むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

丸根城(愛知県)

2022年11月23日 | 百名城以外の城
丸根城まるねじょう
別名牛野城
構造平山城
築城者不明
築城年代室町時代末期
指定史跡
場所愛知県豊田市野見町7丁目 地図

丸根城は、室町時代末期の城と推定されています。
城は三つの郭から成り、堀・土塁・井戸などの遺構が良好に残っています。
築城主は不明ですが、周囲を治める松平氏の一族の城とも考えられています。



駐車場

右の側道に入ってすぐに駐車場があります。
ここに車を置いて公園の方へ。


城址碑

道下に城址碑がありました。


空掘

城址碑の隣には空堀があります。
結構な幅があり、しっかり形が残ってます。


虎口

現在はアスファルトで舗装がされていますが、両側に空堀があるということは
かつては土橋か木橋が架けられていたものと想像します。


空堀

このように掘り込んであります。
ちなみにこの堀底は下の県道から登って来る通路にもなっています。


北郭

虎口は入ってすぐの左手には北郭があります。
道から一段高くなった場所に堀が囲むように郭が築かれています。



南側には矢作川、北側は台地と繋がっているため、堀で防御しています。
中央には公園らしく四阿が設置されています。


空堀

北郭と主郭の間にある堀です。
北郭から主郭側を見ているところです。


堀の入口

公園なので遊歩道になっているようです。
先ほどの堀底を散策できるようになっています。


主郭

主郭にやって来ました。
入口には案内看板があります。



説明板によるとこの写真の左奥に、井戸があったところをふさいで山の神の祠が祀られているとあります。
ちょっと草が生い茂っているので、そこまで行って確認はしていません。



主郭は長方形でコの字に土塁が築かれていました。
現在は北側に土塁が残り、消滅したところには生垣が植えられています。


土塁

ここに主郭北側の土塁に登る小道?があります。



土塁も良く残っています。
そして土塁の向こうは堀切になっていて、土塁の上から見ると
結構な高さを感じます。



城の東側へやって来ました。
外から見ているのですが、こちら側は掘削がされ遺構の状態は不明です。



南側の入り口へやって来ました。
ここから西側の堀を通って主郭の虎口に行くことが出来ます。



この先が掘になり、位置的に右上に山の神様がの祠があるのでしょうか。


南側の入口で撮影していたら、通行人の男性が城址に向かってお辞儀をして手を合わせていました。
これは何を意味するのかしら?
山の神さまに向けてなのか、城主さまに向けてなのか…。
いずれにせよただの公園ではなく、地元の方がこのような扱いをされる場所なんだなと認識しました。
もう少し詳しく知りたいところですが、資料不足でモヤモヤです(^^;


令和4年10月30日登城









諏訪原城(静岡県)

2022年11月15日 | 続百名城
諏訪原城すわはらじょう
別名諏訪之原城・牧野城・牧野原城・扇城・金谷城
構造山城
築城者馬場信春
築城年代1573年
指定史跡国指定史跡
場所島田市金谷 地図
スタンプ設置場所諏訪原城第一駐車場パンフレット置き場(終日利用可)
城郭検定出題あり

諏訪原城跡は、武田信玄が砦を築き、その後1573年(天正元年)、徳川家康に対する備えとして、
武田方の家臣である馬場美濃守信房に命じて、築いた城郭です。
城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」と名付けられました。
1575年(天正3年)、徳川家康によって落城すると牧野城(牧野原城)と改名され
武田方に渡った高天神城を攻略するための拠点となりました。
1581年(天正9年)高天神城が落城、武田氏が滅亡すると諏訪原城も役目を終え、
1590年(天正18年)頃には諏訪原城も廃城となりました。



ビジターセンター

ビジターセンターの駐車場へ利用しました。
まだ時間が早いので開いてなかったので、ビジターセンターは後回しにしました。



ビジターセンターを出てすぐに遺構が見えて来ます。
これは楽です。


パンフレット

ビジターセンターが開いてなくても、ここでパンフレットが入手出来ます。



道を挟んで右手には大手南外堀があり、
左手の茶畑になっているのは大手曲輪です。


大手南外堀

現在埋め立てられていますが、この堀は薬研堀になっていたことが発掘調査で判明しています。



歩き始めて早々に見事な堀が見えて来るので大興奮!
堀の掘り方が深さも幅も豪快です


今福浄閑戦死墓塚

武田氏の家臣で諏訪原城城主であった今福浄閑は徳川軍の攻撃で城内で討死しました。


城址碑と看板

城址碑と案内看板があります。



城址碑の前まで来ると、前方が開けて三日月堀に丸馬出が見えます。
諏訪原城の馬出は7箇所もあります。


二の曲輪中馬出

がっつり、はっきりわかりやすい丸馬出に感動!


土橋

二の曲輪中馬出と二の丸曲輪北馬出を結ぶ土橋を通って最北端の馬出へ。



この場所は、城郭検定の1級の写真問題になってました。
今回初めて訪れたのでこの問題は勘で当てましたが、あらためてこの目で正解を確認👍


二の丸曲輪北馬出

ここにある薬医門は、平成20年の発掘成果によって平成29年に復元されたものです。
木材の一部は城内の樹を伐採したものを利用しているとのことです。
現在、更なる工事が進められているようです。


土橋

先程渡った二の曲輪中馬出と二の丸曲輪北馬出を結ぶ土橋を横から見たところです。
土橋の部分は保護のため橋が架かっています。


外堀

二の曲輪と二の丸曲輪北馬出の間のV字に掘られた薬研堀の堀です。


二の曲輪



仕切土塁

二の曲輪を南北に仕切る土塁があります。


本曲輪虎口

この虎口にもかつて薬医門があったと推定されます。
先ほどの二の丸曲輪北馬出の門と同様で、武田氏から徳川氏へ移行してからの
造られたものと考えられているようです。


本曲輪

本曲輪にある少し高くなった場所には、二層の櫓が建てられていたと考えられていますが
天守としての建物は築かれることはなかったようです。



本丸通路には石積みがされています。



まるで土の舞台?というような本丸の東側です。
一段低くなっているのですが、ここから島田市を一望できるような場所になります。



一応樹を伐採して島田市も一望出来るようになってます。
下にも曲輪が見えます。
どこから下を覗いてみても曲輪だったり堀だったり、土塁だったり、
とにかく造り込みがされていて手の入っていないところは無いです。


カンカン井戸

水の手曲輪の方へやって来ました。
少しじめっとした空気が流れているいる所で、水の手だけにやはり井戸があるようです。



カンカン井戸と呼ばれる井戸があります。
「カンカン井戸」と言えば、播磨の三木城にもカンカン井戸と呼ばれる井戸があるのですが
そこでの説明では、石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからかんかん井戸と呼ばれています。
ここも同じことが言えるのでしょうか。(試していません)


水の手曲輪

湧水なのか、水が見えるほど地面はじめっとしています。
この先、県道に出て横切って出曲輪に行く事もできるのですが
二の曲輪方面に向かいます。


二の曲輪南馬出

こちらも丸馬出です。
お腹いっぱいになりそうなほどの沢山の馬出~。
ひとつ見られただけでも「おお~」てなるのに、どんだけあるんじゃい!


二の曲輪東内馬出

南東の角にある馬出で、東に向かって3ヶ所の小規模な馬出が築かれています。
3つのうちの一番内側にある馬出で、ここにある堀は武田氏が薬研堀で築いた後、徳川氏が箱型に改修しています。


二の曲輪東馬出

こちらも小規模ながら丸馬出で、先ほどと同じく薬研堀を箱型に改修しています。
ここでは門の礎石が確認されており、鉄砲玉も出土していることから
武田VS徳川の戦が想像できる場所にもなります。



眺望も良いですが北側下を覗き込むと、こんな面白い光景が見られます。


城址碑

諏訪神社入口にやって来ました。
鳥居横にも城址碑があります。


諏訪神社

武田勝頼が諏訪大社の分霊を勧請したという諏訪神社。
諏訪原城の名も勝頼の母の家であり、武田の支配した諏訪が由来となっています。


外堀

外堀がいかに大きいかおわかり頂けますでしょうか。
これは、見事というか圧倒されてしまいます。



さすがお茶処、山肌に「茶」の文字が!!


ビジターセンター

到着時に開いてなかったビジターセンターにやって来ました。
周る順番としては逆になってしまいましたが、ここでおさらいして帰ることにしました。


スタンプ設置場所

続日本100名城スタンプ設置場所です。
ばっちり押印しました!


御城印

そして、通常版の御城印が欲しいのでガチャして事務所でカプセルと御城印を交換してもらいました。


攻城団チラシ

攻城団チラシ!ありました。



模型とパネルが展示されています。


模型

とてもイメージしやすい良い模型です。


諏訪原城跡の雑木を伐採するための「家康が見た絶景が見たい!」プロジェクトで寄付をしました。
まだまだプロジェクトは続くであろうということで、今後の整備にも目が離せません。
整備されて随分と見学しやすなっていて、広大でメリハリのある土の城の様子がよくわかり、感動ものです。
良いものを見せてもらいました。
今後も期待しています!


令和4年3月27日登城








大草城(愛知県)

2022年11月12日 | 百名城以外の城
大草城おおくさじょう
別名
構造平山城
築城者山田重忠
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所愛知県長久手市郷前 地図

大草城は、山田荘の地頭山田重忠氏が築城したと伝わります。
その後、天正期に森長可が城の改築を行い、福岡新助を城代としています。
小牧長久手の戦いでは、秀吉軍の池田恒興と森長可が家康軍に敗れ、
秀吉軍の兵、1000人ほどが大草城まで逃げて籠城したことでも知られています。



駐車場

城址碑の案内看板に従って行くと、熊野社への入り口を入ったところに
2台ほどの駐車スペースがあります。


城址碑

駐車場に車を停めた正面に城址碑があります。
大草城は「尾張志」に「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす、
右城内城内東西廿間、南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる。
と、城址碑の裏側に刻まれています。



奥には熊野社が見えます。



遺構を求めて熊野社の裏手に回ってみようと思います。



何やら石碑のようなものが見えます。



土塁やら、堀?とも思える風景を見ながら、ひたすら道を進んで行きます。



この向こうが丘になっていて、郭のようなのですが
重機があったり、ロープが張られているので立ち入ることは出来ません。


熊野社

1887年(明治10年)に八幡社から熊野社に改称されています。


馬出

今は宅地になっているようです。


主郭

一見、公園のように見える主郭ですが、私有地につき立入禁止になっています。


ところで、中日新聞に昨年夏に加藤さんという方が城址の一角を買い、「天空の城」を築く構想を練っているという記事がありました。
つまり、今は私有地で入れない城址を一般公開してくれるということなのでしょうか!
だとしたらとてもありがたいことです。
出来る限り遺構を残して、後世に伝えられるような城造りをしていただけたらなと勝手ながら期待してしまいます。(^^)
(もしやこの加藤さんとは、小牧長久手の戦いで岩崎城に籠城した加藤氏の末裔または縁者の方だろうか…。)


令和4年10月30日登城


今回の参考本

桜城(愛知県)

2022年11月10日 | 百名城以外の城
桜城さくらじょう
別名挙母城・衣城・佐久良城・七州城
構造平城
築城者三宅康長
築城年代 1614年(慶長19年)
指定史跡市指定史跡
場所愛知県豊田市元城町1丁目51 地図

桜城は3回城が築かれ、最初に三宅康長が金谷城を廃して桜城を築城しました。
その後廃藩となり破却となった城跡に、1683年(天和3年)本多忠利が陣屋を築きました。
1756年(宝暦6年)になると、上野国安中藩3代目藩主内藤政苗が築城を開始しますが
矢作川が氾濫し、水害に躊躇われたため七州城へ移転しました。
桜城には沢山の桜の木が植えられたことから「桜城」と呼ばれるようになりました。



桜城址公園

現在桜城址公園となっているこの場所は、内藤氏時代の頃の二の丸にあたる場所です。
内藤氏は二万石で入封し、幕府より4千両得て工事を開始しました。



度重なる矢作川の氾濫により、幕府に移転の許可を申請して
1780年(天明元年)に2千両を借用して樹木台と童子山に築城を開始し、
5年後に七州城が完成しました。


櫓台と城址碑

現存の二の丸隅櫓の石垣です。
その脇には桜城の城址碑が建てられています。


二の丸隅櫓台

発掘調査により、地中にまだ数段石垣が埋まっているとのこと。


同じ場所に三つの城という、ちょっとややこしかったのですが順番に追っていくと
なるほど、それぞれがそれぞれに築いた城であることがわかります。


令和4年10月30日登城


今回の参考本




金谷城(愛知県)

2022年11月08日 | 百名城以外の城
金谷城かなやじょう
別名衣城
構造平山城
築城者中条景長
築城年代1308年(延慶元年)
指定史跡市指定史跡
場所愛知県豊田市金谷町1丁目 地図

金谷城は、室町幕府奉行衆であった中条景長が築いた城と伝わります。
井田野合戦で敗北すると、急速に衰退し中条氏は織田信長によって滅ぼされました。
その後三宅康貞が入城し、桜城を築くと金谷城は廃城となりました。



金谷勝手神社

城址碑があるという金谷勝手神社へやって来ました。
この神社も城域の一部ではあるのですが、主な城跡はここより東側にある林の中です。
城址を横断するように名鉄三河線が通っているのでその部分の遺構は破壊されています。



金谷勝手神社は、鎌倉時代中期に中条氏の鎮守として建立されました。
総本社は、奈良県吉野町にある勝手神社で全国に28の分社があるうちのひとつに数えられています。


城址碑

正面に鳥居が二つ並んでいます。
神社に向かって右の鳥居の右側に城址碑があります。


金谷勝手神社縁起

入口の鳥居と鳥居の間にある看板とほぼ同じ内容が記されています。



この辺りは城下(城域)とあってか道は狭く複雑に曲がっていたり、
一方通行が多くて車ではちょっと走りずらい土地柄です。


町全体が城域のようなもので金谷城、桜城、七州城の名残や史跡をあちらこちらで目にします。
ひとつひとつこれはどの城のもの?と考え込んでしまいます。
多くは一番時代が新しく、城域も広い七州城のものですが、古い街並みを匂わす建物があったり
案内看板等も点在する地域なので、時間があれば、歩いて散策というのも良いかも。


令和4年10月30日登城


今回の参考本



岩作城(愛知県)

2022年11月05日 | 百名城以外の城
岩作城やざこじょう
別名
構造平城
築城者不明
築城年代14世紀頃
指定史跡
場所愛知県長久手市岩作城の内 地図

岩作城は、発掘調査により14世紀から17世紀にかけて存在したものと推定され、
長久手の戦いで岩崎城に籠城し、戦死した今井氏の居館であったと考えられています。


城址碑

ここは、長久手市役所です。
長久手市役所のあるこの場所は、城の内という地名が残っています。



石碑の裏に説明文がありますが、ざっくりとしていて
結局のところ、詳しいことは分からないです。



場所が市役所ということで駐車場をお借りしました。



周囲を見ると川や池があるので、湿地帯を堀として利用していたのかなあとも想像します。


やっぱり城跡って学校や公共の施設が建ってしまうのですね。
仕方のないことですが。


令和4年10月30日登城






狩宿城(愛知県)

2022年11月04日 | 百名城以外の城
狩宿城かりじゅくじょう
別名狩宿古村城
構造平城
築城者林弥助
築城年代1324年~1326年(正中年間)
指定史跡
場所愛知県尾張旭市狩宿町4丁目17 地図

狩宿城は尾張旭七城のひとつで、詳しいことはわかっていませんが林弥助の城と伝わります。
1661年~1673年(寛文年間)には既に古城とされ、江戸時代には百姓屋敷になっていました。
農民の中でも裕福な階層の人が居住していたのではないかと推測されています。



狩宿第2ちびっ子広場

狩宿第2ちびっ子広場に案内看板があるということでこの公園にやって来ました。



公園では親子で遊んでいるところにお邪魔しました。


案内看板

公園内にある案内看板。


狩宿村絵図

この絵図から見ると位置的には、城域はこの場所よりもう少し南にあったようです。


狩宿観音堂

絵図に描かれていた「観世音」というのがこの観音堂のことでしょうか。
旭街道の南側が城域になると思われます。



正面の公園奥に見える飲食店の方が古城跡とされる方角です。


瀬戸川城井田城とかなり近く旭街道を歩いていると数百メートルおきに城址があるという感じです。
これだけ密接していると巡る方は楽ですがこれでいいのか?と心配になってしまいます。
当時の記録が少なく、どの城もほぼ消滅しているので詳しい事情はよくわかりませんが
尾張旭七城すべてを巡ると何かが見えて来る…な~んてことがないですかね(#^^#)



令和4年10月30日登城





田代城(愛知県)

2022年11月04日 | 百名城以外の城
田代城たしろじょう
別名
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所愛知県豊田市下山田代町入北切 地図

田代城は足助七城のひとつで、ここ田代城は居館とし、戦時の拠点は「京ヶ峰」にありました。
大沼城と同様に1574年(天正2年)、または1571年(元亀2年)に甲斐の武田軍に攻め落とされています。
そのほか、城の歴史に関しては詳しいことはわかっていません。



案内看板

また城址の真下の道でGoogleマップにリリースされたのですが、
よくあることなので、なんとなく匂いのする方へ来てみたら案内看板がありました。



矢印の看板に従って行くと行けるようです。
見落とさないようにここで曲がりましょう。


登城口

さて、矢印はどうやらこのすすきの中へと案内しているようです。



道…よ~く見るとあるんですよ。(来たことある人には見える)



ほら、すすきの向こうに看板がみえるでしょ(^^;



道が見えるんだけどなあ。
でも行~かない!今日は。



令和4年10月29日登城





瀬戸川城(愛知県)

2022年11月03日 | 百名城以外の城
瀬戸川城せとがわじょう
別名しろんど城
構造平城
築城者浅井源四郎
築城年代13世紀頃
指定史跡
場所愛知県尾張旭市瀬戸川町1丁目  地図

江戸時代(天保12年)の瀬戸川村絵図には古城と記されたものが残っています。
城主の浅井氏は井田城城主の一族で、浅井玄蕃允の弟である浅井源四郎の居城だと伝わります。
発掘調査により、東西約45m、南北約55mの平城跡が確認されています。
出土したものから推測すると16世紀中頃まで使用されていたものと思われます。
また、尾張旭七城のひとつとされていますが、現在遺構は残っていません。



城址碑と案内看板

尾張旭市立 三郷小学校の南西角にある城址碑と案内看板です。
手掛かりとなりそうな愛知用水を探したのですが、近くに見当たらず縄張もわからないほどに
地面はアスファルト化していて名残すら感じられない…。



ここから北西方向に歩くと「四門公園」があるのですが、そのような周囲の地名が城の名残と言えよう。


尾張旭七城は、ここ瀬戸川城と狩宿城、井田城、井田東城、新居城、渋川城、印場城の七つの城のことだそうです。
足助七城といい、中途半端に巡ってしまったなあ。
知っていたらセットで巡るとこだったのに下調べ無しで行った結果3つしか行けてないです(^^;


令和4年10月30日登城






大沼城(愛知県)

2022年11月02日 | 百名城以外の城
大沼城おおぬまじょう
別名
構造山城
築城者木村安信
築城年代1469年~1487年(文明年間)
指定史跡
場所愛知県豊田市大沼町八沢 地図

大沼城は、足助七城のひとつとされる城です。
初代城主木村安信は信仰が厚く、麓に入宝山神宮寺を建立しています。
二代目新九郎信元は甲斐の武田軍に攻め落とされ、討死しています。
その後、大給城城主松平乗元の二男松平親清が城主となり、跡を継いだ近正は
徳川家康の旗本で武功をたて、上州三の倉に五千石を賜り上州へと移りました。



登城口

道が整備されているのを見ると、登りやすそうにみえるのですが、とにかく暗くなってきているので
今回は見送ることにします。
奥に見える看板には「本丸跡まで130mガンバッテ登ってね」と書いてあるのが微笑ましい。
しかし、距離は短いが急な登りを想像してしまう(^^;
入口確認しました!


もう日が暮れた後の訪問だったので、入口の確認のみで撤収しました。
距離はそれほどではなさそうなので、群馬にゆかりのある城のようですし、またリベンジに訪れたいと思います。
逆に、三の倉城へも行ってみなくてはなりませんね。


令和4年10月29日登城



 



井田城(愛知県)

2022年11月01日 | 百名城以外の城
井田城いだじょう
別名尾張井田城
構造平城
築城者浅井玄蕃充
築城年代1390年~1394年(明徳年間)
指定史跡
場所愛知県尾張旭市井田町4丁目 地図

井田城は、寛文年間にまとめられた「寛文村々覚書」に古城跡とされており、既にこの頃には廃城になっていました。
発掘調査では堀と土塁、井戸跡やかまど跡などがみつかっており、
瀬戸焼、美濃焼などの室町時代以降の茶碗なども多く出土しています。



八反田公園

城跡は公園化し、遺構は残っていません。


トイレ

トイレの方を見ると、少し盛り上がっているのが見えます。
古くから城山と呼ばれていたように、周囲の田畑より城域は高くなっていたと思われます。
その当時の名残なわけではないのでしょうが、そこには城址碑が立てられています。


案内看板

看板や城址碑が見える位置にやって来ました。
城の周囲は水路なのか水田なのか、その中の高くなっている部分を城として利用したのではないでしょうか。


城址碑

土台の部分は草に覆われていて近くに見に行くのが躊躇われます。
藪漕ぎするわけじゃないので行こうと思えば行けるのですが、この時期とにかく
服に種が着きまくるので、それが嫌なんですよねえ。


城址碑裏

城址碑の裏に由来が書いてあるので、すぐ近くまで行って読みたいところなんですが…。
斜めから何とかズームして読めました。(^^;



かなり古い時代に廃城となっているので、遺構が残っていないのも最もな話であると思います。
それでも発掘調査も行われ、確かにこの地に城があったことを伝えるべく
城址碑や看板があります。
周囲の古城と点と線で結んで行くと見えてくるものがあったりすると面白いと思います。


令和4年10月30日登城