むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

八王子城(東京都)

2011年09月24日 |  百名城
八王子城はちおうじじょう
別名
構造山城
築城者北条氏照
築城年代1584年(天正12年)
指定史跡国指定史跡
場所八王子市元八王子町 地図
スタンプ設置場所八王子城跡管理棟前・ガイダンス施設
城郭検定出題あり


豊臣秀吉による小田原平定による八王子城の戦いでは前田利家・上杉景勝を総大将とする北国軍が
3万5千もの大軍で、わずかな兵と女子供も含む農民らで留守を守っていた八王子城を攻め落とし
惨殺、見せしめのための殺戮が行なわれた悲劇の舞台となった城である。


八王子城管理棟

こちらにボランティアガイドさんがいます。
パンフレットもこちらで入手することが出来ます。


山下曲輪

八王子城管理棟から古道に向かい、城山川を渡り御主殿を目指します。


大手道

昭和63年の確認調査で大手門跡も発見されています。
大手門は薬医門であったのではないかと考えられています。


曳橋

太鼓曲輪から御主殿に向かう城山川の谷に架かる橋。


御主殿虎口

曳橋を渡るとコの字に曲がる虎口になっています。
石垣と石敷きできれいな造りである。


御主殿入口

山麓の御主殿入口
御主殿は城主が生活する場所であり、軍議や面会などにも使用されていた場所でもあります。


御主殿跡

発掘調査では御主殿の礎石が見つかっており、石敷きの通路や庭園跡も見つかっている。
他にも中国製の「五彩磁器皿」などの陶器類やベネチアガラス(レースガラス)などが出土しました。
現在は遺構保護のため埋め戻され整備されています。


御主殿の滝

八王子城の戦いで落城の際、女性や子供、老兵たちが滝の上で自刃し、身を投げたという滝。
その血で城山川の水は三日三晩赤く染まっていたという言い伝えが残っています。




登山道

御主殿から戻って来ました。
管理棟の裏手に登山道があるので、ここからは気合を入れて本丸まで登山です。


金子曲輪

八王子城の戦いで金子家重が守備していた曲輪
ここで前田利家の部隊に攻め込まれ討ち死している。
このあたりでは鎧や刀、槍、鉄砲玉など見つかっており、激しい戦闘があったことが
伺い知ることができます。 


九合目からの眺め

ここまで結構きつかった。運動不足にはつらい道のりでしたが
関東平野が一望できると気分は晴れ晴れ。
高尾山方面には晴れていれば富士山が見えたり、東京副都心方面では池袋のサンシャインなど
見えるそうです。


八王子神社

この石段を登ると中の丸に八王子神社があります。
「八王子」という地名の由来ともなる伝説の神「牛頭天王」と「はり采女」との間にできた
8人の王子を祀った神社である。


松木曲輪

中山家範が守備していた曲輪。
前田利家の軍勢と奮戦したが及ばず、しかしながらこの時の家範の武勇が徳川家康の
耳に入り、遺児が水戸徳川家に取り立てられ家老にまでなったと伝わります。


山頂の曲輪

横地吉信が守備していたという小さな曲輪。
本丸跡の碑が建てられているが、ここには見張り台があったのではないかと考えられています。


屋外模型

頂上まで行って来てからあることに気付いた屋外に設置された立体模型。
管理棟東側に5か年計画の整備途中でした。


頂上まで登って来るとクタクタで八王子城ガイダンス施設で一休みするのにちょうど良い施設です。



平成23年9月24日 登城



御当地グルメ・おみやげ

八王子ラーメン(みんみんラーメン本店にて)
醤油ベースのタレ、表面を油が覆っている、きざみ玉ねぎを具として用いられていることが定義だそうです。
あっさりしていて素朴な味がしました。



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

吉田城(愛知県)

2011年09月12日 | 続百名城
吉田城よしだじょう
別名吉祥郭・峯野城・歯雑城
構造平城
築城者牧野古白
築城年代1505年(永正2年)
指定史跡県指定史跡
場所豊橋市今橋町 地図
スタンプ設置場所吉田城鉄櫓
御城印豊橋市役所東館1階じょうほうひろば・豊橋市美術博物館
城郭検定出題あり

吉田城の城主は牧野古白に始まり、徳川家康の三河統一により酒井忠次の配置、
家康の関東移封による池田輝政の入城と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配し
中期以降は松平(大河内)氏が城主となりました。


天守



平成24年6月24日登城




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

川中島古戦場跡(長野県)

2011年09月12日 | 古戦場
川中島古戦場跡かわなかじまこせんじょうあと
別名
対戦者武田軍 対 上杉軍
合戦時代
場所長野市小島田町 地図


銅像

第4次川中島の戦いの名シーンを再現した銅像。


執念の石

信玄と謙信の一騎打ちの際、謙信を取り逃がした武田方の原大隅が
悔しさのあまりこの石を槍で突き通したと伝えられています。


胴合橋

敵の作戦を見損じたことを悔いて、越後勢の中に突入して行った山本勘助は
家臣もろとも首を取られてしまいました。
勘助の家来たちが勘助の首と胴を合わせたのがこの場所だったという。




平成22年10月24日訪問


1557年第3回川中島の合戦の際、別働隊の仁科衆が上杉軍に寝返る恐れがあると指摘し、「城の防備を強化し、昼夜を問わず油断しないように」と命じている内容の武田信玄直筆の書状が韮崎市の民家で発見された。

韮崎市内でみつかった書状は5通で、そのうち2通が信玄のもの。
2通のうち1通が信玄直筆の書状であることがわかった。
信玄直筆の書状はほとんど残されておらず、とてもめずらしい。
書状は8月10日付けで重臣「曾禰掃部助(そねかもんのすけ)」に宛てられたもので、第3次川中島の合戦で、7月に奪い取ったばかりの小谷城の守りについて書かれたと推測し、糸魚川方面の上杉軍の動きを警戒するよう命じた書状のようです。
筆に墨をつけるタイミングや字の形から武田信玄の直筆の書状であると確認されたそうです。



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