むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

一乗谷城(福井県)

2019年08月31日 07時17分48秒 |  百名城
一乗谷城 いちじょうだにじょう
別名
構造 山城
築城者 朝倉孝景
築城年代 築城年代 1471年(文明3年)
指定史跡 国指定史跡 国重要文化財
場所 福井市城戸ノ内町 地図
スタンプ設置場所 「復原街並」入口(南・北)
城郭検定出題あり

一乗谷全体を城郭とし、越前朝倉氏の居城でした。
山麓の居館部と、詰城としての中世山城の一乗城で構成され
連郭式の縄張りで織田信長の侵攻に備えられた畝状竪掘群が見られます。
山麓では町屋や武家屋敷など復原されています。



案内看板

一城谷朝倉氏遺跡資料館にある案内看板です。
こちらで予習をし、パンフレットを入手していざ一城谷へ!


下城戸跡

一乗谷へ入ると石碑の立つ下城戸跡が見えて来ます。
これより特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡となります。


土塁

土塁と外堀、矩折形の城戸口があります。


木戸口

この敵の侵入を防ぐ、直角に折れている石垣がなかなかの迫力です。


平面復元地区

多くの家、屋敷が密集していたのがわかります。
一区画(一軒)はあまり大きくないですが、その数はかなりの戸数あると思われます。


井戸

とにかく井戸の多いこと。
各戸に井戸が設置されていたようです。
こんなに沢山の井戸が見られる場所はかつてあっただろうか…。
井戸があると必ず覗いてしまうのが性ですが、さすがにこの数は覗ききれません^^;



こんな井戸跡もあります。



この時代、各家庭に井戸があるなんて贅沢じゃないですか?
もちろん復元されているのは井戸だけでなく、便所や墓地といったものまで
復元され、町の様子や暮らしぶりが想像しやすくなっています。


御屋形橋
一乗谷川に架かる橋です。


堀と土塁

館を堀と土塁です。
右奥は「中の御殿」があり、朝倉義景の母である光徳院の屋敷跡と伝わります。


柳の馬場

「越前朝倉万灯夜」の開催期間に訪れたので、周囲は朝から準備に追われているようです。
また約15000個のキャンドルでライトアップされてるということで
歩く場所に沿ってキャンドルが並べられています。
この日は戦国時代行列で攻城団団員の瀬戸浩太郎さんが足軽として出陣するとのことでした。(団員総会談)
時間の都合でお会いすることは出来ませんでしたが活躍ぶりはネットを通して見られました


唐門

江戸時代に松雲院の山門として建てられた唐門は一乗谷城のシンボル的な門です。
本来ここには朝倉館の西正門が建てられていました。


朝倉館跡

館の柱跡、位置が分かるように復元しています。


蔵・武者溜・井戸

中門に向かって蔵・武者溜・井戸があります。


井戸

館内にある井戸は、しっかり残っているため
中を覗き込むと、今でも水が湛えられているのが見えます。


謎の宝箱
この宝箱…どこかで見たことあるような…。
そう、昨年11月に訪れた岐阜県の苗木城です!
このような謎解きイベントがあちこちで開催されているのでしょうか。
ちなみに、調べてみたら「戦国宝探し」という参加無料のイベントを9月23日(月祝)まで
行っているようです。
ファミリーで訪れた方はここで遊びながら散策するも良いのではないでしょうか。


朝倉義景公墓所

福井藩主松平光通によって江戸時代に建てられたと伝わります。
ここには当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれましたが、
義景の法名をとり「松雲院」となり、発掘によりそれぞれ移転し、
現在松雲院は心月寺と統合されています。


常御殿

手前の長方形の花壇が日本最古の花壇遺構です。
ちなみに残存花粉の調査から、キク科、ユリ科、アブラナ科の花が植えられていたようです。



建物跡には礎石群が露出展示されています。
本当は山の上にある一乗城へ行きたかったのですが、今回も断念しました。
いつになったら行けるのでしょう…^_^;


復原町並

発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、
柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。



以前訪れた時はこちらでお抹茶を頂きました。
しかし、この日はまだ入れる時間ではなかったため見学できませんでした。


復元された町並み

城下町の町並みや、武家や民の暮らしぶりが再現されていて
当時を偲ぶことができます。


甲冑着付け体験

大人用、子供用が揃っています。
段ボールで出来ていて実際の甲冑よりもかなり軽く出来ているので
子供でも楽に着ることが出来ます。





陣屋

以前訪れた時に宿泊した民宿です。
一城谷の中にあり、一乗谷川のせせらぎが聞こえるほど静かで長閑な場所です。
この日は御好意で二間貸していただけて広々と宿泊出来ました。
戦国時代の遺跡の中に建つ古民家だけあって雰囲気はバッチリですね。



とてもきれいな城祉風景です。
かつてソフトバンクのCMでも使われた場所です。
戦国時代にタイムスリップしたような城下町の復元は、異国に足を踏み入れたような
感覚になります。
現代を忘れて散策すると一乗谷の雰囲気を楽しむことが出来ます。
今回は一乗城に挑戦するつもりでしたが、急遽娘の用事が出来て
急いで帰宅することとなりました。
またもやお預けとなってしまいました。
しかしながら、前日登城したという攻城団団員のひよどり下総守さんに頂いた地図を見て
ちゃんと入口だけは下見しました。次回のお楽しみということで…。


平成24年5月3日登城
令和元年8月25日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス
コメント

高知城(高知県)

2019年06月29日 10時25分18秒 |  百名城
高知城こうちじょう
別名鷹城
構造平山城
築城者山内一豊
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所高知市丸ノ内 地図
スタンプ設置場所本丸御殿入口
城郭検定出題あり

高知城は、大高坂山に山内一豊が築いた平山城です。
それより以前に長宗我部元親が築城するも、水害に見舞われ未完成のままでした。
山内一豊が浦戸城入封の際、長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こし
対立すると武力だけでなく、土佐の地に歩み寄った対策を成し浦戸城とは別に
大高坂山城に高知城を築くこととなりました。




現存している堀は江戸時代に比べて3分の1に減ってしまって、
堀幅においては半分ほどになってしまっています。


追手門

追手門の奥には天守も聳えます。
門前が枡形になっていて、石垣の上の狭間塀と門の二階から
攻撃出来る仕組みになっているので守りの要となる場所です。


城跡碑

背後の巨石には工事の際に印された「ウ」・「エ」・「ケ」・「シ」などの
刻印があるので探してみてください



両脇の石垣の上に渡櫓が載っています。
扉や柱には格式を高めるために、乳頭金具や飾金具などで装飾しています。
しかし、上を見上げると石を落したり、槍で突くといった攻撃が出来る
仕組みも持っているこわ~い門です。



内側から見た追手門。
この写真ではちょっとわかいりずらいのですが、
石垣からはみ出した右手前の梁の角には小さな屋根が載っているのが
面白いというか、かわいいと思ってしまいました。



高知城観光案内所で本丸御殿前までの無料ガイド(約50分)がお願い出来るとのことで
ここでガイドさんと待ち合わせ、追手門から案内していただきました。


石樋

雨水が石垣に沁み込まぬよう、前に突き出すように工夫された石で出来た樋です。
この真下には石樋から落ちる雨水を受ける場所も設けられています。


山内一豊の妻(千代)の像

内助の功を象徴する、名馬とともに千代の像が立てられています。
織田信長の「馬揃え」の際に貧しい一豊のために千代が持参金で名馬を手に入れ
信長に一目置かれ、出世したという伝説があります。


杉の段の井戸

かつてこの場所は杉の大木が鬱蒼と茂っていたことから杉の段と呼ばれるようになりました。
また、城内にある井戸の中では一番水質が良く、城主が暮らす二の丸御殿で使用する水は
この井戸から一日3回汲み上げられていました。



平成になって4年をかけて現代の穴太衆が積み直した石垣です。


鉄門跡

かつてここには入母屋造りの二階建、本瓦葺きの門がありました。


詰門(東側)

鉄門を抜けると早く天守に近付きたいあまり、こちらに向かって来てしまうのですが、
本丸へ行くには階段を登り、二の丸から廊下橋を渡らなくてはなりません。
平時は詰門の一階は塩蔵に使われていました。
内部は通り抜けできますが、筋違いになっていて本丸には抜けられずに
外へ出てしまう構造になっています。



本丸に行くにはこちらの階段を登って二の丸から続く廊下橋を渡らないと
辿り着けません。


二の丸

この広いスペースには二の丸御殿がありました。
藩主の居間や側室の奥御殿のほか、御殿女中も住まわせていました。


廊下橋(詰門二階)

万が一二の丸まで敵が攻めて来た際は、この櫓橋を落してしまい
籠城が出来る仕組みになっていました。



廊下橋入口です。



ちょっと変わった造りの廊下橋&詰門と廊下門。
とても重要な場所であることが、この複雑な構造でわかります。
いろいろな機能があって知れば知るほどおもしろい造りです。



廊下橋の両側にある小部屋は、家老・中老・平侍に分けられた家臣の積める溜ノ間になっています。



襖が無い方は小姓が控えた場所です。
このように二階部分は家臣が詰めていたことから詰門と呼ばれています。


天守

本丸は廊下橋(詰門)から一段高く造られていて、最後の砦として
門から侵入した敵を上から攻撃出来る仕組みになった重要な門となっています。
この門をくぐるように上に出ると、いよいよ天守のある本丸です。


100名城スタンプ設置場所

本丸御殿入口受付右側に設置されているスタンプです。


本丸御殿

現存する本丸御殿は懐徳館とも呼ばれる小ぶりな御殿です。
本丸御殿へ。


石落

現在は展示用に下が覗けるようになっていますが、
本来は開閉式に造られていました。


一階

一階は模型の展示がされています。
高知城の築城の様子が再現されています。


床下収納

床を見ながら歩いていると、取手の付いた床板がありました。
これは床板を外すことが出来て、床下収納となっている場所なのです。
非常時には食糧などの貯蔵が出来る造りになっていました。


破風内側

三階には破風の間があります。
ここから明かりを取っているので比較的明るい階になっています。


四階

壁は真壁造りで、表面は手すきの和紙(和紙張り壁)で仕上げられています。
この地方では和紙造りも盛んだったようです。
身分の高い家老が集い、作戦会議などを行っていた部屋とも云われています。


五階




下を向いて歩いていると、またまたみつけました!
節穴を補修した跡。
姫路城では遊び心でいろいろな形をしていましたが、高知城では綺麗な丸です(^^)


小屋の段
五階と六階との間にある隠し部屋のような空間は武者隠しの間です。
階段を登っている時には気付かずに上へと通り過ぎてしまったのですが、
帰りに階段を下っていて気が付き、慌てて撮ったのがこの写真。
前後に行列となって階段を下っていたので斜になってしまいました(>_<)


最上階

どこを向いても人・人・人。
とても賑わっています。


天井

天井は格天井で格式高い造りになっています。






廻縁と高欄

山内一豊が掛川城と同じ高欄を徳川家康に願い出て造ったという逸話があります。
現在の掛川城は、高知城を参考にして築城されています。
2004年の改修前は黒漆ではなくペンキで塗られていたため痛みも激しかったのですが
現在は築城時と同じ黒漆に戻され綺麗に修復されています。


眺望

昨晩泊ったホテルのある方角(西側)を望んでいます。
眼下にはこじんまりとした本丸全体を見下ろすことが出来ます。



北東側は二の丸、三の丸が見渡せます。
両御殿が現存していたら…と想像してしまいます。




一階まで戻って来ました。
ここから東多門櫓、廊下門二階部分へと進みます。


東多門櫓

右側(外側)の壁には蓋付の狭間があり、左側(本丸側)は引き戸になっています。
本丸側からは出入りが容易に出来る仕組みになっています。


廊下門
東多門櫓から廊下門へと進みます。
ここでは領民の生活の展示がされています。



一番奥の部屋には山内豊信所用陣羽織の展示がされています。


黒鉄門

二階建ての鉄門は、戦闘に備えられた造りで
石落しはもちろんのこと、門扉や二階の銃撃用の窓を西側に集中させて
寄せた造りとなっています。


黒鉄門内側

ここに階段を掛けて登っていたものと思われます。


鐘撞堂

最初は二の丸付近にあったのですが、移転を繰り返して
現在の地に落ち着きました。


矢狭間塀

ここで注目してほしいのが、塀に開いた狭間です。
天守東南矢狭間塀には横に細長く開いた狭間があり、これが物見窓です。
高知城にだけ残っている貴重なものです。



綺麗な蝶が飛んで来たので思わず撮ってしまいました


忍び返し

石垣を登って来る敵に備えて造られたもので、忍び返しと呼ばれる防御です。
石落しも張り出しています。


三の丸

かつてここには三の丸御殿がありました。
行事や儀式などが執り行われていました。
ここまで来ると子供たちは飽きてしまい、四葉のクローバー探しを始めてしまいました^^;
トイレとベンチのある三の丸に子供たちを残して私は更に外周を巡ることに。(なんて親だ


排水路

高知はとにかく雨が多く、この地の地盤も緩いこともあって雨水への
対策が良くされた城跡です。
一豊もこの対策をしっかりすることで長宗我部氏が断念したここで
築城を成し遂げられたのですね。


長宗我部期石垣

長宗我部元親は、岡豊城から、1588年(天正16年)大高坂山に移り築城しましたが、
水害などにより築城がうまくいかずにこの地を断念し、1591年(天正19年)に
浦戸城に移転しました。
その頃に構築された石垣が三の丸石垣改修工事の事前調査で発見されました。



下を覗き込んだら…あ、奥の方に三菱マーク!
いや、山内家の家紋です。


銀杏並木
石垣と銀杏並木のコントラストがとても美しい通りです。


紅葉並木
銀杏並木の一段下は紅葉並木です。
どちらも新緑の時期できれいですが、秋になれば黄色と赤でさぞかし
綺麗な道になるんだろうなあと想像します。



猫城主さま?かどうかはわかりませんが二の丸御殿跡へ上がるところのようです。
お城ではよく猫に出会います


詰門(西側)
先ほど見た詰門の反対側へやって来ました。
東側の詰門の出入口は少し右寄りにありましたが、こちら側はほぼ中央にに
出入口があることから真直ぐでなく筋違いになっているのが分かります。
こんな面白い構造なのに、中が見られないのが残念でなりません。


梅の段

現在梅の木が沢山植えられている梅の段は、かつての馬場でした。
ここから西へ下ると御台所屋敷跡や八幡宮跡、搦手門などが見られるのですが
三の丸に残して来た子供たちが待っているので三の丸へ戻ることにします。


はりまや橋

江戸時代初期に、豪商の播磨屋宗徳と櫃屋道清が往来のために架けられた橋です。



現存12天守のうち高知城が12番目の登城となり、
これでやっと現存12天守すべての登城を果たしました
山内一豊の城とあって掛川城を思い出しながら登城しましたが、かなり見応えがありました。
やはり掛川城を土台とし、更にパワーアップさせた感じが伝わって来ます。
やっぱり何と言っても詰門の存在はとても面白いものがあるし、防御策の塊のような造りが
されているのが一豊のこの地での用心深さが犇々と伝わって来ます。
また、三菱自動車に勤めた経験もあるので三菱のルーツに触れられたことにも
感慨深いものがありました。


令和元年5月3日登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社



小説 岩崎弥太郎--三菱を創った男 (河出文庫)
嶋岡 晨
河出書房新社
コメント

徳島城(徳島県)

2019年06月14日 08時05分59秒 |  百名城
徳島城とくしまじょう
別名渭山城・渭津城
構造平山城
築城者蜂須賀家政
築城年代1586年(天正14年)
指定史跡国指定史跡
場所徳島市徳島町城内1 地図
スタンプ設置場所徳島市立徳島城博物館受付カウンター
・徳島市教育委員会社会教育課カウンター・徳島中央公園東側駐車場入口事務所(いずれも年末年始休館あり。電話で確認のこと)
城郭検定出題あり

阿波踊りの発祥の城と言われる徳島城は、豊臣秀吉の四国平定で戦功をあげた
蜂須賀正勝の子家政が阿波一国を拝領し、一宮城に入城した後に
秀吉の命により急遽猪山に新城を築城することとなりました。
室町時代には山頂に渭山城(渭津城)、麓には寺島城と呼ばれる城が存在していましたが
長宗我部元親や小早川隆景、比叡山の僧徒らの援助により二つの城を合わせた大規模な
平山城の完成を迎えると、家政は居城を一宮城から徳島城へと移しました。




徳島中央公園東側駐車場を利用して徳島中央公園から入城しました。


城山の海蝕痕

岩の表面に出来た大小の穴は海の波に浸食された痕で、
かつて海面がここにあったことがわかる場所です。


城山の貝塚

古代人のゴミ捨て場でもあり、死者を埋没する場所でもあった貝塚。
そのせいか?この辺りの臭いも…。


隅櫓跡

この石垣の上には隅櫓、正面には旗櫓が建てられていました。


数寄屋橋

徳島城の鬼門にあたる門が、旗櫓の下にあった数奇屋門です。
不明門とも呼ばれ、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。


内堀(瓢箪堀)

「堀川」と呼ばれ、かつては表御殿庭園内の「心字池」と地下桶道で繋がっていて、
池の水位の上下で景趣に変化を求めるよう工夫されていました。
※現在、地下桶道は不通になっています。


旗櫓跡

左手の石垣の上に数寄屋門のとして載っていた旗櫓。
右手の石垣の奥は表御殿庭園になります。



表御殿庭園と東二の丸麓の道を通り、まずは100名城スタンプ設置場所である
徳島城博物館へと向かいます。


徳島市立徳島城博物館

表御殿の跡地には御殿を模した徳島城博物館があります。
この公園は徳島監獄署が置かれたり、天皇や皇太子の宿泊所として千秋閣が建設されたり、
進駐軍の宿舎だったり、市立図書館や市民会館に活用されたり、市立体育館だったりと
めまぐるしい移り変わりを経て現在に至ります。


スタンプ設置場所

100名城スタンプがこちらに設置されているのでまずはスタンプを押します。


旧徳島城表御殿庭園

桃山様式の大名庭園で枯山水と築山泉水庭から構成された回遊式庭園で
関ヶ原の戦いで西軍だった茶人で武将の上田宗箇が敗戦後に徳島に招かれ
その間に作庭したと伝わります。



大名庭園を眺めながらいただくお抹茶。
入館した人を対象に徳島城博物館のロビーで、呈茶を行っていて300円(お菓子、お茶代)です。
子供達は大名庭園を眺めながら優雅にお茶してました。


表御殿跡

親は…雨の中カメラを持って城さんぽです


黒門跡(大手門)

大手枡形になっていて四方を建物で囲まれていました。
大手口だけあって厳重な造りであったことが窺われます。


下乗橋(小見附橋)

藩主以外はここで馬を下りて入城することになっていました。
江戸時代には木造の太鼓橋だったそうですが、明治期には花崗岩の太鼓橋になり、
現在はこのような橋に架け替えられています。


鷲の門(内側)

三木曲輪内から見た鷲の門です。


飾り瓦

三木曲輪側の屋根の角をよく見ると狛犬が逆立ち?して載っています。
明治8年に鷲の門以外の建物はすべて撤去されました。
しかし1945年の徳島大空襲で焼失。
その後1989年に古写真を基に復元されました。


鷲の門棟札

見上げると屋根裏には棟札があります。


鷲の門(表)

この門は鷲を飼う建物として幕府に申請して建てたことから
鷲の門と名付けられたという説があります。
また、夕方から夜10時までライトアップされています。



今度は表側の屋根の角を見てみましょう。
こちらは鷲の門と言われるだけに、鷲が載っています。


舌石

太鼓櫓跡を右手に見ながら線路側に沿って歩いた所に旧寺島川沿いの石垣にある舌石を発見!



この石垣の上には「折れ曲がり塀」と称する屏風塀が設けられており、
塀を支えるための柱を受けていた舌石(台石)が残っています。


太鼓櫓跡

西の端には三重の太鼓櫓には多門櫓が接続されていて、東の端には二重の月見櫓がありました。
太鼓櫓は徳島城最大の櫓で、現在は昭和8年NHKの徳島放送局が開局した記念に設置された
ラジオ塔が建っています。


蜂須賀家政銅像

現在は蜂須賀家政の平和的な姿の銅像ですが、戦前には家祖の正勝の武装像があり、
戦時中に供出して無くなったので、現在のものに代わりました。



西廻りで本丸を攻めてみたいと思います。
左に見える建物にはSLが展示されています。



鉄道好きの方はぜひお立ち寄りください。


西坂口

階段が続きます。
歩きやすいと言っていいのか、しんどいと言っていいのか…体力奪われてしまいます。


西三の丸門の枡形

整備された階段を登りきった所に西三の丸門の枡形が待ち構えていました!


西三の丸跡

左側のフェンスの向こうは現在水道排水池になってしまっています。



正面左の石垣は帳櫓の石垣です。
帳櫓の石垣と正面石垣には鏡石がこれでもか!というほど主張しています。
しかも、全部で5個も



正面に見えていた鏡石に近付いてみると、矢穴があります。
鏡石に使うにはちょっと妙(残念)な石に見えるのですが?
え~、いいのか?この巨石で。


帳櫓跡
こちらしっかりと基礎ともなる礎石が残されています。


西二の丸跡
鉄砲櫓があった西二の丸跡。



正面の石垣にも鏡石が見えますね。
要所要所に鏡石が多用されているようです。
そして右の石垣は弓櫓で、初期の天守台とも考えられています。
この先右に折れて本丸へ。


弓櫓跡

最初の天守は本丸の弓櫓の位置するところにありました。
築城には勝瑞城や一宮城の廃材を使用して天守や櫓は質素なものでした。
その後、数十年で解体され東二の丸に新しい天守が築かれました。


本丸跡
本丸には本来天守があるところですが、この広い敷地には天守ではなく
御座敷や留守居番所、武具櫓や馬具櫓、弓櫓といった建物がありました。
では、天守が無いのかと思えばそうではなく、天守はここから一段下がった
東二の丸にありました。
ちょっと珍しい縄張りですよね。
平時は山麓に暮らしていた藩主ですが、本丸にも御座敷には
藩主専用の部屋や台所が設けられていました。


清玄坊神社

清和天皇を祖とする修験者清玄坊は、築城する際に立ち退きを拒否したために
弓で射て謀殺されてしまいました。
すると蜂須賀氏は清玄坊の崇りに遭い、前非を悔いて石碑をたて末代まで
供養することを誓いました。


埋門跡

本丸への出入り口は東西にあり、北側には非常時のための
御座敷の建物で隠されるように脱出口(埋門)が造られていました。


本丸北東の石垣

徳島城で最も古い石垣です。


東二の丸

明治初期の古写真には、まだここに天守が聳えているのが見られます。


天守跡
本丸から東二の丸に新たに築かれた天守は、
天守台もなく、そのまま平場に御三階櫓が建てられていました。
これも実に特徴的なところです。


東坂口

藩主や藩役人の登城口であった東坂口です。
こちらの登城口からなら天守までが近いです。
そしてここにも鏡石が使われています。



西から東へと山城を一周して来ました。
気軽に平城と山城を楽しめる一度に二度おいしい城跡でした(^^)v


弁天池


あいにくの雨でしたが、山頂まで行って来ました!
なかなか見応えのある城で、晴れていたらもっとじっくり時間かけて見ていたでしょうね。
庭園も見てみたかったけど、時間が足りなかったですね。
博物館に娘らを残して城さんぽしていたのですが、
娘たちは博物館では庭園を眺めながらお茶をいただき
お相手をして下さった博物館の呈茶ボランティアの方、ありがとうございました。


令和元年5月1日登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス
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丸亀城(香川県)

2019年06月04日 12時34分04秒 |  百名城
丸亀城まるがめじょう
別名亀山城
構造平山城
築城者生駒親正、山崎家治、京極高和
築城年代1597年(慶長2年)、1643年(寛永20年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財 
場所丸亀市一番丁 地図
スタンプ設置場所丸亀城天守(天守閉館期間中は丸亀市立資料館)
城郭検定出題あり

亀山に砦を築いたのがはじまりで、高松城の支城として築いたのが丸亀城です。
一国一城令で一度廃城になりましたが、その後山崎家治が再建し、京極氏が完成させました。
この時瀬戸内海を見張る要所であった丸亀城が幕府にとって重要と考えられ、
丸亀城再築と資金援助、参勤交代の免除という幕府からの特別待遇を受けていました。
現存する天守としては最小で、天守こそは小さいですが本丸を取り巻く石垣は偉大で圧巻です。



内堀

訪れたこの日は子供の日が近いため、内堀にこいのぼりが泳いでいます。


常盤橋

GWとあって朝からすでに賑わっています。


大手二ノ門

大手門はかつて搦め手側にありました。
京極氏の入城直後この地に移し、大手一の門と大手二の門、狭間塀で
枡形にして、鏡石を使い甲州流軍学に沿って構成されています。


高麗門

大手外門の高麗門は、切妻造りで左右に狭間塀を持ち、
内部の石垣は岩岐組みされています。


幸運の

大手二の門を入って正面の石垣にある二つの鏡石の間にある小ぶりのハート形の石です。
これを触ると良縁の御利益があるとか…


大手一の門

天守は最小ですが、そうとは思えないほど立派な大手門です。
これだけ見ればさぞかし大きな天守が待ち構えていそうな迫力の櫓門です。
ちなみに、枡形側には窓が8つ、城内側には窓が1つだけという特徴があります。
梁の太さも見事ですが、こちらも内と外では格好が違っています。


丸亀城内観光案内所

観光案内所を覗いてみると、重ね押しスタンプラリーというのをやっていて1枚200円で台紙を買い、
城内5ヶ所でスタンプを重ね押しすると絵が完成するというもので、収益金の一部は崩れた石垣の
復興事業に役立てられるということなので早速家族で各自1枚買ってスタート!
まずは観光案内所で押して次の太鼓門(大手一の門)へ。


大手一の門(太鼓門)

櫓門に入れたんですね。


重ね押しスタンプ

二つ目の重ね押しスタンプです。
次は丸亀城天守の1階と3階、最後は資料館です。


太鼓

1670年(寛文10年)頃に建築され、藩士が太鼓を打つことで刻を知らせていたことから
「太鼓門」とも呼ばれています。
2018年の時の日から正午を知らせる「時太鼓」が復活されているそうですが
残念ながら聞きそびれました。


石落し

お約束の石落しでーす!
下を通る人を狙いたくなる



外から見ても扉が見えます。
かつてはこちらも出入りに使っていたのでしょうね。


見返り坂

この写真、あまり坂のようにみえないですけど…
結構坂でキツイです。
ジグザグに歩く人もいるほどなんですよ^^;


二ノ丸南東隅櫓の石垣(打込接

石垣を築く名人と噂の羽坂重三郎に石垣の工事をさせると、
期待通り、素晴らしい石垣を完成させました。
これならば誰も登れる者はおるまいと褒めると、確かに登れる者はいないでしょう。
しかし私は鉄棒1本あれば容易に登ることが出来ます!と言って
石垣の間に鉄棒を刺して頂上まで見事に登ってしまいました。
それを見た殿様はやっと堅固な石垣が出来たと思ったのに、もし重三郎が
敵にまわったらこの城が危なくなると危機を感じ、内密に井戸から城外への抜け穴を
造って欲しいと呼び出し、井戸の底に降りた重三郎めがけて大きな石を落して
殺害したというエピソードが残っています。

まず、息を切らせて坂を登ってくると見える扇の勾配が見事な高石垣です。
下部は30°で立ち上がり、上部は70°に近い勾配です。
夜に来てもこの石垣はライトアップされています。



もうひと頑張り坂を登ると三の丸に到着します。



夜間登って来た時は暗くて本丸を目指していたので気がつかなかったのですが
とても綺麗な光景が見えて来ました。



ここからの眺望も見事です。
ここからの二の丸番頭櫓や高石垣もよく見えます。


三の丸

ここまで登って来ると月見櫓跡などから讃岐富士がよく見えます。


月見櫓跡

月を見るのに最適な位置にあった月見櫓は、城の東と南を見張るためのものでした。
月と言えば、丸亀市制100周年を記念して歌手のさだまさしさんの作詞作曲により
城のある町」という歌が2001年に作られました。
その歌詞の中に「秋は月見の天守閣 ふと だんをとるや月菜汁」と歌われています。
この「月菜汁」は実在せず、この歌に合わせて創作されたのがはじまりです。
現在では、汁物の中に月にみたてた団子や里芋などの丸いものと、菜を入れた新しい郷土料理として
市民に親しまれているそうです。
ちなみにここから讃岐富士もよく見えます!


延寿閣別館

麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部を移築したもので、
内部は藩政時代の大名の生活がしのばれるように昔のまま保存されています。


虎口

三の丸にある二の丸への西の虎口です。


二の丸

本丸を囲むように巡る曲輪です。
この辺りは蜂が多く飛んでいて、追い回されたので注意してください。


本丸虎口

虎口から入ってすぐに天守があります。


本丸

唐破風と黒い下見板張で小さいながらも威厳のある趣です。
白漆喰だけの面は、石垣上に建ち二重櫓と多門櫓(渡櫓)をつなぐ平家建ての建物で
連結されていたため、シンプルな壁になっています。



本丸の角には隅櫓が築かれていて、その間を多門櫓で繋いでいました。


天守

三重三階の天守は主として栂材を使用しています。
他にも檜と松も使われています。
夜は凛々しく、昼は温か味のある風貌です。



こちらも隅櫓の櫓台です。
本丸の隅櫓や多門櫓も明治初期まで残っていたそうで、
現在復元すべく、古写真を探されているそうです。
ぜひ、復元してほしいのですが写真が残ってないでしょうかねえ。


日本100名城スタンプ設置場所

前回は夜訪れたので、もちろんここは閉まってました。
あれから4年やっと天守の内部に入ることが出来ました。


二階

丸亀城内部は小ぶりなわりに柱の数が多いのが印象的です。
特に1階はその柱の多さが目につきます。


太鼓壁

長押の高さまでは壁を厚く塗り防御を固めています。
白い壁の横に黒くなっている部分(横の柱の下)は
壁の厚みで出っ張っている部分に埃が溜るせいか汚れているため、
この色の違いで壁の厚さ(出っ張り)が分かります。


最上階

屋根裏には案内板が掲げられています。
昭和の修理と丸亀城の特徴が掲示されています。


眺望

瀬戸内海側を大手にして正面とした城下です。
かつては城下に船入が設けられ海に出ることも出来ました。
現在はこのように埋め立てが進み海岸も遠くなってしまっています。
また、この方向にある丸亀港の船着場には、群馬県沼田城下に生まれた
塩原太助が江戸時代に最高額の80両を寄付したことにちなんで名付けられた
「太助灯篭」があります。
群馬県民なのにこれを見逃して来るとは…相変わらず詰めが甘いです


二の丸井戸

この井戸は日本一深い井戸と言われています。
水面は三の丸北石垣の真ん中ぐらい(30m以上)にあります。
深さは65mあり、石垣を築いた羽坂重三郎が殺された井戸がこの井戸です。


二の丸番頭櫓跡

二の丸にも本丸を囲むように角には隅櫓と櫓を繋ぐ多門櫓が接続していました。


長崎櫓跡

三の丸は二の丸を囲むように巡っています。
二の丸への虎口も二ヶ所あり、見返り坂を登りきって三の丸に入って直ぐの
西からの虎口と、ここ長崎櫓のある北側に虎口があります。


長崎櫓台の石垣

平成3年から4年に石垣修理の工事をしています。
この時に石垣内の構造も判明しました。



この石垣では石垣の隙間を計測する装置がいくつか取り付けられています。
最初は何かな?と思ったのですがテレビで和歌山城のものをやっているのを視ました。
このような装置は高石垣を採用している他の城跡でも見られるようです。


本丸姫櫓台の石垣

こちらの扇の勾配に積み上げられた高石垣も見事です。
とても美しい造りですよね。


戌亥櫓跡

明治2年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災で焼失してしまいました。
その焼跡が今でも石に残っているので足元の石の色をよ~く見てみて下さい。


排水口

丸亀城には全部で13ヶ所の排水口があります。


坤櫓跡

ここからは大きく崩れてしまって進むことは出来ません。
以前訪れた時は完全な形で、この先も進むことが出来たのですが、
これ以上元の姿が見られなくなってはと思い、今回現存12天守は
すべて見ておこうと思い四国の旅を選択しました。


搦手道

かつては大手道であった現在の搦手側へ下って行ってみたいと思います。


高石垣群

さすがに大手道だっただけに、こちら側もしっかり見せ場があります。
連続して石垣が見えるのでこちらもかなり迫力があります。


搦手口

山崎氏時代はこちら側が大手口でした。
京極氏になって大手は反対側に移されて現在に至っています。


馬場

ここまで来ると崩れた全体がみえますが…切ないですね。
まさかこんなことになろうとは最初に訪れた時にはまったく想像していませんでした。
後回しにするんじゃなかったと後悔しても遅いですね


排水口

見つけました!排水口。
このように全部で13ヶ所ある排水口も、
水捌けが追いつかずに石垣は崩れてしまったのですね…。


かぶと岩

この岩は火山の噴出口への通路部にある火成岩が浸食を受け、円柱状に露呈したものです。
かつてはこの岩の上に神祠が祀られていました。


丸亀市立資料館

この日はかなり日差しが強く、重ね押しスタンプラリーの最終地点でもあるここで一休み。
そしてここでは京極氏が大手枡形と石垣の新規造営の許可を幕府に申請すために作成されたという
木図が展示されています。



重ね押しのスタンプはいよいよここで完成です(^^)v
なかなか面白いし、仕上がりがとても綺麗です。
ぜひ、皆さんも楽しみながら石垣復旧のためスタンプラリーに参加してみて下さい。
良い記念になりますよ


玄関先御門

山下御殿玄関先の御門です。


番所長屋

御殿への出入りを監視するために門の脇にあるのですが、
表からは番所があることがわからないよう工夫されています。



とりあえず、1週して来ました。
結局半日を費やして存分に見て周ることが出来ました。
それもまだまだ巡っていたい感はあるなあ。(飽きない)


おまけ…



前日の夜、夜景をもう一度見たくて夜の丸亀城にやって来ました\(^o^)/



久々に登った見返り坂は…結構キツイ!
それでも以前のように寒くもなく、丁度良い気候だったので本丸まで風の抵抗無く
やってきました!



やっぱり良いですね。
一度来たことで、またこの夜景が見たいとずっと思っていて
とても楽しみにしていました。



そして、予定ではなかったのですが高知からの帰りは奥に見える
瀬戸大橋を渡って帰ることになろうとはこの時には知らずに瀬戸大橋を見て
やっぱり綺麗だねって夜景を満喫していました。
※帰りは高知から淡路の大鳴門橋を通って帰る予定でしたが横転事故があり
大渋滞だったため瀬戸大橋から本土へ渡りました。




以前訪れた時が夜で、ライトアップされていたので天守には入れないけど行ってみようよ
ということで夜の丸亀城登城が最初でした。
とても寒く風が冷たい中での登城でしたが、それ以上に美しくライトアップされた天守と
夜景に感動して、必ずまた来るぞと思っていました。
昨年の豪雨で石垣が崩れたのを見て、正直焦りました。
本当に行きたいと思う城は先に行っておかないとどんなことが起こるかわからない。
熊本城も行こうと計画していたさなかに地震の被害で見られなくなり悔しい思いを
しています。
いつ何時どんな災害に襲われるかわかりません。
自分もいつまで健康でいられるか、事故に遭ったりしないとも限らないので
今見ておかなければ後悔すると思って、現存12天守では丸亀城と高知城のふたつが
見学できていなかったので四国訪問を決行しました。
やっぱり丸亀城本丸からの夜景は何度見ても最高です。

観光案内所で買った「うちわ」が今とても重宝しています
とても気に入ってます!

平成27年12月28日登城
令和元年5月1日再登城
令和元年5月2日再登城


城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社
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高松城(香川県)

2019年05月27日 18時34分32秒 |  百名城
高松城たかまつじょう
別名玉藻城
構造平城
築城者生駒親正
築城年代1588年(天正16年)
指定史跡国指定史跡
場所高松市玉藻町2-1 地図
スタンプ設置場所高松城東入口・高松城西入口・玉藻公園管理事務所
城郭検定出題あり

高松城は天正16年に生駒親正が築城した、海水を堀に引き込み船蔵を配した水際城です。
生駒氏は丸亀城城から高松城へ移り、後に御家騒動のため出羽の国へ転封となり
伊予西条藩主一柳氏が城を預かることになり、そのご徳川国光の兄で松平頼重が入封し
明治まで松平氏が続きました。
天守は明治になって壊され、艮櫓、月見櫓、水手御門・渡櫓が現存しています。



駐車場

東入口に無料駐車場が完備されています。
車で来られた方は西入口ではなく、東入口が便利です。


旭橋
三の丸御殿造営に合わせて桜の馬場に設けられた
太鼓門枡形に入るための大手口になります。
旭橋は、かつて木の橋でしたが大正元年に石橋に改造されました。
旭門の石垣は、城内では最も新しい石垣で切込接になっています。


艮櫓

この艮櫓は東の丸にある艮櫓跡から太鼓櫓跡(現在地)に移築されたもので
石落しや鉄砲狭間を備えた造りになっています。


中堀
海水なので海の魚が見られるそうですが、この日は発見することは
出来ませんでした。


東入口

旭門を入ると入城受付があります。
日本100名城スタンプはこちらと、西入口と玉藻公園管理事務所にあります。
200円を支払って入城です。


太鼓御門跡・太鼓櫓跡

隅櫓は二重櫓が多いのですが、高松城の隅櫓は三重で5基もありました。
三重櫓を天守に見立てるところもあるくらいなので
西国の外様大名に対しての押さえの城であったと考えられます。


旧東の丸艮櫓

城内からの艮櫓です。
外側から見た時と比べて、こちら側の石落しはひとつ少ないです。


太鼓御門跡

ここは桝形になっていて、奥の方には石をくり抜いたところに
埋門があります。(写真右奥にちょっとだけ見える)


桜の馬場

L字形をした曲輪です。
かつては屋敷が置かれていましたが、三の丸御殿の造営により
屋敷の跡地に馬場が置かれました。


桜御門跡

三の丸の正門(櫓門)であった桜御門は1945年の高松空襲によって
焼失してしまいました。
焼失跡の残る痛々しい面も見える石垣です。


鞘橋

本丸と二の丸を繋ぐ橋で、生駒氏の時代は普通の木橋でしたが
松平氏になると屋根が付けられ廊下橋へと変更されました。


天守台
2007年より天守台を解体修理をして2012年に完成し、翌年より一般公開されています。
発掘調査により、穴蔵構造であったことが判明し復元されました。


披雲閣庭園

大正時代の披雲閣建築に伴い、東京の庭師大胡勘蔵によって披雲閣の庭園も作庭されました。
近代になってから旧城主によって、城の中に江戸時代の庭園を一部残しつつ作られた庭園としては
希少な事例であるということから、平成25年に国の名勝に指定されました。


水門

二の丸と三の丸の間に、海水を内堀に取り入れるための水門があります。
なんと、ここでは鯉の餌やりではなく「鯛の餌やり」の体験が出来ます!
餌を求めて真鯛と黒鯛が集まってくるそうです。
「鯛願城就」といことで楽しみにしていたのですが…残念ながら実現ならず


鉄門

二の丸と三の丸の間の門で、鉄板が貼られた門であったことから
鉄門と呼ばれていました。
よ~く見ると、鏡石に鉄板の錆が縦にのこっているのが確認出来ます。


二の丸跡
この先に本丸へと繋ぐ廊下橋が復元されています。
一番の目的であった廊下橋と天守台へは散策に行けなかったので
天守再建が叶ったらリベンジに来たいと思います。


西入口
西入口から出てきたところです。



かつてこの辺りは海に面していました。
現在も潮の満ち引きで堀の水量が変化します。


武櫓跡

この石垣、石も積み方も途中で変わっているのが
とても気になりました。


月見櫓・水手御門・渡櫓
藩主は水手御門から小舟に乗って沖の御座船に乗り移ったそうです。
防御のために水手御門の左右の櫓には石落しが備えられています。


月見櫓
当時は瀬戸内海に面し、船が到着するのを監視していた三重櫓です。
月見櫓というと優雅にお月見する櫓を思い浮かべてしまいますが、
ここでの意味はお着見(船)という意味で着見櫓とも呼ばれています。


艮櫓跡
香川県民ホールの敷地内に本当の艮櫓跡があります。
東の丸米蔵曲輪を守る海に面した櫓がありました。
ここにあった櫓は現在太鼓櫓跡に移築されています。



東の丸から見た内堀と旭橋です。


感想は…西入口(受付)にて悲しい出来事に遭遇したため今は感想を述べるに至りません。
天守と桜御門が再建されることをお祈り致します。


令和元年5月1日登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
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佐倉城(千葉県)

2019年04月25日 06時46分31秒 |  百名城
佐倉城 さくらじょう
別名 鹿島城
構造 平山城
築城者 千葉氏?、土井利勝
築城年代 1532年~1555年?、1611年(慶長16年)
指定史跡
場所 佐倉市城内町 地図
スタンプ設置場所 佐倉城址公園管理センター(4~10月 午前9時~午後5時 11~3月 午前9時~午後4時30分)管理センター外にもポスト設置(年中無休24時間可)
城郭検定出題あり

佐倉城が築かれたこの場所には、かつて北条氏政によって築かれた鹿島城がありました。
そこに老中土井勝利が新たに7年の歳月をかけて佐倉城を完成させました。
明治6年には廃城令が出され、佐倉城は存城が決まったものの陸軍の兵営地となり
第二次世界大戦が終わるまで、城内は駐屯地として使用されていました。


二の丸
以前訪れた時は、100名城スタンプを押すために公園管理センターの方から
散策したのですが、今回は国立歴史民族博物館側から二の丸に入ったところにある
駐車場を利用して入城しました。
ここも芝生部分をよく見ると駐車場と化するのか、してたのか線があります。


礎石

国立歴史民族博物館の研究棟を建設する際にみつかった佐倉城の礎石です。
これらの礎石は陸軍の営所があった明治期に兵舎の礎石に転用されていました。


空堀

本丸と二の丸の間にある空堀です。


一の門跡

二の丸から本丸に入る出入り口にある門です。


一の門

現地案内看板より
一の門はこのように立派な二階建ての櫓門がありました。
かつて佐倉城にはこのような大きな櫓門が沢山ありました。
これらの門や建造物が残っていたら…と思うと写真を見れば見るほど残念でなりません。


本丸

本丸には天守、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていました。
御殿の前庭には金粉を摺り込んだ栗石が敷かれていたと伝わります。


銅櫓跡

銅瓦を使用した二階造りの櫓がありました。
銅櫓は江戸城吹上庭内から移築されたもので太田道灌築と伝わります。


銅櫓

現地案内看板より
土井勝利が将軍より拝領した櫓です。


夫婦モッコク

本丸の西側土塁に接して3本植えられていましたが
このうちの2本がくっついて夫婦のように寄り添うような形となっています。
土井利勝が庭樹として植えたと
しかしこの木の幹には、残念なことに「 昭和十八年十月」「砲隊」と落書きが刻まれています。
いつの時代にもいるものなんですね。


天守台跡

二段構造になった天守台。
正面からは4階建て、裏側からは3階建てに見える構造になっていました。



以前訪れた時にはなかった天守台跡の碑。



奥の方に見える段状の天守台。
土井勝利が古河城へ移った際築かれた古河城御三階櫓は
佐倉城の天守を写した可能性が高いと言われています。


角櫓跡

ここにも三階櫓がありました。



お花見の準備が始まっている本丸の桜の様子です。


台所門跡
門から本丸へ入ると正面にあったのが台所だったことから
台所門と呼ばれるようになったとか。



台所門を出たところから南出丸へと下ります。


南出丸

前回訪れた時よりもすっきりとした感じです。


帯曲輪
本丸西側から堀を渡ってくる敵をここで迎い討つために設けられた。


西出丸

西出丸は陸軍の火薬庫が置かれていた場所です。


土塁

出丸の内部に土塁を築き、道が曲げられていて中が見通せない構造になっています。


薬医門
この門は佐倉城内にあったものですが、どこに使われていたのは不明です。
廃城後は、酒造をしていた土井家に移築され
その後旧佐倉藩主堀田家の菩提寺「甚大寺」に移築されていたものです。



西出丸から外に出て来ました。
西出丸に使われた橋は引橋で、橋の取り外しが出来る構造になっていました。



南出丸を外から見たところです。





三の丸
二の丸の駐車場は17時で閉まってしまったので、三の丸にある駐車場に移動してきました。
最初に訪れた時はこちらの駐車場を利用して、三の丸から本丸へと行くルートで
散策しました。



だいぶ暗くなって来ましたがどうしても復元された草の角馬出を
見てからでないと心残りなので、暗闇の中三の丸を横目に角馬出へと向かいます


椎木門跡

現地案内看板より
佐倉城の門はどれも立派な櫓門だったことがわかります。
このように各門の写真が残されているのを見ると、明治初期までこれまでの
多くの櫓門が残っていたのが今も残っていたら凄いだろうなあと残念でなりません。


角馬出

最後に、真っ暗になってしまったのですが角馬出を見にやって来ました。
小雨の中必死でカメラを構えてみたものの、これが限界です。



角馬出の中からの画像です。
奥に見える建物が国立歴史民族博物館です。
カメラ、小雨の中頑張ってますがいっぱいいっぱいですぅ


以前訪れたのは、記念すべき?日本城郭検定の第1回の開催日でした。
この日城郭検定の東京会場へ受験に行く前に佐倉城に寄ってから3級を受験しました。
受験勉強なんて…この時はほとんどやってませんでした^^;
時間ギリギリまでここに居たんですからね。
それから続けること、もうすぐ第13回の城郭検定が6月に控えています。
今回はそんな問題に出された角馬出を見に来たはずが、真っ暗になってしまって
よく見えなかったという失態^^;
ま、見たければまた来るさ!



平成24年11月11日登城
平成31年3月23日再登城


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姫路城(兵庫県)

2019年04月09日 06時19分16秒 |  百名城
姫路城 ひめじじょう
別名 白鷺城
構造 平山城
築城者 羽柴秀吉、池田輝政
築城年代 1580年(天正8年)、1601年(慶長6年)
指定史跡 国指定特別史跡
場所 姫路市本町68 地図 
スタンプ設置場所 管理事務所入口(入城口横)
城郭検定出題あり

関ヶ原の戦いの武功により池田輝政が8年がかりで築城した姫路城。
それより以前は赤松則村が姫山に砦を築いたのが最初で、黒田孝高や豊臣秀吉が入城しています。
天守群の白壁が白鷺を連想させることから白鷺城とも呼ばれています。
太平洋戦争の空襲被害を受けつつも、市民に守られ今日までに昭和の大修理、平成の大修理を経て
白く美しい外観が甦った国宝であり、世界文化遺産でもある姫路城は日本を代表する名城です。


大手門



特別展示期間中は混雑するだろうと朝の開城前に並んでみました。
前回訪れた時よりも、むしろ列が短い


菱の門

安土桃山様式の格調高い櫓門です。


花菱

正面の冠木にある「花菱」がこの「菱の門」の名前の由来です。


三国堀
この堀はほぼ正方形で、姫山と鷺山の谷を堰き止める役割をしていて
用水池として使用されていました。



羽柴秀吉時代には姫山(天守側)と鷺山(西の丸側)との谷間があり
その間に堀があったところを、池田時代に堀を埋めて四角くして三国堀を造りました。
現在の三国堀の形にした時の名残がこの石垣です。



では、西の丸へ行ってみましょう!
この方向から見る姫路城もなかなか美しいです。


西の丸
かつてここには西の丸御殿がありました。
本多忠刻と再婚した千姫が暮らすために御殿を大改修し、多くの建物が築かれました。


土塀
姫路城では長い土塀が多くあるのが特徴的です。
しかも多門櫓になっていて、特に西の丸にある百閒廊下は内部を御殿女中の住まいとする
長局になっていました。




ワの櫓の脇にある黒い格子窓の左上にL字の釘があります。
これは戦時中に空襲から逃れるために黒い網を掛けて城を隠したという
話を聞いたことがあるのですが、その網を引っ掛けるために打ち付けられたもの
なんだそうです。(ガイドさん説)


百閒廊下

ワの櫓から靴を脱いで入ります。
ひたすら長い廊下を進んで行きます。
この長い廊下には長局と言って侍女たちが暮らす部屋も並んでいます。



ここの右側に見える土塀には戸が付いているのが確認できるのですが、
ここから外に出ても石垣と原生林、その下は内堀です。???



ヲの櫓に外へ通じる出入口が設置されています。


ヲの櫓

二重櫓になっていて、この先はタの渡櫓になっています。



女性ばかりが暮らす場所でも狭間や石落しなど防御、攻撃の仕掛けが
しっかり施されています。



働く女中の住んだ部屋です。
このような部屋が並んでいます。


男山

千姫はここ長局の窓から見える男山に天満宮を祀り、
夫忠刻や嫡男幸千代を失い、その冥福を朝夕に祈っていたという。


松の羽目板

昭和の改修でヨの渡櫓から発見された松の羽目板を別の板に復元したものです。


化粧櫓

化粧櫓は、千姫が輿入れした際に父である徳川秀忠から持参金として
化粧料10万石が贈られ、化粧櫓と渡櫓、付櫓を増築しました。
以前訪れた時には、ここに千姫が娘の勝姫と「貝合わせ」をして遊んでいる
様子の人形が飾られていたのですが、見学者が驚くということがあり
とりやめて千姫だけが奥の部屋に置かれるようになったとのことです。(ガイドさん説)



化粧櫓の外観です。


いの門

菱の門を入って真直ぐに見えるのがいの門です。
ここからは、天守へ行くための正規のルートで進んでみたいと思います。


ろの門
筋鉄饅頭金物や八双金物などの装飾が施された、脇戸付きの高麗門です。
昭和12年3月19日に松竹キネマの映画「大坂夏の陣」での戦闘シーンを撮影中、
撮影隊が「ろの門」付近の土塀周辺に火薬を仕込み、土塀や石垣を爆破させたという
今では考えられない過去があります。
国宝を吹っ飛ばすとはびっくりなエピソードです。



ここでもよく映画や時代劇のロケが行われ、映画「007は二度死ぬ」の撮影がここで行われた際には
土塀に向かって手裏剣を投げ、土塀にキズを付けるという事件が起きました。
ガイドさんからは映画の撮影に使われた場所ですよという案内はありまいたが
事件のことは聞いてませんでしたので、今ではプラス要素の部分だけ売りにしているのですね。


はの門
ここでは向かって右下の礎石に注目です!


石灯篭の基礎

姫路城では転用石も多用されています。
はの門の礎石には石灯篭の礎石として使われていたものが使用されています。
よ~く見ると柄入りの石が使われているので、ちょっとアンバランスな気が…^^;


十字紋瓦

はの門を過ぎて、二の門を下から見上げると十字紋瓦が見えます。
下を向いて進んで行くと見落としてしまうので注意です!
これはキリシタンだった黒田官兵衛にゆかりがあるものと思われています。





にの門
ここでは攻め寄って来る敵を狭い門に追い込んで行きます。
天井が低く、門の中で右に折れています。



櫓の床板を外して、門内を通過しようとする敵兵の頭上を槍で突き
仕留めることが出来る構造になっています。





ほの門

埋門になっているほの門は、くぐったすぐ右手に油塀があります。
門は狭く、目の前は階段になっていて門の方が低い構造になっています。


油塀

羽柴秀吉時代のものと伝わる油塀で、山土に豆砂利を加え
もち米のとぎ汁やおかゆで固めたと伝わる珍しい塀です。


石臼(姥が石)

石垣の材料集めに苦労していた秀吉に、貧しい老婆が使っていた石臼を寄進すると
それを喜んだ秀吉は、この石臼を乾小天守の北側の石垣に使うことにしました。
その老婆の石臼がここに使用されています。


北腰曲輪の多門櫓

こちらは、倉庫に使われていた櫓で、塩蔵であったことが判っています。


井戸

櫓の中に井戸があり、ここでも籠城を想定された設備が完備されています。


軒丸瓦と滴水瓦

まるで赤ちゃんのよだれかけのような形をした瓦が付いていますが
これは「滴水瓦」又は「高麗瓦」と言うもので、
屋根の雨水をこの瓦で滴らせる役割をしています。
姫路城ではこのような瓦があちこちで見られます。



水一門をくぐると、水二門へ向かって下っているのがわかります。
(写真ではわかりずらい)


水二門

さらに水二門から水三門へ向かって更に下っています。


水三門
ここも埋門で目の前は直角に折れています。
この先はいよいよ天守入口です。


水五門

門の様子はよく見えない状態ですが、ここで靴を脱いで入城です!


天守(地階)


地階は日が差さないため暗く、流しや雪隠という生活に必要な個所と
戦うための武具庫などがあります。


流し

用途は不明で籠城時に食事を作るためのもとと推測されています。
中央部に水が集まるように傾斜が付けられていて北側の中庭に
排出するような構造になっているらしいですが、板が張られているため
内部構造は一般には目にすることは出来ません。


武具庫
地下にも武具庫。
城内武具庫をはじめ、至る所に武具が置かれているようです。


天守(1階)


武者走

1階から3階までは身舎の周りに廊下状の武者走が巡っています。
各階の隅(写真正面)には斜めの筋交柱で補強されています。


耐震補強

木の箱で囲われた部分は耐震補強をした部分です。


天守(2階)


武具掛け
現在は何も掛っていませんが、こうした武器を掛ける場所があちこちで見られます。
ここに銃や槍が掛っていたら物々しい光景だったでしょうね。


千鳥破風内部
千鳥破風の内部に小部屋のような空間があります。
窓が付いて明るいので破風の部分の小部屋ってなんだか好きです


天守(3階)





西大柱

地下から6階までのびる四角い西大柱。
東側にも丸い東大柱が並行してのびています。


武者隠し(南西)

その名の通り、この狭い小部屋に武者が入って隠れて狙い撃ちします。
昔は小柄な人が多かったのでこんな狭いスペースでも籠ることができたのでしょう。
しかし、良く見るとなぜか武者隠しの下に狭間が付いています。
ここまで敵が侵入して来た時のことを想定して付けられたのでしょうか。


開かずの間

武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をした部屋と伝わる場所です。
他にも宮本武蔵は姫路城にまつわる妖怪退治をしたという伝説もあります。


天守(4階)


石打棚

千鳥破風にある窓が高い位置ににあるので窓の開閉や弓、鉄砲の攻撃足場として
利用されていたと考えられています。


天守(5階)

刻み番付
南北にある破風の間を見上げてみると、棟木に番付の文字が刻まれているのが確認できます。
ちなみにこちらは南側の破風です。


天守(6階)


幻の窓

現在この部分は板が張られ、狭間も付いていますが
ここは元々は窓として建築されていたようです。
角の部分なので強度を考えても窓の無い現在の状態の方が安心かなと思いますが、
なぜ、変更されたのかは不明です。


刑部明神

刑部神社は姫路城が築城される以前に姫山にあり、
由緒ある地主神として地元の人たちの信仰の対象でした。
それを秀吉が築城のために姫山から総社に移したため、たたりが起き
輝政はあっけなく亡くなり、その子供たちも次々に若死していきました。
他にも、誰もいないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、
大勢の人が泣きわめく声が聞こえるなどたたりの噂が広がりました。
そこで刑部神社は天守の最上階に移され姫路城の守護神として現在も
火災・災害などの災いの神として信仰されています。


埋木

昭和の大改修の際、長押の板にある節を削り取りそこにいろいろな形をした
埋木を施しています。
刑部明神の裏手には星型の埋木があるので探してみてください。


イの渡櫓(入口)

ここから先は特別展示になるので別途入場料を払うことになります。
世界遺産登録25周年記念、冬の特別公開ということで
小天守群内部公開を見るためにはるばる足を運びました。



観覧料300円を払った人はここから二階へ上ります。
一般の入城料だけの人は階段を登らずに真直ぐ進んで1階を見て退城となります。


イの渡櫓(2階)

普段は行列をなしての観覧のようですが、この日はこのように空いていました。



イの渡櫓から見た乾小天守です。


との門
イの渡櫓から見下ろした「との門」です。


東小天守(入口)
この先が東小天守です。


東小天守(2階)

2階は窓が無いので暗いです。
内部は小天守と言うだけにこじんまりした造りです。


東小天守(3階)

艮隅櫓とも呼ばれていた東小天守は地上3階、地下1階(塩の貯蔵庫)で、普段は公開されていません。
今回最上階の3階部分は初公開ということでじっくり見て回りました!
(…というほど広くないですが)
最上階は見張りに使用していただけに窓もあり、とても明るいです。


破風の間

北側の千鳥破風の部分です。
破風の間の両隅には狭間も付いています。



破風の間の上部は引き戸の明かり取り用の小さい高窓と
弾薬を吊り下げる棒があり、小天守の中はしっかり武装されていたようです。



窓のレール部分を見てみると、雨水が溜らないよう排水出来る穴が付いています。


部分修理のプレート

西側には高い位置に明かり取り用の小窓しかなく壁になっています。
部分修理のプレートがあり、平成14年に屋根目地漆喰塗替・平壁漆喰塗替・屋根瓦部分差し替えの
部分修理を行ったことが刻まれています。


天井

天井は吹き抜けではなく、棹縁天井が張られていて書院風の造りになっています。


ロの渡櫓(2階)
ロの渡櫓の2階内部です。
東小天守と乾小天守を結ぶ渡櫓で、「北の長や」と呼ばれていました。


鉄砲
歩いていて、振り返ったら火縄銃が!!




横を向いたら槍が!!



見上げると火薬がぶら下がっています!!
武器庫のような渡櫓になってます。


床板

武器が沢山用意されている櫓だと思っていると、
床はとても格式高い手斧仕上げの床板になっています。



これは節目に穴が空いてしまったところを削って修復した跡で
姫路城内には職人さんの遊び心でいろいろな形で修復されています。
ここは菱型をしていますね。


乾小天守入口

この先は乾小天守です。
三つある小天守の中で一番大きいのが乾小天守になります。


乾小天守(2階)

ここでも上を見上げると梁に番付けがされているのが見られます。



この棚は石打棚とは違うようで、階段も無ければ窓側でもありません。



ということは…甲冑などを置いていた棚でしょうか。
このような造りをほかの城址で見たことあるような気がします。どこだったかな?


乾小天守(4階)

最上階の窓は東西南北すべての面に取りつけられていてとても明るい造りになっています。
外に格子も無いのでとても解放感があります。


火灯窓

先ほどのシンプルな東小天守とは対照的で、装飾品で飾られた小天守です。
中からは飾られた部分が見えないのでシンプルに見えますが
外からは黒漆に飾金具の装飾が格好良く見えています。


部分修理のプレート

乾小天守は昭和に二回と平成に部分修理をしています。



城内の様子が見渡せます。


西小天守

今回は公開されていない、もうひとつの小天守である西小天守を
乾小天守からうらめしそうに?眺めています。
どうせなら三ヶ所全部見たかったなあ。



乾小天守の天井も書院造り風に棹縁天井で仕上げられています。
ここは眺めも良いのでかなりの時間居た気がします。
心地良い空間ですね。


東小天守

そして、東小天守から乾小天守を見たように東小天守を望む。


大天守

間近で見る大天守は迫力あります。
ここから見られる天守は貴重です。


ハの渡櫓(2階)

乾小天守と西小天守を繋ぐ渡櫓です。
西小天守は公開になっていないのでここで行き止まりです。


姫路城の総構模型

乾小天守の1階部分に展示されている姫路城の総構模型です。



軸組構造模型

東小天守1階部分に展示している軸組構造模型です。


ロの渡櫓(1階)






台所(入口)

この扉の向こうに台所があるのですが、ここも公開になっていないので
見学することは出来ません。


石落し

窓の外側で縦格子との間に設けられた石落しです。
蓋を上に開けて、石や熱湯、糞尿など敵めがけて何でも落しちゃえ!って感じですね。
原始的ですが想像すると嫌ですね^^;


ハの渡櫓(入口)

この先、ハの渡櫓が天守内部からの出口となります。


西小天守(入口)

西小天守は見られません。
特別公開を待つしかありません。
このように、数年に1度とか特別公開する個所があるのでぜひ見たい!と思っている
場所の公開を見逃さないよう今後もアンテナを立てていた方が良いでしょう。


水四門

水ノ四門から外に出ます。



振り返ってみると、これまた迫力のある大天守。
乾小天守の火灯窓が品格を増して美しい姿です。


本丸(備前丸)

かつて本丸御殿があった備前丸。
藩主と家族はここに居館を置いて生活していました。
但し、御殿を置くにはちょっと手狭だったようで後に本多時代には御殿は
三の丸に移っています。


備前門

備前門の上は折廻櫓が載っていて、折廻櫓は二階建てで書院造の部屋もあり
中を覗いてみたいところでしたがこちらも公開されていないので
見ること叶わず。残念~


石棺

一見、とても立派な巨石を切り出して来たなあと思える石ですが、
これは古墳から持って来ちゃった棺石です。
なんて罰当たりなことしてるんでしょうか。この時代は。


旧番所

正面が旧番所で左奥にちの門があります。
右の建物が井郭櫓で櫓内に井戸が設置されています。
抜け道のような小道で入って行ってみたかったのですが通行不可でした。


帯郭櫓(腹切丸)と太鼓櫓(への櫓)

正面に見えるのが太鼓櫓で、左手に見えるのが帯郭櫓(腹切丸)です。


帯の櫓

この場所、外から見るとかなりの高石垣の上に載っている櫓です。
雁木が付いているので搦め手からの敵をここからも狙い撃ちですね。


穴門
この穴門をくぐって下って行くと腹切丸です。
完全な袋曲輪で、出入り口はここだけ。
ちょっと物騒な名前の付いた曲輪ですが、本来の用途は
城内に進入した敵を背後から奇襲するために兵を隠しておくための
隠し曲輪なんだそうです。



ここにも棺石がはまっています!
所々に使われている転用石ですが、これを見るとどれだけの
古墳が荒らされたのか、そしてこれでは崇りがあるのも仕方ないのかなって思う^^;


お菊井戸

上山里曲輪にあるこの井戸は
怪談話では有名な「播州皿屋敷」のお菊井戸です。
最近の子供たちはこの話を知っているのかわかりませんが、私の子供の頃は
夏になると良く耳にした怪談話です。
「いちま~い、にま~い…」とお皿を数える様を、よく真似したものですが
今でも怖くてこの井戸ばかりは中を覗き込む気になれませんでした^^;


大天守の鯱鉾

リの一渡櫓では明治・昭和・平成時代の鯱瓦を展示しています。
そして、次は令和の鯱鉾が並ぶのかなあ。
令和の時代に改修があるかどうかわからないけどね。


ぬの門

姫路城では最大の二階建ての櫓門です。
門扉は総鉄板張で、さすがに天守への近道上にあるだけあって
重厚で厳重な造りの門扉が付けられています。


人面石

ぬの門を出てすぐの石垣には「人面石」と呼ばれる人の顔のような並びの
石垣があります。


ハートの石

「人面石」の左側にはハート型をした石もあります。
しかし、この人面石とハートの石は当時意図して積んだのかと言うとちょっと疑問ですね。
たぶん偶然このように見えるような並びになったのではないかと思いますが
縁起が良いと言われるのであれば素直にそう思って探す方が楽しいですよね


るの門

埋門になっていて、石垣の中を通る狭き門です。
大手口から天守への最短距離での抜け道になっています。



かつてはここに門扉があったことが判る礎石が見られます。



石垣の中に吸い込まれそうな道です。


継ぎ目のある石垣
この継ぎ目の右手が羽柴秀吉の築いた石垣で、左手が池田輝政が築いた石垣です。
縄張りは秀吉時代のものを引き継ぎ、池田輝政が増築しているのが判ります。



一周して三国堀、菱の門まで帰って来ました。


三の丸(御居城)

広大な三の丸御殿があった場所で、藩政の中枢でもありました。
この日は姫路城マラソンが開催されていました。


帯郭櫓

扇の勾配を持つ高石垣で、備前丸西側の石垣と競う高さを持っています。


中堀

かつては上山里曲輪めで堀が入り込み、船溜として利用されていました。



この日は姫路城マラソンの日で、道路や城内は一部規制が入り、好古園の方へは行けませんでした。
しかし、このマラソンの規制があるということで城内は日頃より空いていて
訪れた目的の特別展である小天守群をじっくり見ることが出来たのでむしろラッキーでした。
攻城団で団員さんたちからのアドバイスや、「城がたり」でこうの団長さんやコースケ副団長さんにも
アドバイス頂いていたおかげで目星を付けて攻城出来たので教えて頂いた方々に深く感謝です。
それにしても、今回で4回目の登城となったのですがこれまでこんなにしっかり
じっくり見たことがなかったので、こんなにもいっぱい見どころがあったのに
私は今まで何を見て来たんだろうと、そしてまさか4回も訪れるなんて思ってもみませんでした。
子供のころに憧れた姫路城は、何度訪れても飽きることのない魅力的なお城であることは
ずっと変わらないなあと思いました(^^)v
やっぱり、姫路城は凄い!


昭和57年3月登城
平成19年1月再登城
平成26年5月3日再登城
平成31年2月24日再登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社
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明石城(兵庫県)

2019年03月06日 12時10分19秒 |  百名城
明石城あかしじょう
別名喜春城・錦江城
構造平山城
築城者小笠原忠真
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所明石市明石公園1-27 地図
スタンプ設置場所明石公園サービスセンター受付窓口
城郭検定出題あり

元和3年に松本城主だった小笠原氏が明石に入封しました。
徳川秀忠の命により一国一城令により廃城となった周囲の城から用材を用いて
大阪の防衛のために新しく明石に城を築城したのが明石城です。
しかし、本丸には大きな天守台が築かれるも、天守が建てられることはありませんでした。


駐車場

ここに着いた時にはもう日が暮れる寸前で急いで散策!
ちなみに、写真は最後に撮ったので日没後です。


before

木の伐採前の様子(4年前)です。


after

そして、今回今年で築城400年を迎えたことで樹木の伐採や剪定をしたということで
一目見てみようと急遽寄り道しました。
4年前と比較するとこんな感じです。上の写真とほぼ同じ位置からの撮影です。
石垣がまる見えになっているのがわかります。



伐採された木が置いてありました。



正面の高石垣が天守台です。


天守台高石垣

明るい時にもう一度見たかったなあ。
とても立派な天守台の石垣です。



4年前は青々とした木々が写り込んでいます。



下から見上げた坤櫓。
現在残る二つの櫓の他に当時は乾櫓と艮櫓もあり、本丸の櫓は全部で4基ありました。



切って間もない木はまだ道の端に寄せてありました。
ここに来るまでの間に稲荷曲輪を抜けて来たのですが、写真はすべてピンボケ。
やっぱり夕方から夜にかけての撮影は苦手です。


本丸虎口

本丸の虎口は東西各1ヶ所にあり、ここは西側の虎口です。


天守台

天守台は熊本城天守と同規模だそうです。
ここまで来たらもう暗いです(>_<)
しかし、オレンジ色の空と街の明かりのコントラストがとてもステキでした



入母屋破風の妻壁は朱色に塗られた木連格子で華麗な外観です。
他ではあまり見たことが無いです。
※昼間の写真は4年前のものです。


坤櫓

この日はガイドさんの説明を聞きながら坤櫓の内部の見学をしました。
ガイドさんから坤櫓は伏見城からの移築と伺いました。
二つの櫓は、三木城、高砂城、船上城、枝吉城など
一国一城令によって廃城にった城の資材で造られています。



明石城には、天守台はあるものの天守は築かれていないので
天守代用として坤櫓が使われました。


坤櫓内部

内部見学 坤櫓:3月・5月・9月・11月/巽櫓:4月・10月と
時期によって見られる櫓が変わるので両方の櫓内部を見学するには
時期を変えて行くしかないのですが…
遠いので巽櫓の内部が見られるのはいつになるのかなあ。



用材は松の木が主に使われています。
見られるのは1階のみで二階、三階には上ることはできない。
中ではガイドさんが阪神淡路大震災の話など、いろいろ説明してくれました。


本丸

日が沈み、薄暗い中はしゃぐ若者たちが本丸に居ました。
暗くても全然さみしい感じがありませんでした。
ちなみに暗いと言っても健全にボール遊びに盛り上がっているようだったのでホッ。
むしろカメラを持った私の方があやしいかも^^;


巽櫓

高さは坤櫓とほぼ一緒ですが少しスリムな造りになっているので
やや細身に出来ています。
そしてこちらの破風には朱色の格子は無く、シンプルに見えます。
ガイドさんの話によると、巽櫓は船上城からの移築と伝わります。
明石海峡大橋も観られて眺めも良し!夜景もなかなかよろしいもので。


本丸虎口

東側の本丸虎口です。
いよいよ足元が見えずらいほどの暗さになって来ました。



反対側から見ても、もう暗くて見えなくなって来ています。
そろそろ限界かな。


二の丸

街灯のある場所は少々明るいのでなんとか撮影可という感じ。



カメラとスマホを駆使して撮影してみたのですが
見られる写真はほんのわずかでした。



暗いけど、これはこれで良い景色でしたよ
巽櫓・坤櫓は日本に12基しかない現存三重櫓で、
巽櫓は、船上城の天守であった可能性もあるそうです。
但し、最初に建てられたものは焼失してしまい、現在のものは再建されたものです。
やっぱりこっちも中が見てみたいですね。





東の丸石垣

城内には20基の櫓、27棟の城門、石垣と土塀、帯郭と堀で強固な備えでした。


東の丸虎口

枡形門や枡形虎口が東西南方向に配置されています。


武蔵の庭園

山里曲輪には宮本武蔵が作庭した樹木屋敷がありました。
御茶屋や鞠の懸り、築山・泉水・滝などがあったと伝わります。
明石の城下町の町割りは宮本武蔵が行ったと伝わるのですが
宮本武蔵をそんなに知ってるわけではないのでイメージ的にちょっと想定外でした。


攻城団のガイドブックとクリアファイル

明石城築城400年を記念して造られた「明石城完全攻城ガイド」は1冊100円(税込)で
売られていますが、とても100円とは思えない内容とクオリティです。
他にも攻城団のご当地缶バッチも売っています。(ここでしか買えない)


マンガでわかる明石城

明石城完全攻城ガイド」の中にある大久保ヤマト先生の描いたマンガは
歴史が苦手、難しいという方にも入りやすく判りやすいです。
これを入り口にぜひ明石城のことを知ってもらえるといいですね



ちょっと視点が違うのかもしれませんが、大久保先生はお城や甲冑の描き方がきっちりしていて
私はそこがとても気に入っています。
人物ばかりに力を入れがちですが、構図がしっかりしていて細かいところも拘っているので
歪んで見えるところがなく、お城や甲冑がとても綺麗に見えます。


以前は、木々が生い茂る公園でも頭の上から虫がぶら~んと降りて来るので「ぎゃっ!!」と驚くいた
のですが、木々が伐採されてすっきりしたので夏場でも歩きやすくなったのではないでしょうか。
元長野県民としては小笠原氏が松本から明石まで来て築城したことを考えると
とても親しみ深いです。
車を使ってここまで8時間弱、いつも思うのですがこの距離感は昔の人の移動の能力って
すごいなあって感じます。

2月11日に行われた「明石・お城フェスティバル」の時に来たかったなあ。


平成27年5月3日登城
平成31年2月24日登城


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

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箕輪城(群馬県)

2019年02月10日 05時48分37秒 |  百名城
箕輪城みのわじょう
別名
構造平山城
築城者長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
築城年代15世紀後半~16世紀前半頃、1567年(永禄10年)、1587年(天正15年)、1590年(天正18年)
指定史跡国指定史跡
場所高崎市箕郷町 地図
スタンプ設置場所箕郷(みさと)支所受付
城郭検定出題あり

群馬を代表とする戦国期の大規模の城郭で、長野氏、武田氏・北条氏、徳川氏と
大きく三回の改修された3期の縄張変遷が見られる城郭です。
現在残る縄張りは主に徳川期の井伊直政が改修したものです。



駐車場

こちらの入口には駐車場とトイレが整備され、一般的にはこちらから登城します。
そして、この写真奥にガイダンス施設を建設されるとのことなので
今後が楽しみです!


搦手口

現在、この先工事中になっているので通過する場合は注意して通りましょう。



この奥が稲荷郭になります。
以前は林になっていましたが、徐々に木々が伐採され見通しが良くなっています。





二の丸

この場所付近にボランティアガイドさんがいらっしゃいます。
(箕輪城のパンフレットももらえます。)
毎回ガイドさんにお話しを伺っているのですが、この日はヤブレンジャーのひとり「箕輪初心」さんも
ガイドさんと一緒に居て、お二人に箕輪城について見所を教えていただきました。
箕輪初心さんと各地の山城の話でも盛り上がりました。
このお二人に箕輪城について質問すると、いろいろネタ?を持っているので
見掛けたらぜひ話しかけて見て下さい。
因みに、箕輪城から近い龍門寺の話も教えてもらったので、この後行ってみることにしました。



この辺りもまだ手入れがされるそうです。
いっきに伐採すると崩れたりする恐れもあるので緑化しながら伐採するそうです。


日本100名城スタンプボックス

二の丸から本丸へ進む途中に設置されているボックスには100名城のスタンプが押された紙が
入っているので便利です。



ちなみにスタンプは箕郷(みさと)支所にあります。


本丸

多数の「かわらけ」や楽茶碗などが発掘されていることから、
ここには城主の住む建物や軍議を開いたり酒宴を催したりする館があったと推定されています。


箕輪城の碑

本丸入口にある碑。
この周辺もすっかり以前と変わっていました。


本丸土塁

整備された本丸の土塁。
芝生の養生中でロープが張られていました。



土塁の切れ目(本丸西虎口)にはかつて蔵屋敷と繋ぐ橋が架けられていたということで
復元が予定されていると以前ガイドさんに伺いました。
これも橋が架かれば見所になりそうなので楽しみです。


本丸西虎口

前回訪れた時から半年、工事が始まっていました。



蔵屋敷に重機が見えます。
ここから、あそこまで橋が架かるんですね!



そしてここには門が復元される予定です。
この橋の復元工期はすでに遅れてしまっているのですが
とにかく完成が待ち遠しいです


堀切と土塁

本丸と御前郭の間の堀切と、新たに土盛をして復元された土塁です。
この堀切は井伊直政の時代に掘られたものです。


御前曲輪 西石垣

通仲曲輪・御前曲輪との間の堀に架けられた橋の橋脚部の土留めのために積み上げた石垣。



現在は工事中のため堀底の遊歩道は通過することが出来ません。
御前曲輪の西石垣など見所があるのですが整備が終わるまでしばらく見学しずらい状況のようです。
今後の様子はまた随時ここで変更してお知らせしたいと思います。



二の丸から三の丸方面へ行ってみたいと思います。
今は工事車両が通るため保護用に鉄板が敷かれています。


二の丸と三の丸の間の堀切

ここも以前は薄暗い場所でしたが、木が切られ明るくなっています。


三の丸




工事車両が三の丸を通過するための保護された砂利道。
ちゃんとシ―トの上に砂利を敷いています。(二の丸の鉄板の下も)
遺構への気遣いを感じられます。


三の丸石垣

石垣は野面積みで、箕輪城内では石が取れないため、城のすぐ西を流れる榛名白川から運びあげたと思われます。



この石垣部分には三の丸の門があったとされる。
両側の石垣に櫓を渡し、その下を連絡路としていました。


虎韜門

大手道はこちら。
ここ、城郭西側にも駐車場と入口があって、登るとすぐに大堀切に出られます。


木俣

細い山道を登り上げるとまず木俣と言う曲輪に到着します。
この場所に「木俣」という井伊氏の重臣の屋敷があった場所です。


堀切

箕輪城には大きな堀切がいくつかあり、堀切の低部に降りられる場所もあります。
この城の最大の特徴とする大きな空堀が多数残っています。



木俣から見た郭馬出西虎口門です。


郭馬出西虎口門

完成後間もなく訪れたよみがえる郭馬出西虎口門のタイトルで以前ブログを書いたものがあります。



郭馬出西虎口門から木俣曲輪方面を眺めています。
100名城選定以降どんどん手入れがされて随分と歩きやすくなりました。
そして現在進行形で箕輪城は整備が進んでいます。


大堀切

この大堀切は東西に走り、城を北と南の二つに分けている。
こんな大規模な堀を当時の人は鍬ともっこで築いたという。今では気が遠くなる話です。


水の手曲輪

こちらは南側の観音様口にからの登城口です。


稲荷曲輪

搦め手道から見通しが良くなったので初めて足を踏み入れてみました。



広くて平な郭です。
肝心な稲荷曲輪の名の由来でもある稲荷山を見てこなかった


新曲輪






水堀跡

この堀にはかつて水があったと思われます。
堀底にある石積みが気になり、ガイドさんに質問したところ
かつてこの堀底も農耕地として使われていたため、後世に造った農地の区切りだそうで
遺構ではないそうです。
そう言えば私の一番記憶に古い箕輪城も、本丸周囲には桑の木が垣根のように植わっていて
中には大根が植えられていた畑で、「なんだ、畑じゃん」って言って帰ってきたので
箕輪城は、日に日に変化しているんですね。



今回も写真の入れ替えを行いました。
たまに登城して変化のあった場所の報告と画像の差し替えをします。



平成22年7月11日登城
平成28年12月4日登城
平成30年6月24日登城
平成31年2月2日登城



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日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス
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山形城(山形県)

2018年10月19日 06時45分43秒 |  百名城
山形城やまがたじょう
別名霞ヶ城
構造平城
築城者斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政
築城年代1357年(延文2年)、1592年(文禄元年)、1623年(元和9年)
指定史跡国指定史跡
場所山形市霞城町 地図
スタンプ設置場所最上義光歴史館・山形市郷土館受付窓口・二ノ丸東大手門櫓内部
城郭検定出題あり

山形城は室町時代の初めに斯波氏によって築城され、安土桃山時代には最上氏によって
改修され近世城郭へと変化し、江戸時代の始めには鳥居氏によって改修され、
ほぼ現在の姿になりました。
その後鳥居氏に世継ぎがなかったため領地を取り上げられ、次にやって来たのは
二代将軍・徳川秀忠と乳母の侍女だったお静の間に生まれ、信州の高遠で育った保科正之でした。
保科氏は7年の後、会津若松へと移り、その後は徳川家の大名が次々と入りましたが
衰退し、明治維新後に山形城は廃城となりました。


東大手門

復元された大手門。
向って正面の門は高麗門で右が北櫓。
左には櫓門と続櫓があります。


中堀

大手橋の上からの景色。
中堀に沿うように走るJR山形新幹線の線路が見えます。
城域に新幹線が通るとは、明石城は新幹線の中から見られると有名ですが
山形城の堀を新幹線が走っているとは堀を覗き込んで驚きました。
残念ながら新幹線の通るタイミングではなかったのでカメラに納めることは出来ませんでした。
おしい!


東大手門枡形

内側から見た枡形。
高麗門をくぐると、そこは内枡形となっていて
山形城の東大手門の規模は江戸城の枡形に匹敵するほどの大きさで構築されています。
もともと最上氏時代には外枡形だったものを、内枡形に改修されています。


東大手櫓門

明治初期に解体された櫓門ですが、絵図や古写真などの資料をもとに
復元され、内部は一般公開されています。


続櫓入口

櫓の中を無料公開しているのでぜひ見学してみよう。
中には説明をしてくださるボランティアガイドさんが待機しているので
詳しいお話しを聞くことも出来ます。



ちなみにここでは「超高速!参勤交代」のロケを行ったそうです。
しまった!気が付かなかったなあ。


櫓の内部

建物内の構造に関しての資料は発見されていないため、造りは一般的な構造で造られています。


模型

内部にはこうした模型やパネルでの説明、発掘された瓦などが展示されています。


最上義光之像

最上義光騎馬像は、上杉景勝・直江兼続らが攻めて来た際、自らが陣頭となって
決戦の場へ向かって行く勇姿を再現したものです。
勇ましさが伝わる格好良い騎馬像ですね。(ちなみに私は上杉・兼続派ですが^^;)


本丸一文字門跡

見学台から見た本丸一文字門です。
こちらも枡形になっています。


高麗門

高麗門は鏡柱を支える控柱にも屋根が架けられて、扉が閉じた状態でも
開いた状態でも扉が屋根の下に納まる状態になる構造になっています。
木材は奈良県吉野産と高知県産の桧や杉を使用しています。


枡形土塀

本丸の枡形土塀は、東大手門と違って矢狭間や鉄砲狭間が設けられています。
東大手門の土塀の古写真には狭間が無かったため、復元された土塀にも狭間はありません。
しかし、雁木もありながら狭間が無いのはとても不自然なので明治期には穴が塞がれていたのでは
ないかと考えられます。
本丸の枡形土塀は古写真が残っていなかったため、
一般的にあるべき狭間を再現することが出来ました。


一文字櫓跡

大手側にある本丸一文字門は枡形に構築された敵の侵入を防ぐ役目をしています。
この櫓台石垣の上に一文字櫓が存在していたはずなのですが、
復元に必要な資料(立体図面や古写真など)がみつかってないために
復元が叶わずまだ石垣だけの状態です。


櫓門跡

平面図にはこの石垣の上に櫓が載る「御櫓」が記されているんですけどねえ。
復元されると良いのですが…どこからか資料がみつかると良いですね。


イメージ図

ちなみにこれがイメージ図です。
平面図から想像すると、こんな感じに櫓が載っていたのではないかと思われます。


本丸

この奥には本丸御殿があったとされるエリアです。
現在も本丸区画の整備が進められていて、スポーツ施設の撤去工事などが行なわれています。
平成45年度完成を目指して工事が進められていますが、平成の時代も終わり
新しい年号に変わっての完成になりますね。



ここから櫓門に出入りしていたのでしょう。
櫓門の出入口は二ヶ所なのでここには写ってないのですが、もう一ヶ所階段が付いています。
※イメージ図に記載されている階段のことです。


井戸跡

これは発掘された本丸御殿の石組井戸です。
江戸時代以前は木組で素堀が主流でしたが石組ということは
比較的新しく江戸時代以降の井戸のようです。
以前訪れた時は本丸の中には入れなかったのでこれだけでも見学出来て今回の収穫です。


見学路

本丸御殿の発掘調査の結果報告など貼られた掲示板があります。
最上氏時代の建物礎石や瓦などが見つかっています。


石垣の崩落跡

本丸の堀調査で発見された、江戸後期にあった「御櫓崩」で崩れた石垣の石。
崩れた部分は回収されることなくそのまま埋め均されたままの状態でした。
現在は崩れた石の一部が堀の中に見える状態で保存展示されています。


石垣石の加工

二の丸ではいろいろな石垣の石が展示されています。
安政時代のものや矢穴があるもの、刻印・朱書き・墨書など
並んでいる石をひとつひとつ見て歩くのもおもしろいです。


修羅

石垣に使う大きな石は採石所で伐り出され、「修羅」というソリに載せて
運ばれていました。
人力で運んで来るんですよ。昔の人は凄いですね。
こんな苦労ばかりしていたら長生きも出来ませんよね^^;


北不明門跡

ここから車は城内に乗り入れ可能です。
駐車場や博物館などの見学施設や体育館などの出入りが出来ます。
堀を渡り門のあった出入口は、石垣が設けられています。


西大手門跡

この石垣は修理を施されていない石垣で、今もはらんだり崩れたりすることなく
しっかりとしています。


南大手門跡

南大手門も枡形の石垣が残されています。



表と裏で石や積み方が違っています。



前回訪れた時は博物館や郷土館に寄りました。
今回はとにかく城址を散策してみようと歩き回りました。
また、ボランティアガイドさんの話も聞けて、あまり品の無い話題で申し訳ないのですが
つい立派な梁を見てしまうと「どこ産のおいくら?」と聞いてしまいます。
今回も東大手櫓門の梁が目にとまり、お聞きしてしまいました(^^;
どこのお城もやっぱり太くて立派な梁というものは自慢の逸品で、
確保するのに大変な苦労とお金がかかっています。
しかし、この東大手櫓門の梁については市長さんの伝手でかなりリーズナブルに入手されたとのこと。
それでも柱1本で田舎なら家1軒買えちゃうほどになっちゃいます。
日本ではなかなか手に入らないし、とても高額になってしまいますよね。
しかし、この梁があるのとないのとでは大違い。
木造をみると柱の太さで価値をみてしまいます。
私の太さもそんな価値があるんです!(ウソです)


平成26年8月24日登城
平成30年9月29日再登城



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仙台城(宮城県)

2018年10月09日 11時17分21秒 |  百名城
仙台城せんだいじょう
別名青葉城
構造山城
築城者伊達政宗
築城年代1600年(慶長5年)
指定史跡国指定史跡
場所仙台市青葉区川内 地図
スタンプ設置場所 仙台城見聞館展示コーナー(本丸跡・ガイダンス設置)
城郭検定出題あり

仙台城跡は初代仙台藩主伊達政宗が、1610(慶長15)年に築城しました。
伊達政宗公は徳川家康の警戒を避けるために、あえて天守閣は設けなかったといわれる。


伊達政宗騎馬像

本丸にあるシンボルで、伊達政宗300年祭を記念して制作された騎馬像で
戦時中の金属回収で提供してしまい、代わりにコンクリート製の平服立像が設置されました。
こちらは現在岩出山城に移されています。
そのため現在の騎馬像は製造元に型が残っていたために同じものが造られた二代目です。


本丸御殿跡

今回はガイドさんにお願いして案内してもらうことに決めてました。
歴代藩主の座する「上段の間」をはじめ、「孔雀の間」や「檜の間」など多くの部屋が配置され、
ガイドさんの説明を受けながら見て廻りました。
前回訪れた時はここはまだ整備されていなかったような…。
ただの広場のような印象でしたが説明を聞き、御殿を想像出来る場所へと変化したことを実感。



ここで使われている礎石は色で当時の石と現代の石と見分けることが出来るとのこと。
色の濃い(黒い)石が本当に使われていた当時の礎石だそうです。
微妙な色の違いがわかるでしょうか。。。


忠魂碑

東日本大震災で金鵄像が落下。
その後元の場所へ載せるのは困難と判断され、現在はとても見やすい位置に留めています。
日本書紀の神武天皇の軍を勝利に導いたとされる金色のトビをモチーフにしているそうで、
現在は震災被害伝承モニュメントとして撮影スポットとしても騎馬像と共に人気?です。


懸造跡

崖に迫り出した優雅な懸造があった場所です。
政宗公はここで賓客の接待を行ったという。

造りは京都の清水寺本堂の舞台のような造りであったようです。
しかし、その裏では戦いのための物見や横矢の要素も取り入れられた
望楼型の要塞だったという説も…。


土井晩翠像

ここでは30分ごとに「荒城の月」が流れます♫
土井晩翠は「荒城の月」を作詞した人物で、「荒城の月」に関しては各地の城に石碑や云われがあり
城めぐりをしているとモデルになった城などと見掛けます。
候補地がたくさんありすぎてどこがホントのモデルの城なのか、銅像に聞いてみた。
…当然返事は無い^^;


伊達武将隊

この日の出演は伊達成実・片倉小十郎景綱・支倉常長・松尾芭蕉の皆さんです。
タイミング良く見ることができました。
しかもガイドさんのお勧めで、騎馬像の前で伊達成実さんと一緒に写真も撮っていただきました。


仙台城見聞館

館内は、仙台藩の儀式や政務を執り行った本丸大広間に関連した展示が行なわれています。
日本100名城のスタンプ設置場所でもあります。


スタンプ設置場所

日本100名城のスタンプはこちらです。
以前訪れた時にお世話になりました。
入手済みなので今回はスル―です。


大広間模型

これは50分の1の大広間を復元した模型です。
桐や菊紋が大きく形取られているのが目に飛び込んで来ます。
これだけで格式高く感じられます。


上段の間の「床」

そして、藩主が座った上段の間の床の一部を原寸大で再現したものです。
絢爛豪華な鳳凰の図です。
せっかくなので床だけでなく大広間も再現してほしいなあと思ってしまいます(^-^;


詰門跡

本丸の正門で、現在は二階建ての桃山建築だった門ではなく
護国神社の鳥居が出迎えてくれます。
入母屋造り、本瓦葺きで大棟には鯱瓦が載っていました。


本丸北壁石垣

三期に分けて積み上げられた石垣です。
地震によって崩れては積み直し、グレードアップして行ったようです。
最初に政宗が築いた時は野面積みでした。
ここには3回訪れ居ますが、まじまじと見たのは今回が初めてです。
この高さ、スゴイ!!


中門跡

中門は別名「虎門」と称され、大手門から詰門の途中に設けられた二階門でした。
大正9年に老朽化のため取り壊されました。

ここからは多数の金箔瓦が発見されているそうで、仙台城の門はどれをとっても
豪華で大掛かりな造りであったことが想像出来ます。


大手門脇櫓

復元された大手門脇櫓。
戦災で焼失してしまいましたが、民間の寄付により復元されました。


大手門跡

大手門は桃山様式で二階建ての楼門で大きな二階門でした。
大手門と脇櫓は昭和6年に国宝として指定されていましたが、
昭和20年の仙台空襲によって脇櫓とともに焼失してしまいました。


五色沼

五色沼、長沼とL字になった堀跡があります。
五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」だそうです。
冬になるとこの池が凍りスケートが出来たようです。
そう言えば羽生結弦選手や荒川静香選手も仙台出身でしたよね。
でもここで練習したわけではないですが、発祥の地だけあって
力の入れ方が違うのでしょうね。


仙台市博物館

三の丸にある仙台市博物館にやってきました。
三の丸は築城当初政宗の屋敷があった場所で、池やあずまや、茶屋だどがありました。
ここでは土塁も見られ、二代藩主以降は蔵屋敷や御米蔵に利用されていたようです。


残月亭

明治中期の書院風茶室で、扁額は伊達政宗の筆跡を五代藩主が模刻したものを
伊達家当主に名称の使用とともに作成の許可を得て模刻したものが掛けられていました。
その扁額は現在博物館の方に展示されています。


伊達政宗像

初代伊達政宗騎馬像の一部。
昭和10年に伊達政宗没後300年を記念して建立された騎馬像ですが、
戦時中の物資不足により金属類回収令によって本丸から姿を消したものの
戦後、溶かされずに残されていた頭部から胸部までの部分が発見されここに展示されています。
よくぞ、これだけ残されました。政宗愛を感じますね。


巽門跡

アメリカ軍による仙台空襲の焼夷弾によって焼失した巽門があった場所です。
こちらも焼失前までは戊辰戦争の戦火を免れた貴重な建物が残されていました。


造酒屋敷跡

ここには慶長13年に奈良県から政宗が招いた又右衛門が酒蔵と屋敷を与えられ
酒造りを行なった場所と伝わります。
すぐ近くに「清水門」があるように清水が湧き出ているため、その清水を使って
酒造りがされていました。
政宗が若林城に移る際にも又右衛門もそれに従い若林でも酒造りを続けていました。
現在この曲輪は発掘調査中で立ち入ることは出来ません。


仙台御用酒発祥の地

葡萄酒・みかん酒・びわ酒・かりん酒・桑酒など20種類余もの酒造、
又右衛門(初代)から孝蔵(12代)まで仙台城御酒御用屋を務めました。
さすが政宗さま、他品種に挑戦していたんですね。
しかも美味そうだし、体にも良さそうなお酒ですね。


清水門跡

入母屋造りで二階建ての二重門があったことが絵図に残っていましたが
いつごろの創建かはわかっていません。
近くに清水が湧くことから「清水門」と名付けられました。



下から見た懸け造りの跡。
下から見上げて妄想



3回目の登城にしてやっと本丸以外の場所を散策しました。
最初に訪れた時は、有名だからと言って来たら天守が無いことにがっかりしたのを覚えています。
お城と言ったら天守があるものと思っていた私はおろかでした。
その後日本100名城のスタンプを集めにやってきたのですが、スタンプを押すだけが
目的のようになってしまい見て回ったとは言え、まだまだ観光気分でした。
そして今回今更ながらの本丸北壁石垣に脱帽!
こんな凄い石垣だったのか…と初めて見るかのように感動。
天守はないけど、遠慮したとは思えない豪華な建物は天守に見劣りしなかったのではないかと
考えを改めさせられた登城となりました。



食の覚書

ずんだシェイク
ここに来ると買ってしまいます。
この日は曇っていたのですが歩き疲れていたので一段と美味しく感じられました。

ずんだシェイクとずんだ餅



平成22年8月14日登城
平成30年9月29日再登城



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多賀城(宮城県)

2018年10月06日 16時55分17秒 |  百名城
多賀城たがじょう
別名
構造平山城、城柵
築城者大野東人
築城年代724年(神亀元年)
指定史跡国指定特別史跡
場所多賀城市市川 地図
スタンプ設置場所多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室(多賀城市中央2-27-1)
城郭検定出題あり

多賀城は724年(神亀元年)に大野東人によって創建され、
陸奥国府と鎮守府が置かれました。
城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。



駐車場

県道35号線からの入口。
ここでは多賀城の南側の散策の為駐車。
そして出発前に朝食用に作って来たおにぎりで腹ごしらえ。
現在工事中のため工事車両の出入りがあります。


多賀城南門跡

前回訪れた時には散策しなかった南側の様子を見てこよう!


多賀城碑

多賀城南門跡から見える覆屋に多賀城碑が入っています。



724年の多賀城創建と762年の改修を伝える記念碑です。


外郭南門跡

多賀城の正門があった場所です。
礎石式の総瓦葺で重層の八脚門があったと推定されいています。
今後復元される計画があるそうなので楽しみですね。



さて、このあとは正殿めざして登り上げます。
車は先回りして多賀城跡管理事務所前にある駐車場へ。


政庁南大路跡

政庁南門と外郭南門を真直ぐに繋ぐメインとなる大路です。
現在は奈良時代の姿に復元整備されています。



道幅は奈良時代は13m、平安時代は23mであったことがわかっています。
斜面は自然の石を並べた階段が設けられていました。
ここから暗渠も設置されていて、ここから木簡もみつかっています。


復元模型

この模型は奈良時代の姿を推定復元したものです。
ここは以前と変わってないですね。


政庁南門跡

政庁の南正面の門で、礎石式で翼廊が付いた装飾性のある門構えでした。


石敷広場跡

正殿前は石敷きの広場になっていました。
しかし、足元をみると石がゴツゴツしていてちょっと歩きずらいのが気になります。
キョロキョロしながら歩いていたらつまずきました


正殿跡

政庁の中心となる重要な建物があった場所です。


東脇殿跡

東西にある脇殿。
この他に東楼と西楼、東殿と西殿といったように東西対称に
建物が造られていました。
ここでは、青森からお嫁に来たという多賀城の手入れに来ていた
女性の方とお話ししました。
GWに青森に行った時には聞けなかった津軽弁?を宮城で聞くことになるとは^^;


西楼跡

建物があったら…と妄想してみる。
秋田城みたいな感じかなあ。


後殿跡

後殿跡から見た正殿跡。


北殿跡

北殿のほかに東殿、西殿もあります。


駐車場

多賀城跡管理事務所前にある駐車場です。
先回りした車はこちらの駐車場で私を待っていました。
前回もここを利用しているので時短連携プレーです。


多賀城古祉の図

多賀城跡管理事務所前の案内看板に記されてある多賀城古祉の図。
まだスタンプが押せる時間ではなかったので今回スタンプはパスしました。
そして近くの多賀城神社へ。


多賀城神社

この神社は多賀城神社と称し、後村上天皇をはじめとし、
北畠親房、顕家父子、伊達行朝、結城宗廣等の南朝の諸将を奉祀する神社です。
前回はまったく視界に入っていなかった神社ですが、近頃神社仏閣があると
何かあるのではないかと目につくようになってきました。


六月坂地区と多賀神社

外郭東門から西門間道路の屈曲点に位置します。
奥に見えるのが多賀神社です。
この地区には役所建物や倉庫などがありました。


多賀神社

滋賀県にある多賀神社の分霊を勧諝したと伝わります。
ここから北東に約50mの場所にあったのですが多賀城の発掘調査や
整備により現在はこの位置に移されています。
ちなみに延命長寿の神様だそうです。
ここでも通りすがりにみつけたので立ち寄ってみました。
多賀城神社と多賀神社…なんだかややこしいです。


外郭北東隅

ここから林の中に入って行くと東大垣跡があります。
この奥は、あまり散策に来る人はいないようで中心地に比べると放置された感があります。


東大垣跡

あまり日が当らずジメジメしているので苔などで足元がとても滑ります。
案内看板は昔のままです。
が北の外郭の隅になる場所で奈良時代の塀跡が残ります。
と言っても現在は塀は残っておらず、基部のみ遺存しています。


奈良時代の外郭東門跡

大きく分けて3期に渡り造り直されていますが、
ここに復元されているのは2期の頃の八脚門の跡です。


大畑地区

城内最大の役所があった場所です。
8世紀後半には長大な建物が建てらていました。


作貫地区

主屋を中心にコの字型の役所が建てられていました。


東日本大震災の半年前に訪れたこの時は、日本100名城のスタンプ目的で行ったので
見学したのは成政庁の主要部分だけでした。
今回は外郭を含め、見る場所を広げてみたかったのと、
昨年「上野三碑」がユネスコ「世界の記憶」に登録決定したことで
多胡碑を見に行って「日本三古碑」のひとつとして多賀城碑のレプリカが
展示されていたので本物を見なくっちゃ!と思い再度登城することにしました。

思った以上に広くて、歩いてすべて散策するにはそうとう時間がかかることでしょう。

※「日本三古碑」は、多胡碑(群馬県)・多賀城碑(宮城県)・那須国造碑(栃木県)のこと。


平成22年8月14日登城
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新発田城(新潟県)

2018年07月30日 08時00分14秒 |  百名城
新発田城 しばたじょう
別名 菖蒲城・舟形城・狐尾曳ノ城
構造 平城
築城者 新発田氏
築城年代 鎌倉初期
指定史跡 国重要文化財
場所 発田市大手町6 地図
スタンプ設置場所 新発田城表門・新発田市役所本庁舎1階受付(12~3月)土、日、祝日、年末年始は警備員室
城郭検定出題あり

三方入母屋の丁字形の屋根に3匹の鯱を載せた御三階櫓が特徴の新発田城。
現在は陸上自衛隊駐屯地になっているため内部に入ることは出来ないのですが
2004年に辰巳櫓と同時に木造で再建され、本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存として
残されています。


旧二の丸跡

旧二の丸跡に駐車場とトイレが完備されています。
前回、今回ともにこちらの駐車場を利用して散策しました。


日本百名城碑

ここが新発田城の代表的な撮影ポイントとなる場所です。
日本百名城選定を記念して立てられた碑と新発田城祉碑が並び御三階櫓と一緒に
撮影出来るスポットとなっています。


御三階櫓

新発田城だけに見られる丁字の屋根に3匹の鯱。
海鼠壁の壁面は寒冷地では耐久性があるため採用されています。
見た目にも美しい。


T字の屋根と3匹の鯱

丁字型の屋根に3匹の鯱が載る特徴的な櫓で、攻め入った敵を鯱の位置で方向を惑わす役割があったとされます。
真ん中の後ろを向いているのがメスの鯱で左右の2匹はオスの鯱です。


二ノ丸隅櫓

こちらも海鼠壁の壁面で、白と黒のコントラストが目を惹きます。


土橋門跡

ここにはかつて土橋門があり、その先は帯曲輪に入り本丸表門へ。
番所も置かれていました。


堀部安兵衛像

帯曲輪内にある忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の銅像。
堀部安兵衛は新発田の生れで新発田藩士の中山安兵衛の息子です。
母方の祖母は藩祖溝口秀勝の娘であったこともありここに銅像が建てられています。


本丸表門

前回訪れた時と変わらぬ佇まいです。
そして変わらぬ堀の水の色は濃い緑…^^;


スタンプ設置場所

本丸表門のガイドさんの常駐する場所に日本100名城のスタンプが設置されています。
こちらでパンフレットをいただき、新発田城に関してのお話しもしてくれました。
脇に置かれた鯱は御三階櫓に載っているものと同じもので、駐屯地敷地内に入れないので
近くで見ることができないため、こちらで見られるように同じものを展示しているとのことです。



ここから柱を見ると修理をしたことがはっきりわかります。
下は修理した部分で上の柱や梁は江戸時代の頃のままの柱です。



最初に城を築いたのは新発田氏であり時期はよくわかっていないのですが鎌倉時代のようです。
御館の乱の論功行賞で恩賞が与えられなかったことに不満であった新発田重家は
上杉景勝に対して反乱を起こし、景勝方の攻勢により新発田城は落城したという話を
暑い中、この場所で受付の方が熱弁してくださいました。



本丸表門の内部も見学できるようになっているので覗いてみましょう!


本丸表門内部

現存らしい歳月を経た木材から重みを感じます。


石落し

下を通過する人を狙い撃ちしてみたくなるのですが。
展示用にガラスやアクリル板がはまっていたりはしないので、こちらは締切になっています。


溝口秀勝像

初代新発田藩主の溝口秀勝の銅像です。
新発田藩は初代から12代の明治時代まで取り潰されることなく溝口氏が統治しました。
そして、270年間一度も改易や転封もなく続いた数少ない藩の一つです。



辰巳櫓へ。


辰巳櫓

木造の二層二階櫓で、入母屋造りの本瓦葺きです。


一階

展示室になっています。


礎石

ガラス張りの床を覗き込むと礎石が見えます。
ここからは全部で11個の礎石がみつかっていますが、なぜか北西隅にあったであろう
礎石1つがみつかっていません。
全部で12個あったであろう礎石の上には2階まで続く通し柱が建っていたものと思われます。


石落し

新発田城で石落しが設置されている建物は新たに復元されたここと、見学することは出来ないのですが
御三階櫓の他に、現存である本丸表門櫓に設置されていたようです。
辰巳櫓と御三階櫓は石垣を登って来る敵に対しての攻撃用に出来ていて水堀に張り出しています。


階段

急とはいえ、登りやすい階段です。


二階

二階は瓦と棟札の展示がされています。


棟札

棟札には城主として市長の名前が記されています。
その両脇には署名箱が置かれていて、その中には三階櫓と辰巳櫓の復元を願い署名(3万余り)が
収められています。


陸上自衛隊新発田駐屯地

少し高い所に上がると塀の向こうの陸上自衛隊新発田駐屯地の様子が見えます。
明治時代に政府は新潟に歩兵第8大隊を配備することにしたのですが、
部隊を容れられる施設がなかったため、しばらく新発田城を営所としました。
しかし、新潟営所が不適という理由で結局新潟を引き払って群馬県の高崎に移ることになり
その一部である第2中隊が新発田城に入ることになりました。
その後第2中隊は大隊になり敗戦まで続き、今も陸上自衛隊新発田駐屯地として
使用されています。



御三階櫓が陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地内に見えます。
いつか三階櫓も見られるようになるといいなあ。


石垣内部構造

辰巳櫓の麓に石垣内部構造の紹介がされています。
新発田城で使われている石垣の石の特徴や積み方が記してあり、表現されています。



旧二の丸隅櫓を見に行ってみましょう。
この場所はかつて本丸鉄砲櫓があった場所です。
もともと二の丸北部にあった隅櫓を昭和34年に解体して翌年この地に
移築したものです。


旧二の丸隅櫓

「なまこ壁」は、平瓦を並べ瓦の継ぎ目に漆喰を盛り付けて塗った壁のことで、
漆喰部分の盛り上がりがなまこに似ていることから「なまこ壁」という名前がつきました。
「なまこ壁」が間近で見られるポイントでもあるので見てみましょう。


一階

移築されたこの櫓は寛文8年の大火後に再建されたもので
江戸時代からの建物として今に残されています。
区切りはわかりずらいですが、柱の外側は武者走りになっています。


二階

解体修理を経て移築されたもので、辰巳櫓の新しい木材とは違い
年期の入った温かみのある材木でああることがわかります。



上の屋根から落ちて来る雪や氷で丸瓦が破損しないように瓦の上に瓦を敷いています。
雪国で見られる屋根の光景です。


辰巳櫓

前回訪れた時にはこちら側からのアングルで撮影してなかったので
周り込んでみました。


旧新発田藩足軽長屋

城郭検定の問題にもなっていた旧新発田藩足軽長屋にも足を延してみました。
かつては100軒ほどあった足軽長屋も、現在はここだけになってしまいました。
とても風情のある通りなので涼しい時期に散歩に訪れるといいなあと思いました。



6年前に訪れたまま、ほとんど何も変わっていませんでした。
現状維持が続いているのですね。
6年も経てば、どこか手入れがされて変化が見られる事のほうが多いのですが
時が止まっていたかのような気分でした。
前回私は建物内に入ってなかったので、今回は門と櫓をしっかりと見て来ることが出来ました。
そして、別の角度から写真に収めたり悔いなく見て回ることが出来ました。


平成24年9月22日登城
平成30年7月21日再登城



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水戸城(茨城県)

2018年07月04日 12時37分05秒 |  百名城
水戸城 みとじょう
別名 馬場城
構造 平山城
築城者 馬場資幹、佐竹義宣、徳川頼房
築城年代 1214年(建保2年)頃、1593年(文禄2年)、1625年(寛永2年)
指定史跡 国指定史跡 国重要文化財
場所 水戸市三の丸 地図
スタンプ設置場所 弘道館料金所窓口(休館日12/29~12/31)
城郭検定出題あり

水戸城は茨城県立水戸第一高校から旧茨城県庁までが主郭部で
外郭まで合わせると現在の水戸市中心部全体程の広大な広さを誇ります。


駐車場

弘道館から一番近い駐車場に停めることが出来ました。


スタンプ設置場所

まずは弘道館料金所窓口で100名城のスタンプをお借りして
入館料を支払い弘道館を見学します。


弘道館の正門

弘道館は水戸藩主の徳川斉昭が三の丸に造った藩校です。
藩主が来館する際など正式の場合のみ開門しました。
学生や諸役人はこの門を使用出来ず、通用門から出入りしました。


弾痕

幕末、藩の改革派と保守門閥派の対立によって抗争が勃発。
その時の争いの傷跡が今でも残されています。


扁額(游於藝)

掲げられた扁額は、論語の一節よるもので、文武にこりかたまらず悠々と芸を究めるという意味があります。


玄関

前回訪れた時は東日本大震災後で、その爪痕が残っていてとてもひどいことになっていましたが
奇麗に修復されています。


正庁諸役会所

玄関正面には正庁諸役会所があります。


弾痕

正門同様、ここにも弾痕が残っています。


正庁入口

見学のための入口はこちらです。
玄関も見学用に公開しているのでこちらの玄関から入って建物内を見学することが出来ます。
展示室も見学できますが、こちらは撮影禁止になっています。



そして、廊下は畳敷。


正庁正席の間

藩主が学問の試験や対試場で行われた武術の試験をご覧になったところです。
ここの畳縁には徳川の葵の紋が入っています。



便所

トイレを見るとつい、覗き込んでしまう(^^;
ここも畳が敷かれています。


風呂

風呂釜は無く、ただ体を洗い流すだけだったのか、
真ん中に配水用の溝が切られています。


至善堂

この部屋は藩主の休息所で、諸公子の勉学所でもありました。



ここにはなぜかあるべき欄間が無いようです。
どうしたんだろう…。(震災かなあ?)


雲龍水

弘道館に備え付けられていた消防ポンプです。
安政4年のものです。





徳川斉昭公像

城郭検定準1級の問題では以前訪れた時に見たここにあった銅像を思い出して
正解することが出来ました。
個人的に思い入れのある銅像です。


大手橋

三の丸と二の丸を結ぶ橋で1596年の佐竹時代に架けられたのが最初です。
現在この先の大手門の復元工事中です。


大手門

明治維新150年を記念して大手門の復元工事中です。
この工事に伴い、平成29年11月には日本最大級の瓦塀も発見され今後がとても楽しみです。
完成したらまた来たいと思います!


三の丸空堀

三の丸庁舎の空堀。


彰考館

江戸時代に水戸藩が「大日本史」を編纂するために置いた修史局です。
現在は水戸市立第二中学校となっています。


二の丸展示館

こちらで休憩がてら展示品を見ていると、大手門一枚瓦城主を募集しているという話を伺いました。
今行って来たよという方が詳しく場所を教えてくれたので、帰りに寄ることにしました。
インターネットで寄付を募っていたのは知っていましたが、現地で調度募集していたとは運が良い!
教えてくれた方、ありがとう!


大シイ

戦国時代から自生したという大シイは樹齢400年を超えます。
水戸城城郭内にあることから歴史的にも貴重な樹木として中学校でもシンボルとして親しまれています。


見晴らし台入口

この門をくぐって先に進むと見晴台があります。



なんだろう?と見に行ってみることにしました。


見晴らし台

見晴台とは言うものの、いまいち見晴らした感が無いのですが
この木々が無ければかなり見晴らすことは出来ると思います。


杉山坂

二の丸に通じる坂道で杉山門から二の丸へ入城することが出来ます。


杉山門

門の内側には土塁で桝形が形成されていたという杉山門。
この付近には2代将軍光圀が紀州産の熊野杉を取り寄せて植えていました。


本丸堀

現在、堀底をJRの線路が走っています。


橋詰門

県立水戸第一高校に移築した薬医門で現在は校門として使用されています。
こちらも佐竹時代に造られたと思われ、かつては本丸表口に構えられていました。


東日本大震災の爪痕

東日本大震災後の爪痕。
この写真は以前訪れた時のものです。
これだけひどい被害を受けたことを記憶しているので今回訪れて修復具合を見て
本当に復興できて良かったなと思いました。



当時の地震が強かったことが覗えます。



壁が剥がれ落ちています。



当時は中に入って見学することが出来ませんでした。
今回は復興されて見学が出来たので良かったです。


大手門一枚瓦城主

二の丸展示館で教えてくれた場所へやって来ました。
とてもわかりやすく教えてくれたので土地勘の無い我々にもすぐに場所がわかりました。


申し込み受付

会津の鶴ヶ城赤瓦の寄付の時を思い出しました。
あの時は子供たちが一緒だったのですが、今回は子供たちは付いてきてくれませんでした



直にここで記名が出来る日だったのでラッキーでした。
家族の名前を書いて…と、瓦に黒い墨で書いているとなんだか妙な気分。
しかし、末娘(シャム猫)まろんちゃんの名前を書き忘れたことで子供にめっちゃ責められました
また寄付しなくちゃダメかなあ…。



何はともあれ前回からの様変わりにあれ?あれ?と言いながら車を走らせ、復興がされたことを
認識しました。
綺麗に城郭整備が進み、そしてまだまだこれからも復元工事が進んでいく予定なので
この先が楽しみです。



平成24年10月13日登城
平成30年6月23日再登城



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日本城郭協会,福代徹
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甲府城(山梨県)

2018年06月29日 08時29分56秒 |  百名城
甲府城 こうふじょう
別名 舞鶴城
構造 平山城
築城者 浅野長政、浅野幸長
築城年代 1590年代
指定史跡 県指定史跡 国重要文化財
場所 甲府市丸の内1-5-4 地図
スタンプ設置場所 舞鶴城公園管理事務所(午前8:30~午後5:00)甲府城稲荷櫓(午前9:00~午後4:30まで、入館は午後4:00まで)休館日は月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始
城郭検定出題あり

甲府城は武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。
豊臣秀吉が天下統一後、家康を関東へ移封し、代わって羽柴秀勝が甲府城主となりました。
羽柴秀勝が岐阜へ移封になると、加藤光泰が城主となりますが
文禄の役に加藤光泰が朝鮮へ出兵、加藤光泰が陣中にて病没。
その後、浅野長政・幸長が城主となります。
関ヶ原の戦い後は、徳川家康の命により平岩親吉が再度城代となり幕末まで存続しました。
現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」となっています。


山手門

清水曲輪側にある駐車場を利用してここでは櫓門の見学と、
続100名城に選定された要害山城のスタンプを藤村記念館で
押すためにやって来ました。


山手渡櫓門

前回こちら側には来ていなかったので早速櫓の中も見学です!
この櫓門は石垣と石垣を繋ぎ、渡り廊下のような役割も果たしていました。


山手渡櫓門入口

無料で見学出来て、中では係の方が説明もしてくれます。



ここから稲荷櫓が見えます。
そして、富士山も見えるんですよ


鍛冶曲輪門

明治の初めまで残っていた門なので資料も残っていたため復元されました。


鍛冶曲輪

鍛冶曲輪は横に広く、日本庭園もありその先は自由広場になっています。
ここをまっすぐ上がって、天守曲輪を通って稲荷曲輪を目指して進みます。


坂下門跡

ここには城を建てる前にあったという一連寺の門があったとされています。
また、パンフレットによると石垣の積み方の違いから積んだ時代が違うとかんがれられているとのこと。
まったく気付きませんでした。


中の門跡

天守曲輪や本丸へ通じる門で、絵図には柵の門として描かれています。


鉄門

前回訪れた時は復元中で完成待ちの状態でした。
完成したらまた来ようねと後にしましたが、漸く見に来ることが出来ました。


稲荷曲輪

昨年トイレが火災(放火)に遭い、現在修復工事中です。
ここからチラリと中の建物が見えますが、立派なトイレが出来そうですね。


井戸

井戸があると覗いてみたくなります^^;
※この写真は以前のもので現在は工事中のためこちらの見学は出来ません。
ちなみに後ろに写っている建物が、燃えてしまったトイレです。


稲荷櫓(艮櫓)
鬼門方向にあったため、艮櫓とも呼ばれています。
武器庫として使用されていました。



稲荷櫓に登る石段の脇にはこのようにして石を割るとう見本のような
石が置いてあります。
甲府城は石垣の勉強にはかなり力を入れているのがここからも伝わります。


稲荷櫓入口



スタンプ設置場所

稲荷櫓を入ってすぐにスタンプ設置場所があります。


鯱鉾

展示されている鯱鉾は、万が一落雷など災害や事故で鯱鉾が壊れてしまった
という時に使う予備でもあるそうです。


最上階

以前はこちらでガイドさんに石の割り方などを教えていただきました。


模型



内松陰門

屋形曲輪と二ノ丸をつなぐ門です。



石材を割るためのクサビ打込み穴がくっきりと残されています。
石垣でこれを見つけるのが楽しくなりました。



学芸員のボランティアガイドさんが石垣の楽しみ方を細かく教えてくれました。なるほどです。
「足軽日誌」というブログを書いていらっしゃるので覗いてみて下さい。
甲府城の四季折々現地の様子が見られます。


兄弟石

ひとつの石をふたつに割った「兄弟石」があります。


暗渠(あんきょ)

排水するための穴で、排水溝の役割を持っています。


天守台

ここに天守が建つ日が来るのだろうか…行く末を見守りたいと思います。


広場

天守台からの眺めです。
この広場には鎌倉時代から庄城稲荷がありました。
そのため稲荷曲輪と呼ばれています。


銅門跡

鉄門に対する門で現在は礎石だけが残っています。


鉄門

今度は内側から見てみましょう!


日本庭園と鍛冶曲輪

手前の木々が植えられているのが日本庭園で、左奥の平地が鍛冶曲輪です。
鍛冶曲輪にはかつて会所(勘定所)があり、年貢や普請に関する事務を扱う建物がありました。


武徳殿

この日は見学できませんでしたが、とても立派な建物があります。
昭和8年に造られた建物で山梨県警本部の持ち物のようです。


遊亀橋



高石垣

築城時のままの野面積みの石垣です。
当時にしてはかなり高い石垣で、今見ても見事な高石垣だと思います。


防災新館地下駐車場

山梨県庁防災新館地下1階に展示されている石垣です。
楽屋曲輪に建つ山梨県庁の有料の地下駐車場へ車を停め直して防災新館地下1階に展示されている石垣も
見て来ました。
追手門近くの堀の石垣の一部だそうです。



私の石垣の楽しみ方を覚えたのはここが原点です。
天守の無い城はつまらないと思っていた頃、たまたまボランティアガイドさんが石垣の説明に
来てくれたことで石垣に関心を持ちました。
それからというもの石垣の魅力にはまってしまい、模擬天守よりもそこにで
時代の移り変わりを観て来た石垣の方がずっとロマンがあるなあと感じるようになりました。
私の城めぐりの転機になった城跡です。


甲府城といえば天守を造るのかどうかという問題で注目しています。
とても気になるところですが、いろいろな問題や意見があるのでまだまだ難しいようです。

足軽さんに会えるかなと淡い期待をしつつ散策していましたが、急に思い立ってアポ無しで
行ったので偶然の再会にはなりませんでした。
でも、まだまだ見逃した場所があるのでまた来ますね!


平成23年9月25日登城
平成30年6月3日再登城


御当地グルメ・おみやげ

ほうとう(小作)



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
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