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キュロス大王-ペルシア帝国の建国者

2007-06-22 21:25:40 | 読書/中東史
 大王でもアレキサンダーなら有名だが、一般の日本人にキュロスはなじみが薄いだろう。キュロスこそアケメネス朝ペルシアの初代皇帝であり、祖父も同名のため区別してキュロス2世とも呼ばれるが、アケメネス朝で大王と通称されるのはキュロス2世とダレイオス1世だけである。

 中東史自体が日本でマイナーなため、今でもイランとペルシアを全く別の国と思う人も珍しくない。ペルシアはイランの旧名であり、20世紀になってから国の正式名称をイランとしている。外国からはずっとペルシアと呼ばれていたが、イラン人は自国をペルシアと言わず、もっぱらイラン(アーリア人の国の意味)と称していた。イランがペルシアと呼ばれるようになった訳は、イラン西南部パールサ(現ファールス)地方が帝国発祥の地だったからだ。パールサの地方王朝がイラン全土を統一し、民族名や言葉、文化にもペルシアの呼び名が使われるようになる。日本でも大和政権が全国を統一したゆえ、大和民族、大和言葉となった。

 ペルシアは元はパールサの小王国に過ぎず、メディア王国の臣従国だった。しかしキュロスの祖父の代から拡張し始め、キュロスの父王はメディアの王女を王妃に迎え、宗主国と縁続きになる。キュロスが王になった頃、宗主国メディア王は彼の祖父でもあった。だが、この若き王は野心家であり、メディア王と領地を巡り牽制しあっていた新バビロニアの王とも同盟を結ぶ。臣従国にあるまじき振舞いである。この風聞を耳にするや、メディア王は孫を首都に呼びつけた。しかし、キュロスはきっぱりと拒否する。

 キュロスの拒否は事実上の宣戦布告に他ならず、メディアとペルシアは戦となる。メディアは老王の陣頭指揮にも係らず、戦いは孫の勝利に終わり、さらに祖父の王は生け捕りになる始末。しかし、キュロスは敗者の祖父をあくまで祖父として、王者として手厚く遇してやまなかったという。孫だからそれくらい当り前、と思ってはいけない。紀元前なら例え肉親でも容赦なく殺害するのが普通だった。キュロスは直ちに都をメディアの首都に移し、敗者に対する寛容な政策により、元々同系であったメディア人との一体化を図り、優秀なメディアの戦力を自己の傘下に吸収する。

 続いてキュロスが矛先を向けたのがリディア。エーゲ海域での通商で富裕を誇るギリシア系民族のこの国に、キュロスは戦略家の面目を発揮する。まず、シリアと小アジアの接合部をなすキリキアを確保、エジプトないしバビロニアの軍がリディアへの援軍に駆けつける道を断ち、ペルシアへの宗主権を要求。もちろんリディアが応じるはずもなく、ペルシアとの戦闘となる。武勇で名高いリディアの騎兵隊に、キュロスはラクダに跨った戦列を繰り出す。リディアの馬は馴染みない動物の異臭に驚き、逃げ回る。かくして富裕を誇るリディアもキュロスに征服され、小アジアのエーゲ海岸と黒海岸のギリシア植民地もペルシアに組み入れられた。

 この後のキュロスは一転東征に転じ、イラン高原の制圧に向かう。東西通商の路線への支配と東方の治安の確保が必要だった。7年の間にイラン東部諸地方がペルシアの領土に編入され、州が置かれる。キュロスはさらに中央アジアに兵を進め、要塞と守備隊を配置する。

 キュロスの最後の征服はバビロニアだった。かつてはペルシアと同盟を結んだこともあるナボニドゥス王も、民衆と異なる信仰と好古趣味に固まり、バビロニアの国民から完全に支持を失っていた。首都のバビロンは戦わずしてペルシアの軍門に下り、紀元前539年バビロニアは滅亡する。ナボニドゥス王は捕虜となったが、彼もまたキュロスから王の礼をもって遇され、翌年死去の後は、盛大な国葬にされた。
 キュロスはバビロニアに対し、国の守護神マルドゥクに適って選ばれた正統の王位継承者、かつ神意に従い平和を実現する解放者として臨み、この国の宗教や習慣を尊重する。

 古代人らしくナボニドゥス王は神像の収集家であり、力にモノをいわせ四方から多数の神像を首都に集めたが、キュロスはこれらの像をそれぞれの国の神殿に送り返す。他にバビロン捕囚となっていた多数のユダヤ人に郷里に戻ること、エルサレムに神殿を復興することを認める。ユダヤ人が戻る時には、護衛の兵までつけたほどだった。感謝したユダヤ人が旧約聖書に記したため、キュロスの名は現代に至るまで特に欧米で知られるようになった。欧米人はキュロスを古代の理想的な王としてイメージしており、コレシュ(キュロスのヘブライ語読み)と改名したカルト教祖まで現れた。

 現代のファールス地方のパサルガダエにキュロスの墓がある。アケメネス朝最初の都だったパサルガダエに彼は葬られるが、学者は石棺の建築様式から北方ステップに遊牧していた頃のイラン民族の家屋を想像している。当時はまだ鳥葬は一般的でなかった。この墓はイスラム化した現代は「ソロモン王の母の座」と呼ばれている。キュロスはイランでは半ば忘れられた英雄なのだ。特にイラン・イスラム革命時、急進的な革命活動家の中にはこの墓を爆破する許可ホメイニに求めた者もいた。幸い却下されたが、紀元前にユダヤ人を解放したため、キュロスは「悪いことをした」人物にされてしまい、通りやホテルから軒並みキュロスの名は削られた。

 征服者が平和を実現する解放者として臨むのは、その後の世界史で繰り返されたことなのだ。21世紀の超大国指導者もまたバビロニア(現イラク)での戦争で、独裁者からの解放の大義を掲げて軍事侵攻をしている。捕虜となった敵の指導者を辱め、処刑するのが当世風。また、強制連行されていた異民族を助けることが悪であり、年端の行かない少年を最前線に送り出し、地雷を踏ませるのが善行となる。スケールの大きな征服者キュロスのような人物は、完全な昔話となった。
■参考:「古代オリエント」河出書房、岸本通夫著

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
southAsia (southAsia)
2007-06-23 17:44:40
はじめまして。southAsiaと申します。いつもはROMオンリーで楽しくBLOGを見せてもらっています。
楽しみにしてるんで更新頑張って下さいね!
僕のブログではターバン野口の折り方を紹介しています。
暇があったら是非どうぞ。
http://panicblog.blog109.fc2.com/?eid=9576
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初めまして (mugi)
2007-06-23 20:45:19
>はじめまして、southAsiaさん。
いつもROMされて頂いたとは、光栄です。今後ともよろしくお願い致します。

ターバン野口や「おとなのおりがみ」は初めて知りました。面白そうですね。折り紙なんて、ずっとしてませんでした。
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Unknown (ドグマ)
2007-06-24 06:12:08
久しぶりです。mugiさんは映画300評論待ってました。それにしても酷い映画ですね。中東史に詳しいmugiさんですから、言いたいことも山ほどあると思います。今後も深い指摘をお願いします。
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ハリウッド史観 (mugi)
2007-06-24 20:31:11
>こんばんは、ドグマさん。
あの映画は見る前から予想はついてましたが、それでも古代ペルシアに関心がある者としては、見らずにいられない。
日本人の多くが馬鹿げたハリウッド史観を受け入れているのは、困ったものです。ハリウッド史劇を「文化破壊」と批判した方もいます。
ハリウッドはともかく、地元イランもイスラムに染まってしまい、それ以前の歴史を改ざん、偏向するのが問題。何故自民族の英雄の墓を、ユダヤの王母の墓と言うのか、その神経が怖い。
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名無しへ (mugi)
2017-12-18 21:59:30
>>大和民族……いや日本民族ですよ。

 大和民族という名称はれっきとしてあり、「大和民族(やまとみんぞく)は、日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。しばしば和人(わじん)とも呼ばれる」(wiki)。一方日本民族については、「近世に幕藩体制下に組み込まれた琉球諸島の住民(琉球民族)を含む場合は日本民族と呼称される」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%B0%91%E6%97%8F

 だから記事での、「大和政権が全国を統一したゆえ、大和民族、大和言葉となった」は間違いではない。そもそも十年前の記事に名無しで書込む自体、かなり胡散臭い。これで粗探しをしたつもりだろうが、私は名無しや3年以上昔の記事へのコメントは基本的に受け付けない方針。よって貴様のコメントは削除した。
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