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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

近況

2011-03-23 21:23:28 | 日記
 前回の記事をアップしてから一ヶ月以上経ちました。
 次は「Shadowplay」で書こうと思っていた2月下旬、ノロウイルスにかかってしまいました。3月1日には完治してエルビス・コステロを観に行きました。そのライブがとても良くて、しばらくはコステロを聴いて過ごしていました。
 そろそろブログに記事をアップしようと思っていた3月の2週目――改めて思い出すと、遠い昔のことのようです。

 3月11日は都心のビルで仕事をしていました。これまでに体験したことのない揺れで、終わらない横揺れの中に縦揺れを感じ、都心直下の地震かと思った瞬間が最も恐ろしかったです。落ち着いてから震源地が東北だと分かると、東京都心でこの揺れでは、一体どんな規模だったのだろうと思いました。テレビで初めて津波の影像を見てから今日まで、毎日目にする被害の様子を見て、自分が抱いている感情が何かさえよく分からなくなってきました。自分は被災した訳でもなく、今日も淡々と生活している、そして自分の使っている電気のために福島の人たちが苦しんでいる、何一つ有効なことはできていない、そのことだけは、身に染みて分かっています。

 仕事は自宅作業となり、停電と折り合いを見て進めています。夕方に停電になると何も出来ないので、次第に暗くなっていく空を見ながら、こんなふうに日が暮れていくのかとしみじみ思ったり……。普段ビルの中にいると分からないので。

 今日ふと自分が少し前に書いた「Shadowplay」の記事を見ると、

To the centre of the city where all roads meet, waiting for you,  
                                     全ての道が交差する街の中心で、君を待っていた、
To the depths of the ocean where all hopes sank, searching for you,  
                                     全ての望みが沈む海の底で、君を探していた、
I was moving through the silence without motion, waiting for you,  
                                     動きの無い沈黙の中を僕は移動していた、君を待ちながら、
In a room with a window in the corner I found truth. 
                                     隅に窓が一つある部屋で、僕は真実を見つけた。

の第一連について、「I was moving through the silence without motion, waiting for you, (動きの無い沈黙の中を僕は移動していた、君を待ちながら、)」の「moving through the silence without motion」がよく分からない、と書いていました。でも、うまく説明はできないのですが、今、その感覚はすごくよく分かる気がしました。絶望の中で何かを待っている、何かを探している、その状況を表すフレーズとして「silence without motion」がぴったり響いてくる気がしました。動きの無い沈黙の中を移動していく、というのはとても息苦しい感じがしますが、でも、少なくとも時間は動いているんだなぁとか、そんなことを漠然と考えたりしました。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(4)

2011-02-16 20:34:12 | 日記
 Candidate――イアン・カーティスの愛犬(2)http://blog.goo.ne.jp/mstshp/e/90b34ef193623935ef1e752d63268ce8の記事に挙げたエピソードは、キャンディだけではなく、臨月のデボラをいたわる行為でもありました。

 イアンはフォームラバーが触るのも嫌なほど大嫌いだったが、……愛犬キャンディのいたずらを始末した時に、この苦手を克服した。それはある日の午後、病院の健康診断から家に帰って来た私は、居間一面が足首までフォームラバーで埋まっているのを見た。身重の体でずっとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてすっかりへとへとになっていた私は、キャンディがソファの中身を全部出してしまったのを見て泣きたくなってしまった。するとイアンが四つん這いになって散らばった中身を拾い、クッションにすべてつめ直してくれた。それから外出すると、箱入りのチョコレートを私に買ってきてくれた。そんなことをしてくれるなんて、結婚して初めて見せてくれた最高のイアンだった。
(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)

 「最高のイアン」を「結婚して初めて見せ」ると同時に、家庭と音楽活動の間に、明らかに線が引かれ初めたのは、実はこの頃からでした。断片的ではありますが、妻の証言とバンド側の証言を見ていると、創作と日常生活はきっちりと切り替えられていたように見えます。それは「それが意図的であるかないかはともかく、メンバーの妻やガールフレンドは徐々にギグへ行くことから閉め出されるようになり、彼らには奇妙な男の絆が形成された」(同)というように、両者が決して相容れない世界であるとイアンに自覚されたことも示しているのではないかと思います。デボラは、第8章で次のように記しています。

 最初私は、『アンノウン・プレジャーズ』が好きではなかった。それは、バンドの“堅固な輪”から徐々に閉め出されたことに嫉妬していたからかも知れない。あるいは病的な葬送歌とも言えるこのアルバムを心から心配していたからかも知れない。このアルバムの詩に馴染んでくると、イアンが憂うつだった十代の頃に舞い戻ったのではないかと心配になった。彼は私が妊娠している間、過度に優しくしてくれたが、同時にこれらの詩を書いていたのだった。
 「だけど憶えているよ、僕らが若かった頃を」と、イアンはあたかも若い時を終えてしまったように年寄りじみて言った。私は「ニュー・ドーン・フェイズ」の歌詞をあれこれ考えた末に、イアンの前でその意味するところについて切り出した。つまり、これは歌の歌詞に過ぎず、彼の本当の気持ちではないことを確かめたかったのだ。しかし、この会話は一方通行に終わり、私が話題にしたことに肯定も否定もせず、彼は外へ出て行った。

 デボラの問いにイアンが答えられなかった、または答えなかったのは、単に詩が「本当の気持ちか否か」ということではなかったからではないかと思います。詩を書く時、「潜在意識に従って書く」とインタビューで答えていたイアンですが、「詩と現実」は、単純に「虚と実」という対立ではなく、それぞれが別世界のもので、各々の世界で「本当の気持ち」が存在するということではないでしょうか。
 スティーヴンはこんなことを語っています。 

 『アンノウン・プレジャーズ』でイアンがやっていたことは、キャラクターを演じることだったと思うよ。そして彼は他者の視点を通して詞を書いていたんだ。……当時は『クローサー』でも同じことをやっていると感じていた――今になって分かったんだけど、必ずしもそうじゃない。彼はもうキャラクターを描き出してはいなかった。それは全て、彼自身とその人生についてだったんだ。
 (スティーヴン・モリス『クローサー』コレクターズ・エディション収録のバーナード・サムナーとピーター・フックとの鼎談)

 『Unknown Pleasures』の時点では、「演じ」ていたのだとスティーヴンは見ていますが、私は、現実の生活と、創作上の虚構と、2つの世界をそれぞれリアルなものとして行き来していたのではないか、と想像します。そういう創作の方法が『Unknown Pleasures』で確立されたのだと思うのです。
 「私小説」にしてもそうですが、創作と現実の生活については、安易に「虚実」が一致するかしないかという問題ではないのではないか――イアンの詩を読んでいると特にそういう印象を持ちます。作者自身の心情は、量りかねるところはありますが、受け手の立場から見ると、魅力的な創作には、「虚か実か」といった問いかけが無意味になるような、特別なリアリティがある、ということはあると思います。
 『Unknown Pleasures』の音について、当時マンチェスターでファン雑誌を立ち上げていた、ライターのリズ・ネイラーはこう語っています。「あのアルバムが出た時まるで、私がいる場所の環境音楽だと思った。私にとって彼らはほとんど環境バンド。普通の音じゃないの、住んでる街の音(ノイズ)なの」(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)また、ポール・モーリーは「マンチェスターのSF的解釈だ」と表現しています。彼らが等身大の若者として現実に生きている場所、マンチェスターをリアルに感じさせる音楽が、同時に、SFのように不思議な世界への入口となる――この特徴は、イアンの歌詞にも良く表れています。
 「“僕の手を引く先導者をずっと待っていたんだ”その歌詞のまさに1行目から『アンノウン・プレジャーズ』は聴く者を深い闇の旅へと誘う」(ジョン・サヴェージ『Unknown Pleasures』コレクターズ・エディション版ライナー・ノート)という「Disorder」。既に述べたように、この詩はJ・G・バラードの小説を踏まえ、「普通の人間の感覚が無くなった」という不思議な心情を描いています。そして、「全ての道路が合流する街の中心で、君を待っていた」という「Shadowplay」、また、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』に出てくる架空の都市をタイトルに据え、「街の境界内をくまなく歩いた」という書き出しで始まる「Interzone」等々――歌詞に描かれる印象的な“街”の風景には、マンチェスターへのイメージを掻き立てられます。と同時に、そこにはどこかシュールな雰囲気が漂い、詩の主人公が架空の世界に迷い込んでいくような印象も受けます。全編を通じて共通するのは、デボラが「病的な葬送歌」と感じた憂うつな気分ですが、その心情も、「Disorder」のような不思議な感情と、「Candidate」のような、生活に即したようなものとがあり、日常と非日常の間を行き来しているような感じがします。

 こうして歌詞とサウンドの特徴をふまえつつ、改めて、イアンとマーティンの間に確かにあったと周囲が感じた「ある親密な関係」について考えてみます。マーティンは、イアンが作詞の際に掻き起こす深層心理に呼応したのではないでしょうか。そもそも、イアンが内面に持っていた世界、バラードが言うところの「内宇宙」は、ジョイ・ディヴィジョンのサウンドとともに成長していったという面があると思います。さらにそれを強調し、響き合う音を創り出したのがマーティンで、以後イアンは、その世界にますます沈潜していくようになったのではないでしょうか。
 「フック、モリス、サムナーは楽曲に連れていかれた場所から戻ってくることができた。しばらくの間はカーティスもそうだった。だが最終的には、曲が誘う夢の国から戻ってくるのが困難になっていったのだ。そこで彼は、自分が置き去りにしたものよりも遙かに啓示的な魅力をたたえたリアリティを創り上げていたのだ」と『クローサー』コレクターズエディションのライナー・ノートにポール・モーリーが書いているように、『Unknown Pleasures』以後、創作と私生活の切り替えは、イアンにとって次第に困難になっていったように思われるのです。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(3)

2011-02-02 20:30:04 | 日記
 『Unknown Pleasures』のレコーディングでのマーティン・ハネットとイアンについて、『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』第10章には、次のように記されています。

 フッキーは、マーティンとイアンの間には、バンドには分からない、ある理解があったと断言する。「特に注意していた訳ではなかったが」と彼は言う。「僕たちはただマーティンがイアンの神経を和らげようとしているんだと思っていた。イアンはスタジオでかなりナーバスだったから。二人は2、3回パブに行ったと思うよ。そして再開するんだ。まあ、マーティンはただ飲みたかっただけかもしれないけど。多分両方だったと思う。ただ、マーティンがそこである種の親密さを構築したことは明らかだった。僕たちはその時はたいして気にしていなくて、ただただレコーディングが大嫌いだったけど、それはたぶんレコーディングの一環だったんだと思う。たしかにイアンはその後リラックスするようになったから。」
 リンジー・リード(筆者注:トニー・ウィルソンの当時の妻)もまた、プロデューサーとシンガーの間のつながりに気付いた。「私はイアンとマーティンには特別な親密さがあったと思う。それはイアンが死んだ後のマーティンの悲しみを見て分かったことよ。」彼女は言う。「でも当時は特に気にしていなかった……それは彼らの間のプライベートなことだと思っていたわ。」
 ハネットはカーティスにアイコンとしてのスター性を認め、それを歓迎したようだった。そしてそれはカーティスにとっても同じだった。ハネットがもたらしたカーティスの声と歌の成長は、彼の天才性を証明しただろう。ヴィニ・ライリー(筆者注:ファクトリー・レーベル所属のバンド、ドゥルッティ・コラムのボーカリスト、ギタリスト)は後にこう語っている。「僕は天才という言葉をあまり使わない……それは、使い古されていてしまりのない言葉だ。だけどマーティンに対しては、僕は天才という言葉を全くためらわずに使うよ。僕は彼と非常に密接に仕事をしたことがあり、彼の影響力を正確に見た。地球上に彼みたいな人はいない。マーティンに近いプロデューサーさえいない。天才だよ、実に……うん。」

 ピーター・フックもまた、マーティンは天才だ、と語っています。『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューから引用します。

 問題は、彼が人をどうしようもないバカだとしか思っていなかったことさ。彼のおかげでそこに居ることができるんだ、と。それはドラッグのせいだと思う。デレク・ブランドウッド(筆者注:1970年代後半にマンチェスターで活躍したバンド、サッド・カフェのマネージャー)は常々言っていたよ。マーティン・ハネットと一週間を過ごせば、何年も続いたバンドでさえもすぐに崩壊してしまう、って。彼は事を荒立てるのが好きだったんだ。とんでもない奴だったよ。だけど“天才”だった。

 リンジー・リードは、「マーティンは狂ってると言われるけど、そうではなかった。マーティンは職人よ。彼はそれはそれは几帳面で、そして自分が何をしているか分かっていたわ」(『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』)と語っていますが、マーティンがその才能をフル稼働して仕事に没頭する時、異様なオーラを醸し出していたらしいことは想像されます。バーナード・サムナーやピーター・フックはマーティンにかなり反発したようですが、イアンとは互いに引かれ合うところがあったようです。
 イアンがマーティンから受けた影響については、デボラの『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章に次のような記述があります。

 イアンがマーティン・ハネットの仕事ぶりに感銘を受けたと言うなら、それは控えめな言い方だろう。彼は、グラスを叩き割ったり手拍子を入れたりするサンプリングに熱狂しながら家に帰って来た。ハネットはすでに、変わったサウンドや雰囲気をレコーディングすることにかなりの経験があった。またジョイ・ディヴィジョンのドラムの処理は彼の素晴らしい能力で彼らの音楽に不可欠な要素となった。彼らの考えや必要なことを共同芸術作品を作るように翻訳してしまうハネットの能力は、ジョイ・ディヴィジョンにとって必要不可欠な触媒役となった。イアンは新しいプレイメイトたちととてもうまくやっているように見えた。

 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、「ロブ・グレットンは、イアンの音楽への集中は揺るぎないものになったと感じていた。」とあります。このレコーディングのあたりからイアンには明らかに変化が見え、「前に出てくるようになり」、そして「強く自分のアイディアを主張するように」なった、というロブの言が載っています。
 「イアンは実際には曲を書かなかったけど、優れた編曲家だった」とバーナード・サムナーは言う。「僕らに指示を与えていたよ。そんな時の彼はとても熱心だった。イアンは『アンノウン・プレジャーズ』の楽曲で存分に本領を発揮していたと思うよ。」(『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴュー)というような音楽への姿勢、そしてボーカリストとしての、作詞家としての才能はマーティンの影響下で大きく変わりました。
 こうして創作の世界へ没入する一方で、家庭では妊娠中の妻をいたわる良き夫として振る舞っていたようです。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(2)

2011-01-26 20:58:43 | 日記
 マーティン・ハネット(1948~1991)の奇才かつ変人ぶりを描いているのは、何といっても映画「24アワー・パーティー・ピープル」です。録音の場面で、ドラムについて、「そういう叩き方は2万年前からやってて飽き飽きなんだ。もっとシンプルにやってみろ、速く、ゆっくり。」と指示し、ついにはドラムキットを解体し、スタジオの屋上に設置して叩かせる場面が印象的です。ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』でも、「堂々と謙虚に」とか、「ハッパのせいか禅の修行なのか分からない」とスティーヴン・モリスは語っています。
 映画『コントロール』では、殺虫剤を噴霧する音を録音する様子が描かれていますが、グラスが割れる音、エレベーターの閉まる音、誰かがポテトチップスを食べる音、さまざまな雑音を効果音として取り入れたこのアルバムは、「マーティンはfucking pop recordを作る気は全く無かった。彼は実験がしたかったんだ」(『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』に収録されているバーナード・サムナーの言)というように、ありきたりなポップ・ミュージックとも、当時流行していたパンクとも一線を画す作品となりました。
 マーティンは当時最先端の機材であったエフェクター、AMSを駆使して自在に楽器の音を変えました。スティーブン・モリスは、「彼がボタンを押し僕がスネアを叩くと音が箱の中に入る。魔法みたいで驚いた」と言っています(ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」)。そして、マーティンはAMSの開発にも深く関わっていました。

「AMS社の変人の切れ者二人にマーティンは見出された。彼らは月に一度荒野の岡の駐車場で会ってた。あいつはイカれたクスリ中毒だ。その彼が連中の車に乗り込み30分ほど話すわけだ。頭に描いてる音のイメージを」トニー・ウィルソン ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』

「ビートルズ、U2、ボウイ、ピンク・フロイド、歴史に残るアルバムには必ず偉大なプロデューサーがいる」と『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』にはありますが、マーティン・ハネットとの出会いによりジョイ・ディヴィジョンの世界観は確立したといえるでしょう。「マーティンはジョイ・ディヴィジョンの理解法を示した。彼らの中に何かを発見し、何かを感じ取った。それが何なのかを頭の中に投影してたんだ」というピーター・サヴィルの言(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)が印象に残ります。
 一方、バーナード・サムナーとピーター・フックはこのサウンドに当時かなり不満を持っていました。絶賛されたけれども、「世界中でバーナードと俺だけが気に入らなかった。皮肉だ。たまには気が合う」とピーター・フックはドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』で語っています。気に入らなかった理由は「こんなの暗くて誰も聴かないと思った。浸透しない、と。」(バーナード・サムナー)というサウンドの重苦しさに加えて、彼らがライブで演奏している音とあまりにもかけ離れていた、というところにありました。RCAレコードで録音された音源(これは海賊版と、4枚組のボックス・セット『Heart And Soul』のdisc3に収録されています)や、『Unknown Pleasures』のコレクターズ・エディション盤と『Heart And Soul』のdisc4に収録されている1979年7月13日にファクトリーで行われたライブの録音(『Unknown Pleasures』の発売直後のもの)と比べてみると、よく分かります。下手くそで荒削りな演奏ですが、激しく、エネルギッシュで、これはこれで強い印象を与えるとは思います。しかし、同時に、マーティン・ハネットのもたらしたジョイ・ディヴィジョンの“解釈”がどれほどのものかもよく分かります。初めてライブの演奏を聴いた時は、あまりにもスタジオ録音と違うので驚きました。とくにイアンのボーカルの激しさには圧倒されます。個人的に最も違いを感じるのが、『Closer』の冒頭の曲「Atrocity Exhibition」です。これは、前述の1979年7月13日のライブの他、『Still』のコレクターズ・エディション盤に収録されている1980年2月20日にハイ・ワイコム・タウン・ホールで行われたライブの録音を聴くことができます。どちらも鬼気迫るボーカルで、レコードの方の、空間をさまようような独特の静けさが漂うボーカルとは全く違います。
 「生身のジョイ・ディヴィジョンには身体的な激しさがあった。だが、マーティン・ハネットはベースとギターを抑え、イアン・カーティスのヴォーカルとスティーヴン・モリスのドラムにのみディレイとリヴァーブを施した」(『Unknown Pleasures』ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴュー)というように、「ボーカルとドラム」の音は、マーティンが最も神経を費やしたところだったようです。例えば「インサイト」では、イアンの声は「必要な距離感を得るため」(同レヴューより)電話線を通して録音されています。
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、「ハネットは、カーティスのボーカルに明確に焦点を置いた」とし、「ハネットがジョイ・ディヴィジョンにほどこした優れた仕掛けは、リスナーとボーカルの間に親密な関係を提案した。楽器の音と切り離したことで(筆者注:ボーカルだけいつも別録りだったということを指していると思います)、リスナーは、ボーカルに独特な余韻を感じ、シンガーがリスナーに向かって独りで歌っているような印象をもたらした」とあります。そして、「ハネットは効果的に不安感を誇張し、意図的にジョイ・ディヴィジョンの太いサウンドを全く不自然な何かにモーフィング(人の顔を徐々に変化させて別の顔にする技法)した。本来のパワーは失われたかもしれないが、繊細で神秘的な共鳴を得た」(同)という繊細さ・神秘さは、イアンの詩が持っている雰囲気に通じているように思います。
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、「ハネットは、イアンの声から、誰もが、バンドのメンバーでさえ見落としていた何かを聴いた。恐らくカーティス自身も気付いていなかったのでは?」と記しています。『Heart and soul』にジョン・サヴェージが寄稿している文章の中に、マーティンのイアンについてのこんな言葉が記されています。「イアン・カーティスはそのゲシュタルト(形態)に近づく、ひとつの手段だったんだ。その時代、唯一僕がばったり出くわした存在だったね。ライティングの指揮者だったよ。」
 『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』には、マーティンとイアンの関係についての、関係者の証言が記されています。マーティンがイアンの声と歌詞から受けたインスピレーション、そしてイアンがマーティンから受けた影響について、考えてみたいと思います。

『Unknown Pleasures』発表までの経緯――(1)

2011-01-19 21:04:03 | 日記
 ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』については、ウィキペディア(日本版)にも項目が立っており、また、このレコードをファクトリー・レコードから発表することになった経緯については、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版のライナー・ノートやドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』などで知ることができます。ここでは特に、イアンの詩を理解するため、『Unknown Pleasures』制作過程でのイアンの生活に焦点を置いてまとめてみたいと思います。
 『Unknown Pleasures』は1979年4月に録音、6月にリリースされました。イアンが癲癇を発病したのが1978年12月27日、妊娠中の妻デボラのお腹はこの頃にはかなり目立ってきていました。ナタリーが誕生したのが1979年4月16日、私生活において大きな変化があった時期と重なっています。
 イアンはまだ公務員として働いていましたが、「後から考えてみると、家族を持ったのは分別のある行動と言えるものではなかった。私たちの経済状態はとても不安定な状況にあったからなおさらだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』第7章)とデボラが書いているように家計は楽ではなかったようです。しかし、「家族を持ちたいという私の願いはどんな金銭的な困難にも打ち勝つと思っていた」(同)というように、デボラにとっては母となることの喜びが将来への不安よりも勝っていました。イアンはデボラの妊娠を喜び、それは優しく接したようですが、予定日を目前にした4月のある日、突然「僕たちの他にもう一人ここに人がいる状態なんて想像できないよ」と言い出したというエピソードなどから、情緒不安定なところも窺えます。夫としての責任、父親としての責任、そしてバンドのフロントマンとしての責任を重荷に感じることもあったのではないでしょうか。
 こうしたイアンの私生活などをアルバム制作のエピソードと照らし合わせてみると、創作と生活の対立がよく分かるように感じました。『Unknown Pleasures』の制作については上記の資料などがあり、語り尽くされているようにも思いますが、簡単にまとめた上で、イアンの伝記『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』と『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』にある、当時のイアンの様子について、記してみたいと思います。前者は創作に没頭する姿が、後者には夫としての姿が描かれています。

 『Unknown Pleasures』は1979年6月にリリースされましたが、それより前の1979年1月に、ファクトリー・レーベル初のレコードとして発売された2枚組のEP『A Factory Sample』に、ジョイ・ディヴィジョンは2曲を提供していました。このレコードはトニー・ウィルソンのもとに入った母親の遺産を費用にあてて作られたもので、レコード会社としてのファクトリーの今後は、まだ未知数の状態でした。
 その頃、ジョイ・ディヴィジョンは、メジャー契約を取ろうとしていました。1978年4月にRCAレコードで数曲録音したけれども結局契約に至らなかったことは既に記しましたが、この他に、ロンドンにある大手レコード会社ジェネティック(ワーナーのサブレーベル)のオファーを受け、1979年3月にレコーディングを行っています。しかし、結局「ロブ・グレットンは、トニー・ウィルソンのところであくせく働くことのほうが、a)より興味深い、そして、b)よりストレスも溜まる、しかしながら、c)最終的には報われる、と判断したんだ」(ピーター・フック 『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノート収録のジョン・サヴェージのレヴューより)ということになりました。
 ジェネティックが提示した4万ポンドの契約金を蹴ってファクトリーと契約したのは、お金よりも独立性を優先したためでした。ロブ・グレットンはメジャーレーベルではなくインディペンデント・レーベルのファクトリーから1stアルバムを出す方が、“パンクの論理”にかなっていると考えた、と『Bernard Sumner ―Confusion』には書かれています(p 68)。『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』は、〈イアンの母と妹はイアンのモチベーションはお金にはないと信じていたが、デボラにとってはそうではなかった〉という書き方をしています。総じてこの本はデボラに批判的ですが、これもその一つです。デボラの方は、ファクトリーと契約したことについての契約金の不満などについては特に記していませんが。
 ウィキペディア「アンノウン・プレジャーズ」項には「『メロディ・メイカー』誌には、ジョン・サヴェージによる「この年のどのLPよりも最高のものとなるだろう」という賛辞が掲載されたが、ヒットには結びつかず、グループのリーダーであったイアン・カーティスの死後の1980年8月に、ようやく全英チャート・インを果たす。」とあります。しかし、ここには事実誤認があって、『Unknown Pleasures』コレクターズエディション版ライナー・ノートによれば、地方都市マンチェスターで設立されたばかりのインディー・レーベルからリリースされた1stアルバムは、宣伝費も最小限に抑えられ、しかも初回限定5000枚は即完売したものの、イアンの没後まで再プレスされなかったのです。そのため、ヒットチャートには上らなかったということなのです。
 このアルバムは、「前身グループ(筆者注:ワルシャワ)のパンク・ロック色の強いサウンドを内向的な方向へと深化させ、ぎくしゃくとつんのめるビートと覚醒的なギター・サウンド、内省的なボーカルによって、パンク以降のロック・ミュージックの新しい感覚を描き出し」(Web版『日本大百科全書』「ジョイ・ディビジョン」項)、続いて10月に発表されたシングル「トランスミッション」によって、「彼らは一躍ポスト・パンクの方向性を示したグループとの評価を受ける。」(同)ことになりました。こうしたパンク以後の流れを決定づけるバンドとして名を残すことになったジョイ・ディヴィジョンの成功をもたらした大きな要因として、必ず語られているのが、プロデューサーのマーティン・ハネットの存在です。
 ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』本編に収録されず、スペシャルエディションDVDに特典として収録されているインタビューで、トニー・ウィルソンは『NME』誌のライター、ポール・モーリィの本『Nothing』(自身の父親の自殺やイアンの死について綴った著)を「モーリィの最高傑作だ」と評し、その中でも特に「マーティン・ハネットは“地球を周る月の音を聴く男”、見事なフレーズだ」と賞賛しています。この「見事なフレーズ」で形容されるにふさわしい、天才マーティン・ハネットが創り出した音とジョイ・ディヴィジョンの融合が、「新しい感覚を描き出し」たといえます。

※『Torn Apart ―The Life of Ian Curtis』からの引用は、特に注記しない限り、第10章「Unknown Pleasures」からのものです。