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英露の覇権争いにより…

2007-05-10 21:22:16 | 読書/中東史
 先日「イラン人が見た明治の日本」と、それに合わせて「明治の日本人が見たイラン」という記事を書いたが、前者を読まれた人からこのようなコメントがあった。
「お金がほしい、貧乏よりは金持ちがいいというのは、わりと自然な人間の気持ちでしょう。だから、イラン人は素直にそれに従う(または翻弄される)。一方、お金を要求しない、渡しても断る当時の日本人は、節制の精神が強かったのではないでしょうか」
 私の記事だけ読めば、このような感想を持つのも仕方ないが、イラン人が金欲に翻弄されたのは、日本の比でない国内の凄まじい混乱が背景にあったのだ。そしてイランの混乱に拍車を掛けたのが英露の角逐だった。

 19世紀のイランは西欧列強、特に英国、ロシアの帝国主義の対象となり、その覇権争いに巻き込まれる内憂外患の時代だった。英国はインド確保のため、イランを利用しようとする。プラッシーの戦い(1757年)で英国に破れインドから撤退したフランスも、インド遠征を諦めておらず、1807年イランとの間で条約を結ぶ。この条約はイランとロシアの抗争で、フランスがイラン側を援助するはずだったが、その後まもなくフランスはロシアと講和条約を結び、条約は死分化した。そこでイランは英国に頼る方針に転じ、1814年英イ条約を結ぶ。

 19世紀にイランの最大の脅威であり敵となったのは帝政ロシア。南下政策が本格的に開始されたのは19世紀初頭からであり、イラン北部のグルジア地方に侵攻、併合する。イランはロシアと2度に亘り戦うも(1805-13年、1827-28年)共に敗戦。コーカサス地方の主要領土をロシアに奪われた挙句、1828年締結されたトルコマーンチャーイ条約により、ロシアに対し治外法権が認められる。これによりイランの威信は内外において完全に失墜、一層西欧列強はイランに食指を伸ばすようになる。さらにロシアは1873年頃までにカスピ海東方地域も併合、つまりトルキスタンの広大な領土も奪われた。

 イランは英国と条約を結んでいたものの、アフガニスタンをめぐり対立。1856年ついに戦火を交えることになるが、また敗戦。英国に治外法権と商業利権を与える羽目になる。
 日本同様西欧の武力により開国させられたイランだが、開国以来織物、金物類、ガラス、砂糖、茶、スパイスなどの欧州製品が大量に流入したのが日本と異なる。中でも安価なマンチェスター綿布はイランの輸入総額の約半分を占めるようになる。平均してイラン製品の三分の一から四分の一という価格の製品の流入で、イランの繊維産業は大打撃を受ける。繊維産業の中心地イスファハーンでは19世紀半ばには240もあった綿布工場が、20年後には12までに減ったという。職工が大量に失業したのは書くまでもない。

 関税自主権がないイランでは、外国人輸入業者は国境で5%の関税を徴収されるだけだったのに対し、同じ商品を扱ったイラン人輸入業者は市場税や通行税として、さらに7~8%の税を払わねばならなかった。これはオスマントルコと同様イランでも、アルメニア人やユダヤ人はじめ買弁商人のような特権階級を生み出す。19世紀後半になると、英露は軍事的圧力より経済的支配に重点を置くようになる。イランはますます英国やロシアの商品市場となり、輸出といえば農産物など原料を供給するだけの国に成り下った。

 国内に社会不安が募る中、バーブという人物が宗教・社会改革運動を起こし、その支持者は急速に拡大。彼らはイラン各地で次々と武装蜂起し、政府に徹底して鎮圧される。バーブは1850年30歳の若さで処刑されるも、国内の混乱は極に達する。農民も凶作と重税に苦しんでいた。1870~71年イランは人肉も食われる程の大飢饉にみまわれる。英国一国に支配されたインドより状況は悪かっただろう。

 英国はイランで鉄道建設、銀行の設立、森林地下資源の開発、道路と灌漑工事など様々な利権を独占する。ただ、イランもヤラれ放題ではなく、鉄道建設では英国側に一泡吹かせている。契約で署名後15カ月以内に鉄道建設作業に着工しないと、保証金4万英ポンドが没収されることになっていたが、イラン側がここに目をつける。期限内に完成したのは一マイル分の枕木だけと難癖をつけ、それでは敷設作業に着手したことにはならない、と契約を破棄して保証金を没収する。オスマントルコやエジプトでもこんな事はしなかったから、さすが「イラン人の中華思想」と皮肉られる国だけある。日本も20世紀にIJPC(イラン・ジャパン石油化学)で煮え湯を飲まされる羽目になるが、保証金を取られた英国は金融を支配する“お礼”行為は果たしている。

 イランは東西を結ぶ「陸の橋」とも呼ばれ、東西両面から侵攻され易い地政学的環境にある。「陸の橋」ゆえに東西が融合した文化も生み出す一方、古代ペルシア帝国の興隆期を除き、ギリシア、アラブ、トルコ人らに支配された時代が長かった。明治13(1880)年、イランに派遣された日本人使節団団長・吉田正春も国情をこう伝えている。
その面積はおよそ我が日本の殆ど5倍にも超ゆるが故に、各州多少の風俗を異にするのみならず、人種とてもすこぶるその種類を異にしてまた言語も異同の差多し。我が日本の国民が同一血族、同一言語にして一国を成し得るの幸福に較べて想像し能わざるものなり。結局古代のペルシャ人は純正の血統を今日まで伝うること能わざるものなり

 人間は環境の生き物といわれる。常に異民族が侵入する国では、いかに「ザラング(賢く)」立ち回るか、これが最も重要な処世術となるのも無理ない。日本も島国でなかったなら、国民性は大きく変わっていただろう。そして二大国に翻弄された近代イランは、決して他人事ではない。
■参考:「滔々たる文化の流れ」-黒柳恒男教授のイラン史他

◆関連記事:「明治の日本人が見たイラン

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3 コメント

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ユダヤ人対日本人 (のらくろ)
2007-05-11 02:07:49
本スレにある19世紀のイランのような状況は、日本を除くアジア・アフリカでは当時当たり前の光景でした。そればかりではなく、20世紀にはアジア・アフリカの宗主国が本国を土俵に相争う「世界大戦」を2回もやっています。異民族に支配される、あるいは異民族を支配する、というのは、いずれも20世紀前半までの数百年の世界史では「メジャー」な光景でした。隣接大陸も例外ではありません。漢民族と北方騎馬民族が「中原」の支配権を巡って何度となく戦争を繰り返しており、その度に国号が変わっているのは「高校世界史を履修した」方であればよくご存知のはず。

では日本において、異民族による支配が歴史上なかったかというと、かなり前に遡れば「あったらしい」。なぜ、「らしい」というのかですが、どうもその辺りだけ、「記録がない」のです。もっともそれ以前というのは、日本側は記録に留める手段-文字-さえもあったかどうかわからないので、専ら『大陸側』の記録に頼ることになりますが、「大陸側」も当時は魏晋南北朝と政権不安定な300年期なので、海の向こうの異国のことなど記録に取り上げるだけの「余裕」がなかったのでしょう。

で、日本史上「おそらくただ一回」の異民族支配ですが、どうも4世紀頃のことのようです。このころ日本列島に(おそらく大陸から)やってきた民族が、支配階級になると同時に、人数的にも「多数派」になって(そこで先住民族の「虐殺」があったのかどうかは断言できない)日本を「実効支配」し、(南方系)先住民族はおそらく「賎業」に押し込められ、今日の「同和問題」に至っているのではないかという仮説がありますが、本スレとの関連はここから先です。

この4世紀以降、近代というかほぼ現代に至るまで、日本史には異民族による支配という事件が起こっていません。そうなりそうだった時期が13世紀末の「蒙古襲来」と、19世紀半ばの「幕末」期でしょう。つまり「異民族支配」という「国家の存亡がかかった一大事」は先の大戦までじつに1500年近くの間、日本人は経験しなかったわけです。むろん国内での紛争は頻繁にありました。が、それは「同一民族内」の話に過ぎず、世界史的には「内乱」でしかありません。これが日本に連綿と続く「平和ボケ」をもたらしているのでしょう。1500年も前の「異民族支配」は、そのこと自体を支配され搾取されたはずの側の記憶からもきれいに消し去ってしまうようです。

と、ここまで書いて気づいたのが「1500年で異民族支配を忘れるとは物忘れの激しい『ボケ』だ」と主張する民族が、少なくともひとつ存在していることを思い出しました。1世紀に国が滅びてから、延々2000年「国家再興」の灯を絶やさず20世紀半ばについに実現した「ユダヤ人」です。「日本人」と「ユダヤ人」、くっきり対照を成していますが、どちらも世界の多数の民族の「メジャー」なメンタリティーからは大きくずれているように思われます。
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社会 (motton)
2007-05-11 12:34:42
賄賂(やその他の犯罪とされるもの)は、それを禁じている社会に対する裏切りなんですよね。互いに裏切らないという「信用」で社会は成り立っているのですから。
近代国家と植民地を別けたものは、その「信用」の通じる規模の大きさだと思います。
地理的要因で日本や欧米には国レベルでの「信用」を育む時間があった。だから近代国家が成立した。一方、それが血族程度しかなかった地域は簡単に各個撃破され分断統治されてしまったということでしょう。

日本の場合は、互いの「信用」は長期的には得だ、ということをほとんど無意識で理解しているので、他国にまで援用してしまいよく失敗しています。
近代国際社会が国家間の「信用」で成り立っておりそれが崩壊したら世界大戦になってしまうことを理解している欧米先進国ではある程度は通用しますが、近隣地域は…
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コメント、ありがとうございます (mugi)
2007-05-11 21:35:31
>のらくろさん
司馬遼太郎が「島国の民族はボートピープルの子孫だ」と言ってますが、確かに我国初め英国、スリランカ、台湾…皆大陸から異民族が渡来して、国を支配する歴史を持っています。新大陸もある意味「島大陸」であり、新たに侵入した異民族は先住民を虐殺、駆逐、隷従化することになりました。

幕末に来日した欧米人は、日本の戊辰戦争が一年ほどでけりが付いたのに驚いています。欧州だったら一世紀はかかるはずだと。欧州に限らずアジア諸国(東、東南、南、西全て)も同じだったはず。異民族、異教徒と組んで徹底抗戦したりするのも珍しくないから、内戦が長引く。徳川慶喜のように簡単に政権を降りたりする君主はまずいない。日本以外なら政権を降りたら、まさに命取りだから降伏もしないのでしょうが、良くも悪くも日本は平和国家だと思います。

ユダヤ人はホロコーストはもちろん、紀元前のバビロン捕囚まで追悼記念日にしているほどです。忘れっぽい日本人が特殊なのでしょうが、他の中東の民族も執念深いですよ。
支那も殷の紂王、三国志の曹操、秦檜などが繰り返し極悪人として糾弾されてますね。未だに秦檜夫婦の像に唾を吐きかける習慣がありますから、日本のように死んで許されるという風土はない。

仙台に蒙古兵の供養のため建てられた蒙古の碑なるものがあります。
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/07/07-03.htm

侵略した敵兵の供養碑をつくる国が他にあるでしょうか?つくづく日本人はお目出度い民族だと感じさせられます。中世は怨霊に対する恐怖があったとしても、他の文明圏なら聖戦となり、敵を供養しようとは毛ほども思わないはずです。


>mottonさん
興味深い意見を有難うございます。
仰るとおり日本は「信用」で社会が成り立っているのですが、近隣地域ばかりでなく他のアジア諸国はこれが当り前ではないという常識さえも、日本に居ると忘れがちです。日本の常識は世界の非常識、とは名言。

近隣地域は儒教的価値観ゆえ、これまで国家間の「信用」など必要としなかったのだから、この先も同じ中華的支配体制を取るでしょう。
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