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自慰史観

2010-03-19 21:21:52 | 歴史諸随想
 先日、あるブログ記事で「自慰史観」なる言葉を初めて知った。「自虐史観」なら既に定着化、結構知られる造語だが、前者の支持者は明らかに右派であり、左派「自虐史観」論者による強烈なしっぺ返しと揶揄である。当然だが、「自慰」派と「自虐」派はネットでも激しく対立しているようだ。しかし、私にはどちらも同じタイプに思える。

「自慰」派が日本の欠点を黙殺し、必要以上に過大評価するのに対し、正反対に日本を徹底的にこき下ろす「自虐」側。前者が中韓を糾弾し、後者は隣国を実態と乖離した過大評価、その欠点を徹底的に黙殺するというパターンとなっている。立場は反対でも双方共に、自己陶酔や韜晦、自己顕示欲、自意識過剰、自画自賛、自愛、自慢話に興じあうという殆ど神経疾患状態の様相を呈しているのも興味深い。互いに鏡に映る己自身に向かって吠えまくり、昼夜問わない書込み時間から、その憂さ晴らしに明け暮れていると思われる暇人もいる。「小人、閑居して不善をなす」の諺どおり、左右両派はネットでの自慰思想の発表会が暇つぶしらしい。

 歴史には功罪両面があり、成功面と失敗面を考察、併記しない限り、歴史を描いたことにならないものなのだ。その意味で「自慰」「自虐」双方どちらも、歴史をいびつに見ており、相手側の欠点の暴きあいに陥りがちになる。お手軽情報からの好都合な引用と美辞麗句を並べ立て、歴史を理解した気になっている輩は、単に生半可と公言しているに過ぎない。彼らのスローガン「正しい歴史に学べ」は、本心は己が信じたい幻想が根拠となっているから、大言壮語となり、口論の果て罵詈雑言を投げあう。反対立場のHPに出向き、「正しい歴史認識」とやらを長々と説教する者も、必ずしも善意や真摯な気持ばかりが動機とは思えない。半可通な知識を具にして相手を説き伏せるのは、ネットならではの自己満足であり、醍醐味だろう。本当は相手にされなくなったにも係らず、反論しない相手には論破したと悦に入る者も、ネットでは珍しくないタイプである。

 戦後日本で“自虐”史観が主流となっているのは、敗戦国ということに尽きる。おそらくドイツも似たような状況と思われるし、5年前の記事でも書いたが、植民地時代のインドの教科書でも、「現代(1930年代)の逆立ちした歴史は、インド側の悪逆と残酷をくどくどと書き連ねながら、反対側のことにはほとんど言及しない」有様だった。独立後のインドの教科書は様相が変わり、自慰よりも愛国史観傾向になってきたようだ。
 一方、中韓が“愛国教育”というかたちの「自慰史観」にどっぷり浸かるのも、全て似非“戦勝国”に過ぎないことにある。インドと対照的に真の民族運動により勝ち取った独立とは到底言えず、その苛立ちを妄想で糊塗粉飾した歴史で埋め合わせ、改めて似非戦勝気分に酔い痴れる。中韓に限らず、アラブやバルカン諸国もかつての支配者トルコの悪逆と残酷をくどくどと書く歴史書となっている。

 歴史は客観性に基いて書くべきだ、という人がいるし、人間の良識や理性に期待する向きもある。一見もっともらしい正論だが、感情の動物といわれる人間の客観性や理性、良識ほど当てにならぬものはないのは、少しでも人類史をひも解けば分かるはず。偉大な歴史家達も客観性どころか主観を元に著作しており、想像力と哲学性のある表現力のため、客観性があると思える内容に仕上がっているのだ。思想や哲学を抜きにした歴史なら、単なる記述に過ぎず、到底読めたものではない。

 私自身も先日経験しているが、顔の見えないネット社会での応酬は、反対意見に過剰反応、感情的になることが少なくない。これも旅同様ネットの恥もかき捨てであり、そこが匿名世界の気楽さと共に安易さでもある。元からいい加減な性格の私自身は歴史とは娯楽や趣味と思っているが、所謂プロの歴史学者や作家も趣味の延長の末、飯の種にしているのが実情なのだ。プロさえ、信じられないような誤りや誤解と無縁ではない。それでも、無名ブロガーと異なり鋭い視点があるのはプロならでは。『ローマ人の物語XII』(塩野七生著、新潮社)で、名言だと思った箇所を紹介したい。

人間とは、事実だから信じるのではなく、事実であって欲しいと思う気持ちさえあれば信じてしまうものである。
自分が実際に見たこと聴いたことだけが事実であると思い込む性向は、人間には多少とも常にある。
多くの人にとってより率直に胸に入ってくるのは、合理的な理性よりも非合理的な感性のほうなのだ。
しばしば人間は、ある人の考えそのものよりも、その人の行いの正しさや人格の良さによって、その人の思想にさえも共鳴するようになる。

◆関連記事:「自省史観
 「ベンガルの黒い穴事件

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自慰史観者の弄言 (Mars)
2010-03-20 10:52:27
こんにちは、mugiさん。

歴史的事実や史料を、自分の都合のいいように受け取るのが「自慰」というのであれば、ある事、ない事で「自虐」する事も「自慰」ではないかと思います。また、程度の違いはあったとしても、歴史好きという者は、歴史を知って楽しむ事自体、「自慰」以外のなにものでもないと思います。
(右派を「自慰史観」と名付けた「自虐史観」者は、日本語が若干、不得意な様にも思えます)

歴史は客観性に基いて書くべき、というのは全くの間違いではないと思いますが、ほぼ無理であると思います。また、その立場によって、どちらかに思い入れがあり、全くの客観性に保ちえる事が無理であるのに、そう求める事自体、間違いであると思います。そして、客観性を求める者こそ、客観性などとは無縁だと思われます。

(ま、私も凡人ですので、事実だから信じるのではなく、事実であって欲しいと思う事を信じてしまうのですが、、、(汗))
Unknown (杜若)
2010-03-20 13:15:25
確率論の用語に正規分布というものがあります。歴史の捉え方はまさにこの分布のうちのどの部分を捉えるかによって全然違ったものとなります。
やはり、歴史としての正しい見方はその分布のなかで最も多い事象を捉えるべきでしょう。
歴史の事象分布で裾野の部分は奇談と呼ばれるものであって、そのことを語るならばあらかじめ断っておかなければ誤解を生みます。

自慰史観も自虐史観もその歴史奇談と呼ばれる部分ではないかと思います。
心して、歴史は語らねばなりませんし受け取らねばなりません。
Re:自慰史観者の弄言 (mugi)
2010-03-20 21:43:04
>こんばんは、Marsさん。

 仰るとおり、「自虐史観」側の歴史認識もまた「自慰史観」の極みですが、虚偽の歴史をホルホルしながら、自分達は「愛国主義」と自称、敵側を「自慰史観」と決め付けるのでしょうね。文献を捏造してまでも、「正しい歴史」とするのだから。

 客観性、客観性と強調する者こそ、主観丸出しに見ていることを認めたがらない。歴史事実は共有できても、歴史認識は共有できないといった人もいます。「自虐史観」者は「自慰史観」者に歴史認識の共有というより、強制を求めているのは確かでしょう。常に謝罪と補償を要求、付け入る口実にするため、「自虐史観」を洗脳する。

 私自身も愚人なので、胸に入ってくるのは合理的な理性ではなく、非合理的な感性ばかりです。合理的な人間自体、稀だと思います。
杜若さんへ (mugi)
2010-03-20 21:43:50
 歴史の捉え方に正規分布を応用するという指摘は、斬新でユニークだと感じさせられました。仰るとおり、裾野の部分に拘れば、限りなく奇談となってくる。もちろん、奇談が必ずしも間違っているとは限りませんが、それでもトンデモ説が殆どなのは否めない。

 個人で歴史奇談を楽しむのは問題ありませんが、それを公式に歴史を語る場で持ち出せば、もう収拾が付かなくなる。そして、ある文献、ある識者のみに歴史を拠り所にするのは危うい認識です。
 本当に心して歴史を語るべきでずか、これも言うは易し、行いは…の類です。
Unknown (杜若)
2010-03-20 22:53:25
ただ、私の歴史の見方はやはり自国偏重なんでしょうね。ねずきちの独り言ブログはmugiさんのところでは、とんでもブログでしょうから。

軍国主義が良いとは、いかに私でも思いませんが今の日本のように能天気なのもどうかと思います。
ねずきちさんとこに参加されておられる方もほとんどはまともだと思っています。
ただ、あのブログには言わば、人間社会の葛藤を持ち込めば台無しになるのは確かでしょう。
しかし、それを多くの方は承知のうえだと思います。
一知半解さんが過去の軍国主義を批判されるのも理解できますが、軍隊も言ってしまえば人間社会の縮図でしょう。
人柄もそれぞれ違い、相性もある。今更それを暴き立てても余り意味があろうとは私には思えません。

軍隊も時代と共に変質します。今の自衛隊に過去の日本軍の問題点を当てはめても余り意味をなさないものと思います。(これは一知半解さんのところに書き込むべきかもしれませんが。)
再び杜若さんへ (mugi)
2010-03-21 21:44:10
 自国偏重なら私も人後に落ちませんよ。ねずきちさんのブログ記事なら、一知半解さんのところで取り上げられたインパール作戦関連しか見ておりませんが、違和感があったのは個人的にインドに関心があったからです。私はインド贔屓でも、何よりも自国第一だし、あの国も相当強かです。もし、ねずきちさんが単純に日印友好を願うのなら、いささか考え物。国益のために手を組み、利用するという本心なら結構ですが。

 戦前の軍国主義をよいと思う日本人はごく稀だと思いますし、一知半解さんがそれを批判するのは自由です。もっとも彼の場合、山本七平の受け売りが殆どであり、山本の思想を時に疑問視するという発想が皆無。山本の言葉を引用し、軍国主義や日本社会を批判するのは結構ですが、ならば、どのようにしたらよいのか?日本にだけ殆ど実現不可能な理想を求めているとしか思えません。

 諸行無常の言葉どおり、価値観や軍隊も時代により変わる。旧日本軍の問題点だけあげつらうのは、軍事や国防に対する忌避や嫌悪を招くことに繋がり、結果的に敵を利することにもなると思いますが。
 一知半解さんのブログで貴方の意見を書込みしても、余り意味をなさないと思いますね。彼自身は左右双方のブログでコメントしているようですが、この先も山本の言葉を伝え続けていくことでしょう。