トーキング・マイノリティ

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乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺 その一

2015-07-04 16:40:09 | 読書/小説

 トルコの小説『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』(ラティフェ・テキン著、河出書房新社)を先日読了した。日本でトルコの現代作家といえば、ノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクくらいしか知られておらず、邦訳も殆どなかったが、テキンの著作は欧米や中東諸国では数多く翻訳されているという。特にトルコ国内ではパムクと同世代の「80年代作家」に数えられ、そればかりか彼と双璧を成す代表格と認知されているとか。
 そしてテキンは女性作家なのだ。彼女の2作目の作品『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』で、作家としての地位を確立する。この作品は1984年に発表されており、トルコの大都市のスラム街を舞台としている。テキンは舞台を「トルコの何処ともしれない都市の郊外」としか述べていないが、モデルとなっているのがイスタンブルであるのは確か。物語からトルコの社会情勢はもちろん、スラムを巡る諸問題が浮き彫りになる。

 タイトルには“ゴミの丘”とあるが、ここに住む住民は“花の丘”と呼んでいる。住民の呼称とは正反対に実際にはここは、ゴミの集積場から発展したスラムである。ここに来た住民は先ずゴミ漁りで生計を立てるのだ。住民は豊かな生活を夢見て農村から移住してきた人々であり、「一夜建て」をして暮らしていくのだ。
「一夜建て」とは農村からの不法移住者が国有地などに立てる家屋を指し、夜陰に乗じて一晩で建てられる為こう呼ばれる。着の身着のままで大都会に来た農民たちに部屋を借りられる余裕はなく、彼らは都市郊外に空き地として広がる国有地やその他の公有地に目を付ける。流民たちは人目につかぬよう夜の間にやって来て、数を頼み日が昇るまでの寸暇に家を築くことで、行政が容易に手出しが出来ないよう集団移住を既成事実にしてしまうのだ。こうして朝が来ると昨日まで空き地だった場所に「一夜建て」の街が出現する訳である。

 周囲のゴミも一夜建ての素材として利用され、プラスチック製の器は屋根に、古びたキリムは扉に、防水布が窓ガラス、生乾きの日干し煉瓦は壁に生まれ変わる。雪の舞う晩、人々は松明を掲げながら、丘に積もった雪の上にさらに百軒の一夜建てを築く。
 国家の財産を不当に利用しているため、行政側は彼らを排除しようと解体業者を送り立ち退きを迫る。一夜建てを破壊しようとする業者に移住者の女は手斧を取り上げ、男はスコップを握って立ちはだかる。一夜建てを蹴って壊そうとしていた解体業者は、足の悪い1人の女が見舞った最初の一撃で倒れた。住民たちは解体業者を囲み、じわじわと丘のふもとに追い詰め、いっせいに襲いかかる。たまらず解体業者はつるはしを放り出して逃げた。

 だが、解体業者は戻ってきて争い、今度は反対に住民たちが取り囲まれてしまう。業者は家々の壁や家具を全て壊し、日が昇ると住民たちをトラックの荷台に詰め込み、何処かへ連れ去った。トラックに詰め込まれて連れ去られたはずの住民は、それでも昼過ぎには丘に戻り、猛然と一夜建ての再建を始める。
 解体業者はその後もトラックやブルドーザーで一夜建てを破壊するため丘に来るが、住民との一ヶ月以上の争いでついに来なくなった。そして解体が取りやめになった聞きつけた人々が何百人も大挙して押し寄せた。村々から農民たちは後から後からやって来て、大都市に一夜建てを作り上げる。このいたちごっこの末、国はしぶしぶ不法移住者たちの存在を見逃さざるをえなくなっていくのだ。かくして一夜建ての街は急速に拡大していった。

 アナトリアの農村地帯は教育格差や苛烈な地主支配、伝染病、迷信が蔓延り、何よりも貧困に覆い尽くされた土地だった。しかも、農村部の貧困は第二次世界大戦後、加速度的に進行していったという。連合国側として終戦を迎えたトルコは、引き続き西側諸国の一員として共産圏に対する中東諸国の防波堤の役割を担うようになる。その見返りはマーシャル・プランによる莫大の援助金。それが投じられた先は農村の機械化事業だった。今日、東地中海圏有数の農業輸出国となったトルコの基礎は、1940年代から50年代にかけて築かれたのである。
 しかし、農業生産力の工場とは裏腹に、トラクターやコンバインのような機械が小作農民たちの職を奪い、やがて食い詰めた農民たちは流民化、仕事を求めて都市部へとなだれ込むようになる。
その二に続く

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