トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

エジプトで死去したオスマン皇帝の孫

2017-01-27 21:40:04 | 世相(外国)

 先日、九州在住ブロガーさんによるオスマン帝国史シリーズを興味深く読んだ。最終回「大オスマン帝国Ⅹ」には、帝国滅亡の決定打となった第一次世界大戦時の皇帝メフメト5世の名が見え、wikiを見たら1918年7月3日、つまり戦争降伏前に73歳で死去とある。さらに脚注には2010年5月28日付Zaman紙による、「最後のスルタンの孫オルハン・エフェンディ死去、夢からなわずエジプトに埋葬」という記事のリンクもあった。以下は記事からの引用。

スルタン・メフメト・レシャド5世の孫であるハサン・オルハン王子が、3日前にエジプトで死去した。この死によって、一つのドラマが明らかになった。がん治療を受けていたオスマン家の末裔は、金銭的理由で、エジプトの病院から追い出されていた。(イスタンブルの)エユプ・スルタンに埋葬されるという遺言は外交上の障害のため実現しなかった…

 エジプトで教師をしていたハサン・オルハン王子が亡くなった後、金銭的理由と外交上の障害のため遺言の内容が実現されなかったことが明らかになった。ハサン・オルハン王子は、長年、脳の癌を患っていた。お金が払えず、入院していた病院に対し6000ドルの借金があった故き王子は、亡くなる少し前に病院から追い出された。
 ハサン・オルハン王子に対し、スルタン・アブドゥルハミド2世の孫であるオルハン・オスマンオール王子がイスタンブルから援助しようと試みたが、失敗に終わった。オルハン・オスマンオール王子の次のような言葉は、王家の末裔たちが今おかれている状況を表していた。
2ヶ月間、王子にお金を工面しようとしたが、十分な額になりませんでした」。

 外務省と在カイロ・トルコ大使館に働きかけたと述べるオスマンオール王子は、借金が亡くなった後に払い終えられたことを強調している。ハサン・オルハン王子は、エユプ・スルタンにある父親の墓の隣に埋めてほしいことなどを含む遺言を、亡くなる直前に会ったオルハン・オスマンオール王子に残した。オスマンオール王子は、金銭的な問題と外交上の問題で故人の遺言を実現できないのを残念に思っていると述べている。

 また、ロンドンで生活していた、スルタン・アブデュルメジトの孫であるアブドゥッラフマン・サーミーオール・メフメト・サーミー氏も5日前に生涯を閉じた。ロンドンで埋葬された故人は85歳だった。亡くなったハサン・オルハン王子とアブドゥッラフマーン・サーミーオール・メフメト・サーミー氏のためにイスタンブルに住んでいるオスマン王家の関係者たちが弔問を受け入れる。
 王家の人々は、今日(28日)と明日(29日)10時から20時の間、ユルドゥズ公園チャドゥル宮に集まる。さらに、同じ場所で今日の午後の礼拝のあと、なくなったオスマン家の子孫の魂のためにコーランの一節が読まれる



 記事題には“最後のスルタン”とあるが、これは間違っている。最後の皇帝はメフメト5世の弟メフメト6世、この第36代皇帝をもってオスマン帝国は滅亡する。とうに帝政廃止となっているにも拘らず、オスマン家の家長やその息子たちには称号があり、孫すら“王子”と報じているのには苦笑したが、記事は妙に考えさせられた。
 メフメト5世の孫ハサン・オルハン氏は、エジプトで何の教師をしていたのか、享年何歳だったのかは記載されていない。ただ、上の写真からは確かにエジプト人よりもトルコ人らしい容貌だった。

 オスマン皇帝の孫といえ、6000ドルの借金のために入院していた病院から追い出されていたことからも、生活は裕福ではなかったようだ。さらに気になるのは外交上の問題で、イスタンブルにある父の墓の隣に埋められなかったという点。エジプトとトルコの間に、当時どのような外交上の問題があったのか?

 1924年、カリフ制の廃止とともにオスマン家の全成員はトルコからの国外退去を命ぜられ、一族は世界各地に離散する。国外追放処分は女性については30年間、男性には実に50年間続いたという。国外退去処分が解除されても、帰国しなかった一族も少なくなかったそうだ。
 2006年9月21日付のMilliyet紙(トルコの最大有力紙)には、オスマン朝スルタンの末裔120人がドルマバフチェ宮殿に集合したことを伝え、その関連サイトもある。子孫がこれほどいるにも関わらず、大半はトルコ語を話せなかったことから、トルコでの影響力がさほどあるとは思えない。オルハン・パムクの作品には、イスラム主義者や左翼、民族主義者は登場しても、王党派やシンパは出てこない。

 世が世なら、ハサン・オルハン氏は宮殿の御典医により、最高の治療を受けられたであろう。しかし、21世紀は祖父の時代とは違うのだ。王族の零落は哀れだが、そこに時の流れの無常さがある。

◆関連記事:「トルコ狂乱
 「インドに嫁いだオスマン皇女

よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る