トーキング・マイノリティ

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トルコの言語革命 その①

2010-08-19 21:10:54 | 読書/中東史
 トルコ革命を断行し、トルコを世俗国民国家に変貌させた初代大統領ムスタファ・ケマル。そのケマルの行った一連の革命の中でも、書き言葉のみならず話し言葉さえ変えたことは最大級の改革のひとつだった。トルコ帽や女性がヴェールで顔を覆うことの禁止よりも、言語革命の方が計り知れない影響があったと思われる。

 1928年、ケマルは憲法修正案を議会で可決させ、ついにイスラム教を国教とするという条文を憲法から削除させた。これで政教一体が原理だったイスラム式支配体制は完全に崩壊、信教の自由化が認められたのだ。聖職者は別だが、これに対し国民はほとんど抵抗もしなかった。かくして政教分離という革命政策は法的に決着する。続いてケマルが打ち出したのが、アラビア文字からローマ字表記への切り替えだった。
 トルコ人は長らくアラビア文字を使いトルコ語を書いてきたが、この2つの言語は文法構造が全く異なっており、根本的に無理な借用だった。トルコ語は日本語もそれに近いアルタイ語グループに属しており、日本語と同様母音が文法上で重要な働きをする。ところが、アラビア語はヘブライ語などと共にセム語派に属し、その文法上の特徴は、「子音が主役で、母音は脇役に過ぎない」ということである。

 アラビア語では原則として母音はa、i、uの3つしかなく、しかも、書き言葉では母音を省略して書き、適当に母音を補って読むのが普通だった。例えばムハンマドをローマ字で書けば、「MHMD」と書き、読む場合は母音を補う。子音が文法上で主役を演じる言語だから、殆ど不便はないという。そして、アラビア文字では同じ子音を独立形、語頭形、語中形、語尾形の4つに書分けねばならない。
 しかし、トルコ語なら事情が異なる。仮に「gl」と書かれていたら、それがgel(来い)か、gül(バラ)か、göl(湖)なのかを、前後の文脈から判断する他ない。

 さらにトルコ語の特徴の1つに、奈良時代の日本語まではあった「母音調和」という現象がある。トルコ語の動詞は日本語と同じく語幹と語尾で構成されていて、我々の動詞と同じように、「走った」「走るでしょう」「走りたい」式に、語尾の変化で「過去」「未来」「意志」などを表現する。そして、その語尾変化で使われる母音は、動詞の語幹の最後の母音で決まるというのが、トルコ語の母音調和の一例である。だが、この文法上の重要な法則がアラビア文字ではまるで表現できない。

 以上のような点からも、元々トルコ語をアラビア文字で書くことは無理があったのだ。従ってオスマン帝国の末期において、トルコ人の識字率が人口の1割にも達していなかったというのも不思議ではない。日本語も漢字から仮名文字を作り、双方使用しなければ、読み書きできる国民はかなり少なかっただろう。トルコ人が日本人のように独自の文字を作らなかったのは、神聖なるアラビア文字への冒涜という観念があったのだ。
 ケマルはトルコ人の文盲事情をよく心得ており、それゆえ「トルコ言語協会」を設置、トルコ語のローマ字表記方法について審議を命じたのである。

 だが、トルコ言語協会はトルコ語を表記するのに相応しいローマ字をなかなか考案出来なかった。それというのも、トルコ語は8つの母音と 21の子音から成るが、欧米諸国の文字にピタリと当てはまらないトルコ語独特の母音や子音があり、どうしても変形ローマ字を考案せざるを得なかったのだが、それについて議論百出する始末。しかも、知識人たちは帝国時代同様、空理空論に走りがちだった。
 ついに業を煮やしたケマルは、ついに自分でトルコ語独特の母音と子音のための変形ローマ字を考案、新しいアルファベッドを完成させる。 1928年7月のことだった。ケマルはその新しい文字を議会で発表、それがいかに便利で合理的なものであるかを議員たちに納得させ、新文字の採用を議決させる。

 続いてケマルは全国各地で新文字講習会を開かせ、自らも「先生」として村や町を飛び回り、新しい文字を教えた。農民やその子供たちを前にし、トルコ式ローマ字を黒板に書いて教えるケマルの写真が数多く残っているが、「文盲退治」への彼の闘志は、かつての連合国軍に対するもの以上に強いものだったという。
 新文字普及活動で、農民たちが一足飛びに全ての文章が読み書きできるようになった訳ではない。しかし、少なくとも自分の名前程度は書けるようになったし、それも出来ないことは恥と見なされるようになった。
その②に続く

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