むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

妙顕寺城(京都府)

2018年02月28日 05時32分39秒 | 百名城以外の城
妙顕寺城みょうけんじじょう
別名二条第
構造平城
築城者羽柴秀吉
築城年代1583年(天正11年)
指定史跡
場所京都市中京区小川押小路 地図


妙顕寺城跡は西福寺の山門脇に標柱石碑と案内看板が立てられています。
日像が京都にはじめて建立した日蓮宗寺院であり、当初は別の場所にありました。
豊臣秀吉が本能寺の変から一年後の1583年(天正11年)に移転させ
「聚楽第」を造るまでの間、上洛の際の宿舎とし、京都の政庁としていました。


標柱と案内看板

小さい方の案内看板に記されているのは下記の通り。

この付近は、豊臣秀吉の妙顕寺城故地である。
妙顕寺とは、鎌倉後期、日像がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院であり、
たびたび場所は移ったが、戦国時代にはこの地にあった。
天正11年(1583)9月、豊臣秀吉は寺を小川寺ノ内に移転させてあとに二条新邸を構築し、
天正14年聚楽第を造るまで、京都の政庁とした。
建物の姿は詳しくはわからないが、周囲に堀をめぐらし、天主をあげていたという。
したがって屋敷というより城と呼ぶにふさわしいといえよう。
平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となった。
豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治的拠点であった。
現在城跡はしのぶべくもないが、古城町という地名となって、よすがを伝えている。  京都市


大きい方の案内看板は読みとることはできませんでした。


標柱


遺構などは残っておらず、二条城の周辺にはこのような跡地を示す標柱や案内看板が
いたるところに立てられています。
日が暮れてしまったこともあり、一番苦手な撮影時間帯だったのでピントが合っていない


平成30年2月18日登城


麺処「雁木 【場所】京都市上京区多門町  地図


日が暮れてお腹も空いてきたのでラーメン屋さんへ。
その名も、麺処「雁木」。
ここに決定!ということで京都の〆はこのラーメンを食べて帰路へ。


図説 日本建築の歴史 (ふくろうの本/日本の文化)
玉井 哲雄
河出書房新社
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二条城(京都府)

2018年02月26日 14時13分59秒 |  百名城
二条城 にじょうじょう
別名 二条御所・二条亭・一条新屋敷・二条御殿
構造 平城
築城者 徳川家康、徳川家光
築城年代 1603年(慶長8年)、1626年(寛永3年)
指定史跡 国宝 国指定史跡 国重要文化財
場所 京都市中京区二条城町541 地図
スタンプ設置場所 大休憩所
城郭検定出題あり


二条城は天皇が住む京都御所の守護と将軍の上洛の際の宿泊のために
初代江戸幕府将軍の徳川家康が築城しました。
その後、15代将軍徳川慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」を表明し、
やがて江戸城無血開城へと至りました。


東大手門

二条城の正門にあたる門で、築城当時と現在は櫓門ですが天皇を二階から見下さないようにと
一重の門に建て替えられてと言われています。



今回は「攻城団」の団員限定の二条城ガイドツアーに参加するために訪れました。
こうの団長によるガイドにて二条城をあらためて見直す良い勉強になりました。
初心者でもマニアでも楽しめるガイドで、今後も開催が予定されています。
お見逃しなきよう、攻城団のホームページをチェック!


街灯

東大手門の内側に取り付けられた街灯は明治時代の街灯。
これには前回訪れた時にも気が付きませんでした。
もし、気付いていてもここには似つかわしいものではないので現代に付けられた
のではないかと思いスルーしていたと思います。


番所

東大手門を入ってすぐ右側にある番所には、
江戸から「二城在番」と呼ばれる武士が派遣され、
毎年4月に交代して50人1組が2組で警備にあたっていました。


唐門

前回訪れた時は修復工事が行なわれていたため、見られなかった唐門ですが
今回はばっちり見ることができました。




そして、この唐門の装飾や色彩を見て思ったのですが、修復業者が東照宮などを手掛けている業者さんと
一緒なのではないだろうかと思いました。
というのも、群馬県富岡市にある一之宮貫前神社も数年前に修復工事をして、その時に宮司さんの娘さんから
東照宮を手掛けている業者さんが来て修復されと説明を聞いたからです。
豪華さや造りがとてもよく似ていて技術や技が伝統的であることからもそのようなことを勝手に思いました。
私の勝手な想像です。


土塀



二の丸御殿

車寄と遠侍の破風板に見える菊紋は、かつては三葉葵紋でした。


車寄

車寄の欄間には5羽の鸞鳥が彫り込まれています。
御殿や座敷と言えば欄間!御殿内にもとてもすばらしい欄間があるので楽しみなのですが
ここより先、本丸御殿は撮影禁止となっているので中の写真はありません。



欄間と襖絵、天井と、これでもかと豪華な造りの部屋が次から次へと並び
その部屋数は全部で33部屋とのことですが、数えきれませんでした。


二の丸御殿大広間障子開放

ラッキーなことに、期間限定で大広間の障子が開放されていました。
中からは大政奉還が発表された二の丸御殿大広間廊下からの二の丸庭園を観ることが出来ました。


二の丸庭園

小堀遠州指導のもと改修されたという「八陣の庭」とも呼ばれている特別名勝。



本丸櫓門

本来ここには二の丸と本丸を繋ぐ廊下多門、廊下橋がありました。
外を歩くことなく本丸御殿と二の丸御殿を行き来出来るようになっていたそうです。



本丸御殿

明治時代に京都御苑の旧桂宮邸の御殿を移築したもの。
仁考天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐ前の1年8ヶ月をここで過ごした建物で
孝明天皇の仮皇居としても使用されたといわれる建物でもあります。


本丸御殿と本丸庭園

天守台から見下した本丸御殿と本丸庭園。



車寄



本丸西虎口

ここは枡形の虎口になっており、雁木が残っています。
右に見える石垣の上にかつては多門櫓が築かれていました。


天守台石垣

西橋上から見た堀と天守台石垣。


旧二条城の石垣

現二条城内に移築復元された旧二条城の石垣。
烏丸通の下立売付近で発見された北面の石垣らしい。
旧二条城は織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭のために築城したとされ、
徳川家康築城の二条城と区別するために旧二条城と呼ばれています。


北中仕切門



土蔵(米蔵)

幕府直轄領からの年貢米を備蓄していた土蔵です。


清流園

この庭園の中にある和楽庵ではお抹茶がいただだけるようで、
庭園を眺めながらお抹茶をいただきたかった…横目で見ながら
後ろ髪を引かれる思いで通過しました。


北大手門

内側から見た北大手門です。
朝到着した時点では門は閉ざされていましたが、開門されています。



ちなみにこちらが朝訪れて閉門になってる北大手門を外から見ています。



南中仕切門



東南隅櫓

東大手門を守る二重櫓。
寛永期に建てられた現存隅櫓です。
かつては四隅に櫓がありましたが現在は東南隅櫓と西南隅櫓の二棟だけ残っています。


西南隅櫓

東南隅櫓より小規模な隅櫓です。
東南隅櫓は千鳥破風に対して西南隅櫓は唐破風なのが異なる点です。


平安京跡



西門

西側唯一の門で石垣を切った埋門です。
ここは本丸に最も近いため防備は厳重で木橋が架けられていました。


南門




内側から見た南門。
外堀を渡る橋は取り除かれている。


堀川の石垣

明治期にもここには石橋が架けられていました。
ここにもかつての石垣がそのまま残されています。



今回の二条城登城の目的は攻城団が主催する【団員限定】第2回二条城ガイドツアー参加のためでした。
攻城団合同会社がある京都での名城ツアーガイドということで第1回開催の際都合がつかず、
参加できず無念だったので今回こそはと他の用事を蹴っての参加をしました。
やはり良い時期に来れたなと感無量です。

6年前に訪れた時は修復工事中で二の丸御殿に入れず、唐門も見られなかったので感動が薄かったのですが
今回は、中学生時代に訪れた修学旅行を思い出しながらこうの団長のガイドに
耳をかたむけ、ポイントを押さえながら回ることが出来ました。
正直、学生の頃は鶯張りの廊下が楽しみだったのは覚えていますが、
歴史や史跡を見学というよりはテーマパークに遊びに来ている感覚だったので
具体的にどんなところなのかと深く考えていなかったです。

今になってこんなに学ぶことになろうとは…その頃には思ってもみなかった^^;
まだまだ、二条城を含め京都には沢山の史跡があるので観て廻るにはとても時間が足りないし、
もっともっといろいろな場所へ行ってみたかったです。



昭和58年4月10日登城
平成24年2月25日再登城
平成30年2月18日再登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス
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黒川城(群馬県)

2018年02月23日 06時48分27秒 | 百名城以外の城
黒川城くろかわじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市黒川351 地図


この地域周辺には多くの城と砦が集中して築かれています。
鎌倉時代の館城と伝わるものの、詳しい事は不明のままで
渋谷次郎高重の居城であったこと以外はよくわかっていません。


黒川ふれあい公園

不動尊麓のに停められると近いですが車体の底を擦りそうなので
近くの公園に置いて歩いて登城することにしました。



この上の不動尊にお参りに来る人、更に上には墓地があるので
墓地に来られる方が居ます。
車高の高い車であれば2~3台ほどの駐車スペースがあります。
※車高が低い車は車体を擦る可能性あり。


円空作十一面千手観音

円空は、廷宝8年(1680年)から約2年かけて北関東をめぐり、
貫前神社に滞在し経典の写経、転読、補修を行うと共に十一面千手観音立像を刻んだとされています。


不動堂

かつて堂内には運慶作の不動明王と円空作の十一面千手観音立像がありました。
しかし昭和40年頃不動明王は盗難に遭い、
現在は階段下の建物に十一面千手観音立像のみとなっています。


眺望

正面右側の小高い林には一之宮氏館城があります。


登城口

整備された登城道…とおもいきや、後ろから花束を持ったご夫婦が現れ、
不動堂へお参りかと思ったら登城道へ。???






私を追い越して登城して行ったご夫婦と距離を置いて
城跡目指して山道を登ります。



登城道をこんなに奇麗にしてくれているなんてありがたいことです。
とても歩きやすいです。



こんなマイナーな城址なのに整備が行き届いています。
しかも、わりと人が往来している気配のする山道です。



ここから郭内に入ります。
そして山道はさらに墓地へと続いていました。
そして、私を追い越して行ったご夫婦はその墓地にいらっしゃいました。
というわけで墓地の利用者によって道は整備されていたようです。
城跡のために山道整備されていたわけではありませんでした。^^;


案内看板

渋谷次郎高重の居城であったこと以外誰がいつ頃築城したのかは判っていません。


土塁

周囲の堀を掘った土で盛られた土塁の上には
碑や石仏、石祠が祀られています。
土塁を一周してみてもここへの登り口はみつからなかったので
無理矢理よじ登ってみました。


御岳社の碑

1184年(元暦元年)に渋谷次郎高重が源頼朝から
黒川郷を賜ったこを上野国奉行人安達盛長が伝達したとが記されています。
地盤がよろしくないので石碑も斜めになっていてちょっと危険な感じがします。
もう少し歳月が進むと崩れてしまうのではないかと心配です。



郭内は竹藪になっています。



郭を囲むように堀が巡っています。
堀底を歩いて一周しようと思ったら倒れた竹で行く手を阻まれてしまいました。


大手道

この道を下ると国道254号線からもみじ平総合公園への道に出ます。



大手道脇に社。


櫓台のような土塁の上の御岳社の碑は背後に倒れそうになりながら斜めに立っています。
石仏や祠といったものがあるのに登り口が付けられていないのが不思議です。
お参りすることが出来ない状況なので、元々あった登り口は崩れてしまったのでしょうか…。
崩れ落ちる前に整備または保護されることを願います。
遺構は確かにみられますが、詳しい使われ方はまだまだ謎のままです…。



平成30年2月10日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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五料茶屋本陣【お東】(群馬県)

2018年02月21日 06時20分38秒 | 陣屋・館
五料茶屋本陣お東ごりょうちゃやほんじん
寄贈者中島徳造
築陣年代不明
指定史跡県指定史跡
場所安中市松井田町五料564−1 地図


お西からの続きです。

花塚

もともとここは東と西の区切りになっていて山のようになっていて
往来出来る場所ではなかったそうです。
茶屋本陣の受付窓口をお西にしているため、ここを通ってお東へ向かう道を造ったそうです。


味噌蔵
表の門から入れないので屋敷と蔵の間を通って行きます。
ちなみにお西では紹介しませんでしたが、お西にも同じように蔵が建っています。


お東

「お東」の外観は土壁造りが特徴で、屋敷構えをしています。
こちらの二階には上ることはできないのですが二階が一階の壁よりも張り出している
のが見えます。


式台

上段の間の式台は大名や公家が使用する玄関です。
籠が付けやすい造りになっています。


縁側

お西には付いていた式台との間の境の壁がお東にはありません。


村玄関

お西には無い「村玄関」が付いています。
式台とちがって段数が少ないです。
村役場としての機能も果たしていたためこのような玄関が造られています。


馬屋

こちらもお西同様、入ってすぐの右側に馬屋があります。


風呂場

風呂場もお西同様、入ってすぐの左手にあります。


勝手

茶の間にかかる土間に囲炉裏があります。
これはお西とは違った造りのひとつです。


居間

中島家の家族の生活空間となっています。



第34回ひな人形展が催されています。
平成30年2月7日(水)~3月25日(日)までで、
この日は開催に向けての準備がされていました。


下の間



上段の間



長槍

万が一に備えられた長槍。
ここに掲げられている長槍は模造品ですが実物は「包定」と銘があります。


入側

鉤の手になった廊下は畳敷きになっています。


便所

上段の間の奥にある便所は大名や公家、天皇など位の高い人が
使用する便所です。
ちなみにお東はお西より便所が多く造られています。


奥の間

奥の間もひな人形展の準備中です。


「ひと昔」~いろり端~

茶の間に展示されている作品です。
武田入山作で、ひと昔前のくらしが描かれています。
扇形がとても目を惹きます。


土間

茶の間から見た土間です。
馬が入れるだけあって余裕のある空間で中山道六十九次の浮世絵が展示されています。


便所

お東には玄関を出ると、外にも便所がありました。(扉がない!!)
この便所は家族や村人が使用したもののと思われます。




お東の出入口になります。
お西の薬医門に対して、お東は冠木門です。
この門の違いを見ても1年交代で利用されていたとはいうものの、お西からみた
脇本陣的な位置付けだったことが窺えます。
実際、お西が先客でふさがっている際はお東へ案内したとも聞きました。


高札所跡

街道に面しているこの場所に高札所がありました。
立て札には「安中藩 板倉伊豫守領分 五料村 高札場跡」とあります。
お西の二階には当時、実際に立てられた高札が展示されています。


大名や公家の休憩所として使われた茶屋本陣は一般人が覗き見出来ないよう
街道から引っ込んだ場所に作られているので、国道から看板だけはよく目にするものの
今まで通りすがりに寄り込む機会がありませんでした。
本陣や脇本陣と違って、休憩や昼食、他の大通行が関所にかかっている間の
時間待ちに利用されていたということで滞在時間は短いこともあって部屋数は多くありません。
本陣に茶屋と付く意味はこんなところに現われています。
関所跡だけでは物足りないところでしたが、茶屋本陣もいっしょに訪れると
流れが見えて見応えもあって、とてもおもしろかったです。


平成30年2月3日訪問



宿場町旅情 写真紀行 (ノスタルジック・ジャパン)
清永 安雄
産業編集センター
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聚楽第(京都府)

2018年02月19日 08時14分46秒 | 百名城以外の城
聚楽第じゅらくてい
別名聚楽亭・聚楽城
構造平城
築城者豊臣秀吉
築城年代1582年(天正14年)
指定史跡
場所京都市上京区 地図
城郭検定出題あり


聚楽第は、安土桃山時代に関白となった豊臣秀吉が政庁兼邸宅として建てられた城郭で
竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い城郭です。
建物は黄金に包まれた巨大な城郭で、金の瓦などが出土されています。


聚楽第址碑

この碑がある場所は聚楽第の西壕にあたる場所です。



町の中に建つ石碑は、発掘調査や、絵図などをもとに参考にして推定地とされ
立てられています。


案内看板

聚楽第址碑の隣に手作りの看板があります。


聚楽第西壕跡

聚楽第東壕と西濠跡に碑があります。
この碑と碑の間に聚楽第があったようですが、わずか8年間で取り壊されてしまったために
多くのことがわかっていません。



訪れたこの日は「攻城団」主催の二条城ガイドツアーに参加するためにやって来ました。
京都は見所が沢山ありすぎて二条城以外にどこへ行こうかと迷ったのですが
とりあえず聚楽第跡には行ってみようと決めていたのでツアー後の本日の締めとして
夕方訪れました。
京都の中心地には沢山の屋敷跡など密集していた場所ですが、今は碑が残っているだけなので
点々とその碑を見て歩くだけになってしまいます。
碁盤の目の中を歩くと沢山の〇〇跡という碑に当たるので点と線で歴史を結ぶような楽しみ方が
出来ると思います。


平成30年2月18日登城



日本城郭検定公式問題集 日本100名城編
日本城郭協会
学研パブリッシング
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伏見桃山城キャッスルランド(京都府)

2018年02月18日 05時28分46秒 | 架空の城
伏見桃山城キャッスルランド
種目遊園地
造営株式会社桃山城(近鉄グループ)
造営年代1964年(昭和39年)
閉鎖年代2003年1月31日
入場料無料
営業時間閉鎖中
定休日
駐車場186台(24時間・有料)
場所京都市伏見区桃山町大蔵45 地図


伏見桃山城



駐車場




平成30年2月18日訪問



るるぶ京都’19 (るるぶ情報版(国内))
JTBパブリッシング
JTBパブリッシング
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五料茶屋本陣【お西】(群馬県)

2018年02月16日 07時41分29秒 | 陣屋・館
五料茶屋本陣お西ごりょうちゃやほんじん
寄贈者中島公男
築陣年代不明
指定史跡県指定史跡
場所安中市松井田町五料564−1 地図


中山道は江戸時代の五街道のひとつで、東海道と並ぶ街道として
江戸と京都を結ぶ幹線街道でした。
五料の茶屋本陣は参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休息したところです。
建物は「お西」・「お東」と2棟あり、復元・修復作業が施されています。
どちらの建物も先祖を同じくし名主を勤めた中島家の屋敷で、
1836年(天保7年))から明治にかけて1年交代で茶屋本陣を営んでいました。


案内看板

国道18号線沿いに大きな看板が出ているのでずっと気になっていたのですが
いつでも行けると思っていていつもスル―でした。
雪が降り、山城に行くには足元が悪すぎるのでこんな時こそ!と思い、ついにやって来ました。


お東踏切

踏切の名前はお東。
ちなみにこの日は蒸気機関車が午前と午後に1本ずつ通過するということで
横川付近の線路沿いには多くの鉄道ファンがカメラを構えている姿を見受けられました。
この道の入口には「高札場跡」があります。


お西入口

二件並ぶ茶屋本陣のうち、西方に位置するのが「お西」と呼ばれる建物です。


茶屋本陣の門

雪が積もったあとに、とても良い天気だったので屋根から溶けた雪が落ちて来て

中島家は両家とも同じ祖先で、諏訪但馬守が松井田西城に城を構えた時の家臣で
中島伊豆直賢と伝えられています。



「お西」の外観は、白壁造りの屋敷構えをしているのが特徴です。



馬屋

入ってすぐの右側の馬屋には多くの展示物があります。


風呂場

入ってすぐの左側にお風呂があります。
玄関先にお風呂とは…造りを見ても現代のお風呂とはちょっと違う使い方だったのでしょう。
土間にあるということは外に設置こそしてないが、家に上がる前に汚れを落としてねという意味でしょうか。


瓢箪池

土間を通り抜けて奥の庭に出てみると瓢箪池があります。





茶の間

普段は、中島家の家族の生活の間としてこの茶の間を中心として
勝手・中の間・納戸などが使われいました。


中の間

ここも普段の生活空間として中島家の人々が暮らした部屋です。


通りの間

ここを抜けて奥の空間が客間として使われていました。


下の間

建物は二階があるのですが、上座にあたる上部は壁で仕切られていて
天井には入れない様に造られています。
ちなみにこの部屋の隣接する廊下には天井に届くような長い槍が掛けられていました。
万が一に備えられていたのでしょう。


上段の間

明治天皇が北陸東海御巡幸の折「御小休所」として使われました。
この部分は明治11年に大改修された当時のままに保存されています。





階段



二階

二階に上がると資料の展示がされています。


高札

街道沿いの本陣入口の交差点に立てられた高札が残っています。


展示品

江戸時代のものだけでなく縄文時代の土器なども展示されています。
古銭の展示ややはりおもしろいのは街道の絵図や関所に関しての展示で、とても興味深いです。
佐渡の金を江戸に運ぶ街道としても使われていたそうで、その輸送中に宿泊した記録も残っているので
セキュリティの高さも評価されていた宿場であったと思われます。





お西 借景庭園

縁側から見た妙義山を借景とした庭園。
この日は日差しがぽかぽかとして縁側に座っているととても暖かく、
ひなたぼっこをしながらお茶をすすりたい気分になりました。


お東へ

そしてここからお東へ。
もともとお西からお東へ行くこの道は繋がっておらず、完全に区切られていました。
現代になって観覧するために隣り合っているこの場所を切り崩して道を作ったそうです。
参勤交代では姫様も宿泊したために世間の目に触れないよう周囲を囲ったり目隠ししたり
していたそうです。


万葉歌碑

城跡だけでなく、ここにももれなく?!万葉の歌碑がありました^^;


両家の建物は共に1803年(文化3年)の火災以降に再建されたものです。
昭和や平成になって保存修理工事が行なわれ復元されています。
中島家は両家とも同じ祖先で、諏訪但馬守が松井田西城に城を構えた時の家臣で
中島伊豆直賢と伝えられています。
そして中島家の人々は地元ではお西さん、お東さんと現在でも呼ばれているそうです。
受付にいらした方からお話しも聞かせていただけたのでなるほどでした。


お東へつづく…。


平成30年2月3日訪問




城下町・門前町・宿場町がわかる本
外川 淳
日本実業出版社
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碓氷関所跡(群馬県)

2018年02月14日 07時24分01秒 | 関所・宿場
碓氷関所うすいせきしょ
別名横川関所
設置1615年~1623年(元和年間)
廃関1869年(明治2年)
指定史跡県指定史跡
場所安中市松井田町横川573 地図


碓氷関所は1616年に、江戸幕府によって設置されました。
中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。
東西に門があり、西側を幕府が守り、東側を安中藩が守っていました。


東門の位置

前方は横川宿です。
中山道の街道上にある東側の門がここにありました。
中山道は江戸を起点とする五街道の一つで、東海道とともに江戸から京都を結ぶ重要な街道で
関東入国の関門として取り締まりが行なわれた場所です。


碓氷関所跡

現在は県道として車が行き交う道路になっているので番所跡に
移動して復元されています。


東門

安中藩が管理していた東門です。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものです。
屋根材6点と台石も当時のままのもので復元されています。


案内看板

醍醐天皇の899年(昌泰2年)に群盗を取り締まるために碓氷坂に関所が
設けられたのがはじまりのようです。
そしてこの地に関所が移ったのは徳川幕府が幕藩体制になってからのことです。


碓氷御関所絵図

この絵図を見ると、石垣もそのままで番所の建物があった一段下あたりに
現在の東門が復元されているのが確認できます。


門裏

関所の高麗門でこれほど大きい蕪懸魚が付いているのは関所の門としては珍しいのかなと。
よく見る関所の門はもっと装飾性の少ない梅鉢懸魚が使われていることが多いと思います。
但し、当時のものではなさそうなので関所でここまで装飾されていたのかどうかは疑問ですが…。
重要性を強調して表現してるのでしょう。(確かに目を惹かれます)


稲荷社



おじぎ石

通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けました。
おじぎ石の奥の石碑は「史跡碓氷関所之碑」です。


関所資料館

現在休館中で、どーしても観覧したい場合は「安中市教育委員会 学習の森 電話 027-382-7622」に
問い合わせて都合がつけば観覧可能とのこと。(安中市の公式サイト閲覧)


妙義山

間の前には雪で神秘的な妙義山が見え、雪と晴れのコントラストがとても素敵でした。


駐車場

関所跡の近くには見学者用の駐車場があります。
この日は前日に雪が降ったため雪で駐車がためらわれたのですが、この隣にも駐車場があるので
ゆっくり横川宿も含めて見学可能です。
近くには「碓氷峠鉄道文化むら」や峠の釜めしでおなじみの「おぎのやドライブイン横川本店」もあります。



この後、碓氷関所跡とともに五料の茶屋本陣も合わせて訪問しました。
茶屋本陣は大名や公家などが休息したところです。
関所で参勤交代の際、大名と大名のすれ違いで出会わない様に待機する場所でもあったということで
関所跡とセットで訪れるとおもしろい場所ですのでぜひ茶屋本陣にも立ち寄ってみて下さい


平成30年2月3日訪問



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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備中松山城雲海展望台(岡山県)

2018年02月12日 05時46分05秒 | よろず
備中松山城雲海展望台】びっちゅうまつやまじょううんかいてんぼうだい
時期】秋~春
条件】昼夜の寒暖差が大きい早朝・無風の早朝
場所】高梁市奥万田町 備中松山城展望台 地図


秋から春にかけて、気象状況の条件が揃った早朝に雲海を見ることが出来ます。
雲海の中に浮かぶ現存12天守のひとつである備中松山城はとても幻想的です。


案内板

国道484号線から案内看板に従って備中松山城展望台目指して進むとやがて
こちらに到着します。


入口

駐車場は道路沿いに4台ほど停められるスペースがあります。
それ以外は200m程先の道路の終点に広場があります。
そこでUターンをして道路片側一列に路駐となります。



林に向かって延びる道を進みます。


展望台

物見櫓のような展望台が見えて来ました。



条件とは外れた時間の訪問なので、もちろん雲海は見られません。
それでもこの眺めです。
高梁市が眼下を覆います。そして、備中松山城が良く見えます。


ズーム

先程までここに居たのですね。
樹木が無かったらまる見えです。
これは物見を置くには調度良い場所ではなかろうかと思っていたら…
やはり近くにありました「高陣」が。


せっかくなので、早速「高陣」へ行ってみましょう。


高陣

ここは、備中松山城の鬼門にあたる場所で、
「備中兵乱」で毛利軍が攻め込んで来た時に三村軍が陣を構えたという場所だそうです。


ズーム

ここからも備中松山城が良く見えます。
戦国期には木も切り倒されていたでしょうから睨み合いの場だったことでしょう。



陣を置いただけでなく、狼煙場もあったようです。



雲海が見られるタイミングでの訪問ではないので雲海を見ることは叶いませんでしたが
そもそも眺めの良い場所なので高梁市内を一望するのに良い場所です。
訪れたこの日は展望台からドローンを飛ばしている地元の方が居たので
しばらくその様子を見ていました。


平成30年1月4日訪問



雲海ドライブ&スポット (Gakken Mook)
ル・ボラン編集部
学研プラス
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松山城(群馬県)

2018年02月09日 07時07分50秒 | 百名城以外の城
松山城まつやまじょう
別名
構造山城
築城者上田信善
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市下室田町 地図


松山城跡は金毘羅神社がある部分がかつての本郭で、主郭とその東側にある二の郭が城の主要部となり、
その周囲に階段状に郭が形成されています。
神流川の合戦に敗れ伊勢へ退去した滝川一益に替わり、後北条氏が西上州へ進出しました。
この時吾妻方面にある大戸城、岩櫃城攻略の拠点として上田朝直の子信善により松山城が築かれました。
城の名は、上田氏が武蔵国松山城主であったことにちなむと言われています。



ここから下の街道までの間に城之内と呼ばれる平地に居館がありました。
その居館跡から続く大手道を真直ぐ進んで来ると山城への登城口にやって来ます。


標柱

登城口には標柱と案内看板が設置されています。
この階段状の大手道を境に、右側の南斜面は現在墓地として利用されています。


案内看板

上田氏が武蔵国松山城主であったことから松山城と名付けられたようです。


腰郭

南面の腰郭。
かつては段々に数段あったものと思われます。


四の郭

四の郭の東側です。
四の郭は大きな腰郭って感じな形で東と西に横に細長く広がっています。
東の先に堀切があります。


堀切

四の郭の東端は堀で切られていて、現在は下の畑や集落への通路として
使われているようです。


腰郭

東側の斜面にも数段の郭が階段状にありますが、畑になっていました。


堀切のつづき

更に堀切は東から南にの下方に向けて切り込まれています。


四の郭

四の郭西側です。
何でしょう?あの祠のような穴は。



気になる穴が開いているので見に来てしまいました^^;
覗き込んでみたのですが…何もありません。
石仏でもいらっしゃるのかなあと思ったんですけどお留守です。


石段

階段の区切りには小規模の郭とは言い難い規模の段が入っています。


二の郭

階段を登ると正面に石碑が見えて来ます。
石碑前から東側に展開される二の郭の方向を見ています。
二の郭の入口は枡形虎口が築かれています。



石碑の裏は堀切があり土塁も盛られています。
一区切り置いて更に上へ登ると主郭に到着します。


主郭虎口

主郭に到着しました。


金毘羅神社

神社はあれど…そう言えば鳥居を見ていない気がします。
手水舎も無ければ賽銭箱も無いのですが…とにもかくにも合掌しておけば間違い無し!
本日も無事登城致しました。


カウンター

これはお百度参りのカウンターかな。
百回も昇り降りかあ…ムリ!



ちなみに私は神社仏閣、詳しくないので違いもそれほど理解していません。
かといって城のうんちくも他人に語れるほどの研究者でも学者でもないので
多くのことは語れませんのであしからず。


眺望

下室田の町並みが眼下に見えますが木々があるので
スカッとする眺めでは無いのですが街道を見張るうえでも物見としての
役割として古くからここに砦を築いていたと想像出来ます。


北側の郭

北側にも段状に小郭があることが見てとれます。



四の郭の西端の道をどんどん突き進むと軽自動車一台分の幅の道があります。



ナビはこちらの道を案内して来るので軽自動車であれば四の郭の入口付近に駐車することも
可能かとも思われますが、私はこの道の先のすれ違いスペースに駐車して歩いて来ました。


神社があって桜の名所ともこんぴら市が開かれるとも言われるわりには
駐車場が見あらない。
幸い自分の車は小さいのですれ違いスペース程度の場所さえ見つかれば車を置くことは
出来るのですが、他から来る人のことを考えると普通車の駐車出来る場所を
リサーチしておくことが今後の課題です。
次にこの付近を訪れる際は誰もが訪問できるよう、また地元の方々に迷惑ならないような
場所を見つけて案内出来たらと思います。



平成30年1月21日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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鷹留城(群馬県)

2018年02月07日 07時22分23秒 | 百名城以外の城
鷹留城たかとめじょう
別名
構造山城
築城者長野業尚
築城年代1492年~1501年(明応年間)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市下室田町 地図


長野氏の築いた箕輪城前身の城。
鷹留城跡は明応年間に長野業尚によって下室田町字城山の地に築城され、
1566年(永禄9年)に武田信玄との戦いで落城するまでの間、
長野氏四代の居城として構えられました。



広域農道に入口があります。
しかし今回私はこの場所からの入城ではなく、ここより手前を左手に入った
搦め手虎口がある方から登城しました。
もちろん、ここからも登城出来ます。位置は四の郭の下からの登城になります。


搦め手側入口

搦め手側の入口に来ました。


搦め手道

舗装されていない右側の道の先が搦め手入口に続く道です。
舗装されていない道は草を掻き分け、ガードレールを横目に突き進みます。


土橋

かつてここに搦手門があったとされています。この先は城域になります。
土橋を渡り、ここから時計回りに一周してみたいと思います。
それでは正面左側の道へ進んでみましょう。


帯郭

帯郭には万葉の歌碑が並んでいます。
根小屋城の遊歩道みたい…。



階段を登ると稲荷社のある四の郭です。


稲荷社

稲荷社には縄が張られていて立ち入れないように見えるので
縄より内側に入らない様にしてご挨拶。


堀切と五の郭

四の郭から見た堀切と、五の郭です。
五の郭は狭い造りになっていますが搦め手口の守りを固める重要な場所で
眼下の三ヶ所の道の交差地点へ横矢を掛けられる構造になっています。


八の郭

低い位置に少し拓けた郭があります。
主郭の真下に位置する八の郭は居住のために使われたと思われる郭です。


石段

八の郭側に付けられた石段を登ると主郭です。
しかしこの主郭への入口の階段は後世に造られた入口で、
本来の虎口は別の位置に二ヶ所あったようです。


主郭

主郭には鷹留城死歿者霊碑と鷹留城長野霊神の石碑が建ち並んでいます。
その脇には標柱と案内看板も設置されています。


標柱と案内看板

長野氏四代70年余りの居城であったが、武田信玄によって落城したことが記されています。






全体を見渡すとかなり広いことがわかります。


堀切

主郭と二の郭との間の堀切です。
どの場所の堀切を見てもはっきりくっきり見事に彫り込んであり
とても見応えのある堀切が沢山存在します。


石段

二の郭への石段です。


二の郭

二の郭には何故かお墓があります。
「故清水一郎之墓」とあります。
調べによると鷹留城跡を買い、保存に努めた地主さんのお墓だそうです。
我々見学者にとって、とてもありがたい方みたいなので
とりあえず感謝の意を込めて合掌して来ました。



二の郭の先端です。
帯郭のように細長く狭い郭で大手入口付近と三の郭を見下せる構造になっています。


三の郭

まずはここで大手口の守りを固める役割をしていたのでしょう。
大手道の他に根小屋方面からの道も入って来る場所でもあるので
周囲が見渡せるように円形の郭になっています。
そして堀切で囲い完全に独立した造りになっています。


大手道

この先に大手道が続いています。
虎口に木戸が設けられていたと考えられています。


七の郭

七の郭は八の郭ほど広くないのですが、八の郭と同様に居住するための郭として
使われたのではないかと考えられています。



広域農道側の外周を通って搦め手の虎口まで戻ることにしました。
城跡内には沢山の歌碑があります。
これは高崎市の山城を散策するとよく見られる特徴で、めっちゃ期待させられて
城跡のことはまったく記されていないというものです^^;


全体的な雰囲気が箕輪城に似ている印象でやはり長野氏の城の特徴がよく出ている城跡でした。
堀と郭のメリハリが良い感じですよね。
堀切の数と郭の数が多くてあっちも!こっちも!ときょろきょろしながら
落ち着きのない足取りで、独りで乗り込んだ割には孤独の恐怖感はどこかに
行ってしまいました^^;
これはぜひ多くの人に見て欲しい城跡です


追記
このブログを読んでくれた知人から「自分の会社の社長が持っているよ」との連絡がありました。
お墓の主(清水一郎氏)は現在の社長の曽祖父の方で、毎年4月に社員の皆様で掃除に
訪れているそうです。
意外に世間は狭かった^^;


平成30年1月21日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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人見城(群馬県)

2018年02月05日 07時31分56秒 | 百名城以外の城
人見城ひとみじょう
別名堀込屋敷
構造崖端城
築城者人見四郎恩和
築城年代南北朝期
指定史跡
場所安中市松井田町人見1691−1 地図


人見城は南北朝期に足利氏に属した人見四郎恩和の館として築城されました。
大宮神社から昌見寺までが城域で昌見寺が人見氏の菩提寺と考えられています。
戦国期には大改修があったものとみられますが、その詳細は解っていません。


大宮神社

大宮神社を目指して来ると到着します。
神社の前には案内看板があるので発見しやすいです。


案内看板

大宮神社の前に立てられた案内看板。


案内看板

この案内板に縄張図があるので位置を確認していざ登城です!


登城口

地元の人により整備されている人見城は人見氏の末裔と伝わる堀込氏の土地で私有地となっている場所ですが
御好意により見学による立ち入りを許可されています。



登城路は見事な堀切に向って下って行きます。


石碑

なぜか堀に万葉歌碑があります。


水の手(うぐいすの井戸)

ここから水が湧き出ています。
この下の段には「ほたる池」があります。


帯郭

帯郭を抜けて六の郭へと進みます。


六の郭

正面の高台が二の郭で、案内看板によると物見櫓もあったようです。
またここで水の手の保護井と城内への侵入を守る役割をしていたと思われます。



馬出しを土塁の外側から見ています。
馬出しとされる土塁と看板が見えます。


馬出

馬出しの内側です。
ここは馬溜りだったのか周囲を囲むようにコの字に土塁が築かれています。
この形から見ると本当にここが馬出しだったのかどうかはちょっと疑問ですが
位置的には六の郭で構えていたのであれば想像することもありかなとも思います。



以前は竹林になっていたのですが、現在は郭の様子がとても良くわかるように
伐採整備されていて土塁や堀がとても見やすくなっています。
ちなみに正面が馬出しとされている場所です。



二の郭と六の郭の間の堀切を抜けて上の段へ出てみます。


二の郭

ここから見える竹林の部分は横堀になっています。
この部分の竹林は伐採されておらず進入するのは困難と諦めました。



二の郭のわずかに残る土塁が確認できます。


竪堀

かつては竪堀だったようですが、現在は宅地へ向う道路と化しています。
それでも看板が示されているのでありがたいものです。
そして奥に見える住宅あたりが主郭になります。
更に奥には櫓台跡に稲荷社があるらしいのですが、
主郭は宅地になるので私はここまでで引き返すことにしました。


三の郭

この空き地の奥が三の郭になります。



道になっているのかよくわからいですが、踏み入ると鳥居や詩の碑などあり
駐車場へのショートカットになるので通過させていただきました。
※通り道でなかったらごめんなさい。


大宮神社の駐車場

大宮神社下に大き目な駐車場が完備されています。



広いこの駐車場を拝借して人見城跡を散策させていただきました。
大きな蛙は「ぶじかえる」でしょうか。


笹鳴橋

笹を通り越して竹鳴橋でもいいのではないかと…。
でも、そのくらい竹や笹が生い茂る場所として想像させる橋の名前です。


ほたる池

湧き水で出来た池にはほたるが住む池とされているのでしょう。



すごい竹藪を想像して訪れたのですが、奇麗に伐採され
見事な堀や土塁を浮き彫りにしてくれてありました。
(まだ途中かなあ?)
この機会に以前訪れた人も、もう一度見に来られると良いかと思います。
城跡のセミヌード?が見られますよ^^;


平成30年1月20日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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地域交流センター (茨城県)

2018年02月02日 07時48分32秒 | 架空の城
地域交流センター(豊田城)
種目地域交流施設
造営者旧石下町(現常総市)
造営年代1992年(平成4年)
閉鎖年代
入場料大人400円・子供200円
営業時間9:00~16:30
定休日月 祝日の場合は翌日
駐車場
場所常総市新石下2010 地図










平成29年8月12日訪問



るるぶ茨城 大洗 水戸 笠間’18 (るるぶ情報版(国内))
JTBパブリッシング
JTBパブリッシング
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馬山西城(群馬県)

2018年02月02日 07時08分24秒 | 百名城以外の城
馬山西城まやまにしじょう
別名
構造山城
築城者小幡孫七郎憲重
築城年代不明
指定史跡
場所下仁田町馬山2892 地図


馬山東城と連帯して要害の詰城として築かれた城です。
狼煙台の繋ぎを任務した砦で、館は米山寺にある馬山東城に置き、
武田氏の甲州からの連絡路として重要な砦とされていました。
また、武田氏、上杉氏を始め、高田氏、市川氏、長野氏と
各勢力の境目の地でもあり、馬山城は街道の押さえとして重要な拠点でした。




正面の山が馬山西城の郭になります。
国道254号線下仁田側から富岡方面へ向いながら馬山西城を見上げています。
余談ですが、この道のカーブの先の民家に七日市陣屋の払い下げになった移築門があります。


米山寺裏

国道254号線からコメリ横の道を米山寺目指して進むと米山寺裏に出ます。
この道で馬山城の東と西に分かれています。



畑の脇を進みます。この先は登城道が藪になっています。
まずはガードレールに沿って進みます。



このように道は草木に覆われてなくなっています。
米山寺住職奥さんの話によると、ここにお嫁に来た当時は整備がされていて
子供を連れてよく本丸まで遊びに行っていたが、今は藪で行くのは困難と
おっしゃっていました。



冬でもこの状態ということはあまり登城する人がいないということか…。
それでもなんとなく道の名残のような場所をみつけました。
進んでみましょう。



これは夏場に登城は厳しいなあ。



藪を抜けるとその先は郭になります。
しかし本丸への道らしき道はみつからない(崩れた?)ので主郭の方向へ
よじ登ってみました。
ちなみに道はドラム缶の方向に延びていますが、おそらくドラム缶を捨てるための道なので
そちらの方向に行っても主郭には行けません。
ここからとにかく上を目指します。


二の郭

4,3,2の郭が段々になっているのは確認できるのですが地質は崩れやすく
勾配がきついので道もろとも崩れつつあるのかなという感じがします。


主郭

勾配がきつい!
つかまる木や枝が少ないが、這うようになんとかよじ登ると…そこは主郭。
虎口には人工的に加工された石が出迎えます。


城祉碑

ありました、城跡碑と石祠。
道が整備されてないところを探りながら登って来たのでうれしいですね。



主郭はほぼ円形で木々が無ければ神成城方面を見渡すことが出ます。
眼下には馬山東城(米山寺)も見えます。



主郭の先は物見の岩頭まで尾根伝いに細長く郭が連なっています。


堀切

物見までにはいくつかの堀切があります。
足元はサラサラの土と落ち葉で滑りやすくなっています。
注意していたつもりでも滑って転んでしまいました
恐るべし堀切!ちゃんと仕事してます^^;



細い道が続きます。
それでも道が付いていると迷いが無く先に進めます。


六の郭

少し広くなっています。
細長く楕円のような郭で、数人溜ることが可能な場所です。


七の郭

ここは少し広くなって出っ張っていますが先端は行き止まりになっています。
東側の物見はここで、見張りを置いていたのでしょう。



七の郭出入口付近にも人工的な石があります。
この辺りは岩場になっています。
これらの石は祠に関係したものでしょうか



物見に延びる細くて目が回るような崖っぷちの尾根上を進みます。
よろけない様に慎重に歩きます。


物見

先端に到着です。
石祠が見えて来ました。


石祠

ここで無事をお祈りして周囲を見渡します。
高い!そして下は崖!
高所が苦手な方にはとても危険な場所です


眺望

西からの街道の様子が見渡せる場所であり、狼煙の確認もここから見ていたことが
想像できます。
馬山西城城域はここまでです。では帰路へ。



米山寺裏(馬山東城)まで戻って来ました。


足元は非常に悪いコンディションです。
乾いている状況ですが砂と落ち葉がとにかく滑るので下りはとにかく危険です。
不覚にも転んだ時にカメラをかばったので肘打ちしてとても痛かったです
大手筋がわかりずいのでとにかく尾根を歩くこと、尾根を目指すように歩くと
辿りつけます。
達成感があり、大変満足出来たので私みたいに転ばない様に注意しながら登城してみて下さい。
小幡氏の城ながら武田の匂いがプンプンする城跡です!


平成30年1月14日登城



参考資料
信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版
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丹波亀山城(京都府)

2018年02月01日 14時40分50秒 | 百名城以外の城
丹波亀山城たんばかめやまじょう
別名亀岡城・亀宝城・荒塚城・霞城
構造平山城
築城者明智光秀
築城年代1577年(天正5年)
指定史跡
場所亀岡市荒塚町内丸1 地図
城郭検定出題あり



未登城の城







よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス
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