トーキング・マイノリティ

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佐藤賢一氏のナポレオン その二

2022-01-10 22:20:05 | 読書/小説

その一の続き
 私的に本書で一番面白かったのは、②野望篇でのエジプト遠征。“エジプト遠征”で誤解されているが、正式にはこの遠征の名称はエジプト・シリア戦役であり、文字通りシリアにも侵攻していた。
“エジプト遠征”で圧巻なのは、ピラミッドの戦い。対するマムルーク軍はオスマン帝国のみならず中東最強の騎兵集団でもあった。単に武力だけに秀でていたのではなく、マムルーク騎士たちは挙って容姿端麗、煌びやかな衣装をまとって戦場に臨む様は中世の騎士さながら。ナポレオン以下フランス兵も敵軍に見とれる有様。

 だが、絵にかいたようなマムルーク騎士たちは、近代的装備のフランス軍に完敗する。「1500騎のマムルークを壊滅させた激戦であったにもかかわらず、フランス軍の死傷者はわずか数十名であったという。」(wiki)から、銃剣を装備した歩兵を主体とし方陣隊形に騎兵は歯が立たなかった。16世紀のチャルディラーンの戦いでも騎兵は鉄砲隊の前に敗れ去ったのに、マムルークが健在だったのは不思議だ。

 当時でも最重要都市だったアレクサンドリア上陸後、僅か3週間でエジプト征服をほぼ完了したフランス軍。アレクサンドリア占領後、フランス軍はアラビア語による布告を出し、住民に向けて自らが「解放者」であることを広く宣伝する。
 しかし、カイロ入城から3か月後にはフランス軍に対する暴動が発生する。フランス兵300名が暴徒によって殺害されるが、エジプト人も2,500人以上がフランス軍に殺された。暴動鎮圧のため、スンナ派最高権威施設であるアズハル・モスクにも攻撃を行う。これが現地人の憎悪をかったのは書くまでもない。

 さらに駐留フランス軍は現地の習慣を無視して飲酒したり、マイノリティであるキリスト教徒のコプト教徒を統治機構で重用する。フランス占領軍の振舞に、21世紀のアフガンやイラクでの米軍に通じるものがあると感じた読者は私だけではないだろう。
 ただ、アレクサンドロスを倣ったにせよエジプト遠征に当たりナポレオンは、167名の科学者や建築技術者からなる学術調査団を同行させている。21世紀の米軍が学術調査団を同行したという話は寡聞にして聞かない。

 ロシア遠征がナポレオンの転落のきっかけになったことは知られているが、焦土作戦はロシア軍の十八番だった。仰天したのは載っていたロシアの諺、「一夜の寝床を貸すのが嫌で、自分の家に火をつける」。ナポレオンならずとも「なんたる……」と絶句する。
 この遠征は大陸軍の人的被害が注目されるが、地域の住民の死傷者は軍隊を上回り、ロシア軍は恐らく45万人を失ったことがwikiに載っている。民間人の犠牲を顧みないのもロシアの十八番だが、おそロシアとはよく言ったものだ。

 フランス戦役で退位に追い込まれ、エルバ島への追放が決まった後、ナポレオンが服毒自殺を図り、失敗していたこと(1814年4月14日)は本書で初めて知った。しかし翌年のワーテルローの戦いで完敗、百日天下に終わった。
 何となく彼の動機は皇帝の座への我執と思っていたが、オーストリアに囚われの身となっている妻子を取り戻すためだった……というのが本書での解釈。確かにナポレオンは家族愛の強い男でもあったし、著者の見方は当たっているかも。

 エピローグではナポレオンの遺骸のパリ帰還(1840年12月15日)が描かれる。棺は廃兵院に安置されたが、それまでの19年間は何の文字も刻まれぬ墓石の下、セント・ヘレナ島に埋葬されていたそうだ。ナポレオンの遺言のひとつに、「私は私の遺体がセーヌ河の辺(ほとり)に安置されることを望む。私が愛したフランス人たちのただなかに」があり、19年目にして実現したのだ。
 ナポレオン戦争では欧州で5百万人くらいが死傷したと考えられており、特にフランスはその前のフランス革命革命戦争での犠牲者は数十万と見られ、若年層の人的被害は甚だしかった。
 にも関らず、死後はナポレオン時代の回想録はベストセラーとなり、フランス国民はナポレオン熱に憑かれる。本書ではその社会世相をこう記している。

それは痛快きわまりない人生だった。一介の軍人にすぎない若者が、己の努力と才能で出世していく。少なからず強運にも恵まれて、やがては政治の世界も制する。それも大統領だの、総理大臣だの、再考の地位ではあるけれど役人にすぎない身に甘んじるのではなく、皇帝として自ら君主の位に就いたというのである。
 勢い、それは栄光に満ちた時代にもなった。イタリアを解放し、エジプトに覇を唱え、ドイツを従え、スペインまで押さえて、フランスはヨーロッパ大陸の紛れもない盟主だった。
 こんな人はいない、こんな時代は来ない。いや、こんな人になりたい。こんな時代を取り戻したい。募るばかりの思いから、フランス人はナポレオン熱に冒された。いや、ナポレオン崇拝にさえ憑かれた。」(③497-98頁)

佐藤賢一さん「ナポレオン」インタビュー 民主主義のひずみの原点、フランスの英雄からたどる」という著者へのインタビュー記事も興味深いが、日本では絶対にナポレオン型の英雄は生まれないだろう。
 ナポレオンは年をとるにつれ、肥満し頭髪が薄くなるが、本作でも薄毛に悩むナポレオンの心情が描かれていたのには笑える。『カエサルを撃て』『小説フランス革命』でも薄毛を気にする登場人物が出てくるが、佐藤氏はそのような男の心理描写が実に巧いと改めて感じた。

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18 コメント

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Unknown (mobilis-in-mobili)
2022-01-12 22:59:17
拙ブログで『補給戦』という本を紹介したことがありますが、ナポレオンこそが最初にロジスティクスを考えた将軍だった、と。
それまでの軍隊は食糧は現地調達なので、食糧のある方向に進路を変えながらフラフラと進軍するしかなかったのだ、と。
ロシアでの敗退は、冬期の想像を絶する悪路と泥濘のせいでした。広大なロシアに侵攻した結果、補給線が伸びきり、悲惨な結果を招きましたが、非凡な軍事の天才だったのは間違いありません。
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mobilis-in-mobili さんへ (mugi)
2022-01-13 22:30:46
 最初にロジスティクスを考えた将軍こそがナポレオンだったのですか?『ローマ人の物語』では古代ローマ軍もロジスティクスを重視していた印象がありますし、カエサルもガリアでは現地調達よりも物質を現地部族から購入していたような……

 軍事に疎い私でも、ナポレオンが非凡な軍事の天才だったことは理解できます。本書の巻末にはナポレオン関連年表が載っていて、戦争では殆ど勝っていました。『補給戦』に目を通しましたが、ナポレオンは「戦争においては、精神と物質との関係は3対1である」と言っていたそうですね。
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こちらでもナポレオンの伝記 (スポンジ頭)
2022-01-15 11:54:08
 子供向けのナポレオンの伝記ですが、士官学校を卒業したあとは順風満帆に出世していくのです。士官学校でも二組に分かれて戦う雪合戦を巧みに指揮して勝利します。

 革命後の話だと、「おだやかな考え方をする人たちとはげしい考え方をする人たち(ジロンドとジャコバンですね)」が出てきて、「激しい考え方をする人たち」の勢いが強くなって政治が混乱した話が出てきました。その混乱を抑えてフランスでの人気が高まり、圧倒的大差で皇帝に選ばれた、と言う展開です。その後は戦争に勝利しても、イギリスに負け、ロシア遠征で敗北し、最後はセントヘレナで死去したと言う話です。ワーテルローの戦いがあったかどうかは覚えていません。スペインへの侵攻はなかったと思います。ハイチ独立戦争はありましたが、ナポレオンを悪くは書いていませんでした。

 ロシア遠征では農民たちが襲いかかってきた話が紹介され、伝記のストーリーはそれまで民衆とともにあったナポレオンが、民衆から反抗される話となっていました。そこに至るまでのトラブルは子供には難しすぎるので省かれたのでしょう。しかし、ロシアの損害は恐ろしいですね。日本で45万人以上の損害が出たのは太平洋戦争しかありませんよ。

 士官学校の友人としてブーリエンヌの名前はありましたが、その他の政治家の名前は覚えていません。ジョセフィーヌとの結婚話もあったかどうか思い出せません。

>こんな人はいない、こんな時代は来ない。いや、こんな人になりたい。こんな時代を取り戻したい。募るばかりの思いから、フランス人はナポレオン熱に冒された。いや、ナポレオン崇拝にさえ憑かれた。

 ツヴァイクの「ジョゼフ・フーシェ」では、ナポレオン敗戦の後始末をするフーシェに浴びせられた悪評を「不当」と評しています。ナポレオン伝説が不当にフーシェを貶めている、と。ナポレオンが与えた被害が収まり、自分が痛い目を見る必要がないから熱狂する(大意)、と言う意見でした。この意見に同意します。英雄の話は自分が被害に遭わない限り、とても痛快で面白いものです。ナポレオン伝説だと、ナポレオンの敗北は味方の裏切り者のせい、と言う発想になっているのですね。その裏切り者の一人として語られるのがフーシェなのです。

 皇帝になったナポレオンはインドを支配して世界の王になる、と信じていました。ここまで来ると誇大妄想ですが、そう思えるだけの業績があったのは間違いありません。しかし、徴兵されるフランスの民衆の事も考えてほしいところです。ツヴァイクも終末期のナポレオンがむやみな徴兵をしようとするのを非難していました。

 しかし、それはともかく、ナポレオンの人生はあらゆる国で語られて行くのは間違いありません。古今支配者なれない身分から支配者になった例はありますが、最盛期の華やかさと、終末の没落の対比がこれほど鮮やかな人物もいないでしょう。
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Unknown (牛蒡剣)
2022-01-15 22:32:21
>騎兵は鉄砲隊の前に敗れ去ったのに、マムルークが健在だったのは不思議だ

19世紀中葉に後装式の小銃や機関銃までは歩兵側が戦術や陣形をしくじると(方陣を敷くのが遅れるとか)騎兵の突撃で大逆転ということは結構起きてます。馬のスピードを時速60kmとすると1分で1km。前装式銃だと1分で1~3発ぐらい限界でナポレオン戦争時のマスケット銃も大体同じ発射速度です。しかもライフリングがないので精々狙ってあたるのは50mぐらい。一発撃ったら踏み込まれるの確実です。競馬場を想像してください。全力で走ってくる馬の群れを一発撃ったらもはや銃剣という名の短めの槍で何とかするしかない!これを銃剣で何とかするなら相応の度胸と規律 訓練を高度につんでないとまず踏みとどまれません。あるいはフランス軍のような国民軍で高い士気をもっていないと。そんなわけで勇敢で能力の高い騎兵はまだまだ
侮れなかったのです。恐ろしいことに条件ががっちりハマれば1919年のポーランド・ソ連戦争(ww1の直後ですから勿論機関銃もあれば連発銃ある)ではポーランド騎兵の突撃で大逆転勝利なんて例すらあるのです。
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Re:こちらでもナポレオンの伝記 (mugi)
2022-01-15 22:45:23
>スポンジ頭さん、

 子供向けの伝記では、やはり理解しやすいように内容を端折ったり、都合の悪い面には触れないようになりがちですよね。ジロンドとジャコバンを、「おだやかな考え方をする人たちとはげしい考え方をする人たち」と表現していたことはさすがです。本書ではスペインへ侵攻はあっても、何故かハイチ独立戦争はありませんでした。

 エルバ島脱出後、王党派支持者の多いプロヴァンスで市民が殺意むき出しに敵対したことが描かれています。第二次世界大戦で最も人的被害が多かったのも旧ソ連で、45万人どころではありませんでした。

 本書でもナポレオンの敗北は味方の裏切り者のせい、という描き方でした。フーシェは“敵役”で、退位したナポレオンに横柄な口をきく尊大無礼な男になっています。対照的にタレイランはそれほど悪い描き方ではなかった。

>>皇帝になったナポレオンはインドを支配して世界の王になる、と信じていました。

 アレクサンドロスに憧れていれば、インド支配を目指すのは当然でしょうね。神のお告げを聞いてアレクサンドロスも自分を神の子と思い込みましたが、誇大妄想がなければ大遠征はやれなかったはず。

 活躍した時期が比較的近いため、今でもナポレオンはあらゆる国で語られていると思います。あの時代に下級貴族から皇帝にまで上り詰めた人物はいないし、フランス人は現代でもナポレオン崇拝に憑かれているのかもしれません。
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こちらでもナポレオンの伝記 その2 (スポンジ頭)
2022-01-15 23:26:22
> 子供向けの伝記では、やはり理解しやすいように内容を端折ったり、都合の悪い面には触れないようになりがちですよね。

 バスティーユ襲撃も書かれていたかどうか、思い出せないのです。確かに直接関係ありませんが。ジャコバンやジロンド、と言っても子供には分かりませんし。
 ハイチ独立戦争で指導者のトゥーサンを拷問していますが、子供向けの本だとナポレオンはトゥーサンの理解者として描かれていました。違うでしょう。スペインと比較してハイチはナポレオンの命運に関わらないので、佐藤氏は省いたのかも知れません。それに戦争の経過を考えると、いいとこなしの話でしょうし。

 ナポレオンはラ・ペルーズの航海にも志願していたといいますが、行ったら皇帝ナポレオンは存在しません。この辺りは本当に運ですね。

>ナポレオンが服毒自殺を図り、失敗していたこと

 「ナポレオン 覇道進撃」でもこの話があるそうです。正直意外でした。ちなみに、タンプル塔で国王裁判の最中だったルイ十六世も自殺を警戒されていましたが(だから食事中ナイフも使えない、髭も剃れない)、こちらは「自殺なんかしない」と言っていました。英雄と言われる人間と、気弱なイメージのあるルイ十六世の行動が逆なのも面白いところです。

> エルバ島脱出後、王党派支持者の多いプロヴァンスで市民が殺意むき出しに敵対したことが描かれています。

 これは知りませんでした。マリー・テレーズも白色テロを行える訳です。ナポレオン関連の本で、当時(?)の公爵がマリー・テレーズの行動について、「(敵に対する)赦しが必要」と評していました。確かに正論ですが、この発言を紹介した著者も「(マリー・テレーズには)無理」と述べていました。マリー・テレーズを止められる者は誰一人としてこの世に残っていません。

>フーシェは“敵役”で、退位したナポレオンに横柄な口をきく尊大無礼な男になっています。

 用済みの道具ですからね。その後、彼もフランスから追放されて流浪の身となりますが。個人的には、ナポレオンに対してフーシェが恩義があるかどうかといえば、ないと思います。お互い能力があるから使い使われていた訳で。心底彼を憎んでいたマリー・テレーズは、一時期叔父のルイ十八世とフーシェの件で険悪になっていたそうです。

 タレイランは自身の遺言状で、「ナポレオンを名乗る人が貧窮していたら助けるように」と言い残しました。それにナポレオンも彼を根本的に嫌ってはいないので、そこまで悪く書かれていないのだと思います。

> 活躍した時期が比較的近いため、今でもナポレオンはあらゆる国で語られていると思います。

 頼山陽もナポレオンに関する詩を残しましたし、あのころに日本まで名前が知られていたナポレオンは大したものです。
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Unknown (アミ)
2022-01-16 00:16:31
今、「ナポレオンに背いた黒い将軍 忘れられた英雄アレックス・デュマ」(白水社)を読んでいる最中なのですが、カズハル・モスク攻撃の主役はデュマ将軍だったそうです。デュマが馬でモスクに突入した時、暴動の首謀者たちは、デュマをイスラム教典に出てくる死の天使だと思い込み、「天使だ!天使がやってきた!」と叫んで逃げ出したというのです。
遠征軍に従軍した軍医長によると、白人軍隊の先頭に立って進軍する高身長の黒人のデュマは目立ち、地元のイスラム教徒は、彼が遠征軍の司令官だと思い込んでいたそうです。痩せて貧相で低い身長のナポレオンと対照的だったから、なおさら印象が強かったのでしょう。
後に、ナポレオンが、このカイロ暴動鎮圧の絵を描かせたとき、デュマは描かれておらず、「いなかった」ことにされてしまいました。
ナポレオンは、デュマと仲たがいし、部下たちにデュマの名前を口にすることすら禁止しましたが、人種差別と言うよりは、倫理観の高いデュマは、ナポレオンと対立することが多く、正面から意見するデュマを煙たがったというのが、真相のようです。
デュマは奴隷として売り飛ばされながらも、父親の気まぐれで買い戻され、貴族の子弟として教育を受け、フランス革命の激動の時代を背景に将軍にまで上り詰めましたが、人の人生を決めるのは、本人の資質や特性だけでなく、生まれた時代や国や親の意向など、本人以外の要因が深くかかわっているのだと思いました。
ナポレオンもフランス革命が起きなかったら、下級貴族の子弟として冴えない人生を送ったかもしれません。
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牛蒡剣さんへ (mugi)
2022-01-16 22:45:40
 そういえばナポレオンも騎兵をかなり使っていましたね。義弟も勇敢な騎兵隊長だったし、ポーランド騎兵はフランスに忠実で数々の武勲を挙げていました。

 1919年のポーランド・ソ連戦争のことは知りませんでした。ロシアにやられっぱなしのイメージのあるポーランドが大逆転勝利とは意外です。尤もウクライナはとばっちりを食ったようですが。
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Re:こちらでもナポレオンの伝記 その2 (mugi)
2022-01-16 22:49:28
>スポンジ頭さん、

 ナポレオンがラ・ペルーズの航海にも志願していたことは初めて知りました。もし乗船していたら皇帝どころか将軍にもなれなかったでしょう。皇帝になるまでは強運の持ち主としか言いようがありません。
 私もナポレオンが服毒自殺を図っていたことを本書で初めて知りました。一方ルイ16世は敬虔なカトリックなので、「自殺なんかしない」と言ったのは本心だと思います。英雄は追い詰められると自殺を図るようですね。

 プロヴァンス市民に囲まれたナポレオンが、恐怖で震えるシーンもあります。軍隊も武器もないため、恐ろしいと思うのは当然ですが、ナポレオンと気付かない宿屋の女将が彼を憎む理由として、彼女の息子や甥を含め大勢のフランスの若者を死なせたからと言っています。
 創作なのか史実かは不明ですが、このような市民は少なくなかったと思います。これではマリー・テレーズが白色テロを行ないやすかったでしょう。もし父が遺言で「敵に対する赦しが必要」と述べていたら、彼女はそれに従ったでしょうか?

 フーシェは一時は臨時政府首班になりますが、それも百日天下でした。タレイランが遺言状でナポレオンについて言い残したことは知りませんでした。フーシェなら絶対に言いませんね。
 異性にだらしのなかったタレイランと、妻には一途だったフーシェ。同じマキアヴェリストでも生き方は対照的です。

 頼山陽がナポレオンに関する詩を残していたのも初耳です。あの時代の日本まで名が伝わっている人物はまずいませんよ。
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アミさんへ (mugi)
2022-01-16 22:51:30
 アレックス・デュマは文豪大デュマの父でしたね。本書にはアレックス・デュマは登場していませんが、佐藤氏はこの人物を主人公にした歴史小説を書いています。私は未読ですが。

 デュマがアズハル・モスク攻撃の主役だったことは知りませんでした。これほどの功績がありながらカイロ暴動鎮圧の絵には描かれず、「いなかった」ことにされてしまったのは悲しすぎます。wikiにもこんな一文がありました。
「ナポレオンはトマ=アレクサンドルの未亡人の終身年金下付の請願を拒否しており、残された妻子は困窮した生活を余儀なくされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%9E

 この人物も波乱万丈な人生でしたが、仰る通り生まれた時代や国、親の意向など運によるところが大きいですよね。もし父が英国人貴族だったら、将軍には絶対なれなかったはず。英国人とインド女性との混血児(アングロインディア)なら無理でした。
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