むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

高知城(高知県)

2019年06月29日 10時25分18秒 |  百名城
高知城こうちじょう
別名鷹城
構造平山城
築城者山内一豊
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所高知市丸ノ内 地図
スタンプ設置場所本丸御殿入口
城郭検定出題あり

高知城は、大高坂山に山内一豊が築いた平山城です。
それより以前に長宗我部元親が築城するも、水害に見舞われ未完成のままでした。
山内一豊が浦戸城入封の際、長宗我部盛親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こし
対立すると武力だけでなく、土佐の地に歩み寄った対策を成し浦戸城とは別に
大高坂山城に高知城を築くこととなりました。




現存している堀は江戸時代に比べて3分の1に減ってしまって、
堀幅においては半分ほどになってしまっています。


追手門

追手門の奥には天守も聳えます。
門前が枡形になっていて、石垣の上の狭間塀と門の二階から
攻撃出来る仕組みになっているので守りの要となる場所です。


城跡碑

背後の巨石には工事の際に印された「ウ」・「エ」・「ケ」・「シ」などの
刻印があるので探してみてください



両脇の石垣の上に渡櫓が載っています。
扉や柱には格式を高めるために、乳頭金具や飾金具などで装飾しています。
しかし、上を見上げると石を落したり、槍で突くといった攻撃が出来る
仕組みも持っているこわ~い門です。



内側から見た追手門。
この写真ではちょっとわかいりずらいのですが、
石垣からはみ出した右手前の梁の角には小さな屋根が載っているのが
面白いというか、かわいいと思ってしまいました。



高知城観光案内所で本丸御殿前までの無料ガイド(約50分)がお願い出来るとのことで
ここでガイドさんと待ち合わせ、追手門から案内していただきました。


石樋

雨水が石垣に沁み込まぬよう、前に突き出すように工夫された石で出来た樋です。
この真下には石樋から落ちる雨水を受ける場所も設けられています。


山内一豊の妻(千代)の像

内助の功を象徴する、名馬とともに千代の像が立てられています。
織田信長の「馬揃え」の際に貧しい一豊のために千代が持参金で名馬を手に入れ
信長に一目置かれ、出世したという伝説があります。


杉の段の井戸

かつてこの場所は杉の大木が鬱蒼と茂っていたことから杉の段と呼ばれるようになりました。
また、城内にある井戸の中では一番水質が良く、城主が暮らす二の丸御殿で使用する水は
この井戸から一日3回汲み上げられていました。



平成になって4年をかけて現代の穴太衆が積み直した石垣です。


鉄門跡

かつてここには入母屋造りの二階建、本瓦葺きの門がありました。


詰門(東側)

鉄門を抜けると早く天守に近付きたいあまり、こちらに向かって来てしまうのですが、
本丸へ行くには階段を登り、二の丸から廊下橋を渡らなくてはなりません。
平時は詰門の一階は塩蔵に使われていました。
内部は通り抜けできますが、筋違いになっていて本丸には抜けられずに
外へ出てしまう構造になっています。



本丸に行くにはこちらの階段を登って二の丸から続く廊下橋を渡らないと
辿り着けません。


二の丸

この広いスペースには二の丸御殿がありました。
藩主の居間や側室の奥御殿のほか、御殿女中も住まわせていました。


廊下橋(詰門二階)

万が一二の丸まで敵が攻めて来た際は、この櫓橋を落してしまい
籠城が出来る仕組みになっていました。



廊下橋入口です。



ちょっと変わった造りの廊下橋&詰門と廊下門。
とても重要な場所であることが、この複雑な構造でわかります。
いろいろな機能があって知れば知るほどおもしろい造りです。



廊下橋の両側にある小部屋は、家老・中老・平侍に分けられた家臣の積める溜ノ間になっています。



襖が無い方は小姓が控えた場所です。
このように二階部分は家臣が詰めていたことから詰門と呼ばれています。


天守

本丸は廊下橋(詰門)から一段高く造られていて、最後の砦として
門から侵入した敵を上から攻撃出来る仕組みになった重要な門となっています。
この門をくぐるように上に出ると、いよいよ天守のある本丸です。


100名城スタンプ設置場所

本丸御殿入口受付右側に設置されているスタンプです。


本丸御殿

現存する本丸御殿は懐徳館とも呼ばれる小ぶりな御殿です。
本丸御殿へ。


石落

現在は展示用に下が覗けるようになっていますが、
本来は開閉式に造られていました。


一階

一階は模型の展示がされています。
高知城の築城の様子が再現されています。


床下収納

床を見ながら歩いていると、取手の付いた床板がありました。
これは床板を外すことが出来て、床下収納となっている場所なのです。
非常時には食糧などの貯蔵が出来る造りになっていました。


破風内側

三階には破風の間があります。
ここから明かりを取っているので比較的明るい階になっています。


四階

壁は真壁造りで、表面は手すきの和紙(和紙張り壁)で仕上げられています。
この地方では和紙造りも盛んだったようです。
身分の高い家老が集い、作戦会議などを行っていた部屋とも云われています。


五階




下を向いて歩いていると、またまたみつけました!
節穴を補修した跡。
姫路城では遊び心でいろいろな形をしていましたが、高知城では綺麗な丸です(^^)


小屋の段
五階と六階との間にある隠し部屋のような空間は武者隠しの間です。
階段を登っている時には気付かずに上へと通り過ぎてしまったのですが、
帰りに階段を下っていて気が付き、慌てて撮ったのがこの写真。
前後に行列となって階段を下っていたので斜になってしまいました(>_<)


最上階

どこを向いても人・人・人。
とても賑わっています。


天井

天井は格天井で格式高い造りになっています。






廻縁と高欄

山内一豊が掛川城と同じ高欄を徳川家康に願い出て造ったという逸話があります。
現在の掛川城は、高知城を参考にして築城されています。
2004年の改修前は黒漆ではなくペンキで塗られていたため痛みも激しかったのですが
現在は築城時と同じ黒漆に戻され綺麗に修復されています。


眺望

昨晩泊ったホテルのある方角(西側)を望んでいます。
眼下にはこじんまりとした本丸全体を見下ろすことが出来ます。



北東側は二の丸、三の丸が見渡せます。
両御殿が現存していたら…と想像してしまいます。




一階まで戻って来ました。
ここから東多門櫓、廊下門二階部分へと進みます。


東多門櫓

右側(外側)の壁には蓋付の狭間があり、左側(本丸側)は引き戸になっています。
本丸側からは出入りが容易に出来る仕組みになっています。


廊下門
東多門櫓から廊下門へと進みます。
ここでは領民の生活の展示がされています。



一番奥の部屋には山内豊信所用陣羽織の展示がされています。


黒鉄門

二階建ての鉄門は、戦闘に備えられた造りで
石落しはもちろんのこと、門扉や二階の銃撃用の窓を西側に集中させて
寄せた造りとなっています。


黒鉄門内側

ここに階段を掛けて登っていたものと思われます。


鐘撞堂

最初は二の丸付近にあったのですが、移転を繰り返して
現在の地に落ち着きました。


矢狭間塀

ここで注目してほしいのが、塀に開いた狭間です。
天守東南矢狭間塀には横に細長く開いた狭間があり、これが物見窓です。
高知城にだけ残っている貴重なものです。



綺麗な蝶が飛んで来たので思わず撮ってしまいました


忍び返し

石垣を登って来る敵に備えて造られたもので、忍び返しと呼ばれる防御です。
石落しも張り出しています。


三の丸

かつてここには三の丸御殿がありました。
行事や儀式などが執り行われていました。
ここまで来ると子供たちは飽きてしまい、四葉のクローバー探しを始めてしまいました^^;
トイレとベンチのある三の丸に子供たちを残して私は更に外周を巡ることに。(なんて親だ


排水路

高知はとにかく雨が多く、この地の地盤も緩いこともあって雨水への
対策が良くされた城跡です。
一豊もこの対策をしっかりすることで長宗我部氏が断念したここで
築城を成し遂げられたのですね。


長宗我部期石垣

長宗我部元親は、岡豊城から、1588年(天正16年)大高坂山に移り築城しましたが、
水害などにより築城がうまくいかずにこの地を断念し、1591年(天正19年)に
浦戸城に移転しました。
その頃に構築された石垣が三の丸石垣改修工事の事前調査で発見されました。



下を覗き込んだら…あ、奥の方に三菱マーク!
いや、山内家の家紋です。


銀杏並木
石垣と銀杏並木のコントラストがとても美しい通りです。


紅葉並木
銀杏並木の一段下は紅葉並木です。
どちらも新緑の時期できれいですが、秋になれば黄色と赤でさぞかし
綺麗な道になるんだろうなあと想像します。



猫城主さま?かどうかはわかりませんが二の丸御殿跡へ上がるところのようです。
お城ではよく猫に出会います


詰門(西側)
先ほど見た詰門の反対側へやって来ました。
東側の詰門の出入口は少し右寄りにありましたが、こちら側はほぼ中央にに
出入口があることから真直ぐでなく筋違いになっているのが分かります。
こんな面白い構造なのに、中が見られないのが残念でなりません。


梅の段

現在梅の木が沢山植えられている梅の段は、かつての馬場でした。
ここから西へ下ると御台所屋敷跡や八幡宮跡、搦手門などが見られるのですが
三の丸に残して来た子供たちが待っているので三の丸へ戻ることにします。


はりまや橋

江戸時代初期に、豪商の播磨屋宗徳と櫃屋道清が往来のために架けられた橋です。



現存12天守のうち高知城が12番目の登城となり、
これでやっと現存12天守すべての登城を果たしました
山内一豊の城とあって掛川城を思い出しながら登城しましたが、かなり見応えがありました。
やはり掛川城を土台とし、更にパワーアップさせた感じが伝わって来ます。
やっぱり何と言っても詰門の存在はとても面白いものがあるし、防御策の塊のような造りが
されているのが一豊のこの地での用心深さが犇々と伝わって来ます。
また、三菱自動車に勤めた経験もあるので三菱のルーツに触れられたことにも
感慨深いものがありました。


令和元年5月3日登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社



小説 岩崎弥太郎--三菱を創った男 (河出文庫)
嶋岡 晨
河出書房新社
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長野原城(群馬県)

2019年06月27日 06時40分29秒 | 百名城以外の城
長野原城ながのはらじょう
別名箱岩城
構造山城
築城者羽尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡場所吾妻郡長野原町長野原古城 地図
羽尾道雲入道の城であったと伝わる長野原城は、武田方であった頃の真田氏の一門である鎌原氏と
境界争いをしていました。
もともと、羽尾三兄弟の本拠地は羽根尾城で羽尾道雲入道は三兄弟の長男です。
城は南北へ鳥が羽根を広げたように縄張りされていて、吾妻地方でも代表する
要害の城です。



民家と民家の間に入口があります。
なお、写真はぐんまみらい信用組合前から撮っています。



入口には看板があるので、それに従い進みます。



民家脇にある長野原城跡の標柱。



民家と畑の間に道があるので看板の示す山の方へと進みます。



吾妻線の上の橋を渡って山の方へと道は続きます。



道は薬師堂へと続きます。
今回はここで引き返して、もう一方の入口探しに向かいます。



長野原城はこの山の上です。




大手道

先ほどの入口より国道145号線を少し西に向かい、長野原役場近くの
JRバス関東の道向かい(山側)の民家と民家の間に道があります。
こちらは何も表示はありません。
お墓の裏に道があります。



この先を登って行くと城跡にたどりつくとのこと。
この道に入る手前の家の方が声を掛けて来たので、城跡に行きたいことを告げると
行き方を教えてくださいました。
実は前記述のルートよりもこちらの方が道が良いとのアドバイスをいただきました。
この日、訪れたのが夕暮れだったため「今から行くの?」と心配されたので
「今日は下見に来たのでまた出直しますのでその時またお邪魔します」とあいさつ
して後にしました。
こちらは案内の看板は無いだけに、ご近所の方々が警戒するので
声を掛けられたらきちんと対応するようにしたほうが良いですよ。



令和元年6月23日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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丸岩城(群馬県)

2019年06月26日 06時48分12秒 | 百名城以外の城
丸岩城まるいわじょう
別名丸屋の要害
構造山城
築城者海野幸全
築城年代元亀年間
指定史跡
場所長野原町横壁  地図

丸岩城は、柳沢城の要害城で大戸方面から侵入する敵に備えて
築かれた砦です。
吾妻峡は険しく通行できなかったため、高崎と信州を結ぶ道は須賀尾峠を使われており、
その街道を見張るために丸岩城と横壁城で抑えていました。


遠望

離れた位置からも目を惹く形をしています。
まさかあんなところに?と思ってしまう形です。



どの方角から見ても、このような格好で見えます。
とても特徴的な形です。


登城口

丸岩の周囲は大岩壁に囲まれているので、この方面にとりつく入口があります。


入口

入口には看板が立っているのですぐわかると思います。


近くに来る用事があったのでまずは登城口の確認にやってきました。
この日はすでに夕暮れでしかも小雨だったので出直すことにしました。

令和元年6月23日登城


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

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羽根尾城(群馬県)

2019年06月25日 12時55分49秒 | 百名城以外の城
羽根尾城はねおじょう
別名
構造山城
築城者羽尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所吾妻郡長野原町羽根尾 地図

羽根尾城は信濃海野氏の一族で滋野氏の末裔である羽尾幸全入道によって築城されたと伝わります。
戦国時代に羽尾氏は、草津、嬬恋、鎌原と吾妻を主に支配していました。
また、羽尾治部少輔景幸には三人の子があり、真田方について戦功のあった海野兄弟を
三原郷全域の支配に任じ岩櫃城代を務めていました。


海野長門守墓

海野長門守は、羽根尾城主羽根尾入道の弟で岩櫃城の城代でしたが、
謀反を疑われたため真田昌幸に殺されていました。
羽根尾城の麓にはその海野長門守の墓が、この道を登った先にあります。



案内看板に従って林道へ。
しかし、この道は狭く、軽自動車でもめいっぱいです。



どうにか三叉路までやって来ましたが、この先は更に狭く普通車では
大変厳しいと思われます。
ここで切り返して戻ることにします。



この先、地図では西吾妻福祉病院へ抜けているようですが
これ以上の無理はせず、病院側へまわってみることにします。


西吾妻福祉病院

こちら側からの方が道も良さそうだし、地図で見ると近いようです。
次回登城するとすればこちらから徒歩で行く事となりそうです。


この日入口の確認のみにて…。


令和元年6月23日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館
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剣城(群馬県)

2019年06月24日 04時42分45秒 | 百名城以外の城
剣城けんじょう
別名
構造平城
築城者比企藤太郎
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所渋川市半田689−3 地図

比企藤太郎の館として築かれた剣城。
比企氏の時代には本郭だけのコンパクトなものであったと考えられ、
後に長尾景俊が在城したと伝わります。
長尾氏の代に大きく改修され、外郭が存在したものと考えられます。
その後は半田筑後守の城となりました。


標柱

畑の一角に剣城の標柱があります。
周囲は宅地と化し、とても長閑な光景で、近所の親子の散歩道となっていました。



上越線八木原駅から近い場所に位置しています。


剣城踏切

近くの踏切名も剣城と入っています。



踏切を渡り、標柱の反対側にやって来ました。



手作りの標柱があるだけで、遺構らしきものはほぼ消えてしまっています。
山崎一氏の著書によると石塁が残っているとの記述がありましたが
今回の訪問ではそれに気付くような場所は確認に至りませんでした。
電車の車窓から見てみるとまた違ったものが見えて来るかもしれませんね。


令和元年6月16日登城


探訪 比企一族―鎌倉幕府設立の立役者 比企一族・真実探しの旅
西村 裕,木村 誠
まつやま書房
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本丸御殿(高知城)

2019年06月19日 12時42分51秒 | 御殿
高知城本丸御殿こうちじょうほんまるごてん
築城者山内一豊
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所高知市丸ノ内 地図

高知城内には本丸御殿と廊下橋で繋がれた二の丸御殿がありました。
二の丸御殿には天守の代わりとなる乾櫓があり、普段の政務は二の丸御殿、
特別な儀式は本丸御殿で執り行われていました。
1727年(享保12年)の大火によってほとんどの建物が焼失し、
その後、焼失前と同じように再建され明治以降は多くの建物が取り払われたのですが
本丸御殿はその当時に再建されたままの状態で今も残されています。




式台の間を過ぎて溜の間でから納戸蔵方面へ進むか、上段の間がある方へ
進むのか通い…まずは納戸蔵の方へ。


納戸蔵

右手の人の列は玄関で入城を待つ人の列です。


欄間

まず見えてきたのは欄間の飾られた部屋です。
今はなき、二の丸御殿や三の丸大書院に飾られていた欄間が展示されています。


家紋

「三つ柏」と呼ばれる山内家の家紋で、土佐藩の船の船印として使われていました。
土佐出身の岩崎弥太郎が三菱を興した時に山内家と岩崎家の家紋を統合させ
三菱のロゴが出来たとされています。


四の間

NHKの大河ドラマ「功名が辻」で山内一豊の妻を演じた仲間由紀恵さんが来ていた衣装が
飾られています。
やはり高知城を知るには良いドラマでしたよね。


御茶所

小さな押入れのようなスペースがお茶をたてる座敷になっています。
炉が切られ茶湯棚が設けられています。


三の間

うちわけ波の欄間がとても特徴的です。
御殿や屋敷などを見るときには、やはり欄間を見てそこの主を量ってしまいます。



右に見える塀には、控え柱があります。
この上に板を渡して攻撃したり、物見台にしていたようです。


二の間

二の間の先が一段上がった上段の間があります。



前方には竹の節欄間と杉戸が見えます。



この庭の塀には高知城のみに残っているという物見窓があります。





付書院




上段の間

藩主の御座所となる上段の間では、政務や面会などが行われる場所です。
床の間には違い棚が見られ、右は付書院、左には一見には分からないように造られた
武者隠の間も設けられています。


雪隠の間

このトイレは城主しか使えないとしたトイレです。
一豊と千代だけがこの御殿に暮らしたと伝わりますが
その際に城主の生活の間から近いこの場所に雪隠が造られました。


武者隠の間

上段の間には、台帳構えを兼ねた武者隠の間が設けられています。
ここには藩主を守るための武者が控えていました。
万が一の際にはここから飛び出して藩主を守る役割をするという。
ここで聞き耳を立てたり、こっそり監視ってのもドキドキしますね^_^;


人が切れた所でのシャッターチャンスを窺って撮影しているのですが
今回はGWとあってどうしても他人の御顔が写り込んでしまい写真を選ぶのに
とても苦労しました。
本当は玄関から紹介したいところですが、どうにも良い写真が撮れませんでした。
ひとつひとつの部屋があまり大きくなくて
二条城や名古屋城のような煌びやかな御殿とは違い、シンプルでコンパクトなところが
山内一豊夫妻らしく、やはり遠慮しながら築いたのかなという印象でした。




令和元年5月3日登城


高知城を歩く
岩崎 義郎
高知新聞社
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赤坂古戦場跡(新潟県)

2019年06月17日 06時45分22秒 | 古戦場
赤坂古戦場あかさかこせんじょう
合戦者幕府軍vs新政府軍
合戦年代1868年(慶応4年)
指定史跡
場所三条市駒込 地図

慶応4年6月1日、幕府軍と新政府軍が戦った激戦地がこの辺りでした。
大砲の打ち合いがはじまり、地元の人は弾の届かない駒込と
太平の沢の二手に分かれて避難しました。
観音堂陣地から見通しが悪いと言って15軒の家が焼かれ、銃声は響き、
村松藩の人が両軍の戦死者を方付けに来た時には、あまりの死体の多さに
地元の人々も駆り出されたとされます。


案内看板

大政奉還をめぐる新政府軍と、同盟軍が戦った北越戊辰戦争の下田郷における
最大の激戦地跡です。



長岡城落城により、両軍の戦線は県内各地に広がって行きました。



村松藩の一部には勢いに勝る新政府軍に味方する者が現れ同じ藩同士が
憎しみ合って残虐な殺し合いとなりました。
戦死した者たちの死体は堀の中などに折り重なるように捨てられていました。


金子喜平衛の墓石

村松藩の戦没者である金子喜平衛の墓がここにあります。



足元に遺体が転がっていたのかな?と想像するとゾッとしますが、
実際の激戦地となった場所はここより背後の松が植生する峰にあり、
この峠道は後に切開かれた新たな道だそうで、戦没者の魂を踏んでいなくてホッ。



村松城から栃尾城を目指して車を走らせていたら、この地を通りかかり
今何か看板が見えたけど?と戻ってみたら古戦場跡でした。
新潟市や長岡市を巡っていると北越戊辰戦争の話を避けられないほど
話を聞くことになるのですが、ここでも激戦地を知ることとなり
また残酷な亡くなり方を語られているのを目の当たりにすると胸が締め付けられる
思いになります。
それは戦国時代でも同じですが、たった150年ほど前の話…。
こういうことが語り継がれることで平和が続いて行くことを願わずはいられませんね。


令和元年5月12日訪問



維新の墓標 昔々 北越戊辰戦争で
渡辺れい
新潟日報事業社
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徳島城(徳島県)

2019年06月14日 08時05分59秒 |  百名城
徳島城とくしまじょう
別名渭山城・渭津城
構造平山城
築城者蜂須賀家政
築城年代1586年(天正14年)
指定史跡国指定史跡
場所徳島市徳島町城内1 地図
スタンプ設置場所徳島市立徳島城博物館受付カウンター
・徳島市教育委員会社会教育課カウンター・徳島中央公園東側駐車場入口事務所(いずれも年末年始休館あり。電話で確認のこと)
城郭検定出題あり

阿波踊りの発祥の城と言われる徳島城は、豊臣秀吉の四国平定で戦功をあげた
蜂須賀正勝の子家政が阿波一国を拝領し、一宮城に入城した後に
秀吉の命により急遽猪山に新城を築城することとなりました。
室町時代には山頂に渭山城(渭津城)、麓には寺島城と呼ばれる城が存在していましたが
長宗我部元親や小早川隆景、比叡山の僧徒らの援助により二つの城を合わせた大規模な
平山城の完成を迎えると、家政は居城を一宮城から徳島城へと移しました。




徳島中央公園東側駐車場を利用して徳島中央公園から入城しました。


城山の海蝕痕

岩の表面に出来た大小の穴は海の波に浸食された痕で、
かつて海面がここにあったことがわかる場所です。


城山の貝塚

古代人のゴミ捨て場でもあり、死者を埋没する場所でもあった貝塚。
そのせいか?この辺りの臭いも…。


隅櫓跡

この石垣の上には隅櫓、正面には旗櫓が建てられていました。


数寄屋橋

徳島城の鬼門にあたる門が、旗櫓の下にあった数奇屋門です。
不明門とも呼ばれ、城内の凶事の際以外には開かれることのない門でした。


内堀(瓢箪堀)

「堀川」と呼ばれ、かつては表御殿庭園内の「心字池」と地下桶道で繋がっていて、
池の水位の上下で景趣に変化を求めるよう工夫されていました。
※現在、地下桶道は不通になっています。


旗櫓跡

左手の石垣の上に数寄屋門のとして載っていた旗櫓。
右手の石垣の奥は表御殿庭園になります。



表御殿庭園と東二の丸麓の道を通り、まずは100名城スタンプ設置場所である
徳島城博物館へと向かいます。


徳島市立徳島城博物館

表御殿の跡地には御殿を模した徳島城博物館があります。
この公園は徳島監獄署が置かれたり、天皇や皇太子の宿泊所として千秋閣が建設されたり、
進駐軍の宿舎だったり、市立図書館や市民会館に活用されたり、市立体育館だったりと
めまぐるしい移り変わりを経て現在に至ります。


スタンプ設置場所

100名城スタンプがこちらに設置されているのでまずはスタンプを押します。


旧徳島城表御殿庭園

桃山様式の大名庭園で枯山水と築山泉水庭から構成された回遊式庭園で
関ヶ原の戦いで西軍だった茶人で武将の上田宗箇が敗戦後に徳島に招かれ
その間に作庭したと伝わります。



大名庭園を眺めながらいただくお抹茶。
入館した人を対象に徳島城博物館のロビーで、呈茶を行っていて300円(お菓子、お茶代)です。
子供達は大名庭園を眺めながら優雅にお茶してました。


表御殿跡

親は…雨の中カメラを持って城さんぽです


黒門跡(大手門)

大手枡形になっていて四方を建物で囲まれていました。
大手口だけあって厳重な造りであったことが窺われます。


下乗橋(小見附橋)

藩主以外はここで馬を下りて入城することになっていました。
江戸時代には木造の太鼓橋だったそうですが、明治期には花崗岩の太鼓橋になり、
現在はこのような橋に架け替えられています。


鷲の門(内側)

三木曲輪内から見た鷲の門です。


飾り瓦

三木曲輪側の屋根の角をよく見ると狛犬が逆立ち?して載っています。
明治8年に鷲の門以外の建物はすべて撤去されました。
しかし1945年の徳島大空襲で焼失。
その後1989年に古写真を基に復元されました。


鷲の門棟札

見上げると屋根裏には棟札があります。


鷲の門(表)

この門は鷲を飼う建物として幕府に申請して建てたことから
鷲の門と名付けられたという説があります。
また、夕方から夜10時までライトアップされています。



今度は表側の屋根の角を見てみましょう。
こちらは鷲の門と言われるだけに、鷲が載っています。


舌石

太鼓櫓跡を右手に見ながら線路側に沿って歩いた所に旧寺島川沿いの石垣にある舌石を発見!



この石垣の上には「折れ曲がり塀」と称する屏風塀が設けられており、
塀を支えるための柱を受けていた舌石(台石)が残っています。


太鼓櫓跡

西の端には三重の太鼓櫓には多門櫓が接続されていて、東の端には二重の月見櫓がありました。
太鼓櫓は徳島城最大の櫓で、現在は昭和8年NHKの徳島放送局が開局した記念に設置された
ラジオ塔が建っています。


蜂須賀家政銅像

現在は蜂須賀家政の平和的な姿の銅像ですが、戦前には家祖の正勝の武装像があり、
戦時中に供出して無くなったので、現在のものに代わりました。



西廻りで本丸を攻めてみたいと思います。
左に見える建物にはSLが展示されています。



鉄道好きの方はぜひお立ち寄りください。


西坂口

階段が続きます。
歩きやすいと言っていいのか、しんどいと言っていいのか…体力奪われてしまいます。


西三の丸門の枡形

整備された階段を登りきった所に西三の丸門の枡形が待ち構えていました!


西三の丸跡

左側のフェンスの向こうは現在水道排水池になってしまっています。



正面左の石垣は帳櫓の石垣です。
帳櫓の石垣と正面石垣には鏡石がこれでもか!というほど主張しています。
しかも、全部で5個も



正面に見えていた鏡石に近付いてみると、矢穴があります。
鏡石に使うにはちょっと妙(残念)な石に見えるのですが?
え~、いいのか?この巨石で。


帳櫓跡
こちらしっかりと基礎ともなる礎石が残されています。


西二の丸跡
鉄砲櫓があった西二の丸跡。



正面の石垣にも鏡石が見えますね。
要所要所に鏡石が多用されているようです。
そして右の石垣は弓櫓で、初期の天守台とも考えられています。
この先右に折れて本丸へ。


弓櫓跡

最初の天守は本丸の弓櫓の位置するところにありました。
築城には勝瑞城や一宮城の廃材を使用して天守や櫓は質素なものでした。
その後、数十年で解体され東二の丸に新しい天守が築かれました。


本丸跡
本丸には本来天守があるところですが、この広い敷地には天守ではなく
御座敷や留守居番所、武具櫓や馬具櫓、弓櫓といった建物がありました。
では、天守が無いのかと思えばそうではなく、天守はここから一段下がった
東二の丸にありました。
ちょっと珍しい縄張りですよね。
平時は山麓に暮らしていた藩主ですが、本丸にも御座敷には
藩主専用の部屋や台所が設けられていました。


清玄坊神社

清和天皇を祖とする修験者清玄坊は、築城する際に立ち退きを拒否したために
弓で射て謀殺されてしまいました。
すると蜂須賀氏は清玄坊の崇りに遭い、前非を悔いて石碑をたて末代まで
供養することを誓いました。


埋門跡

本丸への出入り口は東西にあり、北側には非常時のための
御座敷の建物で隠されるように脱出口(埋門)が造られていました。


本丸北東の石垣

徳島城で最も古い石垣です。


東二の丸

明治初期の古写真には、まだここに天守が聳えているのが見られます。


天守跡
本丸から東二の丸に新たに築かれた天守は、
天守台もなく、そのまま平場に御三階櫓が建てられていました。
これも実に特徴的なところです。


東坂口

藩主や藩役人の登城口であった東坂口です。
こちらの登城口からなら天守までが近いです。
そしてここにも鏡石が使われています。



西から東へと山城を一周して来ました。
気軽に平城と山城を楽しめる一度に二度おいしい城跡でした(^^)v


弁天池


あいにくの雨でしたが、山頂まで行って来ました!
なかなか見応えのある城で、晴れていたらもっとじっくり時間かけて見ていたでしょうね。
庭園も見てみたかったけど、時間が足りなかったですね。
博物館に娘らを残して城さんぽしていたのですが、
娘たちは博物館では庭園を眺めながらお茶をいただき
お相手をして下さった博物館の呈茶ボランティアの方、ありがとうございました。


令和元年5月1日登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス
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稲付城(東京都)

2019年06月11日 08時07分09秒 | 百名城以外の城
稲付城いなつけじょう
別名
構造山城
築城者太田道灌
築城年代永禄年間~天正10年
指定史跡都指定史跡場所北区赤羽西1-21-17 地図

稲付城は、静勝寺境内にあり太田道灌が築城した(寺伝)といわれる砦です。
三方向を丘陵に囲まれ、街道上の主要地点であった場所に立地し
江戸城と岩槻城の中継をするために築城されました。
また、静勝寺は太田道灌の菩提寺として木像を納めた道灌堂が祀られています。



赤羽駅から徒歩で約5分の地点とのことでしたが、いつものごとく真逆に行ってしまい
倍の時間でようやく城跡碑が見えるところまでやって来ました。


稲荷社

階段を登り始めると右手にお稲荷さまが見えて来ました。
いつもならここでお参りをするのですが、今日は登城予定をしていなかったので
いつもの賽銭袋を持参してなくて、軽く挨拶だけで済ませたのが…悪い結果にならなければ良いのですが。



更に階段が続きます。


山門(東側)

登りきったところに門があります。
この門の左手に稲付城の案内看板が設置されています。



門から境内を覗くと、とても風情のある景色が見えます。
そして、ひっそりとしていそうですが駅から近いせいか、わりと人が訪れます。


道灌堂

先ほどの門から真直ぐ進んだ突きあたりに太田道灌の木像が祀られた道灌堂があります。


案内看板

道灌堂の左手には案内看板が設置されています。


厨子

この厨子の中には太田道灌の木像が安置されています。
道灌の命日である7月26日にちなんで、毎月26日はここの扉が開いて木像が拝めるそうです。
この日は26日ではないので、厨子の中を拝観すること叶わず…残念。


静勝寺

道灌の子孫太田資宗が堂舎を建立し、道灌の法号(香月院殿春宛静勝大居士)とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めました。。



南側にも山門が見えます。
その先は二の郭、外郭と続いていたようですが宅地化しまったくその様子は
窺い知れません。


山門(南側)

先ほど登って来た東側の山門より立派な山門です。
これを見てもこちらが表であることが認識出来ます。
右手に見える黒い案内看板も稲付城のことが書かれています。



この坂が堀の名残でしょうか…。
この角度からみると主郭と二の郭との間にあったとする堀跡であれば
ほぼ堀切の状態であったのかなと想像します。
帰りの電車に乗り遅れないよう、
妄想しながらこの辺りで引き返すことにしました。



この日は第14回日本城郭検定の日で、帰宅途中に寄ったのが稲付城です。
というのも、いつもながら方向音痴で電車に乗り慣れない私はいつものごとく
目の前に来た電車に飛び乗って、高崎行きに乗ったつもりが宇都宮行きだったことに
発車してから気が付くという失敗で、赤羽駅で降りることになりました。
すると、以前からこの近くに城があるということだけは知っていたので
攻城団にアクセスしてみると、「稲付城」がヒットしたのでそのまま登城することに。
次の電車が約30分後に出発なのでそれまでに行って来なくちゃと走り回りました。
地図を見ても反対方向へ行ってしまう始末で、やっぱり時間ロスしながらも
どうにか登城は果たすことが出来ました。^^;
やっぱり電車は苦手だあ~。(でも慣れなくちゃ!)


令和元年6月9日登城


騎虎の将 太田道灌 上 (文芸書)
幡 大介
徳間書店



騎虎の将 太田道灌 下 (文芸書)
幡 大介
徳間書店

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丸亀城(香川県)

2019年06月04日 12時34分04秒 |  百名城
丸亀城まるがめじょう
別名亀山城
構造平山城
築城者生駒親正、山崎家治、京極高和
築城年代1597年(慶長2年)、1643年(寛永20年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財 
場所丸亀市一番丁 地図
スタンプ設置場所丸亀城天守(天守閉館期間中は丸亀市立資料館)
城郭検定出題あり

亀山に砦を築いたのがはじまりで、高松城の支城として築いたのが丸亀城です。
一国一城令で一度廃城になりましたが、その後山崎家治が再建し、京極氏が完成させました。
この時瀬戸内海を見張る要所であった丸亀城が幕府にとって重要と考えられ、
丸亀城再築と資金援助、参勤交代の免除という幕府からの特別待遇を受けていました。
現存する天守としては最小で、天守こそは小さいですが本丸を取り巻く石垣は偉大で圧巻です。



内堀

訪れたこの日は子供の日が近いため、内堀にこいのぼりが泳いでいます。


常盤橋

GWとあって朝からすでに賑わっています。


大手二ノ門

大手門はかつて搦め手側にありました。
京極氏の入城直後この地に移し、大手一の門と大手二の門、狭間塀で
枡形にして、鏡石を使い甲州流軍学に沿って構成されています。


高麗門

大手外門の高麗門は、切妻造りで左右に狭間塀を持ち、
内部の石垣は岩岐組みされています。


幸運の

大手二の門を入って正面の石垣にある二つの鏡石の間にある小ぶりのハート形の石です。
これを触ると良縁の御利益があるとか…


大手一の門

天守は最小ですが、そうとは思えないほど立派な大手門です。
これだけ見ればさぞかし大きな天守が待ち構えていそうな迫力の櫓門です。
ちなみに、枡形側には窓が8つ、城内側には窓が1つだけという特徴があります。
梁の太さも見事ですが、こちらも内と外では格好が違っています。


丸亀城内観光案内所

観光案内所を覗いてみると、重ね押しスタンプラリーというのをやっていて1枚200円で台紙を買い、
城内5ヶ所でスタンプを重ね押しすると絵が完成するというもので、収益金の一部は崩れた石垣の
復興事業に役立てられるということなので早速家族で各自1枚買ってスタート!
まずは観光案内所で押して次の太鼓門(大手一の門)へ。


大手一の門(太鼓門)

櫓門に入れたんですね。


重ね押しスタンプ

二つ目の重ね押しスタンプです。
次は丸亀城天守の1階と3階、最後は資料館です。


太鼓

1670年(寛文10年)頃に建築され、藩士が太鼓を打つことで刻を知らせていたことから
「太鼓門」とも呼ばれています。
2018年の時の日から正午を知らせる「時太鼓」が復活されているそうですが
残念ながら聞きそびれました。


石落し

お約束の石落しでーす!
下を通る人を狙いたくなる



外から見ても扉が見えます。
かつてはこちらも出入りに使っていたのでしょうね。


見返り坂

この写真、あまり坂のようにみえないですけど…
結構坂でキツイです。
ジグザグに歩く人もいるほどなんですよ^^;


二ノ丸南東隅櫓の石垣(打込接

石垣を築く名人と噂の羽坂重三郎に石垣の工事をさせると、
期待通り、素晴らしい石垣を完成させました。
これならば誰も登れる者はおるまいと褒めると、確かに登れる者はいないでしょう。
しかし私は鉄棒1本あれば容易に登ることが出来ます!と言って
石垣の間に鉄棒を刺して頂上まで見事に登ってしまいました。
それを見た殿様はやっと堅固な石垣が出来たと思ったのに、もし重三郎が
敵にまわったらこの城が危なくなると危機を感じ、内密に井戸から城外への抜け穴を
造って欲しいと呼び出し、井戸の底に降りた重三郎めがけて大きな石を落して
殺害したというエピソードが残っています。

まず、息を切らせて坂を登ってくると見える扇の勾配が見事な高石垣です。
下部は30°で立ち上がり、上部は70°に近い勾配です。
夜に来てもこの石垣はライトアップされています。



もうひと頑張り坂を登ると三の丸に到着します。



夜間登って来た時は暗くて本丸を目指していたので気がつかなかったのですが
とても綺麗な光景が見えて来ました。



ここからの眺望も見事です。
ここからの二の丸番頭櫓や高石垣もよく見えます。


三の丸

ここまで登って来ると月見櫓跡などから讃岐富士がよく見えます。


月見櫓跡

月を見るのに最適な位置にあった月見櫓は、城の東と南を見張るためのものでした。
月と言えば、丸亀市制100周年を記念して歌手のさだまさしさんの作詞作曲により
城のある町」という歌が2001年に作られました。
その歌詞の中に「秋は月見の天守閣 ふと だんをとるや月菜汁」と歌われています。
この「月菜汁」は実在せず、この歌に合わせて創作されたのがはじまりです。
現在では、汁物の中に月にみたてた団子や里芋などの丸いものと、菜を入れた新しい郷土料理として
市民に親しまれているそうです。
ちなみにここから讃岐富士もよく見えます!


延寿閣別館

麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部を移築したもので、
内部は藩政時代の大名の生活がしのばれるように昔のまま保存されています。


虎口

三の丸にある二の丸への西の虎口です。


二の丸

本丸を囲むように巡る曲輪です。
この辺りは蜂が多く飛んでいて、追い回されたので注意してください。


本丸虎口

虎口から入ってすぐに天守があります。


本丸

唐破風と黒い下見板張で小さいながらも威厳のある趣です。
白漆喰だけの面は、石垣上に建ち二重櫓と多門櫓(渡櫓)をつなぐ平家建ての建物で
連結されていたため、シンプルな壁になっています。



本丸の角には隅櫓が築かれていて、その間を多門櫓で繋いでいました。


天守

三重三階の天守は主として栂材を使用しています。
他にも檜と松も使われています。
夜は凛々しく、昼は温か味のある風貌です。



こちらも隅櫓の櫓台です。
本丸の隅櫓や多門櫓も明治初期まで残っていたそうで、
現在復元すべく、古写真を探されているそうです。
ぜひ、復元してほしいのですが写真が残ってないでしょうかねえ。


日本100名城スタンプ設置場所

前回は夜訪れたので、もちろんここは閉まってました。
あれから4年やっと天守の内部に入ることが出来ました。


二階

丸亀城内部は小ぶりなわりに柱の数が多いのが印象的です。
特に1階はその柱の多さが目につきます。


太鼓壁

長押の高さまでは壁を厚く塗り防御を固めています。
白い壁の横に黒くなっている部分(横の柱の下)は
壁の厚みで出っ張っている部分に埃が溜るせいか汚れているため、
この色の違いで壁の厚さ(出っ張り)が分かります。


最上階

屋根裏には案内板が掲げられています。
昭和の修理と丸亀城の特徴が掲示されています。


眺望

瀬戸内海側を大手にして正面とした城下です。
かつては城下に船入が設けられ海に出ることも出来ました。
現在はこのように埋め立てが進み海岸も遠くなってしまっています。
また、この方向にある丸亀港の船着場には、群馬県沼田城下に生まれた
塩原太助が江戸時代に最高額の80両を寄付したことにちなんで名付けられた
「太助灯篭」があります。
群馬県民なのにこれを見逃して来るとは…相変わらず詰めが甘いです


二の丸井戸

この井戸は日本一深い井戸と言われています。
水面は三の丸北石垣の真ん中ぐらい(30m以上)にあります。
深さは65mあり、石垣を築いた羽坂重三郎が殺された井戸がこの井戸です。


二の丸番頭櫓跡

二の丸にも本丸を囲むように角には隅櫓と櫓を繋ぐ多門櫓が接続していました。


長崎櫓跡

三の丸は二の丸を囲むように巡っています。
二の丸への虎口も二ヶ所あり、見返り坂を登りきって三の丸に入って直ぐの
西からの虎口と、ここ長崎櫓のある北側に虎口があります。


長崎櫓台の石垣

平成3年から4年に石垣修理の工事をしています。
この時に石垣内の構造も判明しました。



この石垣では石垣の隙間を計測する装置がいくつか取り付けられています。
最初は何かな?と思ったのですがテレビで和歌山城のものをやっているのを視ました。
このような装置は高石垣を採用している他の城跡でも見られるようです。


本丸姫櫓台の石垣

こちらの扇の勾配に積み上げられた高石垣も見事です。
とても美しい造りですよね。


戌亥櫓跡

明治2年の藩邸(旧京極家屋敷)の火災で焼失してしまいました。
その焼跡が今でも石に残っているので足元の石の色をよ~く見てみて下さい。


排水口

丸亀城には全部で13ヶ所の排水口があります。


坤櫓跡

ここからは大きく崩れてしまって進むことは出来ません。
以前訪れた時は完全な形で、この先も進むことが出来たのですが、
これ以上元の姿が見られなくなってはと思い、今回現存12天守は
すべて見ておこうと思い四国の旅を選択しました。


搦手道

かつては大手道であった現在の搦手側へ下って行ってみたいと思います。


高石垣群

さすがに大手道だっただけに、こちら側もしっかり見せ場があります。
連続して石垣が見えるのでこちらもかなり迫力があります。


搦手口

山崎氏時代はこちら側が大手口でした。
京極氏になって大手は反対側に移されて現在に至っています。


馬場

ここまで来ると崩れた全体がみえますが…切ないですね。
まさかこんなことになろうとは最初に訪れた時にはまったく想像していませんでした。
後回しにするんじゃなかったと後悔しても遅いですね


排水口

見つけました!排水口。
このように全部で13ヶ所ある排水口も、
水捌けが追いつかずに石垣は崩れてしまったのですね…。


かぶと岩

この岩は火山の噴出口への通路部にある火成岩が浸食を受け、円柱状に露呈したものです。
かつてはこの岩の上に神祠が祀られていました。


丸亀市立資料館

この日はかなり日差しが強く、重ね押しスタンプラリーの最終地点でもあるここで一休み。
そしてここでは京極氏が大手枡形と石垣の新規造営の許可を幕府に申請すために作成されたという
木図が展示されています。



重ね押しのスタンプはいよいよここで完成です(^^)v
なかなか面白いし、仕上がりがとても綺麗です。
ぜひ、皆さんも楽しみながら石垣復旧のためスタンプラリーに参加してみて下さい。
良い記念になりますよ


玄関先御門

山下御殿玄関先の御門です。


番所長屋

御殿への出入りを監視するために門の脇にあるのですが、
表からは番所があることがわからないよう工夫されています。



とりあえず、1週して来ました。
結局半日を費やして存分に見て周ることが出来ました。
それもまだまだ巡っていたい感はあるなあ。(飽きない)


おまけ…



前日の夜、夜景をもう一度見たくて夜の丸亀城にやって来ました\(^o^)/



久々に登った見返り坂は…結構キツイ!
それでも以前のように寒くもなく、丁度良い気候だったので本丸まで風の抵抗無く
やってきました!



やっぱり良いですね。
一度来たことで、またこの夜景が見たいとずっと思っていて
とても楽しみにしていました。



そして、予定ではなかったのですが高知からの帰りは奥に見える
瀬戸大橋を渡って帰ることになろうとはこの時には知らずに瀬戸大橋を見て
やっぱり綺麗だねって夜景を満喫していました。
※帰りは高知から淡路の大鳴門橋を通って帰る予定でしたが横転事故があり
大渋滞だったため瀬戸大橋から本土へ渡りました。




以前訪れた時が夜で、ライトアップされていたので天守には入れないけど行ってみようよ
ということで夜の丸亀城登城が最初でした。
とても寒く風が冷たい中での登城でしたが、それ以上に美しくライトアップされた天守と
夜景に感動して、必ずまた来るぞと思っていました。
昨年の豪雨で石垣が崩れたのを見て、正直焦りました。
本当に行きたいと思う城は先に行っておかないとどんなことが起こるかわからない。
熊本城も行こうと計画していたさなかに地震の被害で見られなくなり悔しい思いを
しています。
いつ何時どんな災害に襲われるかわかりません。
自分もいつまで健康でいられるか、事故に遭ったりしないとも限らないので
今見ておかなければ後悔すると思って、現存12天守では丸亀城と高知城のふたつが
見学できていなかったので四国訪問を決行しました。
やっぱり丸亀城本丸からの夜景は何度見ても最高です。

観光案内所で買った「うちわ」が今とても重宝しています
とても気に入ってます!

平成27年12月28日登城
令和元年5月1日再登城
令和元年5月2日再登城


城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社
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