先日、あるブログコメント欄で興味深いサイトが紹介されていた。コメンターの吉田五郎太さんは、「ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に関して問題提起した倫理学・文献学者『羽入辰郎』氏と、それに反論した東大名誉教授『折原浩』氏の論争を、北大准教授『橋本努』氏がまとめたもの」として、橋本氏のHPを挙げていた。そして吉田さんは、HPの中でも特に「ウェーバーは罪を犯したのか―羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」の箇所を薦めている。この該当部分だけでも、我国学界の欧米幻想と、それに伴う権威主義への葛藤が伺えて興味深い。
実は私は、ウェーバーのあまりにも有名な書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は未だに未読であり、ウェーバー論争を見ても、皆目理解出来ない。まして、折原、羽入両氏の著書も未見なので、彼らの論争の根本が何なのか、このサイトを見ただけでは論評など不可能だ。ただ、思想家ウェーバーを羽入氏が「知の詐欺師」として徹底非難、それに対しウェーバー研究者の権威である折原氏が綿密な反論を展開している…という主旨だけは分かった。浅学非才の門外漢からすれば、学者同士の論争も結構刺激的で、ヒートアップするのは苦笑する。
羽入氏によれば、「ウェーバーは、ルターやフランクリンの原著を調べず、当時のドイツ語普及版を参照するだけで都合のよい資料選択を行って」いたという。この「知の詐欺師」により、「知識人たちはみなウェーバーに騙されてきた」、「ウェーバーから学びウェーバーを伝承する者は、犯罪者の犯罪に荷担して害毒を撒き散らせてきた」、「知の巨人を崇拝してきた者は知的に不誠実であるか間抜けである」とまで書く。そして、「「知的でありたい」などという「欲を抱くから、この知的な悪魔[ウェーバー]に騙されるのである。今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである」と氏は結論付ける。
羽入氏による「知的権威に対する根源的疑義」の挑戦を受け、ウェーバー研究者で折原・東大名誉教授は「驚くべき論証力」で論破したようだ。もっとも、ウェーバーはおろかルターやフランクリンの原著さえ読んでいない私に、折原氏の反論はチンプンカンプン、まるで頭に入らなかったが。そして折原氏は輸入学問の専門家らしく、「学者の品位と責任―「歴史における個人の役割」再考」の章で、日本の学界の弁護と共に問題点も認めていた。この章から折原氏の論文を一部引用する。
-わが国の学者は、長期間、欧米の学問にたいする一方的な授受/依存関係になじんできた。もっとも、この関係をかつて「本店-出店」関係と揶揄した評論家よりも、みずから学問的に苦闘する学者のほうが、欧米人学者の学問的苦闘も追体験でき、学者としての共感と敬意という普遍的品位感情を培うとともに、欧米学問の土俵にも乗り込み、対等に論争し、積極的に寄与することで、当該関係の是正につとめてもいる。
しかし、そうした学者は、まだわずかで、圧倒的多数は、欧米の最新流行を追い、手早く紹介したり整理したり実証的に適用したりするのに熱心である。そこでは、「言いたい放題」と「見て見ぬふり」をともに「人間として浅ましい」と受け止める品位は、育ちようがない。羽入書への対応は、はからずもそうした島国根性の深層を露呈してはいないか…
第三者である橋本氏は、「羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」のおわりで、次のように結んでいる。
-論争を不毛なものにしないためには、論者たちの誇張的修辞を「読者へのエンターテイメント」として割り切っておこう。例えば、羽入がウェーバーを「詐術師」「犯罪者」「魔術師」と呼んでいることや、これに応じる折原が、羽入の議論はその出発点からして「無概念的感得」(学知的反省の欠如)の水準にあると批判することなどである。こうしたレトリックがもたらす快楽と憤怒に振り回されず、論争が実りある方向へ展開することを、私は心から願っている。
よく議論について、「建設的な」「実りある」という前書きの付いた呼びかけがなされるが、これは非建設的で実りない議論が多いという実情から来ているのだ。「無概念的感得」どころか、学知的水準もない私には、「詐術師」「犯罪者」「魔術師」のような刺激的なレトリックはある意味痛快だったし、言われた側も「無概念的感得」とやり返す誇張的修辞は、まさに「読者へのエンターテイメント」に最適だろう。知識人の最たる学者連中さえ不毛な論争を繰り返し、権威主義に溺れるのだから、まして一般人なら書くまでもない。
その②に続く
◆関連記事:「権威主義」
よろしかったら、クリックお願いします
実は私は、ウェーバーのあまりにも有名な書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は未だに未読であり、ウェーバー論争を見ても、皆目理解出来ない。まして、折原、羽入両氏の著書も未見なので、彼らの論争の根本が何なのか、このサイトを見ただけでは論評など不可能だ。ただ、思想家ウェーバーを羽入氏が「知の詐欺師」として徹底非難、それに対しウェーバー研究者の権威である折原氏が綿密な反論を展開している…という主旨だけは分かった。浅学非才の門外漢からすれば、学者同士の論争も結構刺激的で、ヒートアップするのは苦笑する。
羽入氏によれば、「ウェーバーは、ルターやフランクリンの原著を調べず、当時のドイツ語普及版を参照するだけで都合のよい資料選択を行って」いたという。この「知の詐欺師」により、「知識人たちはみなウェーバーに騙されてきた」、「ウェーバーから学びウェーバーを伝承する者は、犯罪者の犯罪に荷担して害毒を撒き散らせてきた」、「知の巨人を崇拝してきた者は知的に不誠実であるか間抜けである」とまで書く。そして、「「知的でありたい」などという「欲を抱くから、この知的な悪魔[ウェーバー]に騙されるのである。今はただこの死せる悪魔のために、一生を費やした多数の学者達の不運を思うばかりである」と氏は結論付ける。
羽入氏による「知的権威に対する根源的疑義」の挑戦を受け、ウェーバー研究者で折原・東大名誉教授は「驚くべき論証力」で論破したようだ。もっとも、ウェーバーはおろかルターやフランクリンの原著さえ読んでいない私に、折原氏の反論はチンプンカンプン、まるで頭に入らなかったが。そして折原氏は輸入学問の専門家らしく、「学者の品位と責任―「歴史における個人の役割」再考」の章で、日本の学界の弁護と共に問題点も認めていた。この章から折原氏の論文を一部引用する。
-わが国の学者は、長期間、欧米の学問にたいする一方的な授受/依存関係になじんできた。もっとも、この関係をかつて「本店-出店」関係と揶揄した評論家よりも、みずから学問的に苦闘する学者のほうが、欧米人学者の学問的苦闘も追体験でき、学者としての共感と敬意という普遍的品位感情を培うとともに、欧米学問の土俵にも乗り込み、対等に論争し、積極的に寄与することで、当該関係の是正につとめてもいる。
しかし、そうした学者は、まだわずかで、圧倒的多数は、欧米の最新流行を追い、手早く紹介したり整理したり実証的に適用したりするのに熱心である。そこでは、「言いたい放題」と「見て見ぬふり」をともに「人間として浅ましい」と受け止める品位は、育ちようがない。羽入書への対応は、はからずもそうした島国根性の深層を露呈してはいないか…
第三者である橋本氏は、「羽入-折原論争の第一ラウンドを読む」のおわりで、次のように結んでいる。
-論争を不毛なものにしないためには、論者たちの誇張的修辞を「読者へのエンターテイメント」として割り切っておこう。例えば、羽入がウェーバーを「詐術師」「犯罪者」「魔術師」と呼んでいることや、これに応じる折原が、羽入の議論はその出発点からして「無概念的感得」(学知的反省の欠如)の水準にあると批判することなどである。こうしたレトリックがもたらす快楽と憤怒に振り回されず、論争が実りある方向へ展開することを、私は心から願っている。
よく議論について、「建設的な」「実りある」という前書きの付いた呼びかけがなされるが、これは非建設的で実りない議論が多いという実情から来ているのだ。「無概念的感得」どころか、学知的水準もない私には、「詐術師」「犯罪者」「魔術師」のような刺激的なレトリックはある意味痛快だったし、言われた側も「無概念的感得」とやり返す誇張的修辞は、まさに「読者へのエンターテイメント」に最適だろう。知識人の最たる学者連中さえ不毛な論争を繰り返し、権威主義に溺れるのだから、まして一般人なら書くまでもない。
その②に続く
◆関連記事:「権威主義」
よろしかったら、クリックお願いします


ウェーバーについては日本を含めたアジアの資本主義を説明できないという弱点があるし、もともとのフィヒテの歴史観(ギリシャからドイツへ歴史の中心が動く)というところや自然科学や東洋への理解の限界もあり、現在それほど法学のほうではかえりみられていません。
社会学の領域での影響とかはまだ残っているんでしょうけど。
別宮貞徳先生の名も初めて知りました。外国の書物を生かすも殺すも翻訳次第です。
ウェーバーは時代ゆえに仕方ないにせよ、東洋への蔑視があることを指摘した歴史ブロガー(名は失念)もいました。社会学では未だに「知の巨人」扱いなのでしょうけど、そうでない者からすれば、「ウェーバーがナンボのもの?」と言いたくなります。ウェーバーの権威筋の折原氏は「欧米学問の土俵にも乗り込み、対等に論争し…」と言ってますが、実はあちらの土俵に入れてもらい、認められた気になっている…と書けばイジワルでしょうか。