首塚
簗瀬八幡平の首塚です。
ここにもともと古墳であり、その石室の外側に150体もの
頭蓋骨が埋まっていました。
案内看板
この首塚からみつかった150体もの頭蓋骨は、周囲にあるいくつもの
戦国時代の城で起きた戦で命を落とした犠牲者のものを集めて、埋葬されたものと考えられています。
そう言えば、江戸時代だけでなく昭和になってからも戦のあった城跡付近で
寺の住職を始め、村の人々が亡骸を探して集め供養したという話を
隣市でも耳にしたので、この辺りでもそのようなことがあったのかもしれませんね。
首塚駐車場に隣接する竹藪の辺りに、宅地になっていない地面の見える場所があります。
この竹藪の先に堀跡が少しだけ残っています。
堀切
周辺は住宅地になっており、地面もアスファルト化しているのですが、
一部土の見えている場所もあります。
ほんの一部ではありますが、右の凹みが堀跡になります。
この辺りは住宅を写さないようにするのが難しいほど、新しい住宅地となっています。
城域を巡ってみましたが、住宅やアパートが建っていて
遺構ほとんど見られません。
堀も埋められてどこだったかわかりません。
それでも、首塚の説明を読むとこの辺りには多くの城や砦があり
戦があったことがわかります。
令和2年3月15日登城
今回の参考本