6年前の4~6月期のNHK人間講座で、作家の瀬戸内寂聴さんが講師の番組があった。テキスト名は『釈迦と女と、この世の苦』となっているが、女のばかりではなく釈迦をめぐる様々な人物が登場するので面白い。釈迦への帰依者に大量殺人鬼さえもいたのだ。その名はアングリマーラ。
アングリマーラとは指鬘外道(しまんげどう)と訳されている仏教では有名な人物。彼はあるバラモンの弟子で、熱心な求道者だった。若く聡明なうえ、際立っ た美貌の青年だった。師のバラモンは年老いていたが、若い妻を持っていた。若い妻は若い美男の夫の弟子に邪恋を抱き、夫の留守のある日、弟子を誘惑する。 だが、真面目な弟子は師匠の妻の誘惑を受け付けず、女は逆に恥をかかされたと逆恨みする。夫の帰宅前、女は自分の着物をずたずたに破り、体に自分で傷を一 杯つけ、夫が帰ってくるや泣いて訴える。
「貴方の可愛がっている弟子が、私を強姦しようとして、抵抗したらこんな目にあわせたのです」
老いたバラモンは妻の言葉を信じ、弟子を憎み、恐ろしい復讐を考える。何食わぬ顔で弟子に向かって言った。
「お前はよく修行したので、もう教えることはなくなった。後は一つだけ大きな修行が残っている。それは行を完成するために、これから百人の人を殺さなければならない。遺体から指を一本ずつ切り取って百本の指の首飾りをつくる。それをしないとこれまでの修行は水の泡となる」
弟子は驚き恐れるが、信じきっている師匠の命令だから従わなければならないと無理に考えた。
その後、夜な夜なサーヴァッティー(コーサラ国の首都、舎衛城)の町角に辻斬りが現れる。闇の中からいきなり飛び出し斬りつけられ、襲われた人は一たまり もなく殺害されたが、死体は必ず指を一本切り取られていた。賊はその指をつなぎ合わせて首飾りにしていると、誰ともなく言い出す。恐ろしくて夜、外出する 者もなくなり、人々はその殺人鬼をアングリマーラ(指鬘外道)と呼び始めていた。
アングリマーラはもう自分が何をしているか分からなくなり、一日も早く目的の百人を殺したいという想いだけで、心が荒れきっていた。99人までは殺し、残りは後一人になるが、その頃になると人々が全く外出しなくなったので、目的の百人目には出会えない。
その時、弟子たちの反対を押し切り釈迦が一人で夜の町へ出た。供もない釈迦が町の辻に差しかかった時、覆面をしたアングリマーラが飛び出してきて叫ぶ。「止まれ」!釈迦は静かな声で言った。「私は止まっている。揺れ動いているのはお前の心ではないか」。アングリマーラはその声に目覚める。その場にひれ伏し、泣いて許しを乞い懺悔した。一部始終を聞いた釈迦は、「弟子にして下さい」と願う彼を従え祇園精舎に帰る。他の弟子たちは彼を教団に入れるのに反対するが、釈迦は弟子たちの抗議を受け付けない。「悔い改めた者は許される」 と言い、釈迦はアングリマーラに毎日町へ一人で托鉢に行けと命じる。たちまち殺人鬼が釈迦の弟子となったことはサーヴァッティの都中に聞こえ、彼を見かけ た人々は行く先々で罵声と暴力を浴びせる。毎日、アングリマーラは血塗れ、半死半生の姿で帰ってきたが、釈迦はそれを見て、「ただ耐えよ。それがお前の懺悔の証だ」と言うのみだった。
釈迦は軍隊を引き連れた王がアングリマーラの引渡しを求めても応じず、「殺すなかれ、殺させるなかれ」を貫く。
いかに師匠にそそのかれたにせよ、真面目な青年が殺人鬼に豹変するのは、古代インドの特殊事情だけではない。現代もカルトに入信した若者が犯罪や自爆テロ に走ったりする。瀬戸内さんも真面目な人ほどカルトにはまり易いとTVで話されていたが、私はそれだけではなく、他力本願というか、自己の意志が弱い者の カリスマ性があると思われる教祖にひれ伏したがる性質に大きな原因があると思う。絶えず自分で考え、自分で決定を下すのは、自由な反面精神に負担が掛かる ものなのだ。絶対者に帰依するのはかなり安心で楽を得られる。
法句経(ほっくきょう)の中に「恨みに報いるに恨みを以ってすれば、永遠に恨みは尽きることなし」 という詩句がある。釈迦の思想は、どんな悪人でも心底から懺悔した時は許すべきで、受けた恨みを仇討ちしては仇が永遠に続くというものだった。だが、肉親 を殺された者がそう簡単に殺人者を許せるだろうか。釈迦のような超人ならともかく、凡夫には到底そのような心構えにはなれない。それゆえ、現代に至るまで 民族、宗教紛争が尽きることない。
インドにはアングリマーラの堂が今も記念され、城跡の一部に遺されている。釈迦の時代からアングリマーラのような人間は常に存在していたことの記念碑でもあると言えるだろう。
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アングリマーラとは指鬘外道(しまんげどう)と訳されている仏教では有名な人物。彼はあるバラモンの弟子で、熱心な求道者だった。若く聡明なうえ、際立っ た美貌の青年だった。師のバラモンは年老いていたが、若い妻を持っていた。若い妻は若い美男の夫の弟子に邪恋を抱き、夫の留守のある日、弟子を誘惑する。 だが、真面目な弟子は師匠の妻の誘惑を受け付けず、女は逆に恥をかかされたと逆恨みする。夫の帰宅前、女は自分の着物をずたずたに破り、体に自分で傷を一 杯つけ、夫が帰ってくるや泣いて訴える。
「貴方の可愛がっている弟子が、私を強姦しようとして、抵抗したらこんな目にあわせたのです」
老いたバラモンは妻の言葉を信じ、弟子を憎み、恐ろしい復讐を考える。何食わぬ顔で弟子に向かって言った。
「お前はよく修行したので、もう教えることはなくなった。後は一つだけ大きな修行が残っている。それは行を完成するために、これから百人の人を殺さなければならない。遺体から指を一本ずつ切り取って百本の指の首飾りをつくる。それをしないとこれまでの修行は水の泡となる」
弟子は驚き恐れるが、信じきっている師匠の命令だから従わなければならないと無理に考えた。
その後、夜な夜なサーヴァッティー(コーサラ国の首都、舎衛城)の町角に辻斬りが現れる。闇の中からいきなり飛び出し斬りつけられ、襲われた人は一たまり もなく殺害されたが、死体は必ず指を一本切り取られていた。賊はその指をつなぎ合わせて首飾りにしていると、誰ともなく言い出す。恐ろしくて夜、外出する 者もなくなり、人々はその殺人鬼をアングリマーラ(指鬘外道)と呼び始めていた。
アングリマーラはもう自分が何をしているか分からなくなり、一日も早く目的の百人を殺したいという想いだけで、心が荒れきっていた。99人までは殺し、残りは後一人になるが、その頃になると人々が全く外出しなくなったので、目的の百人目には出会えない。
その時、弟子たちの反対を押し切り釈迦が一人で夜の町へ出た。供もない釈迦が町の辻に差しかかった時、覆面をしたアングリマーラが飛び出してきて叫ぶ。「止まれ」!釈迦は静かな声で言った。「私は止まっている。揺れ動いているのはお前の心ではないか」。アングリマーラはその声に目覚める。その場にひれ伏し、泣いて許しを乞い懺悔した。一部始終を聞いた釈迦は、「弟子にして下さい」と願う彼を従え祇園精舎に帰る。他の弟子たちは彼を教団に入れるのに反対するが、釈迦は弟子たちの抗議を受け付けない。「悔い改めた者は許される」 と言い、釈迦はアングリマーラに毎日町へ一人で托鉢に行けと命じる。たちまち殺人鬼が釈迦の弟子となったことはサーヴァッティの都中に聞こえ、彼を見かけ た人々は行く先々で罵声と暴力を浴びせる。毎日、アングリマーラは血塗れ、半死半生の姿で帰ってきたが、釈迦はそれを見て、「ただ耐えよ。それがお前の懺悔の証だ」と言うのみだった。
釈迦は軍隊を引き連れた王がアングリマーラの引渡しを求めても応じず、「殺すなかれ、殺させるなかれ」を貫く。
いかに師匠にそそのかれたにせよ、真面目な青年が殺人鬼に豹変するのは、古代インドの特殊事情だけではない。現代もカルトに入信した若者が犯罪や自爆テロ に走ったりする。瀬戸内さんも真面目な人ほどカルトにはまり易いとTVで話されていたが、私はそれだけではなく、他力本願というか、自己の意志が弱い者の カリスマ性があると思われる教祖にひれ伏したがる性質に大きな原因があると思う。絶えず自分で考え、自分で決定を下すのは、自由な反面精神に負担が掛かる ものなのだ。絶対者に帰依するのはかなり安心で楽を得られる。
法句経(ほっくきょう)の中に「恨みに報いるに恨みを以ってすれば、永遠に恨みは尽きることなし」 という詩句がある。釈迦の思想は、どんな悪人でも心底から懺悔した時は許すべきで、受けた恨みを仇討ちしては仇が永遠に続くというものだった。だが、肉親 を殺された者がそう簡単に殺人者を許せるだろうか。釈迦のような超人ならともかく、凡夫には到底そのような心構えにはなれない。それゆえ、現代に至るまで 民族、宗教紛争が尽きることない。
インドにはアングリマーラの堂が今も記念され、城跡の一部に遺されている。釈迦の時代からアングリマーラのような人間は常に存在していたことの記念碑でもあると言えるだろう。
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アングリマーラの話は、普通の人にとってはまことに恐ろしいものだが、仏教の本質に関わることなので心したいと考えている。「肉親を殺された者がそう簡単に殺人者を許せるだろうか」というテーマは、マスコミを通じて、日常よく見る問題なので誰しも考えているだろう。
気持ちの上で被害者に同情する人々も、いつまでも、延々と恨みの気持ちを述べ続けられると、次第に疎ましく感じられてくることもある。殺人者の対応とも関係することだが、時間と共に恨みの心は薄れ、当初とは違った心境になるのが普通の人間だと思う。
仏教でなくても、罪人が許されるのは、キリストの磔の際の話でも知られている。イスラム教でも過剰な復讐を咎める考えもある。現実には宗教がもとになっての争いは絶えないが、基本的には宗教自身の問題より、多くは人間のご都合主義がもたらしているように思う。
ただ、多くの宗教の中に、問題を発生させる教義上の瑕疵がないとは言えないところが辛いところだ。その点、仏教には多くの事例に対する対処法が記されている事と、自己修復システムのような考えが埋め込まれている所が優れているような気がする。
いずれにしても、時代がここまで進んだら、人類共通の問題を克服する新たな価値観や哲学や宗教的理念が広まってもいいような気がする。今の混沌は、一種の夜明け前の状況かな。
こちらこそ、重いテーマが多いブログを読まれて頂いて、感謝します。
肉親を殺されて日が浅い時は遺族の加害者に対する恨みは深いですが、時が経つにつれ気持が変化するのは当然の流れだと思います。
大量殺人鬼も稀ですが、恨みをそのまま保ち続ける人もあまりいないでしょう。
仰るとおり「目には目を」のイメージの強いイスラムも必ずしもそればかりではなく、「ディーヤ」(血の代金)として家畜や金銭を支払う方法もあります。滅多やたら「キサース」(同害報復)を乱発するのではなく、「ディーヤ」が主流です。
問題なのは、師匠や指導者が憎悪を煽り、宗教を曲解、こじ付け解釈をして、犯罪を正当化することです。アングリマーラも師匠がワルなので、殺人鬼になりました。世事に疎い若者を煽るのは、古代から変わらない現象ですね。
そして、美男の弟子を誘惑する師匠の妻の類は、旧約聖書にも似たような話があり、男にとっても時には美は禍です。
たしかに人間は弱く、意志は移ろい、自我は溶解するものです。どんな不条理な現実すら受け入れてしまうものです。一人の婿に支配されて自分の家族のメンバーを一人ずつ殺していった一家のニュースも先ごろありました。俄かに信じがたい話ですが、子が親を集会で吊るし上げ時には死に至らせた話が珍しくない文革という現象もあったように、やはりこれも人間の性質なのでしょう。
そんな人間ですから、愛するものを殺された恨みを忘れ去って現実に順応することなど、たしかに普通のことなんでしょう。
でも、これを人間のあるべき姿とは思いたくないですね。
釈迦の説いた教えには「赦す」という概念は、少なくとも直接的には入ってきません。そうでなく、この世どころか来世に至るまでの一切合財のしがらみを捨てるべき、とされます。恨みも捨てますが、愛も捨てます。むしろ愛こそが執着の根源なので積極的に捨てろ、という立場です。そうすることによってこの世もあの世も自分と無関係になり、永劫の輪廻の苦しみから解放される、という算段です。日本の現代人がこんなことをオリジナルで言い出したら「現実回避でリセットに逃げる考えるゲーム脳」とか批判されるんでしょうね。
大乗仏教になると様相が変わってきて、慈悲の概念が柱となっていきますが。
キリスト教では、そもそも人が人を裁く行為は神の主権の僭権であるとします。神父様による「赦し」は、神の子イエスが使徒に委託した権能に由来するものであり、神の意図の代行とされます。人としての判断で「赦し」を与えることは不可です。
また、あらかじめ神の意図として「救われない人」が定められているというのもキリスト教の一面です。イエスは毒麦にこれを喩えました。こういう人は「赦し」を得る事は永遠にありません。
というわけで、人が人を赦す、という概念は日本的あるいは近代的なものだと思います。現代アメリカ人も人をforgiveしますしね。
13~14世紀のイギリスでは10万人あたり23・0だったのが1950年~1994年は0・9となっていて治安はよくなっています。日本はさらにその10倍はいいことになります。
古代の殺人率は近世よりは高かったと思われますから、殺人事件の被害者の肉親になるということは非常に身近な問題だったのでしょう。
この「ヤバい経済学」はいろいろ新しい知見があっておもしろいですよ。相撲の八百長の統計学的証明のところ以外もけっこう楽しめます。
殺害者自信、自分が行った行為に対し、一生償い続ける事は当然だと思いますし、そうでなければ、生きる価値もないと思います。
人を裁く権利を神というものに授けることは、神の名を借りたどんな愚考も許すようで、私はあまり納得できません。また、神やそれに数段もとる生神に簡単にすがるようでは。神は聖者への虐殺も止めない事もあれば、大量殺戮者にも安らなる死を与える事もあります。その矛盾はどう理解するのでしょう。
とても深く味わいのあるコメントを頂き、ありがとうございます。
人間は文字通り人の間でしか生きられない生物なので、どんなに悲惨な環境におかれても悲しい順応性で生きていくのでしょうね。
近世まで全世界で奴隷制は当り前でしたが、奴隷は常に虐待されているとは限らず、主人と強いつながりを持つ者も珍しくなかったのです。平等を叫んでも、本音では他者との平等を望まないのが人間ですから。
釈迦も愛執(愛する者に執着する煩悩)こそが、人間の苦しみの元だと言ってます。人間の心の苦しみの原因を煎じ詰めると渇愛(かつあい)だと。この渇愛は人間の理性も智恵も焼き滅ぼす強さを持っており、これを滅しない限り心の平和は得られないとか。
しかし、これは現代日本に限らず古代インドでもまず困難でしょうね。
「小欲知足」も素晴らしい教えですが、人間の欲こそが進歩の最大要因でもあります。
キリスト、イスラム共に人が人を裁く行為は神の主権の僭権となってますが、現実問題としては神が降臨して人を裁くことはないので、人間が“代行”する形をとりますね。神の法に照らし合わせての裁きが建前なので、人為ではないと。
「人が人を赦す、という概念は日本的あるいは近代的なもの」とは、感銘を受けました。
紹介されました「ヤバい経済学」、私は未読ですが、なかなか面白そうですね。
イギリスの殺人件数の変化も興味深いですが、やはり日本の方が遥かに治安がよい。「治安崩壊」を叫ぶマスコミも胡散臭いですね。
もっともパクス・ローマの古代の西欧は、中世より治安がよかったはずです。
殺してやりたい人間などいくらでもいますが、社会的、法的立場があるので、実行しない者がほとんどでしょう。
殺害者が自分の罪を一生償ってほしいのは人情ですが、それを怠る者も少なくないので、死刑賛同者が多数なのだと思います。
仰るとおり仇討ちが大手を振っている社会は無秩序ですが、仇討ちを認めていた江戸時代の日本は平和社会でした。それも仇討ちには様々な決まりがあり、届出が義務付けられていたのです。例えば、殺人者の身内には手を出してはならない、というような。
一般の日本人から見れば、人を裁く権利を有するのは神のみ、という教えは実感できませんが、一神教、多神教問わず宗教では最終決定者は神なのです。だから神の名をもとにした大量殺人が出来る。「神が望んでおられる」で聖戦となるわけです。様々な矛盾も「神(天)の思し召し」で終わりとなるのが宗教の世界。
日本のような信仰心の薄い国はむしろ例外に近く、有識者が持ち上げる欧米も宗教の重圧はかなりのものですが、彼らはその事を知らないか、無視している。