愛語

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イアン・カーティスの詩の特徴について(概説)

2010-04-28 21:06:32 | 日記
 「Atmosphere」(1979)「Love will tear us apart」(1980)「She's Lost Control」(1979)はジョイ・ディヴィジョンを代表する曲です。それぞれ異なるタイプの詩ですが、イアン・カーティスの詩の特徴を代表するものだと考えたので、まず取り上げてみました。この3つの詩の特徴をまとめながら、概説を書いてみたいと思います。

 3つの詩は、どれも自身の内面をテーマにしているという点で共通しています。
 総じて実体験に即していると感じさせるイアンの詩ですが、その表現の仕方は様々です。
「Atmosphere」のように、心の底を覗き込んで自分自身について、神経質なくらい執拗に問いかけるもの、「Love will tear us apart」のように日常生活の描写を通じて感情の機微を表すもの、そして「She's Lost Control」のように、強い感情を生じさせた出来事を象徴的に描くもの、だいたいこの3パターンに分けられるように思います。
 どちらかと言えば、背景を知ってはじめてそうだったのかと思うような暗示的なものが多いかもしれませんが、その中にとてもシンプルな感情表現が混じってきます。象徴詩の中に私小説が混じっているようで、そこに意外性があって面白く、好奇心を掻き立てられるのです。

 こうした表現の特徴は、「普段は穏やかで礼儀正しいけれども突然感情を爆発させる」(バーナード・サムナーの、ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」での発言)というイアンの人格と通じているようにも思います。「なぜイアンが突然怒り出すのか、自分で理解できていたのかは分からない。彼は常に自分の内面を向いていたが、その内面に大きな憎しみを抱えているようだった」(デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)という内面と詩の内容は、その全体を通して読んでみると、時間の推移とともにより密接になっていくように見えます。

「『アンノウン・プレジャーズ』でイアンがやっていたことは、キャラクターを演じることだったと思うよ。そして彼は、他者の視点を通して詞を書いていたんだ。……当時は『クローサー』でも同じことをやっていると感じていた――今になって分かったんだけど、必ずしもそうじゃない。彼はもうキャラクターを描き出してはいなかった。それは全て、彼自身とその人生についてだったんだ。」(スティーブン・モリス『クローサー』コレクターズエディション所収の鼎談)

 デビュー作の「Warsaw」から一貫して、イアンの詩にはニヒリズムが通底していますが、詩がより内面を掘り下げていくにつれ、生命や存在への不安、緊迫感、焦燥感が増してきます。デボラと知り合った高校時代、イアンは「20代初めを過ぎたら生きていくつもりはない」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)などと言っていたようです。こう語っていた時、彼はある意味人生というものを軽く考えていた、もっと言えばナメていたのかもしれません。しかし、後期の詩に表れる死生観には、初期のものとは比べものにならないくらいの深刻さを感じます。恐らく発病を境に(もちろん、その他にもさまざまな問題を抱えることになる訳ですが……)彼の中で厳しく「死」が意識されたからではないかと考えます。漠然とした存在の不安が、切実な危機感へと変わっていったことを詩が示しているように思います。
 彼の詩には「異なる人格の対立」(「Dead souls」)というような内面の葛藤がよく表れている、と「Atmosphere」の記事で述べましたが、窮極の葛藤は「生と死」で、最終的に彼の詩はそのテーマに集約されていくように思います。そしてそれは、全ての人にとって、人生を生きる上で避けて通れないテーマでもあると、思います。
 自分自身や社会について、矛盾を感じても、正しい方へ踏み出せずに不正を見逃し、時には加担する。見て見ぬふりをして、何とかやり過ごす。それが“大人の生き方”です。自分の利益を考えて長いものに巻かれる。しかし、こうした矛盾に直面せざるを得なくなったとき、人間はそこに葛藤を感じないではいられません。生きていれば誰もがそのような矛盾や葛藤を抱えることでしょう。“如何に生きるべきか”は、宗教や哲学の問題となり、多くの優れた芸術のテーマとなりました。真に問題を解決するためには、矛盾そのものに目を向け、葛藤の中から生へ進む道を見出さなければならないと思います。「死」を見つめながら「生きる」ことの中で、イアンの詩を書くという行為は、自分の生きるべき道を模索することであったように思うのです。
 イアンの詩は文学として書かれた訳ではありません。あくまでも歌詞として、「言葉はいらない、サウンドだけ」(「Transmission」)というように、メロディに乗せる曲の一部でしかないのです。これまで、イアンの詩の文学性を問うような論評はあまりなかったようです。しかし、作家や詩人が書いたものが全て文学になっているのかというと、そうだとは言えないでしょう。では、文学って何なのだろう、そんなことを考えさせられました。私はイアン・カーティスの詩には、優れた文学性があると思います。そのことは、これまでに取り上げた3つの作品にも指摘されることと思うのです。
 その点を軸に、改めて初期の作品から時間を追って詩を解釈していきたいと思います。


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