むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

千葉城(千葉県)

2023年08月28日 | 百名城以外の城
千葉城ちばじょう
別名猪鼻城・亥鼻城
構造平山城
築城者千葉常重
築城年代1126年(大治元年)
指定史跡
場所千葉市中央区亥鼻1-6-1 地図

千葉城は、別名亥鼻城とも呼ばれ、千葉一族の本城があった本拠地です。
昭和42年に造られた鉄筋コンクリート製の天守を模した郷土博物館が建設されており、
千葉氏をはじめとする郷土の歴史に関する資料など千葉氏にまつわるものが展示されています。



駐車場

博物館の真下にある駐車場。


郷土資料館

天守を模した資料館にも立ち寄りました。





眺望









土塁




土塁の上を歩くことが出来ます。











平成29年4月29日登城
令和5年6月25日再登城



尼崎城(兵庫県)

2023年08月28日 | 百名城以外の城
尼崎城あまがさきじょう
別名琴浦城・尼丘城
構造平城
築城者戸田氏鉄
築城年代1617年(元和3年)
廃城年代1873年(明治6年)
指定史跡
場所兵庫県尼崎市北城内27番地 地図

尼崎城は、戸田氏鉄が滋賀県の膳所城から尼崎へと転封となり
1617年(元和3年)幕府の命により尼崎城が築かれました。
その後、戸田氏は10万石で美濃大垣城へ移封となり、
青山幸成が掛川から尼崎へ5万石の大名として入城しました。
以後明治時代まで青山氏4代、桜井松平氏7代と続きました。
現在ある天守は140年ぶりの再建だそうですが、当時の位置とは北西約300m離れた公園にあります。



駐車場

模擬天守に一番近い場所にあるコインパーキング。
20台駐車出来ます。
この日も暑くて歩く気力がなかったので一番近いこちらの駐車場を利用しました。


まちあるきゾーン(1階)

1階は尼崎のまちあるきをテーマにしています。
江戸時代に大覚寺の住職がお城へ登る際に使用していたという「駕籠」を修復して展示しています。


尼崎ゾーン(2階)

現代の尼崎城の屋根に載っている鯱の原寸大の鯱が展示してあります。



尼崎の城下町は尼崎城築城とともに幕府からの命で整備されています。
それだけに地元の特産物をはじめ、酒造りにも力を注いでいました。
当時は、徳川幕府によって裕福な町造りがされていたようです。


なりきり体験ゾーン(3階)

忍者や武者、御姫様と衣装が揃っているので、なりきり撮影をしてみませんか。
当時の尼崎城の「金の間」をイメージした大広間で記念撮影が出来ます。
本来はどんな部屋なのか紹介したいところですが、
この日は家族連れの方が撮影されていたので大広間の撮影は遠慮しました。


ギャラリーゾーン(4階)

尼崎が生んだ城郭画家の萩原一清氏の作品が展示されています。
ひとつひとつ拝見すると面白いので、ついつい見入ってしまいます。


展望ゾーン(5階)

最上階にある展望ゾーンです。
VRを使った昔と今の街並みの比較が楽しめます。



ここではお見せ出来ないのが残念ですが面白い写真を撮りました!
立ち位置に合わせて写真を撮ると面白いので、お子様連れはぜひここで写真を撮ってみて下さい。


眺望

かつては水に浮かんだような美しい城であり琴浦城という別称もあります。
ここからの景色は、元々天守の建てられた位置とは違っているので
当時を偲ぶのことは叶わないのですが、天然の堀を見下ろしながら
当時の縄張を上からの景色で想像してみるのも良いのではないでしょうか。


エレベーター

エレベーターの扉のデザインが意気ですね。



戸田氏の大垣への所替えに伴い、寺町の全昌寺・常楽寺・円通寺・常隆寺・南光院・般若院が
大垣へ移転しています。
昔は町ごと移転するなんてことも多く見られたので各地の地名を探ってみると
当時の城主の偉大さ、民からいかに愛されていたかが計れて面白いです。




塀や庭でを配置し、城の雰囲気と公園の要素と上手く組み合わせて
憩いの場を作り上げています。



家電量販店エディオンの創業者の安保詮さんが創業の地への恩返しとして、
私財10億円以上を投じて城を再建し、市に寄贈しました。

やはり天守があると華やかなものです。
地元愛が感じさせられる街のシンボルですね。


令和5年7月15日登城

今回の参考本




むぎとうしの歴史さんぽ

2023年08月25日 | むぎとうしの歴史さんぽ


日本の城郭の面白いところと残念なところにスポットを当ててお城の紹介をしていきたいと思います。
手始めに今回は徳島城にスポットを当ててみました。
何分不慣れなのでショートにまとめていますが、今後
ドローンによる空撮と交互に公開する予定です。

皆さんからのご意見ご要望、ありましたらコメント欄に入れてもらえると助かります。

次も見てみたいぞ!と思われた方は、ぜひぜひ、チャンネル登録宜しくお願い致しますm(__)m


令和5年8月25日



太田城(大阪府)

2023年08月23日 | 百名城以外の城
太田城おおたじょう
別名摂津太田城・平城・館城
構造平城
築城者太田頼基
築城年代平安時代末期
廃城年代1528年(大永7年)
指定史跡
場所〒567-0018 大阪府茨木市太田1丁目4−12 地図

太田城は、1527年の細川高国と晴元との間で勃発した合戦で
晴元側の柳本弾正によって開城したと伝わります。
築城主の太田頼基は、多田源氏の一族で摂津国でも優秀な武士として名を連ねています。
「平家物語」では源義経の勢が西国街道を中国地方へ落ち延びて行く様子に
太田頼基が「我が門の前を通しながら矢一つ射かけであるべきか」と残しています。
城址は現在住宅地と化し、城下町であったことを思わす地名が残るだけとなっています。



案内看案板

ショッピングモールイオンタウン茨木太田の北側に、案内看板と石柱があります。
かつては舌状台地の突端に築かれたとされ、物見櫓も築かれいたと考えられていますが、
周りを見渡してもそのような高まりは見られません。


城址碑

この日は、こちらをお掃除されている方がいたので、カメラを向けるのも失礼なので
そっと看板と石柱を撮影して退散することにしました。
しかし、柵の中に入ることも出来るようで、中には太田城址の石板があったようです。



案内看板のある小道を更に北へと向かいます。



本丸付近にやって来ました。
現在水田になっているようですが、現在も宅地化が進んでいるようです。
撮影が叶うのもこれが限界でしょうか。


やがて本丸の水田も宅地になりそうな…。
太田城の正確な位置や伝承を裏付けるようなものがみつかっていないので
あくまでも推測地になるのですが、西国街道に接して
城館が築かれていたのではないかということが想像出来ます。


令和5年7月16日登城


今回の参考本



郡山城(大阪府)

2023年08月21日 | 百名城以外の城
郡山城こおりやまじょう
別名郡山砦・摂津郡山城
構造平山城
築城者羽柴秀吉
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市郡山1丁目9−1 地図

郡山城は、織田信長の荒木村重らを攻めるために造られた陣城です。
郡山城を納めていた高利平太夫は高槻城の和田氏に仕えていましたが、
1571年(元亀2年)荒木村重、中川清秀ら池田勢と白井河原で戦います。
しかし、池田軍2500に対して和田軍500でその差は歴然。
高利平太夫は、時間稼ぎのため一人で池田軍の陣に行きましたが計略が見破られ戦闘開始。
帰陣し、退却を申し入れるも聞き入れられず奮闘虚しく討死しました。



浪速少年院

浪速少年院の前に城址碑と案内板が設置されています。
吹田山田城には13の支城があったとされ、郡山城はそのうちのひとつに数えられています。


城址碑(標柱)・案内看板

浪速少年院の建設の際に出土した郡山城の石垣の石が置いてあります。
この石の大きさを見ると、立派な石垣が想像出来るのですが実際はどうだったのでしょうか…。
中に郡家の家紋と推定されている、三ツ鱗や三ツ星の刻印された石も出土しているようで
興味を掻き立てる材料の出土に、その先の研究を期待したいのですが
残念ながら今のところ進展を期待することは出来ない状況です。



浪速少年院の敷地を中心に、郡山一帯が城域であったと思われますが
縄張図等も無いため想像に過ぎないのですが、小高い丘になっているこの地に
城を築くというのは条件を十分満たしていたものと思われます。


摂津には、城郭大系にも載らない城(支城)が多く、資料がなかなか集められず、
今回は「戦国大名池田勝正研究所」という池田筑後守勝正を紹介するブログを参考にさせていただきました。


令和5年7月16日登城







仁井屋城(群馬県)

2023年08月18日 | 百名城以外の城
仁井屋城にいやじょう
別名白倉城・白蔵城
構造丘城
築城者白倉氏
築城年代不明
指定史跡
場所甘楽郡甘楽町白倉 地図
空撮 USHISUN Aerichan  提供 ushisun

仁井屋城と麻場城の二城から成る一郭で二城一郭ともいう双子城であり、
同じ段丘の分岐した蛇の頭に似ている地形が特徴です。
そして、この二城がセットで白倉城とも呼ばれています。



三叉路

城域の境目を示すとみられる石塔があります。
実際は何の石塔かは不明です。


東側

東側へ道が延びています。
この道は畑へのアクセスとして使用されていますが、かつてこちら側に
登城道が延びていたようです。


南郭

南郭側から主郭の方角を見ています。


東南側

東側は現代の間知ブロックで整備されていますが、崖状になっています。
間知ブロックの上から崖下を覗き込むと、腰郭状になってるのかな?と
遺構であると思いたいような形状も見られます。(たぶん違うでしょう)


石塔

東南の端の方で石塔を見つけました。
こちらも何の石塔かは不明です。



昌岳妙榮という文字は読みとれます。



安政5年に立てられたものでしょうか。
ということは江戸時代なので戦国時代のものではなさそうですね。



この先が郭のある城域になります。
以前訪れた時は少し奥の方まで歩いて行ってみたのですが、
畑から先の道は細くなり、以前は藪になってしまいしたが、
現在は整備されている最中とのことで、かなり藪が無くなっています。


南郭



堀跡

左が南郭、右が主郭となり、現在道になっているこの場所は
かつて堀になっていた場所です。
御覧の通り現在堀は埋め立てられて周囲と同じ高さで道となっています。


堀跡

私が今まで踏み入れたことのなった場所で、こんなに遺構がしっかり残っていたとは!!
堀の外側の土塁もしっかりの残ってます。



以前はここも藪になっていましたが、地権者さまが遺構が見えるように
きれいにして下さいました。


主郭

主郭はまだ手付かずの藪になっています。
北側の東西隅に櫓跡と見られる場所があるようですが今のところ藪で確認することは出来ません。
とても中の様子が気になるのですが…入って行けそうにないので今回は断念。


北郭

最北端となる北郭は畑になっています。


虎口

北郭の西隅にある虎口です。
ここから下へと続く道があります。


堀切

堀底から南側を見ています。



堀底から西側を見ています。
この上も城域になっているのですが藪に阻まれ進めません。



北側は堀底に沿って道になっていますが、ここを進むと民家の庭先に出てしまうので
民家の庭の手前で引き返して来ました。
おそらく、畑への道として使用されていたのでしょう。



この堀底は少しジメっとしています。
以前城域に井戸があったと聞いたことがあるのですが今回井戸をみつけることが出来ませんでした。
山崎氏の縄張図にも記載されていないので、みつけられたらすごいぞと思ってるのですが…。
この水の匂いがするこの谷間がとても怪しいです。
藪の中から出てこないかなあ。
しかし水の手と言えば、東側に「三途の川」があるので水にはあまり困らない場所でもあります。



主郭北側の堀跡です。
北郭との間にも堀があったのですが、南側同様に堀は埋め立てられて道になっています。


大手虎口

麻場城の大手は南側にあるので、同じように南側にあると思っていたのですが
北郭の東側に急な登り口がありました。



こちらも地権者さまが木を伐採してきれいにしてくれました。
かなりの急勾配です。


大手口

道路からもはっきりと入口がわかるようになりました。
遺構を見るにはここからの方が近いです。



斜面はきついが、ここを登ってまた城内へ。



今度は主郭の東側へ廻り込んでみたいと思います。


北東隅の郭

車を南郭に置いていたので、雁木坂(大手道)を引き返して主郭東側へ。
主郭東側にもわりと大きめの郭があります。



東面はとにかく落ちたくないような崖地です。
こちら側から登るのはかなり難儀します。
三途の川があるくらいなので東の護りは堅固だったことでしょう。



さて、南郭へ。


こちらの地権者さまが娘の恩師だったことがわかり、随分と遺構が見られるようにして頂きました。
皆さん看板のところで引き返してしまうのですが、城跡はもっと奥の畑なのです。
私も、他人の畑を無断でずかずか入って行くのは気が引けるので遠慮していたのですが
地権者さまから車でもっと奥まで入って良いと言っていただけたので
遠慮なく今回は車で南郭まで進んでみました。
見やすくして頂けて感謝です。


平成29年3月11日登城
平成30年5月27日再登城
令和3年4月3日再登城
令和5年8月15日再登城





麻場城(群馬県)

2023年08月16日 | 百名城以外の城
麻場城あさばじょう
別名白倉城・浅場城・白蔵城
構造平山城
築城者白倉氏
築城年代室町時代中期
指定史跡町指定史跡
場所甘楽郡甘楽町白倉 地図
空撮 むぎとうしの歴史さんぽ  

豪族白倉氏の居城であり、戦国時代に築城され豊臣秀吉の小田原征伐の時
前田利家に攻め落とされるまでの期間活躍していた城とされています。



入口

公園を利用するために後から造られた登り口。
ここから坂を登って本丸目指します。


駐車場

駐車場完備です。
数台停めることが出来ます。


登城口

ここは公園整備の際造られた登城口で、古くからある道ではないそうです。
他にも城内への入口はありますが、民家の庭先だったり、農家の畑の道からだったりするので
ここから入城するのが一般的になります。


堀切に架かる橋

坂道を登ると堀切と帯曲輪が見えて来ます。
堀切に架かる橋です。きれいに整備されていてとても歩きやすい公園です。


帯曲輪

外側を歩ける帯曲輪(笹曲輪)がぐるりと続いています。


物見櫓

この櫓は架空のもので、ここに物見櫓があったわけではないそうです。
正直にそのような説明の看板がありました。


空堀(本丸堀)

堀は結構深い堀でわかりやすい。



橋の上から堀を見る。



堀底から帯郭へ出ることが出来ます。


本丸

広場が広がりお弁当でも広げたくなるのですが、何故か隅の方に牛の糞が撒かれてあったりします。
なぜこのような場所に捨てられてるのか疑問です。
何か意味があるのか嫌がらせなのか・・・。


二の丸虎口

二の丸と本丸空堀前の間にある虎口。
とてもきれいに形成されています。公園整備でこれだけ見事になったのか?


空堀(本丸堀)

本丸を囲む堀は深くてきれいな造りです。


二の丸

こちらは馬出説もありますが、大手道の直線状にあるので
こちら側が正面であったと思われます。


土塁

この土塁で春風亭昇太さんと柳家三三さんが写真を撮っていたので同じアングルで旦那様とパチリ!
でもその写真は恥ずかしいのでお見せできません^^;


麻場城想像図

よく出来た想像図ですが想像ということで・・・。


虎口

想像図を見ると、この先に大手門があったようです。
探しに行ってみたのですが宅地等で発見できませんでした。





仁井屋城跡

麻場城(白倉城)と仁井屋城は谷をひとつ挟んで隣り合わせにあり、二つ合わせて双子城とも
呼ばれていたそうです。
ちょっと珍しい「別城一郭」で構成された城のようです。


麻場城主居館跡

こちらも道路の入口には看板が掲げられているのですが、入って行ったら民家でした。
ので、入口だけの紹介です。



先日、 NHK大河ドラマ「女城主直虎」で今川義元を演じる春風亭昇太さんがここを
訪れているブログを見て、また先を越されてしまった^^;と慌てて訪れてみました。

春風亭昇太さんと言えば、本当に城郭好きで地方に訪れた時は講演の合間に近くの城跡を
訪れる方で、一般的に有名な城ばかりでなくマイナーな山城もどんどん足を運ぶほど
城好きな方です。
磯部城後閑城など私より先に行ってたの!?ってことがあります。
今回も、先を越されてしまいました^^;
お城のテレビ番組でも視ますが、お城の話は失礼ながら私にとっては本業より
めちゃおもしろいです。


平成29年3月11日登城
令和5年8月15日再登城




黒丸城(大阪府)

2023年08月08日 | 百名城以外の城
黒丸城くろまるじょう
別名鳥飼砦・鳥養砦
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府摂津市鳥飼中2丁目1 地図

黒丸城の築城の時期や詳細は不明ですが、細川両家記によると
この辺りに城(砦)があったことが窺われます。
永禄二年、元亀元年には三好方がこの城を大阪方面の攻撃の際の
最前線の砦として機能していたと考えられています。



城址碑

県道15号線(八尾茨木線)淀川河川公園北西の歩道脇にある城址碑です。
別名鵜飼砦というだけに川の近くであることが塑像出来ます。
現在は遺構は残っておらず、城の縄張りも想像し難い。



城址碑の隣に説明もあるのですが、城(砦)は淀川の川べりに平城があり、
大阪方面への攻撃のために築かれた前線基地であったのではないかと考えられているようです。



周囲を見渡しても、地形的に見ても城の面影すら知りえない状態です。
細川両家記によると三好氏の支城であったようですが、その詳細は分かっていません。
しかし1995年(永禄2年)8月と翌年(元亀元年)9月の動向について記されているので
この頃には城塞的構造物が存在し、機能していたものと考えられます。



令和5年7月16日登城


今回の参考本



柴島城(大阪府)

2023年08月03日 | 百名城以外の城
柴島城くにじまじょう
別名柴嶋城
構造平城
築城者十河一存
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府大阪市東淀川区柴島2丁目19−5 地図

柴島城は、淀川と旧中津川の間の中州に築かれていました。
明治時代に着手された淀川改修工事のため、その原型は失われ、
現在の淀川の川岸に本丸部分は残っていますが、中学校の敷地となっています。
天文18年に三好政長派の細川晴賢がいる柴島城を三好長慶軍が大軍をもって攻め
落城した江口の戦いと大阪夏の陣で稲葉氏が拠ったことが伝えられています。



城址碑

住宅街の一角にある城址を示す石柱があります。
本丸からは北に150m程に離れた場所に立てられています。
つまり、主郭になる場所はここより南の大阪市立柴島中学校に位置します。


石碑

本門八品 南無妙法蓮華経 白龍 上行所伝
と刻まれた石碑は、城址碑とは別に塀で囲まれています。
白龍を成仏させるために祀られた石碑なのでしょうか。
柴島には現龍大神もあるので関係があるのだろうか。
神社仏閣に詳しくないなので想像しかできないのがもどかしい…。


柴島城の場所の推定はできるものの、遺構などは残っていません。
城址碑より更に北へ向かうと、かつて本丸東側にあったとされる芝島神社が移転されています。
柴島城との関係は定かではないですが、柴島城絵図に描かれている神社です。
1232年(貞永元年)9月の大洪水時に、「仲哀天皇の森」という名の高地に避難していた村人のところに、
柴に乗った小祠が流れ着き、まもなく水が引き救われたため、以後、産土神として奉祀したのが起源という。
築城よりずっと前からあった神社なので当時の柴島城を見守っていたのかもしれませんね。


令和5年7月15日登城


今回の参考本




注目の本