その一、その二、その三、その四の続き
11世紀以来、欧州の隣国であり、日本よりずっと早く近代化の始まったトルコでは、19世紀半ばには既に西洋的な“小説”が書かれていた。オスマン帝国末期の小説家たちは、当時の宮廷語だったオスマン語の言文一致を推し進め、今日のトルコ語の基礎を築いていく。ただ、帝国末期の時代ゆえに文学者たちは政治的・社会的な動きと無縁ではおられず、アナトリアの農民たちを描いた農村小説が主流となる。
トルコ共和国建国後、旧帝国の軍人たちを中心とした共和国首脳部が着目したのか、これまで「田舎者」「野蛮人」等と蔑んでいたアナトリアの「トルコ人」たちだった。ムスタファ・ケマルが始めた言語革命で、言語学者や文化人類学者、そして作家たちはテキンが村で聞かされていた民謡や叙事詩のような農民、遊牧民の口承文学を、外来語に毒されていない「純粋トルコ語」による文化として再発見するのだ。
いくらお上やインテリ層が、アナトリア方言はアラビア語やペルシア語を含まない「純粋トルコ語」と持ち上げたところで、実際に都市に移住してきた農民たちはそのギャップに苦しんだようだ。2007年のインタビューで、テキンはこう語っている。
「我が家の言葉と、都市の言葉の乖離がもたらしたつらい記憶は、一向に消える気配もありません。あの頃は、話す先から我が家の言葉を忘れていってしまったのですから」
20歳を過ぎて作家を志したテキンは、自らの移住体験を語ろうとした時、都市の言葉を用いるのはそぐわないことを自覚し、農村の言葉で作品を書き始めたという。彼女は自らの作品について、こんな発言もしている。
「私は一生懸命に都市と戦い続け、そしてすっかり打ちのめされました。その戦の間、私は自分が一緒に生まれ育ってきたものから遠ざかっていましたけれど、自分自身の価値観や言語、そしてこの心を打って止まない、あの村の人々への絶えざる、狂おしいまでの愛を失わないよう抵抗しました。だからこれは、私が一緒に育った人々からの、私の抵抗へのご褒美なのです」
大都市に出てきた地方出身者が、その方言を嘲笑されるのは何処でも見られる現象だし、東北人も方言では現代でも悩んでいる。都市への順応の第一歩は方言の喪失なのか。
80年代に登場した作家は、社会主義的リアリズムに代り私小説的リアリズムの復権を志し、個人の行動や感情が社会的、政治的問題に優先する現代のトルコ小説の土壌を作り出す。トルコではこれを「ポスト・モダニズム文学」と呼ぶことが多いそうだ。その代表格がノーベル文学賞受賞者のパムクであり、テキンより5歳年上である。
尤もこの2人は対照的な作家なのだ。パムクはトルコ文化の中心地たるイスタンブルの裕福な家庭に生まれ育ち、東西文化の相克という問題を社会思想的な水準で捉え、練りに練った構成に則って描く。典型的な都市のエリート文学者であり、彼のファンにはやはり知識人が多いらしい。
一方、中央アナトリアの農村出身で、「我が家の言葉」という簡易で特徴的な文体を駆使、都市の貧民や食詰めて政治活動にのめり込む若者、暴力に怯える女性、或いは自然破壊など抑圧された人々を描き続けるテキン。
やはり外国人が読むには、パムクの方が分かり易いだろう。ただ、男と女の違いもあるのか、パムクの作品に登場する男たちは総じて自意識過剰のインテリに対し、女が勝気なのは面白い。現代の日本や欧米諸国の小説も同じ傾向があり、東西文化の相克を描くパムクの作品が欧米諸国に評判がよいのが分かる。
対照的に底辺層の人々が登場するテキンの小説では、粗野で暴力的な男たちが多い。男の暴力に苦しむ女も登場するが、女も気性が激しく逞しい…というのが私の印象だった。ろくでなしの男を襲撃、殴ったりすることもある。この辺は頼もしさを感じてしまった読者は、私だけではないだろう。
テキンは処女作発表から現代に至るまで、自分は「ありのまま」の人々の姿を描いているに過ぎない、という主旨の発言を繰り返しているという。彼らが何らかの社会思想、或いは精神的葛藤の中に自らを対置し、それを自覚して生きているとは思えない、とも語っていた。確かに何らかの社会思想、或いは精神的葛藤の中に自らを対置し、それを自覚して生きている人は至って少ない。
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うわぁ、お恥ずかしい…
誤字のご指摘、有難うございます!早速訂正しました。
今回、再読していて、本文の中に「方言」とすべきが「放言」と誤変換されている部分が、幾つかあることに気が付きました。
訂正しておいた方がいいと思います。
テキンはトルコの評論家から、「ディアスボラ作家」と呼ばれたこともあるそうです。大都市に来たアナトリアの農村出身者に“ディアスボラ”という表現は不適切に感じましたが、故郷に戻らない人が大半でしょうね。日本でもかつて中学卒業後、地方から東京に向かった少年少女たちは“金の卵”と呼ばれたことがありました。しかし、一家こぞっての移住ではない。
オルハン・パムクも『無垢の博物館』で書いていましたが、70年代のイスタンブルはまだ観光に来る外国人も少なく、この大都市でも一部を除いて住民は貧しかったそうです。そして当時の男たちは血の気が多く、喧嘩っ早かったとか。
今のブルでも、この小説に見るゴミやスラムが出現しているとは、発展に伴う人類社会の業のようです。またもジプシーが現れ、土地を違法占拠してを作り始めるのは、この物語と同じです。尤も小説では多少住民同士の対立はあっても、警察は介入していない。むしろスラムのトルコ人が、ジプシーの文化を受け入れるのは興味深いと思いました。ブルではまず考えられない現象では?
大都市の知識人が純粋トルコ語を使う人々と称えた農民ですが、都市の学校でアナトリア方言を使う子供はイジメに遭ったようです。テキンも虐めや孤立を恐れ、家の言葉とは違う都市の言葉を話すようになったとか。このようなケース、東北人も同じです(笑)。
「退去」動員とあるのは、大挙動員です。
また、「今のトルコ語と変わった」は、オスマン語から外国語を排除して、現代トルコ語「へと改革された」、と読んでください。
失礼しました。
どうやらこのテキンと言う作家は、丁度小生が社会主義の貧しい国家であるブルガリアの首都で、社会主義が必然的にもたらした物資欠乏社会の中で、苦労しつつブル語を勉強していた頃に、Istanbulに出てきて、学び、作品を書いていったようですね。
小生は1970年春頃、初めて車でイスタンブール市を見学に行ったのですが、トルコも全体的に見ればまだ貧しく、Istanbulも混沌とした、裏通りには貧困が目立つ、そういう感じが何となくしました。とはいえ、表通りとか観光施設などは、立派過ぎるほど立派だし、一見すれば、資本主義国としての繁栄と、大きすぎる軍部への過剰出費で、インフレに喘ぐ国でした。
毎月数%物価が上がるという、呆れたインフレ体質で、理由は50万人規模と、当時のトルコ経済が抱えきれない大軍隊を保有していたかららしい。
しかし、この小説に言うスラム街とか、ゴミ拾いとか、一夜城のような家屋建築は、今のブルにおける問題そのままでもある。最近も、ギリシャ国境に近い、Blagoevgrad県南東部のGqrmenという町の外に、急に出現したジプシーが、土地を違法占拠し、違法建築のを築いていて、周囲のブル人が激怒して、対立が起き、警官隊が退去動員され、違法建築物の破壊などが進められています。
しかし、工場などは、ジプシーは苦手ですから、公害は大勢のジプシーが夜な夜な鳴らす、大音量の音楽騒音です。
ともかく、オスマン語は、アタチュルクの言語改革で、アラビア語、ペルシア語を排除して、今のトルコ語と相当変わったと理解してきたけど、アナトリア農民の言語で書く、テキンさんのような文学も、純粋トルコ語の普及に力を貸しているという、今回の御説明は、興味深いです。