むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

八幡平陣城(群馬県)

2020年03月31日 | 百名城以外の城
八幡平陣城はちまんだいらじんしろ
別名
構造平城
築城者武田信玄
築城年代1561年(永禄4年)
指定史跡
場所安中市簗瀬784−3 地図

八幡平陣城は、武田信玄と長野業政が戦いの場となった地域にある
武田氏の築いた陣城と伝わります。
戦国期に周囲の城が落城した際の犠牲者の首塚や、近くには前方後円墳の
二子塚が城域にあり、公園となっています。



二子塚(前方後円墳)

「しのぶ毛の国 二子塚」~上毛かるたでもおなじみの
「し」の札として登場する前方後円墳の二子塚です。
ここまでが八幡平陣城の城域(別郭)となっています。


駐車場

八幡平陣城の目標地点として、二子塚、首塚を目標にやってくると、
首塚に駐車場があるので、そこを利用して城さんぽ開始です!


首塚

簗瀬八幡平の首塚です。
ここにもともと古墳であり、その石室の外側に150体もの
頭蓋骨が埋まっていました。


案内看板

この首塚からみつかった150体もの頭蓋骨は、周囲にあるいくつもの
戦国時代の城で起きた戦で命を落とした犠牲者のものを集めて、埋葬されたものと考えられています。
そう言えば、江戸時代だけでなく昭和になってからも戦のあった城跡付近で
寺の住職を始め、村の人々が亡骸を探して集め供養したという話を
隣市でも耳にしたので、この辺りでもそのようなことがあったのかもしれませんね。



首塚駐車場に隣接する竹藪の辺りに、宅地になっていない地面の見える場所があります。



この竹藪の先に堀跡が少しだけ残っています。


堀切

周辺は住宅地になっており、地面もアスファルト化しているのですが、
一部土の見えている場所もあります。
ほんの一部ではありますが、右の凹みが堀跡になります。
この辺りは住宅を写さないようにするのが難しいほど、新しい住宅地となっています。


城域を巡ってみましたが、住宅やアパートが建っていて
遺構ほとんど見られません。
堀も埋められてどこだったかわかりません。
それでも、首塚の説明を読むとこの辺りには多くの城や砦があり
戦があったことがわかります。


令和2年3月15日登城


今回の参考本

杣瀬城(群馬県)

2020年03月28日 | 百名城以外の城
杣瀬城そませじょう
別名
構造丘城
築城者小幡信貞
築城年代1587年(天正15年)頃
指定史跡
場所甘楽郡下仁田町馬山杣瀬 地図

杣瀬城は、小幡信貞が武田氏が滅びて北条氏に属してからの築城した城と伝わります。
小幡信貞は関東管領山ノ内上杉氏の重臣で国峰城の城主小幡憲重の子です。
上信越自動車道の開発に伴い、下鎌田城・平賀城・塩ノ入城と連続して四つの城跡が
破壊されています。
昭和62年から平成2年までの4か年をかけて発掘調査が実施され、門跡、井戸、礎石
建物跡などが発掘されるも、現在は想像するにも困難なほど消滅しています。




城址の中心のほぼ全体が上信越道に消えているのですが、
それでも何か残っていないものかと側道周辺の捜索にやってきました。



まずは、南側の堀跡を求めて捜索にやって来ました。
ここから主郭西の大空堀があったはずですが…堀どころか埋め立てられた上に
盛土して、まるで土塁のようになってます。
まったく地形は別のものに生まれ変わっています。
ちなみに上は畑です。



先ほどの道は、畑への入口として使われていて、道の終点を覗き込むと
竹藪の中に腰郭のような段状の自然地形とは思えないものが見えます。
※私には腰郭に見えます。


城原

そして、こちらが主郭から南西に広がる「城原」と呼ばれる場所です。
日当たりも良く、平なので畑になっています。


神成城

鏑川を挟み、北側には宮崎城・神成城が良く見えます。(丸見え
これ、横に歩くと結構疲れるんですよね。
ハイキングコースとしてとても人気なので整備がされているので
宮崎城・神成城セットで楽しめるのでおススメです!



主郭付近から東を向いて、高速道路上に段々に5つの郭が並んでいたことを
想像して下さい。


主郭

この辺りから高速道路上が主郭になりますが…残念ながらこのような結果です。
大空堀も見る影もありません。
ちなみに大空堀は左の枝道手前を通っていたはずですがまったくわかりませんね。


二ノ郭

この空中(道路上)に二ノ郭がありました。
そして、高速度路の反対岸(北側)にも北に張り出した郭がありました。
ここから見ると少し山辺が残っているのが見えるので
何か手掛かりがあるかもしれないので、行ってみようと思います。


北の郭

上信越道25.9kmポスト地点が杣瀬城ですので、ここを通過する際は
思い出してみて下さい。



今回の収穫はこちら。
思った通り、ここには北に張り出した郭の一部が残っていました!
竹藪を覗いてみましょう



薮でよくわからない写真ですが、確かに郭の部分が残っています。
あるある!!と舞い上がってしまいましたよ^^;



東に向って、この竹藪の中にわずかな遺構が隠されているので
覗きながら東の空堀跡まで辿って行ってみます。



最後の郭の竹藪を覗き込むと北の隅が残っています。



郭の中に入ってみました。
ここは残っている郭で人が立ち入れる部分です。


土塁

ほんのわずかな土塁と、その向こうが東の末端に造られた空堀跡があります。
現在、北側(宅地側)を竹の伐採をしている途中のようでした。
見通しが良くなり、残った郭が見えてこないかなと期待しています。


下仁田町歴史館で発掘された一部展示等しているそうなので、落ち着いた頃に
調べに行ってみたいと思います。
ほんのわずかですが、遺構が残っているのが確認出来て良かったです(^^)v


それにしても、下仁田インター付近での事故が多発していますが、
これは城跡を4つも潰した「城主の怨念」ではないのかと思ってしまいます^^;
富岡から藤岡間でも事故が多いですがこれも城跡を潰しているからなのではと
思ってしまいます。
もっと現実的に言ってしまえば、敵が攻め入りにくい地形を選んで
城を築いているのだから、そもそも難儀な場所であるということで、
登ったり下ったりするのだから渋滞も起きましょう。
つまり、無理にそのような場所を使うから事故多発に繋がると思います。
そこんとこ考慮して、今後は城跡を潰さないルートでの道づくりを
願いたいものです。


令和2年3月1日登城


今回の参考本




榎下城(群馬県)

2020年03月24日 | 百名城以外の城
榎下城えげじょう
別名鶴巻城
構造平城
築城者安中氏
築城年代1525年(大永5年)
指定史跡
場所安中市原市2989 地図

久昌寺域が、もともと榎下城で安中忠政が安中城へ移るまで
在城していたと伝わります。
久昌寺の寺の敷地内を道路が貫いて、堀の多くは宅地や畑、墓地により
埋め立てられ、北側に堀と土塁が残るのみとなっています。



久昌寺参道

こちらが大手となり、この場所に門があったと考えられています。
本来ここにも堀があったはずですが、埋め立てられ、宅地となっています。


駐車場

こちらに車を寄せて散策です。


本堂

改修したばかりのようです。


鬼瓦

改修前の本堂に使われていた鬼瓦が飾られています。



ここから、すでに土塁が見えています。
ワクワクします!早速行ってみることに。


土塁

本堂裏には土塁や二重堀が残っています。
わりとしっかり土塁が残っています。


内堀

土塁の先に、内堀が巡っていたことがわかる場所があります。
現在は浅くなっていますが、幅もあって四方をこの規模で囲っていたことが
ここから推測することが出来ます。



道路で寸断されていますが、この先道路の向こうまで
堀は続いていました。


虎口

搦手側からの出入口となる場所は、土塁と土塁の間に切れ目を入れて
道を通しています。


外堀

二重の土塁を抜けると、外堀が巡っていることが確認出来ます。
ここから外側が城の外になり、現在は果樹園となっています。



こちらの外堀も道路の向こうまで続いていました。
現在も確認可能です。



道路西側も城域です。
名残はあるものの、墓地と化しています。



城の中を走る道路です。
この東を平行に走る道路は、東側の外堀を道路として改修されています。


本堂の裏に土塁がある程度を想像していたのですが、二重堀も見られて
思っていたより収穫、目の保養が出来ました。
高台ではないのに、以外にも妙義山や雪をかぶった浅間山も綺麗に見える場所でした。


令和2年3月15日登城


今回の参考本



塩ノ入城(群馬県)

2020年03月20日 | 百名城以外の城
塩ノ入城しおのいりじょう
別名
構造山城
築城者小幡氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市野上塩ノ入 地図

鏑川沿いに連なる城々の中に大山城と西平城の間にある塩ノ入城があります。
対岸には宮崎城、神成城があり、この一帯は城や砦に囲まれた重要地帯である
ことがうかがわれます。
国峰城主の小幡氏の配下にあり、武田氏の上州侵攻の拠点として
上杉氏、北条氏との攻防戦に備えられた軍事的に抑えの必要な地点でもありました。




上信越自動車道の側道、舗装路終点(始点)付近。
ここにコンクリートの階段の付いた場所があります。
※ここは登城路ではなかったので、滑る急勾配を登らずに後に紹介している
本来の登城路をお勧めします。




以前塩ノ入城の入口探しに訪れた時に目星を付けた場所です。
実は前回もこの階段を登ってみたのですが、登った先には道がありませんでした。



石段から先は斜面が広がる…直登するしかないか…。



少し登ると、ジグザグに登るうっすらと道が見えて来ます。
(心の目で見る道)



尾根に出ました!



尾根は開けていて歩きやすくなっていました。


石垣

すると…前方に石積が見えて来ました!
何も残っていないと思って歩いていたのでこれには驚きました。



これが見れただけでも満足です!
ちゃんと角も出ています。






低いですがちゃんと積まれていますよ(*^_^*)



なんと、よく見ると足元も石積みになっていました。



早速、足元の石積を見るために、一段降りて北側から確認しました。


虎口

小型の郭が段状にいくつかあります。
周囲には大きな岩が多く見られるので、自然の地形と岩を利用して
形成されている様子が窺えます。
そして、虎口と思われる場所には石積がされています。



更に主郭目指して西に向って登って行きます。






ここが主郭下、東側の一番広い郭(削平地)になります。
この広い郭の東と南に腰郭のような小ぶりな郭が段状にいくつも
取り着いています。


ゴルフ場

南側は足元までゴルフ場の敷地が見えます。
そして、現在も開発が進んでいるようです。
どこまで、城域が削られてしまうのか…本当にギリギリのところです。
これ以上削られて欲しくないのですがこればっかりは地権者次第なので
訪れていない方は、今のうち見ておくことをお勧めします。


竪掘

主郭下の南斜面にある竪堀です。



竪堀を横に超えて、更に西側へ行くと
主郭下の西南に延びる段郭に出ます。



主郭下の南西の郭から東の郭へと延びる小道を進んで
いよいよ主郭へと入ります。


主郭

東側は緩い傾斜になっていて、こちらが主郭への入口と思われます。



上信越道に削り取られてしまっていますが、なんとか主郭も残っていました。


眺望

主郭からの眺望です。


烽火台?

西側に見えるこんもりとした場所が、前回間違えて登った
石祠のある烽火台と思われる高台です。



そして、南側にはゴルフ場が広がります。
真下には南に延びる段状の郭も見えます。



主郭は日本道路公団の持ち物のようなので、いまのところ
これ以上削られることは無いのかなと思われます。



再び主郭東の一段下の小ぶりな郭にやってきました。
この郭の縁の部分をよく見ると、石積みで補強していることが
確認出来ました。



主郭までの大手道とも言える道には、
石を使って構築されていた痕跡が見えます。



更に下の一番広い郭から見上げてみても、縁に積まれた石が
目視で確認出来ます。
落ち葉をどけてみると、この石積みは南と東に続いているので意図的に
構築していることがわかります。



尾根の先端まで戻って来ました。
ほぼ直登に近い状態の斜面をまた降りるのかあ…。
それにしても、もっと往来しやすい大手道や搦手道というものは
ないのだろうか…。いや、きっとどこかにあるはず!

すると、発見しました!やはりありました。本来の道。



舗装路の終点からさらに進み、車道から外れて小川を渡り道なりに進みます。
ちなみにこの先道、車は左にしか曲がれず道は荒れています。
塩ノ入城は車道ではなく、右の車が進入出来ない方の道に進みます。






この写真ではわかりずらいですが、この道からトの字に曲がる道があります。
※写真中央辺りに入口があります。



トの字に曲がると竹林の中に尾根に向って登る道があります。



普通に難なく道を登って行けます。



というわけで、道路公団が造ったであろうコンクリートの階段からの直登は
疲れるので、こちらの竹林を抜ける本来の城跡へのルートをお勧めします。


ゴルフ場

トノ字に曲がらずに真直ぐ道なりに進んだ場合はこのようにゴルフ場に出ます。
こちらからゴルフ場に出て城跡南の真下から登るという手もありますが
ゴルフ場進入で怒られかねないので私はこれ以上の進入は試みていません。


ここからは前回一度アップした烽火台?と思われる場所に行った時のものです。


上信越道側道

高速道路の側道を走っていると、山側に登れそうな階段を発見!
これは登ってみなければなるまい。
※先に言っておきますが、ここは塩ノ入城ではありません。



160段以上ある階段は、角度もキツイ!



階段を登りきると尾根に出ました。
もう、ワクワクが止まりません!



この先に主郭が待っているのか!?


石祠

頂上に到着!
畳1畳ほどの広さしかありません。
ここ?
ここなのか?



西に向って尾根が続いているので、100mほど進んでみました。
一段下に腰郭らしきものも見えるのですが…。
なんだかちょっと様子が違う…。
どうやら、お隣に登ってしまったようです。
とはいうものの、なんらかの関連がありそうです。



前回は塩ノ入城をみつけられなかったのですが、偶然この土地の元持ち主だったと
いう方から話が聞けたのでリベンジにやってきました。
思いのほか遺構が残っていたので、これをきっかけにもっと見てもらいたいのと
やはり情報が少ないので今後行かれる方に新発見をしていただきたいです。
なんだかとても興味深い造りをしているので、あまり知られずに埋もれているには
もったいない気がしてならないのでぜひ、足を運んでみていただけると嬉しいです。
なお、倒木が多いので頭上、足元ご注意ください。

令和2年2月2日入口まで
令和2年3月1日登城


今回の参考本




原城(群馬県)

2020年03月18日 | 百名城以外の城
原城はらじょう
別名
構造岸端城
築城者斎藤半兵衛竜政
築城年代元亀年間
指定史跡市指定史跡
場所高崎市上室田町3056 地図

原城は、中世末期に美濃の斎藤道三の末流である斎藤半兵衛竜政が築いたと伝わります。
西に隣接する雨堤の砦の豪族である長壁道観と築城したという記録が残ります。
縄張は狭長で小ぶりながら巨大な堀に守られ、東の平地には中屋敷と馬場が構築されていました。



主郭

南北に細長い主郭が見えます。


南側入口

郭への入口に一番近いこの場所の両側は民家で、
こちらの住民の方が外にいらっしゃったのでお声を掛けると
親切に、お隣のお宅の通行の妨げにならないように置いてくれれば
ここに車を置いて行って来ていいよとおっしゃってくれたので
お言葉に甘えて、敷地を拝借して急いで見学させて頂きました。(感謝です)



この辺りはイノシシ除けをされている場所が多く、
原城へ行くにも、この獣除けを「気を付けて跨いで行ってね」と
行き方を教えてもらったので、短い足が引っかからないよう
慎重に足を上げて進みました。


入口

すぐに堀が見えるのでいきなりテンション上げ上げになり、
入口を見落としそうになりました。
先ほどの住民の方がすぐ左に入口があるとおっしゃっていたので
よ~く見ると、枯れ葉に埋もれた階段があるのが見えました。
その先には案内看板と標柱も見えています。




かつては水堀であったとされる南側の堀です。
周囲は田畑となりつつも、よくぞ残してくれました。


二の郭

南側の堀を渡り、二の郭へと登ります。


案内看板

登りきった二の郭でまず迎えてくれたのは案内看板。


標柱と石祠

標柱と石祠があります。
あまり広くない二の郭は、まるで物見のようです。


主郭

二の郭から見た主郭。
ここを登って渡るのかなあ?


水路

北側から流れる水路は水堀のようになっています。
そして、実はこの川がこの城を造り上げている重要な川なのです。


土塁

南側の堀と堀の間には人が一人通れる程度の幅の、
細い尾根のような土塁が残っています。



反対側からも見てみました。


堀切

主郭の堀はは、美しいほど見事な堀です。
これは惚れ惚れします。
ところで、主郭への入口がみつかりません。
しかもこの急勾配は、甲冑を着ていない私でもどうやって登ろうか悩みます。
三の郭側からも道や入口がみつからないので無理やりよじ登るしかないのでしょうか…。


中屋敷

東側の中屋敷へやって来ました。
東の平地は居住区となっていました。
奥には低い土塁が残ります。



城の守り神でしょうか。
現代になっても大切にされている様子がわかります。


水路

この水流を使って、流し堀りをして巨大な堀が造られたそうです。
見事な堀を造ったと同時に主郭削り過ぎたんちゃう?と思ってしまいました^^;


中屋敷

屋敷跡と主郭の高さは同じです。
というか、同じ陸続きだったはずですからそれもそうか。
そして、その深い堀を水流で掘ったのかと思うと水の力は凄いなあと思う。



馬場ならぬ…現在は牛舎です。


訪れたきっかけは前の晩視た「ブラタモリ」で、島原・天草一揆の話題で原城が出ていたこと。
いいなあ、行ってみたいなあとネットで検索していたら、ここの原城もヒットしたことで
よし、県内なら行ける!原城へ行こう!とう気分になり訪れました。
すると、「麒麟が来る」でも話題の斎藤道三の末裔の城であるとも。
なんとも…NHKに導かれた原城訪問でした。


令和2年3月15日登城


今回の参考本

簗瀬城(群馬県)

2020年03月16日 | 百名城以外の城
原市城はらいちじょう
別名稲荷城・原市城
構造断崖城
築城者安中氏
築城年代1215年(建治元年)
指定史跡
場所安中市簗瀬651 地図

碓氷川の断崖上に築かれた簗瀬城は、永禄年代の武田氏の松井田城・安中城攻略の
前線基地として西隣にある八幡平陣城とともに重要地点であったことが
推定されています。
現在簗瀬城跡には、眺望が良いことから近郷から城山稲荷が移築され、
拝殿の造築・神殿の新調・葺替えを修理など繰り返し、
郷人に守られながら今に至ります。



駐車場

大手道から入城すると、神社と住宅地との間の三角地に駐車場があります。


堀と土塁

神社を囲うように南面以外をコの字に土塁と堀が巡っていました。
東西の堀は現在道路と化しています。
北面のこの場所が一番状態が良く残っています。


虎口

神社から見ると背面に当たる北側が
大手の虎口になります。


主郭

城山稲荷のある境内が主郭になります。



南側は碓氷川で断崖になっています。
先週からこの碓氷川沿いに城を巡っていますが、やはり同じような立地で
対岸に見える景色が同じように見えます。^^;


磯部城

ほらね、また対岸に磯部城が見えてます。
(私も好きだなあ てか、しつこい~


拝殿

やはり稲荷神社は朱色が目立つ。
今日も流行病の早期終息を御祈り致します。



神社は確かに眺望の良い方角を向いています。
日当たりが良さそうですね。
大手から入ると神社は裏を向いていますが、南に回り込んで
神社へ入る状況は、この配置と景色を見ると納得出来ます。


御神木跡

ここには御神木があったのでしょう。
株はかなり太く大きな御神木があったものと思われます。


石碑

右の歌碑は松尾芭蕉の句「このあたり 眼に見ゆる物 皆すずし」とありますが、
この句は貞亨5年6月8日に松尾芭蕉が岐阜の油商賀島善右衛門の別邸で、
長良川の涼しげな風景を見て詠んだものとされていますが、
碓氷川を長良川に観立てた歌碑なのでしょうか。



境内には、とにかく甲神塔や歌碑など多くの石碑がありますが、
どれも、城に関してのことが刻まれたものでは無さそう…。



しかし、よ~く探してみたらありました!
古来より城址~と続き、前半に城山稲荷神社になったことが書かれていますが、
残念ながら文字が樹の葉に隠れていて読めない
これはもう一度ちゃんと撮って来て解読してみるしかあるまい。
情報が少ないので、多少なりとも手掛かりが記されていれば幸いです。



西の土塁上の石祠。


櫓台

北西角の一番高い土塁は櫓台とされています。


鳥居

南側へ降りてみました。
神社への入口はこちらでしたね^^;



南側は断崖となっています。



東へ進んで行くと東に向かって二段ほどの郭が配されていると思われ
途中まで行ってみたのですが、道上の郭と思われる場所は
人が踏み入ることは無いようで、完全に薮化していました。


先週に引き続き、碓氷川沿いに築城された簗瀬城へとやって来ました。
碓氷川の断崖を利用した城が立ち並んでいたことを知ってしまうと、
これまで何も感じていなかった川沿いが、
断崖上が城だらけという光景を目にするようになってしまいます。
碓氷川…恐るべし。。。


令和2年3月15日登城


今回の参考本

滝山城(群馬県)

2020年03月12日 | 百名城以外の城
滝山城たきやまじょう
別名
構造崖端城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所安中市簗瀬236 地図

現在聖明寺がある滝山城の詳細は不明で、永禄年間の武田信玄による
碓氷進出の際の前線基地のひとつであったことが推定されます。
これより西の同段丘上には菅沼城があり、周辺にも幾つもの城が構築されています。



入口

城の大手は西側にあり、現在は搦手側の聖明寺の参道側からでないとアクセス出来ないので
現在の表の道から行きます。


駐車場

入口から進み、つきあたりに聖明寺の駐車場があります。
広くはないものの、参拝向け駐車場があるのはありがたい。



駐車場の東側にある先端になります。
両側は川になりなります。
この狭く細い部分…


山門

階段を登りきると、立派な山門が待ち構えています。



奥には観音様も見えます。


本堂

本堂のある平場が主郭となります。


二の郭

墓地のある場所が二の郭にあたります。
二の丸、三の丸へと高くなって行きます。
これって…主郭と三の丸が逆?大手も逆?という疑問が湧いてきました。



二の郭と三の郭の間に区切りがなされています。
ここは低い土塁と堀のような造りで区切られています。
二の郭と主郭の間にもこのような区切りがなされていたのかもしれませんが
お寺も二回建立されているので改変されていると思われます。


石祠

二の郭と三の郭を区切った西側(三の郭)に高まりがり、その上に
石祠が鎮座しています。
三の郭にこれがある…やっぱりこっちが主郭なのでは?
しかし、私は学者でも研究者でも学校の先生でもありません。(素人の戯言です)


三の郭

三の郭は竹藪になっています。
道があるので行けるとこまで進んでみたいと思います。



三の郭半ばのところで竹が多く倒れており、今にも頭の上に倒れて来そう…。
周囲を見渡すと少しずつ倒れた竹を整備しているようであるので
手の入っていない部分に踏み込むのは今回はやめておきます。


土塁

北側に残る低い土塁。
虎口なわけじゃない場所が切れちゃってます。


主郭

主郭には聖明寺と住職の居住空間となっています。


磯部城

主郭からの眺めです。
足元は断崖、正面には磯部城が見えます。



余談ですが、「滝山城」なる、由来はなんでしょうね。
滝山城と言えば、続100名城でもある東京八王子が有名を想像しますが
何の関係もなさそうだし…。


六地蔵

浄土宗称名寺の跡地に今の黄檗宗聖明寺が建立されたそうですが
宗派も違う、別のお寺が建てられているとは、どんな歴史があるのでしょうか。
そんなことを考えながら、お地蔵さまに挨拶しながら滝山城を去ることに。。。


菅沼城に続き訪問。
三の郭の先に大手の枡形虎口があるというので行ってみたかったのですが
今回は断念しました。
これも昨年の台風の影響なのでしょうね。
多くのことは解っていないものの、縄張りは城郭の風格が見られるので
妄想材料にはなりますね^^;


令和2年3月7日登城


今回の参考本

菅沼城(群馬県)

2020年03月10日 | 百名城以外の城
菅沼城すがぬまじょう
別名下山城
構造平城
築城者菅沼定清
築城年代文禄年間
指定史跡
場所安中市郷原 地図

菅沼氏は三河に本拠を置く一族で、今川、武田、徳川に分かれて仕えていたうちの
徳川に仕えていたことから、家康が関東へ移った時期に定清はこの地を所領したものと
思われます。
碓氷川の段丘を利用し、同じ段丘上の東側には滝山城があり、対岸には人見城もあります。
現在は海雲寺が建立されています。


東門

東門のある海雲寺入口が大手になります。
門の前には招き猫が手招きしています。


外堀跡

東・北・西に二重に堀が巡っています。
大手左手に流れる川は外堀となっています。


内堀跡

東門より入ったこちらの窪みが推定の堀跡とされています。
南奥には折れがあり、横矢が掛けられていました。
ここから見るとちょっと低い高まりになっていますが、
横矢を掛けるには、当時はもっと高さがあったと思われます。



東の門を入ってすぐ右手には、はっきりくっきりわかりやすい
堀と土塁が残っています。



大手を歩き海雲寺の境内へと進みます。


土塁

良い感じに残る北東の土塁です。



境内の駐車場を拝借して散策しました。
ちなみに海雲寺の利用者以外駐車禁止となっています。


鐘楼

「招き猫の寺」として知られている海雲寺の境内です。
立派な鐘楼や門が見えます。


本堂

海雲寺の和尚さんが井伊家の菩提所である東京都世田谷区の豪徳寺で修業したという
御縁で分身をお祀りしているそうです。
境内の中にある新しい門をくぐって本堂へ。


招福観音

昔、彦根城主の井伊直孝が武蔵野に狩りに出ると、大雷雨に遭いました。
その時、一匹の猫が現れ片手を上げ招き、着いて行くと茅屋に。そこで 雨が凌ぐことが出来ました。
招福観音はこの招き猫の話が由来の珍しい観音様です。


招き猫

招福観音のお使いとして祀られている招き猫です。
多くの御縁に感謝して、観音様のご功徳を信じて招き猫に願いを込めて
お詣りしましょう。
「流行病が早く終息しますように…」合掌、ペコ、ペコ。


外堀

西の道路はかつての外堀で、右の生け垣がある場所は土塁になります。


西門

西側の虎口となる西門があったはずですが…残念ながら今はありません。



西の虎口には碓氷川へ下る階段が取り着いています。
ここを覗き込むと、井戸が見えます。


井戸

郭から一段下がったところに井戸があります。


土塁

再び境内へ戻って来ました。
西門から南西に土塁が残っています。
こちらの土塁は巡っているのではなく、この部分だけのようなので
対岸を眺める櫓台としての役割をはたしていたのではないでしょうか。





流行病の影響で外出自粛モード。
家に籠城していようかとも思ったのですが、
気がめいるばかりなのでここはひとつ、神様、仏様にお願いしようと城郭寺院を目指してやって来ました。
幸い、参拝者にも会うことがなくゆっくり散策することが出来ました。
いつまでこの状況が続くのか…でも、こうして遠くへ出かけなくても多くの城郭散策が
出来ることも分かったので、せっかくなのでこの機会に近くの城さんぽも
いいのかなって思いました。


令和2年3月7日登城