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モサッデク-アメリカに潰されたイラン首相 その②

2007-08-13 20:27:07 | 読書/中東史
その①の続き
 まだ英ソが協同統治していた第二次大戦中の1942年から翌年にかけ、イラン国内の多くの地域で深刻な飢饉が発生した。さらに連合諸国が戦費調達のため乱発した貨幣でひどいインフレに陥り、輸入停止で消費物資が極度に欠乏、社会不安が増大した。
 そこで国王モハンマド・レザーは、それまで殆どイランに介入していなかったアメリカに援助を求めることにする。43年アメリカが援助物質の護衛も兼ね、2万8千人規模の「ペルシャ湾軍」をイランに派遣、彼らは戦後もイランに留まり、軍や警察部隊の訓練に携わった。財政改革にアメリカ人が財務大臣に任命され、多くのアメリカ人が顧問として政府機関に採用された。

 石油国有化に猛反対したイギリスは油田、製油所を閉鎖、職員・技術者を引き上げ、アメリカに仲介・介入を求める。以前からイラン石油の独占支配を狙っていたアメリカがこれを利用しないはずがない。
 一方、国王は国有化法案を裁可するも、その後の民族運動の高揚に不安を感じ、米英の圧力に同調する態度を次第に採り始めたため、モサデック率いる民族運動側と激しく対立する。モサデック側は全ての権限を握り、一時は国王より優位を保った。

 だが、国有化の結果、石油生産は激減、生産された石油も国際石油資本側の妨害で輸出できず、石油収入に国家財政を依存するイラン政府は大打撃を受ける。国際的に孤立化させられ、イラン経済は危機に陥り、生活水準は著しく低下、民衆の間に不満が高まる。
 53年春以降、国王側とモサデック派との対立は一層激化し、同年8月国王親衛隊によるモサデック政権打倒クーデター計画が発覚して失敗、国王はモサデック首相解任を伝えるが拒否されたため、同月16日ローマに脱出する。

 国王の命を受けていたザーヘディー将軍は19日にCIAの支援でクーデターを起こし、モサデック体制を倒し、自ら首相に就任する。この時CIAの中心となったのは、イランの軍事顧問を務める陸軍准将ノーマン・シュワルツコフであり、後の湾岸戦争での多国籍軍司令官の実父である。父子が中東で重大な任務を担うのも因縁より、アメリカとの密接な関係に基づいている。

 CIA工作員たちは石油国有化以来、イラン各地で反モサデックの市民運動を煽動していた。意外にもモサデックは全国民の支持を得ていたのではなく、近代化政策を取ったため神学者をはじめとする宗教指導者から支持されてなかった。イランで宗教指導者に背を向けられるのは、致命的である。また、モサデックを共産主義者呼ばわりした英米メディアもあった。

 こうしてイラン民族運動はアメリカの介入・支援の下で国王側の反動勢力により潰され、国王は一週間後に帰国した。この事件以降国王とアメリカとの関係は一層緊密なものとなり、イラン軍の装備は次第に英米両国の兵器によって占められていく。冷戦下においてイランは完全に対ソの軍事基地と化し、これはイラン・イスラム革命まで続く。
 首相を解任され、逮捕されたモサデックのその後は、私の見た本では書かれておらず、ネット検索してもヒットしなかった。死亡が67年なので、権力の座から追われて十年以上は生きていたとなるが、どのような想いで死を迎えたのだろう。

 石油国有化運動を境に国王は従来の「デモクラシー体制」を一変して強力な独裁体制を採るようになり、57年に悪名高い秘密警察サヴァク(SAVAK)を発足させ、完全に言論の自由を封鎖、民主勢力を徹底弾圧したのも、デモクラシーの国アメリカのお膳立てがあるからこそ。
 歴史にイフは禁句とされるが、もしイランが石油埋蔵国でなかったら、その歴史は大きく変わっていたのは確かだろう。映画「シリアナ」で、社会改革運動の理想に燃える産油国の若き王子は車もろともCIAにより爆殺される場面があったが、あながち映画特有の誇張ばかりではなさそうだ。

 中近東を統治、というより長年に亘り禍の種を蒔き続けていたイギリスが、第二次大戦後影響力が低下するや、アメリカが代わりに台頭したに過ぎず、現代なおアメリカは紛争を起こし続けている。欧米人はとかく中東の指導者を独裁者呼ばわりするが、国益になることが多いので独裁者の方とむしろ手を組む。欧米人歴史家が専制君主型と低評価しがちのオスマン朝トルコの政治体制は、長年パクス・オスマニカを実現させていた。
■参考:「シーア派」(桜井啓子著、中公新書)、「滔々たる文化の流れ」(黒柳恒男教授のイラン史)

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