むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

坂木陣屋(長野県)

2019年08月19日 07時19分00秒 | 陣屋・館
坂木陣屋さかきじんや
別名坂城陣屋
構造陣屋
築城者板倉重種
築城年代1682年(天和2年)
指定史跡
場所埴科郡坂城町坂城6402-1 地図

坂木陣屋は、江戸時代初期に坂木五千石の支配役所として
八郎右衛門屋敷に代官所および陣屋が置かれました。
北国街道の宿駅であり、横町・立町・新町・大門を宿場とし
幕領後は中野預かりとなりますが、引き続き代官陣屋が置かれていました。



坂城駅前

坂城駅前にやってきました。


案内看板

坂城駅前にある案内看板です。
この案内看板によると東側の石垣が遺構のようですが…。



東側にある石垣と言ってもこれ?


石垣

新しいように見えるので、遺構と言われなければ
ほとんどわかりません。



宅地にあるこちらの石垣の方が遺構のように見えます。
位置から見てもおそらくこれも陣屋の石垣と思われます。


堀跡

駅前の案内看板に記された石垣上の稲荷社を探していると堀跡らしき場所に出ました。
陣屋稲荷はどうやら別の場所に移されたようです。
調べてみると、陣屋廃止後、村人によって中条神社へ遷座されたことが
坂城町北国街道マップに載っていました。


北国街道

北国街道は、江戸時代に江戸と北陸を結ぶ街道で
ここには宿場町がありました。
それが坂木宿です。
坂城町北国街道マップ」を入手して散策するといろいろ観光出来ます。
※私はふるさと歴史館で入手しました。


善光寺道名所図会

駐車場にある案内看板に記された善光寺道名所図会です。
善光寺参拝のための道中案内記で、江戸から善光寺までのガイドブックのようなものです。
その一部で坂木宿が描かれた部分で、ふるさと歴史館で展示されています。


駐車場
ふるさと歴史館の駐車場です。


ふるさと歴史館

昭和4年の建物が建つ坂木宿ふるさと歴史館は、本陣である宮原家のあった場所です。
参勤交代の際には北陸と北信濃の諸大名が利用し、加賀百万石の大名前田家も
数千人の家臣を従えて坂木宿に宿泊しました。
本陣は宮原家、脇本陣は中沢家が務めていました。


坂木宿本陣表門

この門は、1767年(明和4年)に焼失した坂木陣屋の門を移築したものです。


表門内部

門の中を覗いてみると、家のような造りになっています。
囲炉裏まであります。


本陣宮原家跡

北側に二階建ての疑洋風建築を増改築し、
戦後は「春日医院」として病院を開業しました。
先生が亡くなると、遺族の方々が土地、建物とも町に寄贈しました。
おかげでこうして見学することが出来ます。
では、入館料を支払って見学してみたいと思います。


玄関

玄関を入ると、豊富なパンフレットと山城関連のチラシに目が奪われます!
玄関入ってすぐの居間のような部屋が診察室だったそうです。



資料やパンフレット、本の販売など充実しています。
特に山城のパンフレット(印刷物)などが豊富に置かれているのには有難い



中は思った以上に資料が充実しています。
しかも撮影もOKなのでこれもありがたいです。


村上氏の展示

1階は、信濃村上氏のあゆみと村上義清の生涯を紹介しています。


甲陽軍鑑

ご存知の方が多いと思いますが、甲陽軍鑑です。
武田信玄・勝頼の2代の甲州武士の心構えや事績・合戦・戦法・裁判などが記されている書物です。
著者は小幡景憲と高坂昌信と云われ、武田流の軍学が幕府に公認され
軍学書として写本、版本され武士一般に広く読まれることとなりました。



清和源氏の流れをくむ村上氏は坂城町を発祥とし、
名実ともに信濃を代表する北・東信濃最大の戦国領主となりました。
上田原の戦い、砥石合戦と2度にわたり武田信玄の侵略を食い止め、撃退しています。


川中島合戦屏風

村上義清は越後の上杉謙信に援けを求め、5回あったとされる川中島の戦いのうち
最大の激戦といわれる第4回の戦いまで参戦しました。
そしてこの川中島合戦屏風絵(複製)は上杉側から描いたもので
この中には村上義清の活躍も描かれています。
ぜひ、探してみてください


お手洗い
便器を置いただけの状態なのでとても使用できるものではないので
みなさん、イメージだけしてみて下さい
男性の方は竹を想像するデザインでだと思うのですが。
あ、でも花挿しにも見えるのでそこにお小水はちょっとかも。


信濃村上氏と村上水軍

ここでは信濃村上氏と村上水軍の山と海の両村上氏について
解説しています。
直接の関係は定かではないのですが、両家の村上氏を結びつけたい
心理はとても共感できるし、興味深いものです。


坂木宿と和算展示

二階は、坂木宿と和算の展示がされています。


本陣札

この本陣札は、中沢家の表門の下に掲げられたものです。


模型

陣屋と本陣、脇本陣の位置が確認できました。



江戸時代後期から明治時代にかけて、和算が普及するのですが、
近代化に向けて数学力を高めるために洋算が学校教育に採用されるようになってきました。


算額奉納

江戸時代の半ば頃から和算を木製の額に書いて、絵馬のように神社仏閣に奉納する
風習が全国的に広がりました。
算額は全国で1000面ほど確認されていて、長野県には66面が現存しています。



坂木宿からも近い村上義清公墓所へも足を運んでみました。


村上義清公供養塔

坂木村が越後高田藩領だった頃、代官であった長谷川安左衛門が
村上氏の支族「出浦氏」の土地に建立しました。


村上義清公墓所

場所
村上氏と出浦氏の子孫が守って、現在はこのように整備されています。



坂木陣屋の遺構はあまり残っていないので、遺構を探すためにも
ふるさと歴史館へ行ってみたのですが、思いの外楽しめる施設で
展示物も複製を含め、興味深い情報が沢山展示されていて充実していました。
受付の方にお話しを伺うと、快くこちらの施設の説明もしていただけました。
坂木陣屋を訪ねた際には、ぜひふるさと歴史館へも寄ってみて下さい。
周辺の山城の資料も入手できますよ

受付の方曰く、坂城町産のシャインマスカットも名産とのこと。
とても甘い葡萄なので、いちど食べたら虜になってしまいます。
今度はシャインマスカットを買いに行こうかな。。。


令和元年7月20日訪問



村上義清とその一族 (坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌)
坂城町,笹本正治
信毎書籍出版センター


村上義清と信濃村上氏―坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌
笹本 正治,坂城町
信毎書籍出版センター
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矢沢陣屋(長野県)

2019年04月03日 08時14分50秒 | 陣屋・館
矢沢陣屋やざわじんや
別名仙石氏陣屋・仙石氏館・お屋敷
構造陣屋
築城者仙石政勝
築城年代1669年(寛文9年)
指定史跡
場所上田市殿城矢沢 地図

矢沢領は仙石忠政の子で政俊が隠居する際、弟の政勝に2千石分知し矢沢領としました。
領主の館としての陣屋が置かれ、旗本である仙石氏は江戸に常住し
知行所へ来ることはほとんどなく、代官をおいて支配していました。
大名であった本家の仙石氏は、1706年(宝永3年)出石に移封されてしまいますが、
その分家の旗本である仙石氏が矢沢領を支配し、明治維新に至ります。


案内図

駐車場入口にある案内図。
矢沢陣屋と矢沢城があるために周囲には3ヶ所の駐車場が完備されています。
これもNHKの大河ドラマ「真田丸」のおかげでしょうか。


駐車場

綺麗な石垣と鯱鉾付きの立派な土蔵が目に飛び込んで来ました!
左側が矢沢陣屋にある駐車場です。
この駐車場も門前の大事な曲輪であったと思われています。



現在陣屋の敷地内は民家があるので、中に入ることは出来ません。
弘化2~3年に代官田中半次郎よりの上納金があり、
矢沢陣屋の大規模な増築工事が行なわれたという記録が残っています。


桝形

入口は桝形になっている様子がしっかり残されています。
石垣が入り組んでいるのがよく見えます。


石垣

切り込み剥ぎの石垣がとにかく見事です。
しっかり角が出ています。
石垣はやっぱり角から見てしまいます^^;




シンボル的なこの蔵、何と言っても鯱鉾が載っているのが特徴的です。
災いから守る鯱鉾を載せているこの蔵にはどんなお宝?が入っていたのでしょうか


瓦紋

家紋と思われるこの瓦紋。
検索してみたものの、同じものがヒットしません。
単純に矢沢氏の家紋かあと思って撮影したのですが、いざ調べてみたらこのような家紋がみつからず???
戦国時代は矢沢氏も真田氏の六文銭を使っていた説なども出て来るのですがこの写真のような
家紋がみつかりませんでした。(現在のデザイン?)



更に東へ進むと見えて来る現存の陣屋門。


陣屋門
現存している唯一の建造物はこの門のようです。
石垣も現存のようですが、かつては玄関や御殿、土蔵、産所、御堂が敷地内には建っていたようですが
ほとんどが失われています。



道路と川を挟み、向う側(南側)にも石垣が見えます。
そして下に見える道路の部分はかつて堀だったのかもしれません。
御屋敷の北側には石垣と堀跡が残っています。


道しるべ
見落としそうになった、矢沢集落の矢沢城の大手口近くにある道しるべ。
矢沢集落へと続く道と鳥居峠へと向かう道との案内です。
古道があったということですね。


何と言っても石垣が見事でした。
こんなにしっかりとしたきれいな石垣が見られるとは思っていませんでした。
上物こそ残ってはいませんでしたが、これだけの石垣が残っていると
ちょっと嬉しくなってしまいます。
東には眺めの良い矢沢城跡もあり、そこから矢沢陣屋も見下ろせる立地で
セットで訪れると見応えのある地跡です。


平成31年3月31日訪問


万葉の秀歌 (ちくま学芸文庫)
中西 進
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信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
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古河公方館(茨城県)

2019年04月01日 07時48分33秒 | 陣屋・館
古河公方館こがくぼうやかた
別名鴻ノ巣御所・鴻巣館、古河御所
構造平山
築城者足利成氏
築城年代1455年(享徳4年)
指定史跡県指定史跡
場所古河市鴻巣 地図

鎌倉公方足利成氏は1455年(享徳4年)古河に移り
この地に館を築きました。
以降、5代(130年間)にわたり北関東一円を治めて来ました。
現在は御所沼や堀、土塁などの遺構が残る古河総合公園として市民の憩いの場となっています。


管理棟

こちらが公園の正面入口となります。
ここでパンフレットを入手していざ、園内散策へ!



管理棟裏の船着き場付近からの眺めです。


芋ころがし坂

茶畑と古民家の風景に、この坂のネーミングがとてもマッチしています。
長閑な田舎の風景を堪能できます。


旧飛田家
飛田徳有氏の所有で、18世紀前半の建立と推測されています。
茨城県常陸太田市にあったものを移築、茨城県下で知られる曲がり屋形式の農家の中で
最も古いものとされています。



大河ドラマ『西郷どん』のロケ地になったそうで、
第1回から第8回までのシーンを収録しているそうです。


旧中山家
この民家は中山太郎氏から寄贈されこの地に移築されたものです。
解体修理中に発見された床板裏面に、1674年(延宝2年)に建てられた可能性が高い記述が
書かれていたことから幾度かの改造や補修を経てきていますが保存状態も良好に残されています。



公方様の森のとともにここで『西郷どん』のロケが行われていたのかと思い、
ちょっと思い出してみました。


古河公方館跡石碑

民家園内にある古河公方館跡石碑です。


堀切と土塁

民家園と公方様の森の間にある堀切と土塁です。


公方様の森

三方を御所沼に囲まれ、林になっているので夏場はとても涼し気な里山風の森です。


胞衣の松

天神橋の橋の両脇にある松で、氏姫が足利義親を出産した祭に天神の祠を建て、
胎盤を埋めたことに由来するそうです。


天神松

天神の祠を建てた場所に植えられた松です。


御所沼

相ノ谷橋側から見た御所沼です。


筑波見の丘
この丘の頂に立つと 天神橋の東に 筑波山を望むことができるとのことで
登ってみたのですが、この日は今にも雨が降って来そうな天気だったので
筑波山を望むことは叶いませんでした。


鳥小屋

孔雀の居る鳥小屋では、求愛シーズンを迎え
メスにこれでもか!と羽を広げ、アピールしていました


富士見塚

遊具があり、芝すべりも出来る人気スポットです。
富士見塚周辺は子供たちが沢山遊んでいてとても賑やかでした。


大賀蓮池

6月~7月には大賀ハス(古代ハス)の花が蓮池一面に咲くそうですが
残念ながら時期を外しているので、まだ葉も見えない状態です。
この日は、桃まつりが開催直前で桃の花が咲き始めたところでした。


花桃

江戸時代初期に古河藩主土井利勝が江戸で家臣の子供達に桃の種を拾わせて
古河の領民に送って育てさせたのが始まりです。
現在は観賞用ですが、当時は燃料の薪にしたり、果実を食糧としたりするために
育てらていました。


徳源院跡
この墓所は明治初期まで鎌倉円覚寺末の徳源院という義氏の娘氏女の法号に
因んだお寺がありました。そして、
古河公方足利義氏の墓碑、氏姫と小弓公方・足利頼氏の子・足利義親の墓碑があります。


駐車場

正面入口付近には駐車場が充実しているのでゆっくり散策出来ます。


とても綺麗に整備された公園で、四季折々の自然の変化を楽しめて
かつ、歴史に触れられるというすばらしい公園です。
桃の花もまだ咲き始めたところで、蓮も咲いていない中途半端な時期に来てしまったなあと
ちょっぴり後悔したものの、民家園や公方様の森は古風な雰囲気を楽しめたので
時期を選んで家族でまた訪れてみたいなと思う公園でした。

平成31年3月16日登城



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後期高田氏館(群馬県)

2019年03月04日 21時48分14秒 | 陣屋・館
後期高田氏館こうきたかだしやかた
別名陽雲寺
構造
築城者高田氏
築城年代1449年~1459年(宝徳~長禄)頃か
指定史跡
場所富岡市妙義町菅原29  地図

高田憲頼公を弔うために開基したと云われる寺院です。
高田氏は鎌倉時代に源頼朝の御家人として仕えていました。
妙義を本拠として菅原城、高田城と築いたのち武田軍の侵攻により
上杉氏から武田氏に降っています。
陽雲寺の裏には高田氏の累代の墓があります。


陽雲寺参道入口

県道51号線から案内看板に従って進むと陽雲寺参道入口の石碑が見えて来ます。


参道

まっすぐ続く参道。
陽雲寺の背後には妙義山が聳えています。
参道の両側には段々となった郭があり、ここも既に城域であることがわかります。



本堂が見えて来ました。
この写真の右側に駐車場があります。


駐車場

こちらの駐車場を拝借して散策開始です。


本堂

立派な本堂の中では法要が執り行われているようで
中から御経が聞こえて来ます。


梵鐘











ここはかつて堀であったとされる場所で
現在も水が流れる場所であり名残を感じられる場所です。



この先の右手に入って行くと高田氏の墓所があります。


高田候墓所

堀を渡り右手奥に高田氏の墓所があります。



墓地を囲むように堀が巡っています。



再び、参道の方へ戻ってきました。
参道の両脇には段状に郭があり、土塁を見ることが出来ます。








石垣

石垣も見られます。
しかし、この石垣は後世に造られた農地用に築かれた石垣のようにも思えます。
というのも、妙義や下仁田はちょっと見渡すだけでも古い石垣が段状になっていくつも
築かれているのを目にします。
街道や屋敷などに多く石垣が使われていたようです。



それではそろそろこの辺で散策終了と致します。


妙義スカイパーク

ここからパラグライダーが飛んでいるのが見えました。


Twitterのフォロワーさんや箕輪城でこちらの陽雲寺の話を伺い
訪れてみました。
攻城泣かせの菅原城を語るには高田氏のルーツとしてこの陽雲寺は重要な地です。
そのことを教えていただける方が周囲に居ることはとてもありがたいことです。
近いといえど用でも無ければここに足を運ぶことは無かったかも。
お寺に用があると言っても…あまり良いことで呼ばれることはないでしょうし。

でも、高田氏を調べていたら行き着く場所ではあったのかもしれませんが
きっと、もっと後のことになっていたことでしょう。。。


平成31年2月9日登城


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反町館(群馬県)

2019年01月07日 07時37分54秒 | 陣屋・館
反町館そりまちやかた
別名反町城・新田義貞古城
構造平城
築城者新田義貞
築城年代鎌倉時代~南北朝時代
指定史跡国指定史跡
場所太田市新田反町町896 地図

反町館は、新田義貞が鎌倉・南北朝時代に地下水が豊富なこの地に平城を構えました。
その後戦国時代には、三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられ
大館氏明、新田義興、矢内時英が居館としたという伝承もあります。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の北条攻めの祭、廃城したと伝えられます。


駐車場

十分すぎるほどの広い駐車場が完備されています。


水堀

まず目に付くのは水堀です。



南側の水堀です。
南側ながら日当たりが良くないらしく、堀の水が凍っています。



入口には大そう立派な藤棚があります。
藤の花が咲く頃に来ると水堀に映えて奇麗なんだろうなあと想像出来ます。


標柱と案内看板

境内に入ってすぐの左側に「反町館跡」の標柱と「太平の里」の案内看板があります。
余談ですが、カメラのレンズの内側にゴミが侵入してしまいこのような見にくい写真となってしまいました。(このところずっとこのゴミが邪魔していて悩みの種だったのです)
分解修理をメーカーに依頼すると高いそうなので、家に帰ってから掃除機でズームを出した状態で吸引して
何とか排除することができました。
これで多少はピンボケが減るかも^^;(知恵袋)



山門

山門に近付いてみたのですが、初詣に備えて設置されたテントで全体を写すこと叶わず。



本堂正面の入口にやって来ました。
こちらが正式な正門になります。


新田義貞公古城碑

正門の右脇に「新田義貞公古城」の碑があります。


石段

土塁に登るための?ちょっと古そうな石段があります。


土塁

境内南側に壁のように仕切られた見応えある土塁です。


水屋

とても立派な水屋で格式がわかる建屋です。


鐘楼堂

この鐘楼堂、誰もいないのに鐘が鳴ります
近寄ってよ~く見ると、どうやら無人で鐘を撞く装置が設置されているようです。



そして、屋根を見ると…鐘楼堂の屋根に鯱鉾が載っています!
これも格式の高さを象徴しています。



この鐘楼堂の盛り方はすごい!


拝殿

着々とお正月の準備がされています。
関係者の方たちが机など運んで並べているところをお邪魔しました。


小僧

本堂の右脇に竹箒を持ったかわいらしい小僧さんが居ます。
ちょっと微笑ましい光景です(^^)


巨石

本堂と参籠堂を繋ぐ太鼓橋の前にある巨石です。
何か意味あり気に佇んでいるのですが…なんだろう?


参龍堂

カラフルな幕で飾られています!
な~んて言ったら神社仏閣に詳しい方に叱られそうですが、華やかです。


大師堂

弘法大志様のお堂です。


左中将新田公城址之碑

大師堂の左側にある石碑には「左中将新田公城址之碑」と刻まれた城址碑があります。
最近のものは館跡と表記され、古くの石碑には城址や古城と刻まれているので
どっち?という疑問でもやもやします。


城址碑

左中将新田公城址之碑の更に西側にも一回り小ぶりな城址碑があります。
こちらの石碑の方がやや古そうですが、以前は館跡というよりは城跡という認識の方が
強かったのでしょうか。



お寺の方に断って裏側に廻らせていただきました。
この道は参籠堂の裏にある西虎口から続く道で、北側へ回り込む小道です。


里定標(里程標)

北側の土塁に里定標があります。



東側南隅部は「隅欠」になっています。



西側にも虎口があったとみられ、位置的には解明されていないのですが
水堀外と繋がる部分としてはこの写真の奥の地続き部分に土橋か木橋が
存在したのではないかと思われます。


とにかくここだけでなく周囲に見所がいっぱいで、案内看板を見ていると
あっちもこっちも訪ね歩きたい史跡がちりばめられています。
今回も、用事と用事の合間に訪れたので周辺の散策までには至りませんでした。
周囲の史跡も勉強しながら訪れると数倍楽しめると思うので、藤棚の藤が満開の時期に
また訪れてみたいと思います。


平成30年12月30日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館
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一之宮氏館(群馬県)

2019年01月02日 05時17分53秒 | 陣屋・館
一之宮氏館いちのみやしやかた
別名
構造
築城者尾崎氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市一ノ宮1465−1 地図

貫前神社を間に東に一之宮氏館跡、西に弥勒屋敷跡がある古くからの歴史を持つ重要な拠点です。
この館は初めは正神主である尾崎氏が居館としたのがはじまりです。
一之宮氏は、尾崎氏とともに貫前神社の社人でした。
戦国期には小幡姓となり武田、北条、徳川と移り変わり属していました。


貫前神社

1400年の歴史を持つ貫前神社は、社伝には安中市の鷺宮に物部姓磯部氏が、
氏神である経津主神を祀り、531年(安閑天皇の元年)その鷺宮の南方、
蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが創建にあたります。
「下り宮」が特徴で、総門をくぐると、下りの階段が参道となっており、
社殿を見下ろしながらの参拝となる珍しい形式になっています。


拝殿

御祭神は「経津主神」と「姫大神」で、現在の社殿は三代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
建物は東照宮など手掛けた職人さんの手によって、現在も管理されているので
その造りや装飾も同じように美しく鮮やかで見事なものです。


堀切

本殿東側にある大堀切。


大杉(藤太杉)

樹齢約1200年と伝わるこの大杉は、栃木県佐野市にある唐沢山城主である藤原秀郷が
天慶2年、平将門伐採の際貫前神社に参詣し歳の数(36本)の杉苗を奉納しました。
そのうちの1本がこの杉の木だそうです。
思わぬところに縁がありました。


三重塔礎石

戦国期の武田氏と通じていた資料など展示されている宝物殿の東側にあります。



ここにはかつて三重塔がが建てられており、薬師堂、観音堂、六角堂、鐘楼等の諸堂が
軒を並べていました。
天保12年に灯篭の火事により焼失してしまい、その後再建の声が上がったのですが
再建は叶わず礎石だけ残りました。


堀切

宝物殿と社会教育館の間にある堀切です。
ここにある道路が堀切の名残で、アスファルト化されていないない部分は
堀切が残っていて当時を偲ぶことが出来ます。


社会教育館

この敷地内が一之宮氏の館跡になります。



この奥に主郭があります。
主郭の前には堀切があり、その上に建物が建っています。


記念碑

社会教育会館の門の袂にある文化庁の「登録無形文化財」の記念碑。


記念碑裏

寄贈されたこの石は、宮城県で採石された「伊達冠石」という名の石です。








堀跡









土塁


リス






毎年、初詣の帰りに寄り道して辺りを散策して帰ります。
まだ弥勒屋敷跡方面を散策していないので
次はそちらの方の紹介が出来ればなと思っています。
そして本年も城さんぽはここからスタートです。
よろしくお願い致します。


平成31年元旦登城
平成31年3月31日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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伊奈氏陣屋

2018年12月27日 13時05分04秒 | 陣屋・館
伊奈氏陣屋いなしじんや
別名伊奈城・伊奈氏屋敷・小室陣屋
構造陣屋
築城者伊奈忠次
築城年代1591年(天正19年)
指定史跡県指定史跡
場所北足立郡伊奈町小室217-5 地図

中世以来、後北条氏家臣で岩付城主太田氏の支配下にあり
名刹無量寺閼伽井坊の屋敷があった場所です。
伊奈氏は信州伊那の出身で、伊奈忠次の祖父忠基の時代には三河の小島城主として
勢力を伸ばしていました。
伊奈忠次の時代には徳川家康の関東入国に伴い武州小室・鴻巣領を与えられ、
1591年(天正19年)閼伽井坊を倉田明星院に移してこの地を陣屋としました。


案内看板

表門跡と二の丸跡の間の道路の二の丸側に設置されている案内看板です。


二の丸

もう太陽が隠れる寸前です。
どこまで写真に納められるかわかりませんがいざ出陣!
ここが本丸かと思うよな場所だったのですが、縄張図によると二の丸です。


城址碑と案内看板

二の丸に設置された城址碑と案内看板。


伊奈氏居館跡碑

残念ながら私には難しくて読めません


パンフレット

ここにはパンフレット(伊奈氏屋敷跡散策路マップ)も用意されています。ありがたや。



少し小高くなった場所も含め、二の丸跡はかなり広い。
しかし、この土盛は現代のもので土塁などの遺構ではないらしい。


土塁

軍事的な様子が見られる折れ曲った道と土塁。(こちらは本物の遺構です)
城下町で見られるような道の折れです。
このように、民家の敷地内に残る遺構があちこちで見られるので
勝手に敷地内に入らぬよう注意が必要です。



400年以上も変わらない道。
古地図と見比べると道の曲がり角など一致するので昔のままなんですね。



竹林に虎口があるので中を覗いてみると、拓けた場所に神社らしき建物が見えます。
しかし、鳥居が無いので神社ではないのかな?


陣屋跡

木々を切って整備されたばかりのように見えます。
トイレまで完備されています。


頭殿権現社

1458年(長禄2年)頃に太田道灌が頭殿社として勧請したといわれます。
後に、それを伊奈忠次が陣屋の守護神としました。
1616年(元和2年)以降になると徳川家康を祀るための権現社を勧請したといわれます。


案内看板

この地には「権現様の森の大蛇」、「丸山沼の大蛇」、「龍蒔絵書き」と呼ばれる
伝承があるそうです。
いずれにしてもここには大蛇が住んでいたようですね。



周囲を堀が囲んでいるのがわかります。



この辺りが本丸付近であることがわかりますが、実際のところ
本丸の境目は解明されていないようです。
それでも、これだけはっきりわかる堀が造られているところを見ると
とても重要な曲輪であることが感じられます。


蔵屋敷跡

この奥に堀と土塁があるので行ってみたいと思います。
行く手は既に暗いです。
ま、住宅地なので大丈夫!と自分に言い聞かせ、林の中へ。
ちなみに、この散策路入口にもパンフレットがありました。
ありがたいことです。



この時間、林の中に入ると真っ暗です。
暗がりの中に凄く良い土塁が見えて来ました。



堀底を歩き、高さのある土塁と木々で真っ暗です。
明るかったら凄いんだろうなあ。



平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として散策路が整備され
地元住民をはじめ有志の方々で木や竹のチップを使い整備されたそうです。
おかげで暗闇の中でも小走りに歩くことが出来ました。


出口

出口が見えて来ました。
ここまで来ると明るく足元が見えて来ました。
それにしてもなかなか良い高さのある土塁でした。



とりあえず明るい所に出て来ました。
土塁のトンネルのようでした。ホッ。
次は裏門跡へ向かうことにしました。


堀跡

裏門跡より東側にある堀と土塁です。
暗くて良く見えませんがわりと立派そうに見えるので明るい時に見てみたい感じです。


裏門跡

補正をかけてなんとか明るい画像ですが、実際は電燈が点くような暗さです。
幸い隣の敷地が丸山駅なので明るい場所でもあります。
そして、新幹線も通過します。
きっと車窓から見えるのではないでしょうか。


案内看板

伊奈忠次PR映像配信中!というバーコードが貼られています。


伊奈忠次PR映像

このバーコードで郷土資料館や役場住民課モニターで視られるものが
その場で視られます。
お試しあれ。判りやすくてなかなか良いですよ。


障子堀跡

北条方の影響を受けて、発掘調査ではここから障子堀の遺構が発見されています。
現在は埋め戻されていて障子堀跡を目にすることは出来ません。



丸山駅から裏門跡まで隣接しているので看板を辿れば駅からすぐという距離です。






出張帰りに寄ったので既に日が暮れて補正かけても暗い画像のものもありますが御勘弁を。

さて、わたくし伊那市出身なもので伊奈というのが一字違いであまり気に食わなかったのですが
伊奈氏が伊那出身だったことを今更ながら知り、考えを改めさせていただきました。
親しみが湧いたので今度はもっと深堀して調べてみたくなりました。



平成30年12月19日訪問


城 2019年 カレンダー 壁掛け SB-3 (使用サイズ 594x420mm) 風景
写真工房カレンダー
写真工房
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江馬氏下館(岐阜県)

2018年10月23日 10時03分05秒 | 陣屋・館
江馬氏下館えまししもやかた
別名江馬氏城館・江馬氏館
構造居館
築城者江馬氏
築城年代14世紀末頃
指定史跡国指定史跡
場所飛騨市神岡町殿573-1 地図
城郭検定 出題あり

ここは史跡江馬氏館跡公園です。
江馬氏は室町時代から戦国時代にかけて北飛騨を治めていました。
戦国期には飛騨の覇権をめぐり、南飛騨を治める姉小路氏、三木氏との争い敗れ
権力を失うこととなりました。


エントランス広場

こちらの駐車場を利用して散策開始です。
トイレがあり、壁に掲げられた西堀の案内看板を読んでいると
ガイドさんに声を掛けられました。そこで、後ほど会所にて案内してもらうことに。
まずは周囲を散策です。


周辺地形模型

エントランス広場にある周辺地形模型。
山間に築かれた江馬氏の山城が数多く存在したことがわかります。


門前区画

館の正面の西堀に面した区画です。
敷地は3つに分けられていて、主門前の建物は門前を警備する武士が寝泊まりする宿直屋と
馬をつなぐ馬屋であったと考えられています。


西堀(薬研堀)

主門の両側には館の正面を強調する薬研堀というここでは水の無い
深い空堀が設けられています。


薬研堀

現在の薬研堀は、逆三角形の15世紀後半から16世紀初期の頃の
当初より少し埋まった状態の時期の再現をしています。


主門

館を訪れる客人が出入りした正面玄関にあたる門です。


会所

こちらから会所の中の見学や庭園を眺めることが出来ます。
有料となりますがJAFの会員証を提示すると割引が受けられます。
そして、こちらの受付に先程出会ったガイドさんが待っていたので
早速案内をお願いしました。

受付を済ませ、パンフレットをもらい、まずは控えの間から案内していただくことに。


控えの間

こちらに展示されている「かわらけ」は実際に手にとって
感触も確かめられるものでいろいろな色、形のものが展示されています。
墨書のかわらけは地鎮のためにまじないの文字が書かれたもので、黒っぽい
かわわらけは油を入れて灯りとして使用したもの、白磁の皿や青磁の食器など
出土したものがあります。


月見台

ここに座ってガイドさんとしばし庭園を眺めながら庭園の説明を受けました。
とても落ち着く場所で良いのか悪いのか、平日はあまり人が来ないので本やお弁当を
持参してごろごろするのも良いものだよと教えて下さいました。
時間があったらそうしたい空間であり、そういう場所として造られているんだろうなあとも
想像しました。


蔀戸

半分跳ね上げてある蔀戸。
京都御所などで見たものとはちょっと豪華さが違いますが
やはり跳ね上げ式になっていると格式が高いように感じます。



こちらは蔀戸の下の部分も外された状態です。


接客の間(次の間)

江馬氏氏下館の壁はNHKの大河ドラマ「真田丸」のタイトルでおなじみの
左官の挾土秀平氏の手によるものだそうです。
藁を練り込むことで丈夫な壁になるというもので、土も地元の粘土質な土を使っていて
黒っぽく見えるのは鉄分が多く含まれているからだとか。
そして現地でいろいろな角度から見ると色が違って見えるのも特徴だそうです。
外壁が痛んで来たので近々挾土秀平氏が修理に訪れる予定だと伺いました。


欄間

この欄間、ちょっと普段は見掛けない格好しています。
なかなか粋なデザインです。
欄間が好きなのでつい、ここを見てしまい「珍しいですね!」と足が止まってしまいました。
普通は欄間で区切られているのですがここは区切られていないそうです。



そして、今度は下を見るとここにも珍しいものがあります。一本引きの障子戸です。
レールは1本、しかしそこを通る障子戸は二枚なのです。
このからくりもすばらしいです。


庭園

かつてここは所々に巨石の頭が出た田んぼになっていたそうですが
その巨石には江馬の殿様の庭の石であるという言い伝えがありました。
その言い伝えのもとに発掘すると庭園が出て来て言い伝えは本当であったことが判明し、
庭園の復元に至ったそうです。
復元された庭園の石の色の違いは巨石は動かされることなくそのまま田んぼにあったもの(黒い)と、
割れてしまったりした石は形が似ているものを同じ地質の場所から新たに運んで来た石の違いだそうです。



立石・中島・御岸石など配石している様子は巨石を6つ置き、どの位置から見ても
1つだけ石が隠れ常に5つの石(五ヶ石)が見える、とても考えられた配置がなされているそうです。
全体写真でないのでわからないと思うので、現地で見て確認してみて下さい。
排水路の無い池は、雨が降ると水池と変化し、雨の日も違った景観が楽しめます。
池の端に庭園ではあまり使わないタイプの砂利が使われているのですが、これは海の海岸を想像した
ものではなかろうかという説があります。
私も海の無い土地で生まれ育っているので海へのあこがれの気持ちがよくわかります。


接客の間(南主座敷)

二間続きの接客の間の障子戸をすべて開放してお客様をもてなします。
この日は障子戸がまだ開放されていませんでしたが、お昼からお客様が見えるとのことで
準備に追われていました。
きっと障子戸を開放して庭園を眺めながらお茶会でおもてなしをされたことでしょう。


主人の居間

押板・違棚・附書院の設けられた書院式の座敷になっています。
ここでの見所は何と言っても隠し部屋があること。
…しまった、この写真では隠し部屋の扉が開いてしまってる


武者隠

と、いうわけで閉まっていると柱と壁にしか見えない巧みな隠し部屋があります。



実はこのように壁と思われていた部分が開いちゃいます。
ここに護衛の者が潜んでいます。



こちらの障子戸もよく出来ていて、壁と障子戸の組み合わせで四季に寄り
壁と障子の引き方で暑さ寒さに合わせて使い分けが出来る優れものなのです。
この建物のからくりはとても考えられていて、なかなか素晴らしいです。


高原諏訪城

本城である高原諏訪城が見えます。
山城なので登るのは大変ですがここからの眺めがとても良く、下館の全体を見渡すことが出来ます。
また、周囲の城も見えたりします。


常御殿

外にあるこの板敷きの部分は発掘調査によって建物跡がみつかった場所です。
礎石などがみつかっているのですが復元には至らず、埋め戻され建物の規模が
想像しやすく、建物跡を保護する意味でもこのように表現されているそうです。
ちなみに平時はこちらの建物で生活をしていたそうです。


対屋

残念ながら礎石は出たものの、上に載っていた建物の資料が無いために
当分上に建物が復元されることは無いそうです。


台所

ここで食事の支度をして会所へ運んだりしていたそうです。



ガイドさんが話しかけてくれたおかげでとても充実したした時間が過ごせました。
建物の造りについては御殿や屋敷などいろいろ見て来ていますが
細かい部分のからくりや役割をあまり知らずに歩いていたのでおもしろい発見があり、
各地で同じ造りを見たら、また違った見方が出来ます。
また、随分お金をかけて復元したにもかかわらず、もったぶらずに触ったり動かしたり
気楽に見せてもらえるのも好感が持てます。

最後に、案内していただいたガイドの岡田さんに感謝です。
帰りに道の駅でおみやげもいただきました。
お世話になりました。ありがとうございました。



平成30年10月14日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編
宮坂武男
戎光祥出版
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天童陣屋(山形県)

2018年10月11日 07時58分05秒 | 陣屋・館
天童陣屋てんどうじんや
別名天童織田館・天童御陣屋
構造陣屋
築城者織田信美
築城年代1830年(天保元年)
指定史跡
場所】場所天童市田鶴町4 地図

天童織田藩は織田信長の次男織田信雄の流れをくむ藩で、織田家は群馬県甘楽町の小幡藩や山形県高畠町の高畠藩を統治し、信雄の孫である信美が天童に入り、1831年(天保二年)に天童織田藩が成立しました。



天童御陣屋絵図

喜太郎稲荷神社入口に天童陣屋の入口があります。
ここには天童御陣屋絵図があり、現在は宅地化して住宅地となっている場所の中に
陣屋の跡を探す手掛かりが描かれています。


手水と案内看板

調武館・稽古所跡の案内看板があります。
絵図で見ると位置的にはこの位置ではなさそうです。
そしてこの手水の形が型に見えます。
ちょっとかわいらしいですね


内堀跡

この道は絵図から見るとかつて水堀だったようです。


喜太郎稲荷神社

喜太郎稲荷神社は、天童氏の家臣喜太郎が京都伏見稲荷からこの地に奉安したので
喜太郎稲荷神社と呼ばれるようになったといわれています。


拝殿

織田家がこの地に天童御陣屋を築いた際に、氏神として奉祀しました。
当時は、現在の場所より公園側にあったのですが移動しています。


天童織田藩記念碑

記念碑と、その横には説明文があるのですが
読んでみると記念碑の詳細訳文は「私たちの街田鶴町下巻」に書いてあるとのこと。
いや、いや、この場に書いておいて欲しかった
漢字ばかりで読めません…


公園

公園の右手と住宅の間には陣屋を分断するかのように線路が横断しています。
しかも、これは山形新幹線だそうです!
まさかこのような住宅地を新幹線が通るとは思っておらず、ああ、また線路かあ。
と、スル―して来てしまいました。
ここを通過する大名行列ならぬ、山形新幹線を見てみたかったような気もします。


大手門跡

正面の山が天童城のある天童公園です。
その麓で、この道が突き当たる道が奥州街道です。


天童織田藩御陣屋跡

線路によって分断された陣屋跡です。
先程の喜太郎稲荷神社の公園とは別で線路を挟んで反対側に位置する公園にも標柱があります。



私が方向音痴だったことで訪れることになった天童市。
山形城からほど近い場所にホテルを確保した気でいたのに、カーナビに入れたホテルの名前から
誘導されたのは山形市ではなく天童市でした。
????????
そんな馬鹿な!!
私が予約したホテルは山形城からすぐ近くで、次の日は米沢城へ行くんだって決めてたんですけど????
・・・・・・
だって、「舞鶴公園」のすぐ近くだよ!
「舞鶴公園」…「霞城公園」…ぜんぜん違うじゃん…よく聞くよね、「舞鶴公園」…


ホテルから見た天童城と天童温泉街

ホテルで隠れちゃってますが奥に見える山が天童城です。
朝食

夜は温泉で疲れを癒し、朝食をおなかいっぱい食べていざ、出陣!
というわけで予定変更で米沢城ではなく天童城へ行く事になりました。



舞鶴山へ行ってみると、織田氏の家紋がいっぱい目につきました。
調べてみると上野の織田氏とゆかりがあるようではないか!
それも甘楽の小幡陣屋と繋がっているとあらば、寄らないわけにいかない。
というわけで天童古城に続き、こちらにやってきたというわけです。



平成30年9月30日訪問


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城の内館(茨城県)

2018年08月22日 22時59分41秒 | 陣屋・館
城の内館 しろのうちやかた
別名結城朝光館
構造平城
築城者結城朝光
築城年代鎌倉初期
指定史跡
場所結城市結城8718 地図

鎌倉時代の初めに、結城氏初代の結城朝光によってつくられ、
室町時代に新たに結城城が築かれるまでこの館は機能していました。
館跡は長方形に区画され、周囲を堀で巡らせて土塁で囲っていたことから
「堀の内」、「城の内」と呼ばれるようになりました。


館跡

道路からも見える広場は結城氏の居館跡です。


結城百選

居館入口には案内看板とともに結城百選という石柱があります。


散策路

城内は半周出来る散策路が付いています。



土塁と並行して内側を散策出来る軽自動車1台分ほどの道があります。


土塁

城内から見た土塁です。
このような高さの土塁が巡っています。



なにやら建物が見えて来ました。


栗橋圓翁土碑

栗橋家と言えば、ここから利根川に向って進むと江戸時代に整備された五街道の一つ、
日光道中に利根川を渡る房川渡が設けられそこには栗橋宿があり、栗橋関所が設置されました。
関所の警衛にあたる番士が幕府から任命され、関所の近所に定住したと伝えられています。
距離から考えるとこの栗橋家に関係のある人なのかと想像します。


立木地蔵尊

先程見えていた建物はこの立木地蔵尊でした。
栗橋家所有の地蔵尊でちゃんとした入口は別にありました。

この立木地蔵尊には昔からの民話が伝わります。
その民話とは…
この地を支配していた栗橋氏が、
城内のひときわ目立った御神木のような大木を、必要があって切ることを命じました。
斧を振り下ろすと木の切り口から血が流れ、その大木は生き怨みを言っているようであったという。
神のたたりがあるのではないかと恐れて、その木を切ることを中止しました。
この不思議な話は近隣の人々の耳にも伝わりました。
その後、栗橋氏は大木の霊をなぐさめるため、立木の地蔵をつくりました。

その地蔵は今もお堂の中に静かに祀られているという。。。。


手水






法華一字一石書写供養塔

一字一石というと、経典を小石に一字ずつ書写したものです。
その石を埋めて供養塔を立てたものらしいです。
この供養塔の下には法華経が書かれた小石が埋まっているのでしょうか。



そして立木地蔵尊からもとの道に戻り、先へ進んでみようと思います。



この道は半周したところで居館の広場に出ます。
草がない時期であればそのまま最初の入口まで横断して戻ることが出来ます。
草むらの中を横断するのはちょっとためらわれたので、引き返して戻りました。


外側の道

土塁に沿って付けられている城館外側の道はかつて堀だったのでしょうか。。。
この先に立木地蔵尊の本来の入口があります。


立木地蔵尊入口の門

こちらから直接立木地蔵尊へ行くことが出来ますがここへ行くための駐車場はありません。


土塁

城館外側からの方が土塁はわかりやすく、見やすいです。
ちなみに堀は発掘調査によって断面がV字型になる薬研堀だったことが判明しました。


城内の散策路はちょっと幻想的な感じがして、暑い中でも避暑地を散策している気分でした。
しかし、立木地蔵尊の民話を調べているうちに夏に語るに相応しいちょっと怖い話だなあと…。
知ってから行っていたら散策路も幻想的なんて言っていられなかったことでしょう。
それどころか、怖くて先に進めないとか、立木地蔵尊に近付くのも躊躇われたんじゃないかと思う。
しかも、独りで散策に行ったので思い出したら怖いです^^;
ちなみに私の書いた民話は短く、やさしく書いてます。
ただ、それを言っていたら戦国時代のどこ行ったって血が流れてますからね


平成30年8月5日登城


栃木の民話 第1集 (日本の民話 新版 32)
日向野 徳久
未来社
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与板陣屋(新潟県)

2018年08月01日 08時03分34秒 | 陣屋・館
与板陣屋よいたじんや
別名與板陣屋・与板城・與板城
構造陣屋
築城者牧野康成
築城年代1634年(寛永11年)
指定史跡
場所長岡市与板町与板甲 地図

与板城は越後長岡藩主牧野忠成の次男、康成が1万石で与板藩を立藩し、
陣屋を築いたのが始まりです。
牧野氏が信濃国小諸藩に転封になると、
1706年(宝永3年)静岡県掛川市から井伊直矩が入封しました。
1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には新政府軍につき、
与板藩兵と同盟軍との間で激戦が展開された。
与板城は戦火で焼失。大手門と切手門の焼失は免れ、
現在は移築され長岡市の文化財として 残されています。


天地人通り

天地人通りは、旧長岡鉄道(昭和50年に廃止)跡地に、近年整備された遊歩道です。


下丁

昨年よく見た家紋があります。
この地域には井伊藩の武家屋敷がった地域で、武士は武術を鍛錬し、寺子屋で学問も学び
文武両道を修めていました。


與板藩城館跡

与板町ふれあい交流センターにある與板藩城館跡。


冠木門

与板城をイメージして建てられた冠木門。


案内看板
冠木門脇にある木製の案内看板。


与板町ふれあい交流センター

こちらの駐車場をお借りして周囲を散策。
高齢者がスポーツや趣味、学習、児童との交流やふれあいを通して
健康でいきがいを持った生活を具現するたに造られた施設だそうです。
与板城に関してのパンフレットが置いてないかとお邪魔してみたのですが
そのようなものはみつかりませんでしたが、
建物に入って右手の壁には与板城に関して書かれたものがありました。


城館跡碑

与板町ふれあい交流センター敷地内中央に城館跡碑があります。


長丁

「丁」は武士が居住する地域を意味するとされ、
「長丁」は城下の各分野の長(おさ)がこの地に多く住んでいたことから
この名前が付いたという説があります。



本願寺新潟別院

大手門の現存しているということでやって来ました。
与板藩と与板別院との繋がりは深く、1830年(天保元年)藩主である井伊直経が
建立したとされています。


大手門(現存移築)

この大手門はかつて旧大手の通りにあったもので、戊辰戦争の戦火から免れ
この地に移築されました。



現存している移築門はここにある大手門の他に
恩行寺の山門になっているという切手門があります。
(今回切手門の方は行っていないので画像はありません)



門柱を礎石の上に直接建て、門扉は枠の中に縦に厚板を張り、鉄板を使用しています。



与板別院が完工したのが明治3年。その翌年の廃藩置県の年に移築され、
与板別院の第一の門となりました。


兼続、お船ミュージアム

与板別院に隣接してある兼続、お船ミュージアム。
こちらの駐車場を拝借して大手門を見た後、JAFの会員証を提示して割引してもらい
見学しました。
中は撮影禁止のものが多く撮影出来なかったのですが、
ここでも直江状(写し)が見ることが見ることが出来ました。


レンタサイクル

かわいいレンタル自転車があります。
景綱号、よいたん号、謙信号の三種類の自転車が借りられるようです。


直江山城守兼続公

与板衆および領民と共に与板の町づくりの基礎をつくったとして銅像が建立されました。



直江兼続が与板城城主になったのは1581年(天正9年)のことです。
与板城は通称:山城と呼ばれていたことから、兼続といえばヤマシロの愛称?で親しまれています。
その理由がここでわかった(にぶい!)ので、なるほどです。
私も直江兼続が好きですが深追いしていなかったので与板に来て知ることが出来て良かったです。

それにしても「直江状」はいつ見ても、よくこんな長文書き連ねたなあと感心するとともに
家康もこんなにタラタラと文句?を書き連ねられたら腹立つよなあとも思います。^^;
しかし、兼続の頭の良さは現地でも自慢のように言われ、
秀吉がとても欲しがった人物であるというのにはうなずけます。
大河ドラマ「天地人」をまた見たくなりました。


平成30年7月22日登城


甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館
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多胡館(群馬県)

2018年07月20日 07時54分55秒 | 陣屋・館
多胡館たごやかた
別名
構造居館
築城者源義賢
築城年代1141年~1144年(永治・康治)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市吉井町多胡 多胡32 地図

多胡館は、木曽義仲の父義賢が一時住んでいた居館です。
一辺約100メートル四方の正方形に近い平面型の構造です。
義賢は1155年(久寿2年)大蔵館(埼玉県嵐山町)で甥に討たれていて
多胡館に居たのは1140年代から1150年代にかけてとみられます。
近年の発掘調査では堀から浅間山の噴火(1108年)の軽石層がみつかっていることから
この館はそれ以前から存在していたことが判明しました。


入口

民家の脇に入口があります。


標柱

民家の垣根に埋もれてしまっている標柱。
最初はまったく気付かず、さて帰ろうと思った時に気が付きました。



民家と畑の間に続く小道があるので進んでみます。



行き止まりに大きな案内看板が見えて来ました。


案内看板

木曽義仲繋がりとあって、大きくて立派な案内看板があります。
住んでいたのは一時的で約10年間ほどではありますが、力が入ってます。


縄張図

この図を見て散策しようと思ったのですが、民家や私有地で見られるところは
かなり制限されます。
特に民家付近には立ち入り禁止看板もあるので住民に迷惑かけないよう注意が必要です。


男衾三郎絵詞

中世、鎌倉武士の生活を表した絵巻。
しかしなぜここにこの絵巻?上野国の話とはいえ何か関係あるのかなあ。



案内看板のある小道から脇道に入ると土塁と堀が見られます。


土塁

居館の四方を囲む土塁がしっかり残っています。




土塁の奥には堀跡も見られます。





ぐるりと一周してみたものの、私有地だったり民家だったりして
居館の中までは散策出来ませんでした。
林や竹林になっている部分が居館跡であることは外周から見てとれるのですが
それ以上は散策は断念しました。
とりあえずは案内看板のある散策路付近で土塁と堀は確認できます。
木曽義仲の父が暮らした居館跡ということで、話題性あり!
しかし、木曽に近い長野でもなく岐阜でもなく、群馬、埼玉に縁があったのですね。


平成30年7月15日登城
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野本館(埼玉県)

2018年07月11日 07時45分57秒 | 陣屋・館
野本館のもとやかた
別名
構造居館
築城者野本基員
築城年代鎌倉時代
指定史跡市指定史跡
場所東松山市下野本 地図

野本基員を初代とする野本一族の館跡で、平安時代の公卿藤原基経の家の警護をしていた片田基親の子息基員が
武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるのみとなっています。



無量寿寺

無量寿寺の駐車場をお借りして散策をしました。
道路を挟み物見とされた野本将軍塚古墳(前方後円墳)も合わせて見て来ました。


標柱

無量寿寺の入口には野本氏館跡の標柱があります。


案内看板

無量寿寺の山門脇にある案内看板です。


将軍塚図

江戸時代の武蔵国の様子を書いた「新編武蔵風土記稿」の無量寿寺の項には
「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、
ここに掲げられた「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。


山門

「利仁山」の扁額が掲げられています。


四国八十八ヶ所霊場参拝記念

ここには十二支の御守本尊が並んでいます。
とりあえず、自分の御守本尊をみつけて合掌。


本堂

本堂を見上げると葵の御紋があります。
関ヶ原の合戦では尾張徳川に参陣し武功をあげています。
徳川家康が関東入国した1591年(天正19年)に、寺領10石の御朱印状を受領したとも
言われているのでこのような葵の紋が入っているのでしょう。


道元禅師像

無量寿寺は曹洞宗のお寺さんだそうで、曹洞宗の宗祖・道元禅師の像がいらっしゃいます。


十二支像

奉納者を募集しているようでしたが、見るとすでに十二支すべて揃っていました。


土塁

外側の土塁と堀は当初からのものでなく、後世の増築によるものと考えられています。


石碑

この奥はお寺なのでお墓がいっぱいです。


山門(内側)

無量寿寺をあとにして、野本将軍塚古墳へ行ってみようと思います。


野本将軍塚古墳

こんもりとした大きな土盛の麓に案内看板があります。


案内看板

昭和35年に県指定史跡になった県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。



無量寿寺から真直ぐ道が抜けています。


鳥居

朱色の鳥居が見えて来たので、ここから将軍塚へと登ってみました。



階段などで道は整備されています。
道の通りに階段を進むと頂点にある利仁神社に到着します。


利仁神社

現在木々で物見にはならないですが、周囲が平なだけに高低差はあまりないのに物見に
使えてしまう構造です。
が、ここは将軍さまのお墓です。^^;



野本氏館とは深い縁がある古墳で、将軍塚図にも一緒に描かれているように
戦国期にも重要な場所であったことがうかがえます。
また、無量寿寺の山門の扁額にも記されている利仁山とあるように地元風土記によると
利仁将軍が登場していることや、利仁将軍が最初に寺を建立していることから
深く関わりあっていることが見えてきます。


石碑

よくわからないが、古墳にいろいろな石碑が建てられています。
将軍ゆかりのものならば良いのですが…よくある戦争の慰霊碑みたいなものでしょうか。


忠魂碑

ここにも忠魂碑です。
昔の人のお墓の上に建てちゃうあたりはどうなんでしょう…。





古墳までも利用した野本氏館(陣屋)ですが、城郭と古墳がいっぺんに両方見られる
ちょっとお得感感じる史跡です。
城館、陣屋としてはそれほど遺構が残っているわけではないですが
将軍塚といっしょに歴史を掘り起こしてみると結構面白いんじゃないでしょうか。
無量寿寺山門脇の案内看板にある将軍塚図の絵(水墨画?)なんかも私は好きです。



平成30年6月17日登城



江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)
中山 良昭
廣済堂出版
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奈良梨陣屋(埼玉県)

2018年07月09日 07時41分53秒 | 陣屋・館
奈良梨陣屋ならなしじんや
別名
構造陣屋
築城者諏訪頼忠
築城年代 1590年(天正18年)
指定史跡町指定史跡
場所比企郡小川町奈良梨吹付800 地図

奈良梨陣屋は戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと推定されます。
現在八和田神社境内とその周辺に堀や土塁などの遺構が残っています。
周囲には千野(茅野)氏の姓も残り、信濃の諏訪との繋がりが強いものと思われます。


土塁と堀跡

東側の堀跡と土塁が残っています。
奈良梨陣屋の案内看板はこちらに設置されています。


案内看板

東側の堀跡付近に案内看板があります。



北側道路と八和田神社との境界に残る土塁。


虎口

北側にある虎口です。
境内を囲むように東側と北側には土塁が残っています。


土塁

北側の虎口から見られる土塁がわかりやすい土盛になっています。


八和田神社

八和田神社は明治40年以前は諏訪神社と呼ばれていました。


拝殿

いつものように手を合わせます。


石碑

境内の中には沢山の石碑が建てられています。


逆さ大スギ

この大スギは天正18年(1590年)に奈良梨に入った諏訪頼水が、所領を定める際に信州諏訪(長野県)から
投げたスギが逆さまに地面にささり、そのまま根着いたという伝説が伝わります。
 

招魂社

明治維新前後に国家のために殉難した人の霊を祭る神社で、各地の神社等に造営されています。


石碑

忠魂碑をはじめ、多くの石碑があります。


天神社

この神社には社も多く、他に春日神社や日吉神社など神社が造営されています。


聖徳皇太子碑

城址を巡っていると、たまに目にする聖徳太子の石碑。
ここはお寺さんでもないしなあ。なぜあるのか分からない。
そもそも歌碑だったり忠霊碑だったり、いろいろな石碑がここにはあります。




これは水堀の名残なのでしょうか。
普段これだけ水があれば周囲の堀に水を流し込むことも可能だったと思われます。


厳島神社

池に飛び出したところにある神社。


駐車場

道路の交差点まで続く参道。
交差点から参道を通って来ることもできますが、徒歩ではなかったので
神社を回り込むように搦め手側から入り、駐車場へやって来ました。



大スギの案内看板を読んだ時には信州の諏訪氏にゆかりがある地として
諏訪氏が千野(茅野)氏を伴ってこの地に移り住んだことを知り、
信州出身の私としては、親しみが湧きました。

諏訪から飛ばした杉がここまで飛ぶとは!と、現実にはあり得ないこの言い伝えに
夢がある?話で面白いなあと感じました。
「いっそのこと御柱を飛ばしてみても良かったかも^^;」
な~んて冗談も現地で話しながら散策してました。


平成30年6月17日登城



諏訪神社 七つの謎
皆神山 すさ
彩流社

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高坂館(埼玉県)

2018年06月25日 07時16分59秒 | 陣屋・館
高坂館たかさかやかた
別名高坂陣屋・加賀爪氏陣屋
構造居館
築城者高坂氏
築城年代南北朝時代以降(14世紀頃)
指定史跡県指定史跡
場所東松山市高済寺834 地図

高坂館跡は高坂氏が居城した城跡で、高済寺周辺に位置しています。
周辺一帯は弥生時代からの遺跡群となっており、古墳も多く見つかっています。
高済寺には徳川家康に仕えていた加賀爪政尚をはじめとるする累系の墓所があります。




道路を走っていると、高済寺北側に残る土塁が見えて来ます。


都幾川リバーサイドパーク

高済寺を通り越し、その先で都幾川リバーサイドパーク側へ降りてみました。



高済寺の下まで来てみると土塁が見えて来ます。
その土塁へのアプローチの小道が見えるので虎口?のような小道を登って行くとことに。



すると、ちょっとした腰曲輪のようなスペースがありました。
高済寺にある加賀爪氏累系の墓所の真下に出ました。
小道は更に続き、一段上の道に出ました。
どうやら小道は、都幾川リバーサイドパークを利用する人たちの近道に使われているようです。


加賀爪氏累系の墓所下

見事な高さの土塁が見えます。
土塁の上には加賀爪氏累系の墓所が見えます。
ちなみに隣にこの小道を通らずに階段を作っていて通路建設中になっていました。
周辺には住宅も建設しています。


駐車場

高済寺の表に戻って来ました。
駐車場に停めさせて頂いて早速館跡の散策です。


高済寺山門

山門脇には加賀爪氏累代の墓があることを示す標柱もあります。


高済寺整備記念碑と城山稲荷

城山稲荷は以前は土塁の上にあったのですが、整備されて下の段に移動しました。


加賀爪氏累系の墓入口

高済寺の土塁側を裏の墓地に向ってあるて行くと加賀爪氏の墓所への入口が見えて来ます。


案内看板

土塁の登り口にある石碑と案内看板です。


土塁と堀

石碑と案内看板のある位置から土塁と、土塁下の堀が見えます。
この土塁と堀は道路で一旦切れますが、更に先の方まで宅地の間に所々痕跡を見つけることが出来ます。


加賀爪氏累系の墓所

土塁の頂点に加賀爪氏累系の墓所はあります。
加賀爪氏は徳川家康に仕え、小牧長久手の戦いや小田原征伐で武功をあげ、
さらに関ヶ原の戦い、大坂の役でも武功をあげ、江戸町奉行に登用もされたようですが
加賀爪直澄の代に相続時の書類の不備により、成瀬氏と領地問題を起こし
1681年(天和元年)に領地没収されています。
宝篋印塔は県指定文化財になっていて、やはり古さを感じる石塔です。



下段の墓所裏に何か遺構が残っていないものかと思い見てみたのですが何も残っていません。



更に探してみたのですが痕跡はみつからず。
ちなみにこの地中には弥生時代の生活の痕跡は残っているようです。


土地の整備が進行中で発掘調査をしてバイパスを通したり、住宅地と化しています。
また、古墳や弥生時代の遺跡が多く存在し、足元のほとんどが遺跡?というくらい
広い範囲で沢山の遺跡群になっています。
それからみると戦国時代の城郭は小さいものです。
とはいえ、遺跡の上に造られた城郭(館跡)はそう小さいものではありません。
北条氏から徳川氏まで戦に備え、何度も整備され軍事拠点のひとつとなっているのが高坂館です。



平成30年6月17日登城



関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館
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