むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

新庄城(山形県)

2022年10月25日 | 百名城以外の城
新庄城しんじょうじょう
別名沼田城・鵜沼城
構造平城
築城者戸沢政盛
築城年代1625年(寛永2年)
指定史跡市指定史跡
場所山形県新庄市堀端町 地図

新庄盆地のほぼ中央に位置し、江戸時代初期に最上氏が領地を没収されると
新庄に6万石で入った戸沢政盛が羽州街道の西にある湿地帯に新庄城を築城しました。
創建当時は三重の天守を持つ近世城郭でしたが、1629年(寛永6年)に火災によって焼失。
すぐに再建するも、1636年(寛永13年)に再び火災により天守を含む本丸、二の丸が炎に包まれてしまいました。
その後、城は再建されましたが天守が再建されることはありませんでした。



二の丸跡

駐車場が本丸にあるので、二の丸側から乗り入れることになります。
こちらは二ノ丸内屋敷になり、西の丸とも呼ばれていました。


虎口

本丸と二の丸を繋ぐ虎口です。


本丸

本丸に駐車場があります。
土塁に囲まれた贅沢な駐車場です。


本丸土塁

南西に残る見事な土塁です。



外から見るとこのような土塁です。
角には隅櫓があったされ、武器櫓になっていました。


二の丸

本丸を囲むようにぐるりと巡る二の丸は、現在二の丸の堀は埋め立てられ
住宅や公園と化しています。


大手門跡

内枡形で、一の門、二の門で構成されていました。
石垣は大手門の石垣の一部なのでしょうか。



この堀を渡ると本丸です。


水堀

本丸の水堀は東と西に残っています。


表御門

表門も大手門同様に桝形状の造りになっていました。


櫓門跡

櫓門の石垣が現在も残っています。
本丸への出入口は表門と北門の二ヶ所があり、内桝形で櫓門として敵の侵入に備えていました。



時代が新しいとあって、隙間なく奇麗に積み上げた切込接の石垣です。


新庄城絵図

表御門の手前にある絵図です。


戸澤政盛公像

戸澤神社の鳥居の前にある戸澤政盛公像。


花手水

最近流行りの花手水。
コロナ禍になって急速にこのような癒しの空間が広がりました。


戸澤神社

戸澤神社は、戸沢家の始祖・衡盛と藩祖・政盛の御霊を新庄城本丸跡地に勧請し、
十一代藩主・戸沢正実を合祀し三方を祭神として祀っています。
戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されていますが、
この旗は靖国神社と戸沢神社にしかないと言われています。


御玄関跡

新庄藩政庁の正面玄関があった場所です。
この奥に、廊下を隔てて40畳敷の大書院、32畳敷の御広間などがありました。





天守台跡

ここにはかつて三層の天守が築かれていましたが、火災により焼失してしまいました。


護国神社

護国神社は、戊辰戦争の戦死者五十六名を祀る神社として戦死者を祀っています。
明治二十四年に、遺族らの希望により現在地に移されました。


天満神社

天満神社は、新庄藩主戸沢家の氏神として旧領秋田県角館時代から崇拝されてきた神社で、
学問の神様である菅原道真を主祭神とし、学業成就のご利益があると言われています。


撫で牛

道真公は丑年生まれで、牛をたいそう可愛がっていたといいます。
「撫で牛」の頭を撫でると頭が良くなるそうで、他に身体の悪い所があれば
同じ部分を撫でると治ると云われています。
う~ん、あっちもこっちも撫でたくなるなあ。


本殿・拝殿

江戸時代初期に建てれた本殿と拝殿が、昭和62年8月25日に
山形県指定有形文化財に指定されています。


虎口

本丸北側の虎口です。
現在は土橋になっていますが、絵図を見るとかつては木橋が架かっていました。
この小川が水路となって堀に水を引き入れています。


西丁

本丸の西側にある町で、役所や名門家臣のあった場所です。



かつてはここも水堀でした。
埋め立てられていますが、名残があります。


新潟経由で秋田入りする途中で寄ってみました。
三度目の天守再建してほしかったけど、なかなかそうもいかないですよね。
でも、土塁と水堀が見事で、櫓門の石垣も残っていたのでなかなか良いのではないでしょうか。

令和4年7月16日登城





漆窪城(群馬県)

2022年10月20日 | 百名城以外の城
漆窪城うるくぼじょう
別名
構造平山城
築城者長尾氏
築城年代1558年~1570年(永禄年間)
指定史跡
場所群馬県前橋市富士見町漆窪 地図

漆窪城は、舌状台地の先端に築かれた城です。
永禄年代に長尾大膳が居城したと伝わり、現在も遺構が良好に残っています。
大膳は石倉城主である長尾景善の弟で、
大膳の養子となって石倉から移住して大膳を襲名したと伝わります。




道になっている部分が堀跡になります。
櫓台のような高まりのあった場所に城址碑と看板が立っています。

堀跡

再び城址碑のところまで戻って来ました。
城址碑の西側にある道もまた堀跡です。



舌状台地の先端の方へと延びる二の郭。



城域にあるソーラー。


主郭

頂上ではなく、中間に位置しています。


追手虎口

一番長い堀の東先端に着く追手の虎口。



三の郭を覗きに行って見ましょう。


三の郭

三の郭は、奥の方が少し藪化が進んでいるようです。


最初、「うるしくぼ」と呼んでいたら「うるくぼ」と言うのだということを攻城団の団員さんに教わりました。
やはり地元の方でないとわからない地名や名前ってありますよね。
若かりし頃、埼玉の嵐山(らんざん)を「あらしやま」と読んでいて地元の方に
笑われたことがありました。
今思い返すと、恥ずかしいエピソードです(^^;
でも、あるあるですよね!


令和4年10月15日登城


今回の参考本



津久田城(群馬県)

2022年10月18日 | 百名城以外の城
津久田城つくだじょう
別名
構造崖端城
築城者狩野氏
築城年代室町時代後期
指定史跡
場所群馬県渋川市赤城町津久田 地図

津久田城は、加沢記によると代々狩野氏の居城であったと考えられます。
白井城の支城で、「つなぎの城」として利根川沿いに侵攻する敵に対しての守備の役割を果していました。
元亀・天正の戦乱期には上杉・武田・北条の戦乱の渦に巻込まれ、
天正18年、豊臣秀吉の配下にある前田利家・上杉景勝による白井城攻略に際し、
本城の白井城とともに落城し、廃城となりました。




看板を探してみたのですが、どうやら本丸にある住宅の裏手の方にあるらしく
Googleマップでは住宅の裏の方にそれらしきものが見えるのですが、到底入って行けない…。
残念ですけどここで暮らす方々の身になってみると、それは致し方ないことです。
ちなみに、写真は城域の外側で撮影しているので、本丸はこの墓地より北側全体が城域となります。

今回資料は渋川歴史資料館で購入した「文化財関係資料集」を参考にしています。

令和4年10月15日登城





入沢城(群馬県)

2022年10月16日 | 百名城以外の城
入沢城いりさわじょう
別名渋川城
構造丘城
築城者足利義顕
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所群馬県渋川市渋川入沢 地図

入沢城は、鎌倉時代に渋川氏の祖足利義顕がこの地を領して城を築いたとことでかつては渋川城と呼ばれていました。
天文13年豪族入沢氏が信州から移住して本丸跡に館を築き、入沢の地名を起こしたことで入沢城とされます。
弘治3年入沢氏は吾妻大戸城主より軍功により渋川の西北を拝領し
元亀・天正年間に武田信玄・勝頼二代の家臣となり仕えます。
天正末期には武田氏滅亡から北条氏に仕えるも、北条氏も滅亡すると
入沢城を廃城とし、慶長の初めに帰農しました。




東(渋川市街方面)から西へ登り始め、畑が見える台地にさしかかると
左手に城址碑が見えました。


元屋敷

山崎一氏の縄張図によると元屋敷と記されている場所です。
ここが主郭とする居館跡になると思われます。


城址碑

城址碑には築城当時の「渋川城」で記されています。
ここに渋川氏の誕生の城としての地元の拘りを感じます。
裏面には説明文が刻まれています。


堀跡

当時はもっと深さがあったと思われる幅の広い堀跡が現在でも確認出来ます。



未知の反対側にも畑になっているものの、郭?っぽく見える場所があります。
縄張図から見ると何か手を加えた造作地ではあるようです。


近くに「渋川城跡」とGoogleマップのポイントされている民家の入口に石碑が見えたのですご~く気になっているのですが
個人宅の敷地にあるので伺いに行く勇気もなく、確認ができなかったのが心残りです。
城址碑なのか、全く関係ないものなのか、石碑に説明文らしきものが見えていたのでとても気になりました。


令和4年10月15日登城







井出館(静岡県)

2022年10月14日 | 陣屋・館
井出館いでやかた
別名井出代官屋敷
構造館跡
築城者井出氏
築城年代鎌倉期
指定史跡市指定文化財
場所静岡県富士宮市借宿91 地図

井出氏は鎌倉時代この地に居住した小土豪でしたが、富士大宮司家に仕え、今川、武田氏に従属。
今川義元から代官を命じられ、大宮宮中奉行職を安堵しています。
武田信玄の駿河侵攻時には、今川・武田・北条の戦乱に巻き込まれ、一族はそれぞれに分散ししました。
井出館は、1193年(建久4年)に源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄ったことが
「吾妻鏡」に記されていることが知られています。




今年は大河ドラマでも話題になった場所です。
ここに駐車場もあります。


狩宿の下馬ザクラ

桜が有名らしく、以前テレビで見て以来ずっと来よう!と思っていた場所です。
ならば、桜の時期に来いよ!となるところですが、私の目的はこの桜ではありません。
ちなみに、この桜の木に源頼朝が馬を繋いで休憩されたとのことです。



立派な長屋門が見えます。





高麗門

この門の前に立ち確信しました。
今までのモヤモヤが解消された瞬間です。(なんとなく察してください)


長屋

長屋の北側の棟です。
こちらは作業小屋になっています。
この長屋門は火災で焼失していますが、北側の長屋から発見された墨書により、
嘉永元年に再建されたことが判明しています。


馬屋

南側の長屋は、農耕用・輸送用に使った馬を飼育するための厩になっています。


茅葺の見本と大八車

南側の長屋には厩の他に茅葺屋根に使う茅葺の展示がされています。



今年はNHK大河ドラマでも注目を浴びた井出館。
いつかは来ようと思っていたので、寄ってみました。
桜が有名なので桜の時期に来るのがベストなのでしょうが、この日は誰もおらず
ひっそりと静まりかえり、静かな訪問となりました。

個人的に確認したいことが確認出来たので、
また今度、子供たちを連れて訪れる日が来るかもしれないなあ。


令和4年8月15日登城







長峰城(新潟県)

2022年10月13日 | 百名城以外の城
長峰城ながみねじょう
別名雁子城
構造平山城
築城者那須氏
築城年代不明
指定史跡
場所新潟県上越市吉川区長峰 地図

1616年(元和2年)高田藩主松平忠輝が改易後に上野国2万石の大胡城主牧野忠成が
5万石で入封し、この地に長峰城を築城しました。
その2年後には、6万2千石で長岡城へ移封となり長峰城は廃城となりました。



駐車場

長峰池繁船広場の駐車場へ車を停めて、散策です。
右手の林が城址となっています。


案内看板

駐車場と隣接して、高い土塁と足元には空堀があります。
西土塁の高さは約14mもあり、群馬の大胡城を思い出させる造りになっています。


空堀

現在は浅いですが、かつてはもっと深かったであろう空堀です。
深い堀と高い土塁を組み合わせて圧倒させるような造りになっていたことが想像出来ます。



道路脇から堀と土塁をセットに見てみると、なるほど
やっぱり大胡城のメリハリの利いた造りに似ています。


土塁断面

ここに土塁の断面があります。
が、これはなぜ土塁が切られているのでしょう?と疑問に思う。




道路より外側にある堀跡。
そもそもこの道路が土塁より内側を貫いているので南側の遺構は破壊されています。


南側の堀跡

いくつかある土塁への登り口のひとつです。
東南にある入口から登ってみることにしました。


南東やぐら台

三つあるやぐら台のひとつで、かつてはもう少し広かったようです。
おそらく、周囲の樹木がなければ、高さを実感できるものと思われます。


北虎口

北側の裏口で、搦手門があった場所と推定されます。
小規模な桝形になっているらしいのですが、この写真ではちょっとわかりずらいと思います。



虎口は2~3ヶ所あると云われていますが、推定とされているので
はっきりここ!と言えないです(^^;


北西やぐら台

やぐら台だけに小高くなっていて、ここからは長峰池が望めます。
時期的に木や草で木々の間から覗かせるような感じではあるのですが
水が見えると、少し涼しげな感じを目で感じます。


長峰池

木と木の間から見える長峰池。
かつては堀の役割を担っていたという。


土塁

土塁の上は遊歩道になっています。
土塁の上をぐるりと歩くだけでも、この城の土塁と堀の大きさ、見事さを実感できます。



昭和44年頃に土地改良された部分で、何やら建物があります。
主郭部分に廃墟がこのままここにあるのは景観的にちょっと残念だなあと思います。



土塁上を歩て、巡って来ました。


長峰城略測図

私は、この案内看板がある入口に出て来たのですが、
この略測図を見てからここから登り、私が入ってきたところへ出るという
私とは逆回りで見学するのが一般的なルートのようです。
どうも私は無意識(何も考えてない⁉)に搦手から攻める確率が高い😅


物見櫓跡のぼり口

道路を渡って南側の土塁です。
南側の土塁はかなり削られしまっているのですが、物見櫓跡が残っているので
行って見たいと思います。



高台を登る階段があるのですが、ここも階段で登るのではなく
高い土塁が続いての物見台だったのでしょう。
ともあれ、登ってみよう!


南西やぐら台

長峰城にある三つの隅やぐらのひとつで、通称「火の見やぐら」と呼ばれ、
長峰城ではシンボル的な存在として親しまれている櫓台です。
青い看板は「物見櫓」記されていますが、時代で考えると築城当時の役割としては
火の見を含めた物見櫓であったと思われます。



土塁を見下ろすかたちになりますが、一直線に同じくらいの高さで土塁が続いていたんだろうなあ。


結局2年ほどで廃城となってしまったわりにはこれだけ土塁や堀がしっかり残っているというのは
地元の努力はもちろんのこと、これだけ高く造った土塁だからこそ自然の力にも負けず
今もこれだけ見応えがあるというもの。
大胡城の堀、土塁を思い出させる造りであることに納得させられました。


令和3年7月18日登城







群馬御城印サミット第二弾

2022年10月10日 | イベント・行事
群馬御城印サミット
10月8日(土)・9日(日)の2日間、
ホテル1-2-3前橋マーキュリーにおいて「群馬戦国御城印サミット第二弾」が開催されました。
私の地元群馬で攻城団ブース初出店ということで、団員として二日間お手伝いに行ってまいりました。


ホテル1-2-3前橋マーキュリー

地元圏内なので宿泊したことが無く初めて来ました。
と言っても、ホテルの周辺には多くの城址(大友城村山城蒼海城石倉城など)があるので
近くは城さんぽしています。



会場では甲冑着用体験やVR武将体験、武将隊演舞や太鼓、真剣を使ったパフォーマンス、
茶会など、賑やかに披露されました。



先着記念印の整理券配布は9:30ということで、入口では整理券をもらう行列が出来ていました。
行列を見ると、御城印ブームを実感しました。
私もそうなんですが、「限定」とか「特別」とかいう言葉に弱いですね(^^;
しかし、お昼にはすでに転売されているという早さにも驚きました。


攻城団ブース

さて、攻城団の物販ブースというのは今回が初めてとなります。
様子がわからないので、思いつく限りいろいろ準備して来てみたのですが
私が来た時にはすでにセッティングも終了していて特に何も心配することもなく、
むしろ緊張で自分が何か失敗をしでかさないかということの方が心配でした(^^;



YouTubeチャンネル登録済画面を見せると限定の攻城団バッチ(二種類のうちどちらかひとつ)が
もらえるということで、チャンネル登録がまだの人でもその場で登録すればバッチゲット!
多くの方に登録いただきました。
「攻城団テレビ」という番組を制作しているのでぜひご覧になってみてください。



2023年の卓上カレンダーは先行販売です。
近いうちに攻城団のサイト内にあるネットショップでも発売開始になることと思います。
こちらに来られなかった方、買いそびれてしまった方はネットの方でお買い求め下さい。
攻城団のカレンダーはプロのカメラマンが撮った写真ではなく、団員さんたちの投稿した写真から
毎年選ばれてカレンダーの写真になっているので力作を投稿するする楽しみがあります。
カレンダーの写真の下に団員名が入っているのでその方の他の投稿写真を見てみることも出来ます。
カレンダーの1月から12月まで「攻城団テレビ」で確認することが出来ます。


抽選会

抽選会では、攻城団からも飯盛城のワイド御城印帳の提供がありました。
当選した方は団長さんから直接手渡しされました。
攻城団の御城印帳はポケット式で少し大きめに作られているので少し大きめの御城印や
シール式の御城印もそのまま入れることが出来きます。
表紙のデザインや材質にも拘っているので注目してみてください。


トーク

攻城団河野団長と北群馬甲冑工房の軍曹さんのトークショーがありました。
こちらのトークショーは8日、9日ともYouTubeの「攻城団テレビ」で見ることが出来るので
来場できなかった方は、ぜひ御覧になってみてください。


武将隊演舞

上州真田武将隊 、沼田のご当地アイドル戦国茶屋娘、御城印、ゲームアプリなど
沼田市の観光事業の力の入方が半端ない!
どうか、私が生きているうちにぜひ天守再建して欲しいななんて思っています。


ステージではもっといろいろな催物がありましたが
お手伝いをするために来ていたので、あまり写真は撮っていませんでした。
二日目には戦国フードマルシェ(フードトラック)で昼食や休憩
の時間を頂き、ホッと一息。

8日には終了後に近くで団員さんたちと団長さんを囲んで食事をしながら交流を深めました。
夏の団員総会を急遽欠席してしまったのでとても悔やんでおりましたが
ここでプチ団員総会が出来たので救われた気分です。
久しぶりの人、はじめましての人、お会い出来て楽しい二日間でした。
またどこかのイベントでお会いしましょう!

令和4年10月8日-9日





國友城(滋賀県)

2022年10月06日 | 百名城以外の城
國友城くにともじょう
別名
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所滋賀県長浜市国友町 地図

國友城は、小谷城の最前線を守る地侍の居館跡でした。




国友鉄砲ミュージアムにやって来たのですが、近くに城址があることに気付き、
周囲を探し回ると住宅地の入り組んだ場所に城址碑がありました。


城址碑

資料も無く、縄張りもよくわからないのですが、城址碑があるこの場所が
どうやら城の中心部であろうと想像します。


国友鉄砲ミュージアム

館内での写真撮影は、撮影禁止のサインがあるもの以外は撮影可能です。
ということでしたが、SNSなど大歓迎ということなので、のちほど別枠で「国友鉄砲ミュージアム」を
紹介したいと思っています。


沢山の屋敷跡が紹介されているので、国友町を歩いて散策する方が面白いと思われます。
そんな中にある国友城は、手元に詳しい資料がないので今後国友城に関する資料があったら
ここに書き足して行こうと思っています。


令和4年10月2日登城





三田村城(滋賀県)

2022年10月04日 | 百名城以外の城
三田村城みたむらじょう
別名三田村氏館
構造平城
築城者三田村氏
築城年代不明
指定史跡国指定史跡
場所滋賀県長浜市三田町 地図

三田村城は、800年前から土豪の館があった場所で戦国期には
京極・浅井氏の家臣三田村氏の城館がありました。
姉川の合戦では、朝倉景健の本陣としても使用されています。
二期に分かれて増築された土塁は、今でもしっかりのこされており、
北近江城館群のひとつとして国指定史跡に指定されています。



案内看板

表の看板のある場所はかつて堀があった場所です。
土塁があるのは見てすぐにお分かりになると思いますが、
その土塁の外側に堀があったようです。


虎口

土塁か切られていて、伝正寺の入り口となる虎口。
そして、鐘楼のある場所にはかつて櫓がありました。


土塁

伝正寺の内側から見た土塁。


伝正寺

本堂には郵便受けと思いきや、パンフレットが入ったボックスが設置されています。
こちらで、姉川の合戦のパンフレットとチラシを入手出来ます。


パンフレット

この中にチラシとパンフレットが入っています。



西側は南西の角に土塁が残っていますが、
残念ながら近年になって北西の土塁は無くなっています。



本来、ここにも土塁があったと思われますがこのように平になり
車でも入れてしまうような平場になっています。


東側の土塁

北側の土塁も良好に残っています。


三田公会堂

車はこちらの駐車場を拝借して散策されると良いと思われます。
また、三田公会の東北側にも土塁が残っています。


案内看板

三田公会堂にも案内看板が設置されており、こちらに三田村城の縄張など記されているので
城の形がイメージしやすいと思います。


姉川古戦場(血原公園)

三田村城が廃城となった「姉川の戦い」の古戦場です。
三田村氏最後の戦いとなったこの戦時では、浅井長政の命により横山城の城主を任ぜられ、
三田村城には朝倉景健の本陣が置かれました。
9時間の戦闘により、姉川は血で真っ赤に染まったと云われています。

姉川の戦いで織田・徳川軍に敗北、三田村氏とその一族は羽柴秀吉を通じて降伏を申し出ましたが
聞き入れられずに三田村氏と一族は打ち首となりました。


10月になりましたが日中はまだ暑い🌞
行きたい山城いっぱいあるけど、残暑と運動不足に負けて平たいところを巡りました。
かれこれ10年以上前に小谷城へ向かった時に通りかかり、姉川付近の散策を見送っていたので
ずっと心残り(寄らなかったことをちょっと後悔)だったのでやっとリベンジ出来ました。


令和4年10月2日登城


今回の参考本