トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

誰がタージ・マハルを設計したか?

2006-05-31 21:16:29 | 読書/インド史
 タージ・マハルを実際に見たことがない方でも、写真だけでその素晴らしさが分かるだろう。この世界で最も美しい霊廟が夫であるムガル第5代皇帝シャー・ジャハーンにより建造されたのは有名だが、肝心の設計者の名前がよく分かっていない。

 19世紀初めアーグラを占領したイギリス人はタージ・マハルの壮麗さに驚き、これを設計したのは誰か、誰の作品か問題にした。そして彼らが到達した結論が、荒唐無稽なことに何とヨーロッパ人説だった。1884年刊行『北西インドの歴史と地誌』には、このような記述がある。
「ジェ ロニモ・ヴェロネオという名のヴェネツィア出身の建築家が三百万ポンドの工賃でその建物を作るよう命じられた。しかし、スペイン人の托鉢層マンリケがアー グラを訪れた1641年以前に彼は死んでしまい、工事はコンスタンティノープルからやって来たトルコ人のエフェンディに受け継がれたと信じられている。大 理石の象嵌技術については、おそらくフランスのボルドー地方出身の工匠オスティンヌが相談に与っていたはずである」

 当時 後進の民に文明の恩恵を施す義務があると盲信していたイギリス人にとって、建築美の粋を結集したタージ・マハルは当然高度な文明を生んだ欧州人の手になる ものでなければならず、そのため一介の托鉢層の耳にした話が、格好の証拠となったのだ。この欧州人設計説は当の欧州人の間ではかなり広範に信じられたよう で、20世紀に入ってからも、事あるごとに異説の一つとして紹介されている。例えば1957年刊行のケンブリッジ版『インド史』第4巻にも、ジェロニモ・ ヴェロネオとマンリケの名を挙げて焼き直しの説を載せており、1972年にニューズウィーク社から出版された『ザ・タージ・マハル』も同工異曲だった。

 20 世紀になり、インド独立運動が盛んになってくるとタージ・マハルのインド人設計説が勢いを得、さらに独立後は隣国パキスタンに対抗するヒンドゥー・ナショ ナリズムから、タージ・マハルが元々ヒンドゥー王の離宮であったとか、ヒンドゥー寺院であったものを后妃の墓標に改造したのだ、といった説が何度も蒸し返 されてきた。
 
 そのなかの一つ、インド政府の考古学調査局長を務めたことのあるB.L.ダーマ氏 の説はこうだ。彼自身はヒンドゥーだが、研究書『ザ・タージ』のなかに「タージの設計者」と題する一章を設けている。それによると設計者はモハメッド・イ サー・エフェンディという人物だという。名前どおりムスリムだが、エフェンディはトルコの称号の一つであってもそれが必ずしもトルコ人であることを証明す るものではなく、むしろモハメッドという名がヒンドゥーからイスラムへの改宗者にしばしば用いられたこと、またイサーも同様であり、ウスタッド・モハメッ ド・イサーという名の改宗者がデリーかアーグラに居住したことがあり、その子孫かと思われる、と彼は言うのだ。要するにタージ・マハルの設計者はムスリム にせよ、外国人ではなく元はヒンドゥーの改宗者、つまりインド人と指摘する。

 ダーマ氏はさらにタージ・マハルの建築様式にしても、こう述べる
「ター ジが生まれも育ちもインド的なものであるにも係らず、何人かの学者はなおその構想においてペルシア的、サラセン的な影響を認めるよう主張している…タージ はその理念において身も心も本質的なインド的なものであり、血統も様式も土着的なものである。外部からの、外国からの影響は少ししかない…
 デザ インは単純でしかも完璧である…設計は正方形と八角系と円形の組み合わせによる連繋に基本を置いている。この三つの要素は、想像と瞑想と破壊という理念を 表徴している。言い換えればブラフマーとヴィシュヌとシヴァの聖なる三神一身の象徴である…タージ寺院の上の三つの丸屋根もまた三神一身というヒンドゥー 的理念を表したものである…」


 インド人学者はこじ付け学説の巧みさでは定評があり、ダーマ氏もその典型だろう。ヒンドゥー、欧州人どちらの解釈も思い込みが根拠となり、ご都合主義では人後に落ちない。

  だが、いずれにせよ近代的な意味でのタージの建築家または設計者の名を特定することは出来ない。インド国内ばかりでなくイスラム世界各地から名だたる工匠 たちが招かれ、各分野の主だった者だけでも37名に上ったという。強いて上げるなら、6代皇帝の墓碑にタージの設計者と記されているウスタッド・アフマド・ラホリかもしれないが、彼も各工匠たちのプランのまとめ役に過ぎなかった。

 タージ・マハルもイギリス軍の略奪を免れず、丸屋根の上の頂華の純金の箔は剥ぎ取られてしまう。1828年から五年間東インド会社のベンガル提督だったウィリアム・ベンティングに至っては、タージが「退廃的」な匂いのする建物であるとして、解体して競売に賭けることを提案したそうだ。ムガル王家がインドの富に魅せられてやってきた陸の遊牧民なら、イギリスは海の遊牧民だった。

■参考:『タージ・マハル物語』渡辺建夫 著、朝日選書352

よろしかったら、クリックお願いします。


最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
酔っ払いの暴論 (Mars)
2006-06-02 00:07:21
こんばんは、mugiさん。



確かに、改めてタージ・マハルの画像を見てみると、お椀を逆にしたような曲線はアジア的な感想を受けます。しかし、直線的な部分や四隅のミナレット(塔のような建物)を見ると、欧州的なイメージも感じます。私のように、見ればただ美しいと思うだけで、美的センスも、歴史にも疎いものからすれば、どちらが事実なのかは分かりません(ただ、同じアジア人(?)から見ると、大筋では前者に軍配が上がるような気がします。でも、すべて納得できるかといえば、、、)。



タージ・マハル程、美しい建物でも、略奪や破壊の危機にも瀕したのですね。これは、昔だから、帝国主義だからとは思えず、現代でも、一部の狂信者や、歴史的価値が分からない守銭奴、不心得者によって、多くの歴史的建物、文物が危機に瀕しています。

私のようなものの感覚(特異な例だと思いますが)では、日本の寺や、城、石垣などに落書きする気持ちが全く理解できません。



本物の歴史家は分かりませんが、歴史を本当に好むものは、人間の愚考に対して、シビアになるか、人のいい加減さも、ある程度、寛容していくのかの、どちらかだと思います。但し、どちらにしても、書物や物的証拠を基準にして、願望や妄想は、あくまでも、自分の楽しみの内だと思います。



歴史というものが、過去の事実のみを追っていくものならば、本当にそっけもないですけど、よかったかもしれません。でも、本当の歴史家は、事象の意味だけでなく、その当時、どんなものを食べ、どんな法律があり、どんな住まいで、どんな衣服を身にまとっていたか、の方が重要な気もします。



やはり、私は、歴史家にはなれず、歴史ファンの域を脱せないと思います。

返信する
異文化 異文化 (n1450)
2006-06-02 18:35:35
異文化の中に異文化を見る。それだけにしておけば幻想的であり魅力的であり。いいものはより良く、悪くたってなんとかなるもんである。

なかなか異文化を見るって難しいですね。見ないように見るというかなんというか。これを曲解によって利益として考えるのは納得いきません。日本に対するどこかの国みたいっすね・・・。どこかの、ね。
返信する
同じアジア人… (mugi)
2006-06-02 22:17:33
こんばんは、Marsさん。



イスラムと欧州の建造物ではどこまでがオリジナルな様式なのか、明快な区別は難しいでしょう。十字軍のため欧州の城もイスラムの影響を受けているといわれますが、イスラムもまた古代ローマやペルシアの技術を取り入れている。

イスラムもヒンドゥーも互いに同じアジア人という感情はまず皆無に近いです。まして、日本人に対しては。「同じアジア人」というファンタジーに浸るのは日本人くらいです。



>日本の寺や、城、石垣などに落書きする気持ちが全く理解できません。

全く同感です。外国人ならやりかねないにせよ、日本人なら許せません。



歴史家も様々いますから、あまり風俗に関心を払わない人もいます。ある歴史家と女性作家との平安貴族の対談で、後者が貴族女性の長い髪について質問をしたら、前者はあまり詳しくなかったようでした。その学者は何しろ頭髪が寂しい方なので、自分で髪型に関心がないと言ってました。

貴族や支配者階級の生活は史料文献が残っているので当時の生活は推測できますが、庶民生活は分からない事が多いですね。
返信する
曲解 (mugi)
2006-06-02 22:22:40
>n1450さん



タージ・マハルならほとんどの日本人からは単に異文化の見事な建造物として楽しませてくれますが、関わりのある文化圏では己の文化の影響を強く主張するのですね。イギリス、ヒンドゥーだけでなく、イランの学者もペルシア文明の影響を絶対指摘するはずです。



曲解により利益としてこじ付けをするのは、日本に対する何処かの国ばかりでなく、世界の大半の国がそうかもしれませんよ。
返信する
黒き「タージ・マハル」 (便造)
2006-06-03 15:59:23
「タージ・マハル」の設計者が不明とは知りませんでした。いかにもきちんと図面を引いて造られたように見られるだけに以外ですね。

シャー・ジャハーンは、ヤムナー河の対岸に、黒大理石で「タージ・マハル」と同形の自分の墓を建設し、「タージ・マハル」まで、これまた大理石の橋を架けるつもりだったらしいですね。建設費用だけで国が三つぐらい滅ぶかもしれませんが、ぜひ見てみたかったです。



>『タージ・マハル物語』

本棚で眠っていたのを思い出しました^_^;



>日本の寺や、城、石垣などに落書きする気持ち

ヨーロッパなどを旅行すると日本人の落書きも結構目に付きますね。見るたびに恥ずかしくなります。

相合傘などを刻むことが、愛の証などと考えているのでしょうかねぇ。困ったものです。
返信する
落書き (mugi)
2006-06-03 20:55:23
>便造さん

私も『タージ・マハル物語』を読んで初めて設計者不明だったのを知りました。

黒き「タージ・マハル」計画は有名ですね。完成したらさぞ見事だったでしょう。間に架ける大理石の橋は、何色の予定だったのか、と妹尾河童さんも想像してました。それにしても、ムガル皇帝のすることは桁外れです。



「旅の恥はかき捨て」といえど、観光地で落書きをする日本人は情けない限りです。愛の証よりアホの証ですね。
返信する
間に架ける大理石の橋 (便造)
2006-06-03 21:25:17
確か、「黒」と聞いたことがあります。

でも、定かではないので・・・・・・。
返信する
カエルの子は… (mugi)
2006-06-04 21:13:17
>便造さん

橋は黒だったのですか。施工主だから当然かもしれません。

息子の6代皇帝アウラングゼーブも、サイズは小さいくても似たような后の霊廟を作ってましたね。
返信する
Unknown (Hiikichi)
2016-04-15 05:02:49
Hiikichiでございます。
コメントありがとうございます。

まさか、タージ・マハルをインド人以外の設計者でなければならない考え方をするとは・・・
韓国人の起源説も、ヨーロッパ的狂った妄想も、キリスト教の誤った宗教観に起因すると考えても良いかもしれません。
事物を正しく真正面から見て、感じ取る。感じ取ったら先ずは心に収めて考える。という落ち着いた物腰のない事は、逆に可哀相にも思えます。あまりにも直情過ぎ。
ですけど、明確にそれを強く否定出来ないインドも情けない。
尤も、否定する事さえ馬鹿馬鹿しいという事でしょうけれど、イチイチ否定しないとつけ上がるのも狂信的な人々ですから困りものです。
返信する
Hiikichi様へ (mugi)
2016-04-15 21:44:18
コメントを有難うございました。

 いかに帝国主義全盛期でも、タージ・マハル設計者はヨーロッパ人というトンでも説がまかり通っていたのは驚きました。1972年にニューズウィーク社から出版された書にも、この説の焼き直しを載せていたというから絶句しましたね。一般日本人がとかく理性的と思い込んでいる欧米人も、出鱈目起源説をしていたことは意外に知られていないと思います。

 インドが明確に否定できないのは、タージ・マイル設計者=インド人という確証がないからです。インド国内ばかりでなくイスラム世界各地から名だたる工匠たちが招かれおり、各分野の主だった者だけでも37名に上ったほどだから、欧州人が1人くらいいてもおかしくない。

 一般日本人にとって、事物を正しく真正面から見れず、あまりにも直情過ぎる人々は可哀相と思えますが、日本人の考え方の方が世界では少数派のはず。アジア諸国(東、南、西)や欧米からすれば、真面目に事物を正しく見て、トンでも起源説を主張しない日本人こそ哀れな莫迦と思っているかもしれませんね。
返信する