その一、その二、その三の続き
“アカ”といえば、日本では共産主義者や左翼を指すが、トルコでは主な3つの政治団体は全て赤をシンボルカラーとしている。60~70年代のトルコでは左派はもちろん、民族主義者やイスラム主義等の保守系勢力もまた、勢力拡大のため一夜建ての街に入り込んでいたという。赤い共産旗を振る労働組合、赤地のトルコ国旗を掲げる民族主義者、そして赤頭(あかあたま)と呼ばれるイスラム系の人々。
この物語では60年代以降、激化していく政治的武力闘争が赤の三つ巴合戦に託され、象徴的に描かれている。こうした一夜建ての街における草の根運動は今でも盛んらしく、現政権与党の座にある公正発展党なども、一夜建てから大量の票を得て躍進したと言われている。
15章は“赤頭”と花の丘住民を巡る話であり、後者がイスラム主義者を“赤頭”と呼んでいるのは可笑しかった。中東史に関心のある方ならピンときただろうが、赤い帽子を被ったサファヴィー朝ペルシアのシーア派騎兵クズルバシュ(赤頭の意)のことなのだ。もちろん花の丘に来た“赤頭”は赤い帽子を被っておらず、シーア派かも不明である。むしろ新興宗教的なイスラム勢力の寓話のようだ。
普通は緑がイスラムのシンボルカラーとなっているが、トルコでイスラム主義者といえば、赤というのは興味深い。中東最強の騎兵としてオスマン帝国の脅威だったクズルバシュも、中東版長篠の合戦のチャルディラーンの戦いで惨敗を喫し、衰退したはず。それでも尚、得体のしれぬイスラム勢力を“赤頭”と呼んでいるのか。ちなみにサファヴィー朝ペルシアの騎兵でも、クズルバシュはトルコ系である。
花の丘にやってきた怪しげな長老に、1人としてまともに取り合わなかった住民は現実的だが、一夜建ての街を築いた後にモスクを建て、手始めにブリキ缶を積んでミナレットをつくるのは流石ムスリムと感じる。そして水乞いの願掛けをしたり、聖者と見なされた老人の手や杖に触れようとするのは、ムスリムが偶像崇拝者と愚弄する多神教徒と変わりない。元々保守的なアナトリアの農村から来た住民の間には、しきたりやら迷信が蔓延り、赤ん坊の羊膜を幸運のお守りとして大切にする。
著者ラティフェ・テキンは1957年、中央アナトリアのカイセリ県のカラジャフェンクという村の農家に生まれた。トルコ系農民の父は、彼女が物心がついた時には都会へ働きに出ていて殆ど家におらず、テキンはクルド系の母が語る故郷の話に耳を傾け、または家の居間の長椅子の下に潜り込み、村の男たちが話すおとぎ噺に心躍らせていたという。
時折父が持ち帰る時計やラジオ、蓄音機といった都市の「魔法の産物」に目を見張る、夢見がちな村娘として育ったそうだ。奇想と現実が入り乱れるテキン作品の底流は、こうした幼児体験に遡る、と翻訳した宮下 遼氏は述べている。
それにしても、クルド系女性の妻を持つトルコ系農民がいたとは意外だった。トルコのクルド人といえば、分離独立運動を連想する人が少なくないが、庶民同士では結婚していたのか。トルコ東部となればクルド人も多く、クルド人と結婚したトルコ女性もいるのだ。
テキンが両親と兄弟姉妹、総勢9人の大家族でイスタンブルへ移住してきたのは9歳、1966年のことだった。左派と右派の武力闘争が激化していた70年代に青春を時代を過ごしたテキンは、ベシクタシュ女子高校に在籍しながら自らも抑圧された女性たちの解放を目指し左翼活動に傾倒する。
高校を卒業後、一時期は公務員として働き、その後結婚、息子を授かる。当時、政治や文学活動に関心を寄せる友人たちが絶えず出入りする狭い家で、暮らしていたテキンは、1983年に処女作を発表、翌年に出版したのこそ『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』なのだ。この2作で新世代の若手作家として脚光を浴びる。また、この頃は映画の脚本も手掛け、幾つかの脚本賞を受賞している。その後、2014年に至るまでに合計8篇の長編小説、脚本1篇を発表している。1997年にボドルムの田舎に移住して以降、環境問題やフェミニズムに関心を寄せる作品に取り組んでいるそうだ。
農村から都市への移住者たちの困苦を描いた処女作と『乳しぼり娘~』だが、プロレタリア文学という評価はされていない。ある批評家は、それまでのトルコ文学の中心であった農村小説の正統な後継作と称え、また他の評論家はトルコの民謡や口承文学といった伝統文化を織り交ぜつつも、マジックリアリズムという新風を文学界に吹き込んだ気鋭の閨秀作家と持てはやしたという。今日の評論家の多くは、パムクと並ぶ「ポスト・モダニズム文学」の先駆者と位置付けているとか。
その五に続く